忘れん坊の泥棒。
 最初にその存在を感じたのは、幼稚園の時だった。
 あの日の僕らはイチゴ狩りで、幼稚園から少し離れた小さな畑まで歩いていったのを覚えている。
 イチゴ狩りの最中、仲の良い男の子と喧嘩をした。どっちの採ったイチゴの方が大きいだとか、そんな些細なことだったと思う。
 けれど僕たちは大真面目に喧嘩して、僕は右腕に引っ掻き傷まで作ってしまった。

 ──こんな喧嘩なんて、なくなっちゃえ

 家に帰ってからも、その喧嘩が悲しくて仕方がなかった。悲しくて、悔しくて、「なくなっちゃえ」と願った。
 けれど翌日。その喧嘩は誰も覚えていなくて。それどころか「楽しかったね」だなんて、喧嘩した本人が笑いかけてきた。
 僕の気まずい気持ちは置き去りに、周りの皆は誰も喧嘩なんて覚えていなくて。ハプニングと言えば、僕が転んで右腕を怪我したことぐらいだと、先生は笑った。

 ──違うよ、この傷は友達と喧嘩したんだ

 泣き出したくなる気持ちを、言葉と一緒に飲み込む。苦くて、渋い、我慢の味。
 堪えた涙に目を瞑った時。頭に声が響いた。

《おやおや、偉いねぇ坊っちゃん。ご褒美にチョコを上げようかい。きっと甘くて、胸の苦いのもなくなるよ》

 やけに饒舌で、優しい言葉。その魔女みたいに嗄れた声を聞くと、胸の苦いものが消えていく。
 けれどその声は心なしか、とても悲しげに聞こえた。
 死んだ子供の歳を数える母親みたいに優しくて、胸を抉るように痛い。

 その声は、僕の人生に度々響いては、チョコをくれた。
 安っぽくて、甘ったるい、五円玉のチョコみたいな味。代わりに世界から消えていく「嫌なもの」。
 僕はなんでも消してしまうその声が少し怖くて、でも何故だか嫌いにはなれなくて。

 ──おばあさんは誰? なんで僕が見えてるの?

 ある日、彼女に聞いた。
 
《泥棒です。男の子が信じてくれたなら、泥棒は空を飛ぶことだって、湖の水を飲み干すことだって出来るさ》

 彼女の何故か記憶に残らない滑らかな声が、歌うように口上を上げる。
 後から知ったけれど、それはサル面の大怪盗が、高い高い塔に囚われた、可憐なお姫様を救い出そうとしたシーンのセリフだった。

 それから僕は、彼女を「忘れん坊の泥棒」と呼んで親しんだ。幼い子供の頃の、誰にも見えないお友達。その程度に考えていた。
 けれど、それは間違いだったんだ。

 あの日。ソーダみたいに弾けた空の、あの日。
 僕はできたばかりの友達と遊んでいて、そこにやけに陰気な女の子が入ってきたことを覚えている。
 妹なんだ、と友達は煩わしそうに言った。

「じゃあこの子も入れてあげよう」

 と僕は言った。
 相変わらず煩わし気な友人を置いて、僕は彼女の手を取る。友人は一つ年上だから、彼女は僕と同い年だ。遊ぶ友達は多いほうがいい。
 それに、彼女は少し可愛かった。

「たすけて、ください」

 三人でかくれんぼをしていた時。一緒に逃げていた彼女が、僕の袖を引いた。

「お兄ちゃんが、わたしをいじめるんです。けどお父さんもお母さんも、信じてくれない」

 僕と同い年なのに、彼女は随分と丁寧に喋った。けれどその声に感情はなくて、その目に光はなくて。
 僕は初めて見た、僕とは違う世界に生きてきた少女を、怖いと思った。怖いと思って、引かれた袖を振り払おうとした。

《おや、これはかわいそうに。家族に愛されない子供はいるもんだ》

 本当の同情を混ぜた声が、頭の中に響く。
 忘れん坊の泥棒が、またやってくる。

《けれどお前さん、その救いを求める手を、振り払おうとしたね?》

 ドキリ、と心臓が跳ね上がる。冷たい汗が流れて、悪戯がバレた時みたいに胃がキュッと持ち上がる。
 僕の見た世界を、僕越しに見る泥棒。それが怖くて、気持ち悪くて。
 僕は初めて本気で泥棒を拒絶した。

