後ろから聞こえたと同時に、私の周りに先程の青白い鬼火が現れたかと思えば、青年の肩の上で可愛らしい白い狐の姿で在りながら、九つの尻尾を揺らす彼女が本谷さんを睨みつけていた。

「あらー……思っていた以上に早かったね」
『早いに決まってるわよ。今のは私と作間への侮辱と捉えていいのかしら?』
「ちょっ、ちょっと待っておくれよ! いくら何でも横暴じゃないかい!?」

 焦る本谷さんを横目に満足そうに鼻を鳴らすと、狐は飛び降りて私の足元をじっと見つめた。がしゃどくろに掴まれた足を見て、大きく溜息を吐く。

『最悪……全く手当してないじゃない。作間の手を煩わせるようなことしないでよね!』
「うわっ! 忘れてた……美味しくお茶を淹れることだけに全集中を注いでいたからねぇ……」
『お茶の中にトカゲの尻尾の破片を入れておいてよく言えるわね? 本当にどうしようもない奴!』
「菊、想定内だから大丈夫だよ。おねーさん、手当するから足出して」
 呆れた声と共に青年がいつの間にか隣に座って使い込まれた救急箱を開く。
「じ、自分でやりますから!」
「いいから、怪我人はじっとしてて。別に足をちょん切ってやろうとか思ってないから安心して」

 と、言葉とは相反するようにふんわりと微笑む。これは大人しく従った方がよさそうだ。

「それじゃあ、お願いします。えっと……」
「俺は作間(さくま)(たくみ)。作間でいいよ。できればタメ口で話してほしいな。さっきから喋ってる狐の子は菊姫。皆からお菊って呼ばれてて……」
『ちょっと! なんで私も紹介するのよ!』
「俺としては二人が仲良くなってくれたら嬉しいんだけど、駄目なの?」
『……しょうがないわね! 特別に呼ばせてあげてもいいわ!』

 頬を赤らめながらも拗ねる狐――改め、お菊さん。いや、ちゃん?

「どっちでもいいよ。呼ばれるの嬉しいみたいだからさ」
「……私、何も言ってないんですけど、なんでわかったんですか」
「さぁ、どうしてでしょう。はい、終わったよ」

 彼はとぼけながら、足首に包帯を巻き終えてテープで固定してくれた。少しだけ救急箱の中身が見えたけど、訳の分からない薬草が数種類とトカゲの干物、何やらうにょうにょと動く何かが見えた気がして、思わず顔をしかめた。

「ね? 俺が手当した方がよかったでしょ?」
「……そうですね」

 彼は読心術でも使えるのか。それとも実は彼も妖怪で、考えていることを見抜ける力があったりするのだろうか。
 ああ、今日だけで頭が破裂しすぎだよ!

「お嬢さんは考えすぎて隙ができちゃったんだねぇ。お気の毒に」

 先程まで黙っていた本谷さんが窓の外を見ながら言った。何の話だろうと首を傾げると、見透かしたように「襲われた原因だよ」と続ける。

「名簿を奪う目的の他に考えられるのが、人間の心の隙間だよ。確か昨日、働いている店からクビ宣言をされたと言っていたね。店長から何を吹き込まれたのかは知らないけど、考える時間の中でキミは苛立ちと後悔で何もかも放棄したくなったはずだ。妖怪はそういった人間の元へ行きたがる習性があるからねぇ。……そうだ、がしゃどくろの手や鬼の姿が見える前、黒い靄が見えなかったかい?」
「あ……」

 本谷さんに言われて頭に浮かんだのは、仕事に行く前の電車で見かけたサラリーマンと、事務所から出てきた店長の姿だった。サラリーマンの時は何度か瞬きしている間に消えてしまったけど、店長に巻き付いていた黒い靄は喋る度に身体に巻き付いていった。
 血の気が一気に引くのを感じると、本谷さんが見たんだね、と続けた。

「名簿は妖怪の気配を察すると、その姿を黒い靄で表す。お嬢さんの目には、あの鬼が金属バットを持つ黒い靄で全身を覆われた大男に見えただろう? 導かれた者は皆、同じように見えるのさ」

 本谷さんは一度もこちらを見ることなく、淡々と仮説を述べる。それが正しいのかはわからないけど、少なくとも今日だけで目の前で起こった出来事から考えたら、ほとんど当たっているかもしれない。
 難しい顔をしていたのが分かったのか、本谷さんは私を見て小さく笑って立ち上がった。

「今日はもう妖怪は寄ってこないから安心して。でも怪我もしているし……作間くん、お嬢さんを送ってやってくれ。お菊はちょっと用事を頼まれてくれるかい?」
『私と作間を引き剥がす気……?』
「そうじゃないよ。作間くんを守るために必要な用事さ」

 腑に落ちないといった表情ながらも、お菊さんは本谷さんの肩に飛び乗った。彼女の周りに浮いていた鬼火がしょんぼりしたように火力が弱まった気がする。

「お嬢さん、この名簿はキミが預かっていてくれ。持ち歩いていれば【良くないもの】から身を守ってくれるだろうし、ここに置いて保管しても勝手にキミの元へ戻ってしまうだろうからね」
「戻ってくるって……そんなことあるんですか?」
「だってぬらりひょんだよ?」

 さも当然と言いたげな顔で言われると、私は首を傾げた。
 私はリュックに名簿を入れると、既に出入り口で待っていた作間くんのもとへ行く。

「それじゃあまたね、お嬢さん。困ったら何時でも山田書店に来るといい」
『作間に手なんか出したら承知しないわよ!』
「お、おやすみなさい……」

 二人に見送られて書店を出て歩いていると、作間くんがスマートフォンを取り出して言う。
「妖怪が見える者同士、何かあったときのために連絡先を交換しておかない?」
「いいけど……あの、作間くんは人間なの?」
「そうだよ。菊が取り憑いてからもう何年になるかな……」
「とり……?」

 スマートフォンを操作しながら、彼の言葉に眉を顰める。
 私の空耳でなければ、彼は今「取り憑いて」って言った?

「いろいろあったんだけど、俺がここに居られるのは全部、菊のおかげだから」

 どこか誇らしげな表情で彼は笑う。目の下のクマもどこか幸せそうに見えた。

「まさか、初対面のおねーさんに妖怪呼ばわりされるとは思ってなかったけどね」
「うっ……ごめん」
「全然。気にしないで。それにあんな怖い経験したんだもん。疑心暗鬼になっても仕方がないよ」
「……あの商店街って、いつもあんな感じなの?」
「ここ最近はそうだね。本谷さんが余所者を見つけると、商店街に住んでいる妖怪たちが動くよ」
「本谷さんって、何者なの?」

 私の問いかけに、作間くんは少し考え込んだ。聞いてはいけないことだっただろうか、と後になって後悔していると、彼は笑って言う。

「なんて言ったらいいんだろう……そうだな、人と妖怪を傍観している変わり者、みたいな。要は変人って言葉が合っているのかもしれないね。あ、おねーさんのことなんて呼べばいい? 久野さん? 芽衣ちゃん?」
「……もう何でもいいよ」

 私の名前、一言も言ってないのに何でわかるの……!
 彼といい本谷さんといい、急に人が変わったかのように話す口調や表情が忙しい。わざと話を逸らされたので、これ以上聞き返さなかったものの、代わりに年下キャラを前面に押し出してきた作間くんの問いかけには適当に返した。