「触れられない? 私、普通に持てますけど……」

 ポストに入っていた和装本――ぬらりひょんが書いたとされる妖怪の名簿は、込められた妖力のおかげで今の商店街ある地域一帯が守られていた、というところまでは固い頭に強引に押し込んで理解できた。

 しかし妖力が強いのであれば触れるどころか、見つけられるのではないだろうか?
 金棒を叩きつけて地割れを起こす怪力や、鬼火を出す術を持ち合わせていないごく普通の一般人にはわからないけど。
 本谷さんはちゃぶ台の上に置かれた名簿を見つめた。

「妖怪たちから聞いた話だと、ぬらりひょんが名簿を書き込んでいるところは見かけたものの、机の上に置いた途端スッと消えてしまったらしい。でもぬらりひょんが触れると何事もなく名簿がそこに置かれていた。……つまり?」
「つまり……?」
「つまり、名簿には所有者以外が触れられないように、妖術がかけられていたんだ。……いや、この場合、『まじない』といった方がいいかもしれない。災いを取り除くためのものだからね。ぬらりひょんは妖怪とはいえ、個人情報を集めていたのだから、漏洩しない対策だったんだろう」

 そういって本谷さんは表紙をそっと撫でると、丁寧な手つきで開いた。相変わらず煤で汚れて読めないが、懐かしむようにゆっくりとページを捲っていく。

「お嬢さんは小学生の頃、プロフィール帳を友人に渡して集めたことはあるかい? ぬらりひょんがやってることはそれと同じなのさ。ただ、防犯対策として暗証番号をつけるのではなく、触れられる者を限定させ、中身を所有者しか読めないようにした。だから他の妖怪には見えないし、置かれた場所を見ても触れることができない仕組みになっている。几帳面な変わり者だね」
「そこまで徹底していたのに、どうして今は触れられるんでしょうか」

 所有者しか触れられない名簿――これが本当であれば、私が郵便受けから取り出すことも、本谷さんがページを捲ることも不可能のはずだ。

「んー……ここからはボクの推測なんだけど、条件を変えたんじゃないかな」
「条件?」
「そう。ぬらりひょんは何らかの理由で、急遽領地を離れることになってしまった。数日で戻る予定が無期限で不在になる。――ということは、ぬらりひょんは領地に残した妖怪たちを守ることができない。そこで苦肉の策として、妖力を込めた名簿を何らかの方法で領地へ戻し、結界の役割を担ってもらおうと考えた」
「何らかの方法? 瞬間移動とか、空を飛ぶとか?」
「そんな便利なものがあったら彼自身がすぐ戻ってるさ! それよりももっと地道で、世渡り上手な妖怪ができる方法――なんだと思う?」

 ――と言われましても。
 しかめっ面で考えても、状況を飲み込むだけで精一杯の私の頭はすでにキャパオーバーだ。全く思いつかない。
 そろそろパンクして煙が出てくるのが見えたのか、本谷さんは話を続けた。

「彼は人間の中に混ざっていても、自然と溶け込んでお茶をご馳走されているんだよ? そんな彼が人間と仲良くしないわけがない」
「……もしかして、名簿を人間に渡した?」
「その通り! 彼は仲良くなった人間に名簿を託して、名簿だけを領地に残った妖怪たちへ戻す手段を考えた。人間に託す際、名簿に触れられる条件を書き換えた可能性があるとしたら?」

 そこまで言われてようやく理解した。
 妖怪にとって身近な存在で、その中でもぬらりひょんが名簿を託せるほど信頼している人間であれば、名簿だけは領地へ戻ってくることが可能だろう。
 しかし、今日みたいに人間が持っているところを狙う妖怪だっていれば、人間自体が裏切る可能性も考えると、少々リスクが高いような気がする。

「多少の危険に関しては想定内だっただろうね。でも実際に、名簿を託された人間は、何事もなく領地に辿り着いた。恐らくその時も、まじないがかかっていたのだろう。触れられる条件に【人間】を加え、道中に見つからないように仕組んだ」

 まぁ、本当のところはわからないんだけどねぇ、と。

 本谷さんの話し方は説明、というより昔話を懐かしんでいるようで、ページを捲りながらも時々うっとりした表情を浮かべていた。

「ちなみに、名簿がその後どこに保管されていたかは知らないよ。一説として、名簿を持ってきた人間が、領地を気に入って一緒に暮らし始めたという話があるから、その彼が管理していたんじゃないかな。名簿の有無を確認できる者が限られているのなら、妖怪たちは人間を近くに置いておきたかっただろう。そこで一緒に暮らすよう提案し、商店街を作って領地を盛り上げたんだ。……いつか帰ってくる領主を、彼らは今でも信じている」
「でも今になっても帰ってこないって――」

 最後まで言い切る前に、本谷さんは首を静かに横に振った。
 多くの妖怪が、信頼するぬらりひょんを待つために人間と暮らすことを選んだとして、何年、何十年――下手したら何百年以上も前から、彼の指示に従って、人間と共にあの商店街に住んでいる。
 遠い昔に交わした忠誠なんて、ぬらりひょんが忘れているかもしれないのに、それでも彼らは今でも信じている。

「……彼を待ち続ける理由は、名簿があるからといっても過言ではないだろう。なんせ、名簿自身もぬらりひょんだからね」
「へ……?」

 ページを捲る手を止めて、呆れたように笑う。

「この名簿はね、不思議なことに人間が目を少し離すといつの間にか消えて、新しい人間を領地へ連れてくるんだよ。最初は驚いて大騒ぎしていたが、名簿が連れてきた人間は皆、妖怪との生活を楽しいと喜び、次第に移り住みたいと交渉してくる人間が増えた。その積み重ねでできたのが、商店街なのさ。ぬらりひょんを知る妖怪たちは『連れてくる人間を選ぶ目は、領主と変わらない』と笑ったそうだよ」

 あ、でも名簿に目はないか! と茶目っ気全開で言う本谷さん。
 仕事帰りに寄るヒロさんのバーにも妖怪が居て、人間と一緒に呑んでいるのかもしれないと思うと、上手く紛れるものなんだなぁと感心する。

「本谷さんも名簿に連れてこられたんですか?」
「まあねー。ああ、作間くんとお菊はちょっと変わっているかも」
「お菊って……喋る狐の?」
「そう、あの子は【妖狐】なんだ。普段はもふもふの姿で可愛らしい見た目だけど、本来の姿もなかなか別嬪さんで――」
『褒められるのは嫌いじゃないけど、遺言はそれでいいの? 灰になる準備はできたと受け取るわよ』