《随分酷いことをするんだねぇ。まるでいじめっ子みたいじゃないかい、ええ?》
「僕を覗かないで!」
「キャッ」

 引かれた袖を、振り払うことすら忘れて叫ぶ。泥棒の声は僕だけにしか聞こえない、僕だけの友達なのに。
 声に驚いた少女が、掴んでいた袖を離す。
 鬼が迫ってくる。その目には、幼い子供の無垢な悪意が浮かんでいた。目は、少女を見ている。

《おや、いい拒絶だねぇ。お前さんにはセンスがある。けど鬼に見つかっちまったよ? ああ、なんだい。あの坊っちゃん、自分の妹しか見てないじゃないかい》
「いやだ……」

 何もかもが。泥棒が、自分の妹をあんな目で見る少年が、自分とは違う世界に生きさせられている少女の存在が。
 嫌で嫌で、堪らなかった。

「お前っ、かくれんぼなのに一緒にいちゃダメだろ!」
「イタ……ッ」

 少年の丸い手が、少女を僕から引きはがした。そのままの勢いで、彼女を地面に引き倒す。
 開いた少年の瞳孔は、悪魔みたいに黒く煌めいていた。

「オレの友達の邪魔するな!」

 違う、そんなひどいことする奴は、僕の友達じゃない。
 僕を使って、彼女を責めるな。
 張り裂けそうな胸の慟哭。
 拳を振りかぶる少年。
 諦めたかのように、茫然と少年を見つめる少女。

《嗚呼、まったく酷い。かわいそうだねぇ。お前さんがすぐにでも手を取っていれば、《《ああ》》はならなかっただろうねぇ》

 少女に同情していた泥棒の声が、いつしか冷めたものに変わっていた。代わりに滲んだ蔑むような声が、僕を非難する。
 じゃあ、どうすればよかったというのだろうか。子供の自分にはわからなくて、涙が滲む。

《簡単だよ。嫌だ、やめろ、と言いな。泣いて解決するものは、世界にありはしないんだ》

 この世界は、優しくはないのだからね。
 少年の拳が、少女の頬に振り下ろされる。
 少女は何も叫ばない。
 ただ茫然と、迫る拳を見つめている。
 その時見えた小さな瞳が、ただ一つ彼女の言葉にならない悲しみを訴えてるみたいで、気付けば僕は叫んでいた。

「ヤメロォォォォ──!」

 ザアと風が吹く。
 前髪が目に入って、目を瞑る。
 頭に、泥棒の声が響く。

《毎度あり。男の子が信じてくれたから、泥棒は女の子を盗んで見せよう》

 その声が脳を揺らして、僕は意識を失った。

 翌日。
 学校で出会った彼は僕を見て「誰?」と言った。少女のことを尋ねても「妹なんていないけど」と言った。周りも、知らないと言う。

《どうだい、哀れな少女を盗んであげたよ? 暴力的な少年との仲は、ま、おまけさね》

 彼女はいなかった。一組にも、二組にも、三組にも四組にも。
 貴重な昼休みを使っても少女は見つからなくて、午後の授業を告げる予令の中、一人教室の机にしな垂れかかる。
 盗まれた彼女は、それきり僕の前に姿を見なかった。
 その誰にも知られない事件から、僕は忘れん坊の泥棒を、心の底から怖いと思うようになった。

「もう、喋りかけないでください……」
《おやおや、ついに嫌われちゃったかい?》
「お願いです。あなたが盗むと、僕が泥棒になったみたいな気分になるんです」

 僕が拒絶して、彼女が盗む度、自分の中で、忘れん坊の泥棒の存在が強くなっていく。
 僕が覚えているものが世界から忘れられていく度、自分こそが泥棒なのだと錯覚してしまう。

《まあ、仕方ないさね。得てして泥棒は、忌み嫌われる鼻摘み者だからねぇ。いいだろうさ、さよならだ》

 頭の中で嘆息が零れて、思考がぼやける。
 遅くまで外で遊んだ時みたいに。夕飯時に襲い来る睡魔みたいな心地よさが、疲れた体にのしかかる。それは、忘れん坊の泥棒の温もりにも思えた。

