「どうしたの?」
「……いや、【良くないもの】はやってくるものなんだなぁって」

 なんのこと? ――と問いかけようとすると、出入り口の扉が開かれ、黒い靄がかかった人型のなにかが入ってきた。思わず叫びそうになると、お菊さんが手で口元を覆い、私だけに聞こえるように小声で言う。

「ここを出るまでリュックを抱き締めていて」
「へ……?」
「早く」

 聞き直そうとしてもすぐお菊さんは手を外して出入り口に目線を移してしまった。言われた通りに背負っていたリュックを抱き締めるように持つと、黒い靄がゆっくりと消えると同時に店長が現れた。

「お疲れ様です。こんな時間まで残って、閉め作業終わってないの?」

 不思議そうな顔をしてカウンターへ近づいてくる店長に、原田さんが一瞬げんなりした顔をしてすぐ営業スマイルに切り替える。

「今終わったんだよ。店長はどうしたの?」
「私用で近くまで来ていてね。あれ、お友達?」

 店長はそう言ってお菊さんの方を向いた。二人が何か感じて警戒しているのはわかる。私が見た限りいつも通りの店長だ。変わっていることとすれば、以前身体に巻き付いていた黒い靄が、今はどこにも見当たらないということくらい。
 お菊さんはそっぽに顔を背けると、間に作間くんが入って言う。

「閉店後にすみません。僕たち、久野さんの知り合いで」
「ああ、そうなんですね。久野さんがいつもお世話になってます」

 いや、店長に言われる筋合いなんだけど。
 突っこみそうになるのを堪えながら、私は原田さんと奥山さんにアイコンタクトで帰り支度を促すと、二人は事務所へ入っていった。
 それを気にすることなく、作間くんと店長の会話が淡々と進められていった。

「二人とも久野さんと同い年?」
「いえ、僕らの方が下です」
「そっか。もしかしてもう一つのバイト先の人? 久野さん、これからそっちでしっかり働いてくれると思うから宜しくね」
「え? 久野さん、このお店辞めるんですか?」

 予想外のことに驚いた作間くんは私の方を見る。

「久野さんはね、今月末で退職が決まったんだよ。俺は止めたんだけどね、会社が彼女の業務態度に不信感を覚えたらしくてね、店に悪影響を及ぼすのは良くないってことで、店長とマネージャー、そして本人の合意の上で今日の朝、決定したんだよ」
「は……?」

 ちょっと待って、話が進みすぎている。
 数時間前にマネージャーに頭を下げた時には何も言われていない。店長は止めるどころか、勝手に話をでっち上げて進めてる側だ。
 何も納得してないのに本人の合意を得た?――ふざけるにもほどがある。
 マネージャーと話す前から会社で決定していたのなら、あの苦痛の時間は何だったの? 
 ――いや、それよりもなんで部外者にその話をするの?
 頭の中でぐるぐると疑問が飛び交う中、店長が更に話を続けた。

「彼女はね、営業中のおしゃべりや仕事以外のことをしているのはもちろん、食材を勝手に持ち出したりスタッフにセクハラしたり、社会人として在り得ないことをしてるんだよ」
「ちょ、ちょっと待ってください! 私そんなことしてません!」

 おしゃべりはともかく、食材を盗んだり、セクハラしたなどとふざけた行為は全く持って心当たりがない。作り話にも程がある。
 しかも話している相手は、店に関係のない作間くんとお菊さんだ。彼らに話す理由は一つもない。

 撤回しようと口を開くと、店長の頬や首筋辺りに複数の黒い線が弧を描いたように浮き彫りになった。ピクピクと動くその中の一つがパッと開かれたと思えば、真っ赤な目がジロジロと動き出す。
 気味が悪くて開きかけた口で留まると、自分の体が異常を起こしていることに気付かない店長は、呆れたように私を見下して続けた。

「やってるでしょ。いっつも悪口ばかりで、自分の思い通りにならないとすぐ周りに当たってるじゃん」

 店長が口を開くたびに頬や首筋、手の甲に赤い目が開いていく。本人は自分の体の異変に気付いていないようだった。赤い目はどんどん開かれてジロジロと見渡す。
 ……これ、かなりヤバいんじゃない?
 そっとお菊さんを見ると、眉間にしわを寄せて今にも鬼火を出しそうな雰囲気だった。

「新人が入ってきて指導する人間がこんな態度じゃ示しがつかない。それにいつも愚痴ばっかり言うよね。久野さんには負のオーラが漂ってるし、職場の環境を守るためには必要なことなんだよ。もうデザートも作ること無くなるし、調理をしっかりやりたい人にはここは勿体ないよ」

 次々に話が進むにつれ、ほぼ店長の全身に赤い目がこちらを向いて睨んでいた。自然とリュックを抱き締める力が強くなる。

「あれ、何か間違っていること言ったかな? 会社の決定事項なんだから納得してくれないと困るんですよ。辞めるって自分で言ったんだから責任を持たないと」

 言ってねぇよ。
 突然現れた無数の赤い目に恐怖を感じるも、それを凌駕して怒りがこみあげてくる。ああ、今すぐこの人を殴ってしまいたい。

「あのー……僕ら部外者ですけど、簡単にそんな話しちゃって大丈夫ですか?」

 作間くんが恐る恐る問うと、店長は更にニッコリと笑って私に向かって言う。

「知っておいた方がいいと思ってね。友達だと苦労するでしょ? 嘘ばかりつく自分勝手な人っているだけで大変だと思うんだよね。でも仕事に関しては気持ち悪いくらい真面目だから大丈夫だよ。ただプライベートの付き合いは考えた方がいいかも」
「久野さんとの付き合い方について、貴方がそこまで言う権利ありますか?」
「だって事実は伝えた方が久野さんの為でしょ」

 ――私の為?

 アルバイトの話よりも、実権を握っている店長の話が全て正しいと主張することも、
 店舗のことを丸投げして状況を確認しないマネージャーも、
 否定どころか弁解も聞き入れてもらえない会社の対応も、全て私の為だというのだろうか。

 自主退職という設定がすでに社内で決まっていたのも全て私の為だと、納得せざる得ないのか。
 ――これを、私は許してしまうのか。