翌日。病院についても、天月はまだ眠っていた。
 容態は安定しているものの、未だに目は覚まさない。
 見舞いもほどほどに、白い寝顔にぎこちなく微笑み掛ける。

「もう、逃げないよ」

 雨垂れが曇らせた窓を覗く。
 僕は今日、この十年間のかくれんぼに終止符を打つために病院に来た。

『明日 病院』

 投函された切手だらけのハガキは、二つの単語で構成されていた。
 ストーカーに襲われた天月の状況を鑑みれば、その内容はあまりにも簡潔だ。
 天月を狙うストーカーは、必ず彼女を殺しに来る。昨日僕に届けられた手紙から察するに、実行は今日だ。
 焦燥を持て余して病院の裏に回る。

「Bingo! さすがは私、ノーベルしょーものだね」

 錆とヤニ塗れの孤独な喫煙所に、どこか得意げな声が溶けだした。

「やあ、そろそろ来るだろうと思ってね、待っていたんだ」

 雨音を割って聞こえた声と、曇天に伸びる白い腕。
 たおやかな指先が挟んだショートピース。薄い唇が、そっと紫煙を雨に溶かす。

「こーんにちは、半分の泥棒クン?」

 忘れん坊の泥棒、バジル・ザハロフがそこにいた。
 雨濡れの半透明な屋根の下。どこにも行けない僕らはベンチに据わる。二人で越えた駅の改札も、駅前のマクドナルドも。ニヒルな店主が出迎える駄菓子屋も。
 どこにも行けなくなってしまった。そこにはもう、僕らの天月はいないのだから。

「今日なんだろう?」
「そうみたいですね」

 主語の死んだ会話。
 それでもお互いの意思は理解できる。
 僕らは、天月を殺しに来るストーカーを待っているのだから。

「ま、奴が来たらすぐわかるさ。祝日の病院に入れる玄関口は、一つしかないからね」

 あそこさ、ここからだとよく見える。
 雨音の止まない中、小さな屋根から落ちる水滴を気にも止めず、ザハロフさんは手を伸ばす。
 白い腕を水滴が弾いて、濡れた柔肌が透き通る。

「大人とは──」

 物憂げな煙が雨に溶け出すように、ザハロフさんの言葉が灰色の空間を漂う。
 それは雨前に低回するツバメのように、枯れ枝に捕られた風船のように。
 どこまでも停滞した問答を投げ掛ける。

「大人とは、一体なんだい?」

 答えは出ていた。
 ただ、いつだって迷いがあった。 
 それでも、今はその答えが全てだから。不変の答えなんてものがなくとも、今はそれが答えだから。

「あなたを受け入れる事です。忘れん坊の泥棒さん」

 忘れん坊の泥棒を受け入れること。
 それはきっと、忘れていくことを許容すること。
 片想いを棄てること。
 日常の些細な違和感を棄てて、周囲に流されていくこと。

 きっと人はそれを、「大人になった」なんて言葉でお茶を濁す。
 その裏で死んでいった感性達を「青臭い」なんて言葉で冒涜しながら。
 そうして人は、大人になる。
 きっと大人と子供の違いは、子供の頃の悩みを忘れないこと。子供の頃の想いを捨てきらないこと。
 悩み、考え続けることが、きっと大人になると言うことなのだろう。

「それが「今の僕」にとっての大人です」
「……その答えに、後悔はないかい?」

 喫煙所のベンチに背を預けて、ザハロフさんが微笑む。
 いつものニヒルな微笑み。頷くと、その笑みは一層深くなった。

「そーかいそーかい。君もようやく、ひとまずの道標を見つけたかい」

 ザハロフさんが取り出したショートピースをパクって、浅く咥える。
 泥棒である彼女が吸っていたタバコを吸うことで、僕も泥棒になれるような気がした。
 きっとその本質は、親の真似をする子供と変わらない。

「──キツイぜ?」

 声が追いかけてきた。
 その忠告がタバコを意味するのか、それとも僕のこれからを意味するのか。
 考えるのは無駄だった。

(望むところだ)