《だがこれだけは覚えておきなさい。お前は、泥棒を、忘れられない。泥棒の呪いに頼った奴は、自分も呪いにかかって泥棒になってしまうんだよ》

 ふわりと、視界に長い黒髪が揺れた気がした。それはただの幻影だったのかもしれない。
 こんな泥棒と起こした、こんな不思議な出来事なんて、フィクション以外の何物でもないのだから。

《じゃあ、餞別に金メダルをやろう。泥棒のとっておき。世界で最も偉大な武器商人の賞さ》

 首筋に、そっと触れた掌の感触。
 小さく布が擦れる音がして、薄い帯が首に掛けられた気がした。

《お手製の模造品だが、泥棒にはお似合いさね》

 泥棒の声が、満足げに頷く。
 けれどその声は、優しさよりも悲しみの方が色濃く滲んで、小さな胸を優しく締め付ける。
 閉塞感と、泥棒から伝播する悲しみ。視界は段々と暗く狭くなって、けれど首にかかったメダルの煌めきが、最後まで僕を惑わし続けた。

《──ね》

 別れ際の言葉に、彼女が何か言っていたような気がした。
 目が覚めてしまった今となっては、それももうわからない。
 メダルも、もう見えなくなってしまった。

 あの夏。あのソーダみたいな空が弾けた夏。
 僕は泥棒から逃げ出して、そしてきっと、泥棒の呪いに囚われた。
 少女は盗まれたまま行方知れず、僕も半分の泥棒になって、忘れる世界に取り残された。
 この呪いを解くにはきっと、もう一度忘れん坊の泥棒に会うしかないのだろう。

『──私と一緒に、短冊を飾りませんか?』

 彼女の言葉を思い出す。
 来年の話をすると鬼が笑うと言うけれど、彼女とまたいられるのなら、それもいいと思った。

《息子よ、飯だ》

 父からのメールが、僕を追想から呼び起こした。
 十年経ったあの日のかくれんぼは、未だに僕を罪悪感で押し潰す。
 その日の夕飯は、不思議と味がしなかった。 退屈なテストの解説を聞き流して、その学期全ての授業が終わった。
 大半の生徒にとって、既に終わったテストの解説に意味はない。
 ある生徒は自身の点数に嘆き、またある生徒は夏休みの計画を嬉しげに語る。

 誰もがそわそわして、それに対する先生も、どこか寛容な態度で応じる。そんな少し、浮わついた教室の中。
 理系科目のテストを記憶から抹消しつつ、ぼんやりと思い出す。

『続きはまた明日、って言ってたけど、どうする?』

 帰りの集会の中。机の下に隠したスマートフォンで、天月へメールを送る。
 僕と天月の距離は、古びた小さな椅子一つ分。僕が前に座って、天月が後ろに座る。
 けれど僕たちは、その距離を縮められないでいる。
 話しかけようとして、でも、できなくて。
 昨日の放課後の会話が嘘みたいに、僕と彼女の間には何の接点もない。

 もどかしい。
 見つからない会話の糸口も、話し掛けようと決めた後の一呼吸も。メールの白い空白さえも。
 夜空に打ち上げられた花火の、咲く前一瞬の静寂みたいに。
 間の抜けてしまった僕達の距離感は、あまりにも遠く白くて、もどかしい。

「……っ」

 重力に負けた視線の先で、ミュート設定のスマホが静かに光った。
 先生に見えないようにロックを解除して、メールを起動する。

『忘れてたやーつ、ですね』

 感嘆符のない、シンプルな文面。いつも通りの天月のメールなのに、なぜか今日ばかりは、胃に錘が乗ったみたいに、気分が沈む。

『放課後、また図書室で会いませんか?』
『わかった』

 簡素なやり取りを終えて、プリント類を鞄に詰め込む。

「先に行ってますね」
「うん」

 色のない言葉。
 伸ばしかけた手が、中途半端に宙をかく。僕らの距離感が、怖かったから。
 途中で引っ込めた手のやり場に困って、首筋にそっと添える。

「行きたくないな……」

 終礼を終えて人が疎らに消えていく教室。出ていった天月の遠い背中を見つめて、ポツリと零す。
 きっとそれは、単なる虚勢とほんの少しの臆病が生み出す、小心者の虚栄心。
 行きたいのも行きたくないのも本心で、素直になれない心を引きずって、教室を出た。

 七夕の日から雨を忘れた夏に、今後一週間雨の予報はない。
 チャンスと叫び鳴く蝉の愛唄を煩わしく聞き流して、一階下の図書室に入った。
 暇そうな図書委員の先輩に軽く会釈する。

「おっせーですよ元カレ君っ」

 いつもと違う席。かつて在籍していた先生の名を取った本棚に挟まれて、彼女は僕を指さす。

「うん、図書室ではお静かにね」
「あっ、すみません……」

 シーと口に人差し指を当て、彼女は慌てて口許を押さえる。
 いつもと変わらない会話。いつもと変わらない、天月の表情。
 どれだけ会いたくないと感情を誤魔化しても、彼女の顔を見るとまた胸がざわついた。

「それで、お返事を聞きましょうか元カレ君」

 クーラーの直風を避けた席に腰を下ろして、天月は僕を見つめた。
 海みたいに深くて、けれど飴細工みたいに透き通った、蒼い瞳。
 その真っ直ぐな瞳は、いつだって僕とその先を見通してる。

『また一緒に、優しい世界を探してくれませんか?』

 彼女の言葉を思い出す。
 優しい世界を夢見て、忘れん坊の泥棒を探す少女、天月詩乃。僕が唯一好きになって、そしてすれ違った、ちょっとかわった女の子。

「優しい世界ってのは、僕にはちょっとわからないよ」

 言葉にした途端、天月の表情から力が抜けた。
 真っ直ぐに結んだ唇が、弱々しく歪む。
 諦念と、それを包むオブラートみたいな、弱い微笑だった。

「でも──」

 僕が天月に抱くこの感情は、きっと恋と似ている。
 ふとした日常に流れる曲のフレーズが気になって、けれどその曲名が思い出せないのと同じように。
 曖昧でモヤモヤと胸の焼ける、不思議な気持ち。けれどもう、一度濁したその問いへの答えを、僕はもう迷わない。

「だからこそ、見てみたい。手伝うよ、泥棒探し」

 これはきっと、恋じゃない。
 あの日。あの蝉時雨と、海を写した快晴の日。
 天月に差し出された手を、僕はまだ握り返すことはできないのだから。

「いいんですか、本当に?」

 微笑が消えた。
 歪んだ口角は、また元の真っ直ぐな線を描いている。

「ただの七不思議ですよ?  二条君、確か興味なかったと思いますが」
「いや、僕も泥棒には用があるから」

 普段彼女が見せる、明るい太陽みたいな顔とは真逆の、月みたいに冷たい表情。
 初めて見るわけじゃないのに、心とか言う不治の病は、肺の中でしゅわしゅわと入道雲が沸き立つみたいに、痛む。

「天月は「元カレ君」と一緒でやりにくくないのか?」

 ひねくれた邪推が、口を突いて飛び出した。
 天月の顔が、声音が。梅雨空みたいに曇ったのが、はっきりと感じられた。

「……そんなこと、ないですよ」

 それは否定というよりは、自分に言い聞かせるような暗い色をしていた。

「私は、二条君と一緒がいい、です」
「どういう意味、それ?」

 きっと言葉は、子供の時に考えていたほど難しいものじゃない。
 けれど人の感情は難しくて、だから深読みをする。

「そのままの意味です」

 「邪推」と言う言葉を知るのは、きっと人の言葉を素直に信じられないほど、臆病になってしまった時だ。
 人を信じられる純粋なうちは、そんな使い道のない言葉なんて、覚える必要がないのだから。

「あの時私の何がいけなかったのか、二条君の何がいけなかったのか。私だって、そう言うのには疎いなりに考えたんです」

 自分が作った話の流れを、今更ながらに恨んだ。
 人生経験の薄い僕たちの年代にとって、一番大きな傷として残っているのは、きっと恋愛についてだ。
 伝えられなかった片想い。すれ違ったまま離れていった二人の愛情。
 恋と愛の違いも判らず、舌触りと偶像への憧れだけで恋を歌う僕たちには、あまり触れられたくない傷の核心。
 その傷に触れる度に内臓が持ち上がって、またドン底まで墜とされたような、胸の消失感に蝕まれる。