 ノイズに似た雨音の中に、百円ライターの炎を溶かす。
 初めて火を点けたタバコの火口は、焦げて惨めな煙を生んだだけだった。

「こうするのさ」

 浅く唇にくわえ、火口から少し離してフリントを擦る。
 淡く柔い火が雨空を深めていく。揺らめきに触れた火口が夕焼け色に煌めいて、吹き出す薄煙に霞んだ。

「綺麗だろう? 呼吸の強弱、リズムによって、光の色が変わるんだ」

 まるで、命のように。
 その言葉は呪いのように、僕らの間に沈黙を横たえる。
 ザハロフさんはタバコを黙々と吹かす。僕は考える。
 天月を救う博打と、その代価を。

「綺麗なんですかね、命って」
「命を綺麗にするのも、汚くするのも人間さ」

 考えてもわからないから、禅問答にも似た曖昧な会話でお茶を濁す。

「人間ってのは、とかく森羅万象に価値を付けたがるね」
「怖いんですよ」

 いつも通りの禅問答を流しつつ、フリントを擦る。
 今度は火口からライターを離す。二度三度擦ってようやく、タバコに火が点った。

「怖いから……、安心できる材料が欲しいんですよ。数値とか、気休めの言葉とか」

 火口が一際強く燃えて、口に含んだ白煙が一息に零れ落ちる。
 深く吸い込まないで、口に溜めた煙を吐き出す。
 タバコの味なんてわからない。吹かすことで、一人前になったような気がした。

「君もそうなのかな?」
「どうでしょう、僕だって弱いですから」
「弱さを知ること、それが人としての第一歩だよ。赤ん坊だって、成長と共に歩行を覚えるだろう?」

 かつての泥棒が笑って、僕はショートピースを揉み消す。
 もしも世界に危険がないのなら、ハイハイのままでもいい。
 だが現実は危険で溢れている。道には車が、目の前には大きな段差が。そして隣には、やがて悪意をもった他人が。
 危険となって人生に寄り添う。

「だから危険を乗り越えるために、その双の足は、地面を固く踏みしめるんだ」

 吐き出す煙に言葉を乗せて、ザハロフさんの胸ポケットから、色褪せた紙切れが取り出される。

「それは?」
「在庫リストさ。泥棒が盗んだ物をメモする、紙切れさ」

 眺めたその紙に、白く長い指が這う。
 指が止まる。
 一つの盗品が示されている。

「天月詩乃への、憎悪……」
「そう。今回の一件は、こいつが盗まれたことから始まった」
「盗まれた?」
 
 盗まれたと言うことは、初めから天月に対して憎悪を持っていた人間がいたと言うことか。
 心当たりは、ある。

「あの時の、男の子」
「正解、ノーベルしょーだ」

 やっぱりだ。
 イジメっ子や、フラれた同級生とは少し違う。
 もっと純粋な感情を持っていた子供の頃、天月をイジメていたかつての「家族」が一番純粋な憎悪を持っていたんだ。

「それが、盗まれたんですか」

 尋ねると、深い溜め息が返ってきた。

「そうだよ。全く情けない、泥棒失格さ」
「取り返しますよ、僕が。次の泥棒だから」

 だから、行かなきゃ。
 こんな下らないストーリーは、もう終わらせるんだ。

「ほう、ならば頼もう。だがそれ以上に君がするべきことは、わかってるね?」
「はい、天月のそばにいます」
「上等、なら君はもう、半人前じゃないぜ。一人前の泥棒が何を盗むのか、実に楽しみだ」

 吐き出す煙に空を透かして、かつての泥棒は悲しげに微笑む。

「さあ、今夜は新月だ。夜にはちょいと早いが、行っておいで。君こそが、次の──」

 彼女の透かした空に未来はない。過去の盗みと悲しみの記憶が、彼女を後悔に縛り付ける。
 きっと、僕もそうなる。

 ──一緒に、優しい世界を探してくれませんか?

 天月詩乃。
 成長と共に忘れられていく、宝石みたいに純粋な、雨晒しの記憶。
 それは触れれば崩れてしまいそうで。けれど星の光のように強かなその名前を、僕は何度も思い出す。

「誰かのために傷付いてあげられない世界なんて、こんなにも冷たかったよ、天月……」

 新聞の切り抜きを手に、僕は歩を進める。
 雨音の中に、あの日の蝉時雨が聞こえたような気がした。

 *

 雨の音がする。
 冷たい機械が紡ぐ、命の音がする。
 コツコツ、コツコツ。ゆっくりと鳴るそれは、まるでクジラの鼓動のように。
 休日の静かな病院で、まっすぐ僕らを目指す足音がする。