「だから、お互いにどうするべきだったのかも、わかっているつもりです」

 早くチャイムが鳴ればいいのに、と心から思った。授業中いつも願うよりも強く、切実に。
 けれど現実は、優しくない僕らにも、優しい聖人君子にも優しくなくて。五時でもないのに、チャイムが鳴るはずはなかった。

「それは僕も考えたし、わかってるつもりだ」

 バツの悪さよりも、何より天月の言いかける「答え」が聞きたくなくて、僕は彼女の言葉を遮る。
 今さら言わなくても、わかりきったことだった。

「じゃあ、答え合わせしましょうよ」

 拗ねたように口を尖らせて、天月は言う。
 その瞳を、緊張が少しだけ揺らしていた。

「それもいいかもね」

 でも、と消しゴムのカスが残る机上に逆説を置いた。

「でもそれは、忘れん坊の泥棒を見付けてからにしてくれないか?」
「わかりました」

 天月は諦めが悪い。
 けれど今日の彼女は、驚くほどあっさりと僕の意見を受け入れてくれた。
 半年前、過剰なまでに周囲に優しくあろうとした彼女は、もう消えつつあるのかもしれない。
 けれどその本質までは変わらなくて、他人に干渉しなくなった分、むしろ優しさに幻想を抱くようになった。今の彼女は、危なっかしくて放っておけない。

「じゃあ、私からも提案があります」

 言いつつ天月は、奥まった通路の壁に掛けられたカレンダーを眺める。

「明日は終業式です」

 だね、と頷く。
 テストの返却が終わった翌日から、僕たちの高校は終業式を経て夏休みに入る。

「明日の放課後から、もう元カレ君とは会えなくなります」
「悲しいな」

 その首肯は、紛れもない僕の本心。
 正直に伝えたいけれど、でも伝えるのは少し恥ずかしくて。苦々しく吐き出した本心がバレないように、色のない声でそれを覆い隠した。
 天月が口を尖らせる。

「……嘘つき」
「本当さ。それで、どうするんだ?」

 これ以上自分の本心と向き合い続けたら、気がどうにかなりそうだった。
 だから話を強引に逸らして、会話を終わらせようとした。

「嘘つき弱虫の、元カレ君ヤロー……」

 まだ少し不満そうだったけれど、僕の小へさな罵倒を置いて、天月は事の説明をしてくれた。

「遠くて会いにくいのなら、毎日無理やり会っちゃえばいいんです。意図的に」

 喧しかった蝉の声が、一瞬だけ遠く感じられた。
 忘れん坊の泥棒を探すなら、夏休みを置いて他にない。
 けれど、家の離れた僕たちが夏休みを一緒に過ごすことは難しい。
 ならば、多少無理をしてでも会うべきだ、と天月は言った。

「その無茶ぶり、もしかして怒ってる?」
「嘘つき弱虫君には、教えてあげません」

 ステレオタイプな拗ね顔が、僕から目線を逸らして、形のいい鼻梁がツンと天井を向く。
 その顔にかつて見た彼女の子供っぽさが重なって、少し懐かしいような、胸の奥がツンとするような新鮮な気持ちになった。

「わかったよ」

 笑いが自然と転がり落ちた。
 あの頃していた会話の大半は取り留めもなくて、もうあまり思い出せない。
 けれどきっと、あの頃の会話は、こんな風に天月も感情豊かだった。

「じゃあ、夏休みからよろしく」
「へんっ、しょーがないから、お願いされてあげますっ」
「図書室では、お静かに」
「あっ、すみません……」

 今の僕たちは、きっとあの頃に一番近くて。
 けれど臆病になった分、あの頃から一番遠い。
 きっとそれを、世間では「大人になった」と言うのだろう。
 クソくらえだ、と思った。自分の気持ちに蓋をし続けて、言いたいことも言えないままで大人になるのだったら。僕はずっと子供でいい。

「本当は、夏が明けても──」

 言おうとした言葉は、鐘の音が言わせなかった。
 チャイムはいつも、空気を読んでくれない。