 命が生まれ、そして消えていく。始まりと終わりの場所。
 白い顔を横たえた天月はあまりにも綺麗で、とても病院にいるようには思えない。
 本当に眠っているようだった。
 まるで誰かに見つけてもらうまで終われない、かくれんぼのように。
 彼女は止まったままで、鬼を待つ。

 ──足音は近い。

 証拠はないけど、確信はある。
 殺害予告を律儀に守りにやってきた、ストーカーの足音だ。

「……ッ」

 夕立の湿気が体に貼り付く。
 雨の音が、鬼の足音が、嫌に大きく聞こえる。
 息が苦しい。
 鼓動が悲鳴を上げている。
 溝尾を撫でる冷や汗が気持ち悪い。
 リノリウムの床が、椅子の足に鳴かないように。
 そっと引き寄せたパイプ椅子に座って、天月の手を握った。
 まだ温もりのある手が、握り返してくる。
 あの日の泊まりで重ねた天月の手が、まだ生きている。

『私、忘れん坊の泥棒を探します。そして返してもらうんです、 優しい世界を。傷付いた時、誰かがそっと隣にいてくれる世界を』

 思い出す、思い出す。
 空を映したみたいに清廉な瞳。そこに写る僕。
 彼女が抱いた、淡い幻想の世界。
 怖かった。
 緊張もしていた。
 けれど、不思議と気分がよかった。
 世界は優しくないけれど。傷付いた天月を、また傷付けようとする奴はいるけれど。
 君のそばには僕がいるから。

「それじゃ、足りませんか?」

 僕はきっとヒーローにはなれない。
 世紀の大泥棒にだってなれないけれど、三文小説の悪役くらいになら。弱虫マヌケの泥棒くらいになら、きっとなれる。

「目が覚めたら、答え、聞かせてね」

 雨が弱くなる。
 扉が開く。
 カーテンの向こうに、影が立つ。

『君が何を盗むのか、実に楽しみだ』

 何を?
 そんなもの決まってる。
 十年かけてようやく見つけたんだ、それをまた奪われて堪るものか。

 カーテンが開かれた。
 レインコートに包んだ痩せた長身。僕を睨むどこか見覚えのある顔。手が白くなるほど強く握られた包丁。
 いつかどこかで覚えた、殺意混じりの黒い拒絶。

「誰だ、お前」
「僕、は……」

 憎しみすらも滲んだ顏とは裏腹に、男の声に感情はなかった。
 ゾッとするほど低い声音だけが、理科室の液体窒素みたいにボコボコと病室を凍らせていく。

『君はもう、半分じゃない。さあ行っておいで。君こそが、次の──』
「僕が、忘れん坊の泥棒。君が消えた未来を、盗みに来た」

 重ねた天月の手を、強く握る。
 ストーカーが包丁を振り上げる。
 天月が夢見る、優しい世界。その正体なんて、ほんとはとっくに分かっていた。

『生きたいですよ』
『あなたの生きる世界で、私も生きたい』

 だからあの夜の彼女は、あんなにも「生きること」に執着したんだ。
 きっと彼女が夢見た優しい世界は、好きな人と感情を共感すること。
 好きな人の、そばにいられること。笑えることだ。
 いつまでも気付かないフリをしていたのは、単純なこと。それを恋人である僕が結論付けるのは、あんまりにも恥ずかしかったんだ。
 でももうはぐらかさないから、君と向き合うと決めたから。
 だから、

「僕が盗むのは、天月詩乃が消えた世界だ」

 子供の時から、泥棒になることがあった。
 いつかのかくれんぼ、行けなかった家族旅行、死んだ子の歳を数える母親、七月七日の催涙雨、伝えられなかった恋心、真夏のオリオン。
 僕はその記憶をはっきり覚えているのに、周囲の人は誰一人として覚えていなくて。一晩明けた世界では、皆「そんな事はなかった」と言い切ってしまう。

 だから僕は、それを受け入れた。
 今日から僕は、忘れん坊の泥棒。
 罪と罰。高利貸しの老婆を殺し、金品を──「忘れん坊の泥棒」を奪った青年、ラスコーリニコフ。
 女の子が信じてくれたなら、泥棒は空を飛ぶことだって、湖の水を飲み干すことだって出来るんだ。

「天月詩乃、みーつけた」

 世界で一番綺麗な、その名前を口ずさむ。
 雨音が消える。
 どこか遠くで、ヒグラシが連れてきた秋の声がする。そんな気がした。