大きな声で言ってのぞみは立ち上がる。俄然やる気が湧いてきた。
夜に保育園なんてかわいそうと言う人もいるだろう。それでもそうやって生活している人がいる限り必要な場所なのだ。
夜間保育へ通う親子が街の人たちの目を避けなくてはいけない状況には、施設で育ったのぞみにとってみればいろいろと思うところがあるが、それならば尚更力になりたいと思った。
「私頑張ります!!」
のぞみは両手に作った拳をぎゅっと握りしめた。
宮司が目を細めて、ふふふと笑った。
「じゃあ、契約成立だ。さぁ、ここにサインをして」
「私は紅(こう)、コウと呼んでくれ」
雇用契約を結んだあと、さっそく職場見学をということになった。いつのまにか時刻は午後五時半を過ぎて、陽が傾きかけている。
アパートを出て本殿への小道を紅について歩きながら、のぞみは不思議な感覚に襲われていた。ここへ来てからもうずいぶんと時間が経ったような気がする一方で、あっという間だったようにも感じる。
「コウ…」
ぼんやりとしてのぞみは呟く。
けれど、目の前で紅が微笑んで「そう」と頷いたのを見てすぐに慌てて首を振った。
「そ、そういうわけにはいきません! 目上の人を下の名前で呼ぶなんて…」
「うちは、そういうのは気にしないんだよ。園には君の他に保育士がもう一人いるんだけど、その子も私を名前で呼ぶよ?」
全力で否定をしたのぞみに、紅は少しだけ残念そうに言った。それでも、そのもう一人の保育士と今日雇われたばかりののぞみとは立場が違うような気がする。
「わ、私には、無理です。え、園長先生と呼ばせていただきます!」
思わず声をあげると紅は、少し驚いたように切れ長の目を見開いて、クスリと笑った。
「そんな風に呼ばれるのは初めてだけれど…、まぁ君が呼びやすいならそれでいいよ」
「そ、そうします…」
頬を染めて答えながら、のぞみは全国津々浦々保育園はたくさんあれど、こんなに若くてかっこいい園長先生がいるのはこの保育園だけじゃないだろうかなどという不謹慎なことを考えた。
もしかして、私ってすごくラッキー?
そんなのぞみの内心はよそに、紅は再び本殿に向かって歩き出す。慌ててのぞみも後を追った。
保育園は、本殿の裏の古い平家の建物だった。小さな園庭もあるけれど、森の木々に囲まれて、日の光はほとんど当たらないようだ。
普通の保育園なら日当たりは重要だけれど、夜間保育園ならばこれでいいのかもしれない。そんなことを考えながら建物に足を踏み入れた瞬間、のぞみの背中をつーと冷たい汗が伝った。そしてぞぞぞと気持ちの悪い感覚が首筋を駆け抜ける。
この感覚…。
ここへ来てから何度か感じたこの感覚はなんだろう?こめかみからも汗が伝ってのぞみは思わず足を止めた。
「保育時間は大体、午後四時くらいから。ほら、もうみんな来てるよ」
機嫌良く言って紅が振り返る。
だがのぞみはその場に根が生えたように動けなかった。
建物は古い日本家屋だった。玄関を入ると短い廊下を挟んで広い部屋が、一つ。その向こうに襖を開けっ放しにしてもう一部屋。どちらも外に出られるようになっていて、縁側の先には園庭だ。
「…子どもたち、どこにいるのですか」
言いながら、のぞみは血の気が引いていくのを感じていた。だって、のぞみの目には子どもなんて一人も見えない。ただ誰もいない部屋と庭が広がっているだけなのだから。
それなのに、ふふふとか、あははとか、きゃーとか、楽しそうな声とトタトタと子どもが走るような音だけが聞こえてきて、確かに"何か"はいるように思えるから不思議だった。
これはまさか…。
すっかり青ざめてしまったのぞみを見つめる紅の目尻が赤みを帯びた。
「あの…」
思わずのぞみは後ずさる。ここに居てはいけないとのぞみの本能が警告する。
ここは、私が居ていい場所ではない。
だがいつのまにか、紅がのぞみの後にいて肩に両手を置いている。退路を絶たれて、のぞみはゴクリと喉を鳴らした。
ふわりと香る、白檀の香り。
「いない…? 本当に? よぉく見てみて…」
紅が囁く。
「目を凝らして…ほら」
とろりと甘い砂糖菓子のような紅の声がのぞみの頭の中の一番奥へと届いた時、うっすらとぼんやりと、声の正体が輪郭をなしてゆく。
うふふ。
あはは。
きゃ、きゃ、きゃ。
部屋の中を、廊下を、それから日が差さない園庭を、転げ回り走り回る子どもたち。
そこかしこで好き勝手に遊んでいる子どもたち…。
「ひっ…!」
のぞみの喉の奥から引きつれたような声が出た。その声に反応して、子どもたちが一斉にこちらを向く。
いやこれが子どもたちなのかどうなのか、とにかくみんな奇妙な見た目をしていた。
ひとつ目、百目、のっぺらぼう。
頭にお皿、頭にツノ、それから狐のようにふさふさの尻尾がある者も。
もしかしてこれは…。
「おおおおお化け…!」
腰が抜けて、へなりと床に座り込み、のぞみはあわあわと唇を震わせる。噛み合わない歯ががちがちと鳴った。
力の入らない足で板間を蹴ってなんとか逃げようとするけれど、紅に抱き抱えられるように阻まれて叶わなかった。
「やっぱり君、見えるんだね。嬉しいなぁ。みんなおいで、新しい先生を紹介しよう」
のぞみの背後で紅が嬉しそうに皆を呼ぶ。すると子どもたちが、興味津々といった様子でわらわらと集まってきた。
(よよよ余計なこと言わないで!)
のぞみは心の中で叫ぶけれど、声に出すことはできなかった。
「のぞみ先生だ。よろしくね。仲良くするのだよ」
「はーい!!」
(かかかか勝手にしょ、しょ、紹介しないで!)
だがやっぱり声には出せない。気が動転してどうにかなってしまいそうだった。夢ならば覚めて欲しいと半ば祈るような気持ちでのぞみはぎゅっと目を閉じる。
のぞみは時々とても疲れている時に嫌な夢を見ることがある。これもきっとそれなのだとのぞみは自分に言い聞かせる。この街に来たばかりだから疲れてしまって変な夢を見ているのだと。
目を開ければきっとあの駅前のホテルで朝を迎えられるはず。こんな背中がぞくぞくするような夢は、出来たら起きてすぐに綺麗さっぱり忘れたい…!
そう何かに願いながら恐る恐る目を開けるのぞみだが、残念ながら願いは叶わず。わらわらと集まってきた子どもたちに周りをすっかり取り囲まれていた。
ひとつ目、百目…。
「きゃー!!」
「はいはい、ちょっと怖がりすぎだね。どれどれ、少し"ぞぞぞ"を食べてあげよう」
紅が苦笑して、のぞみの背後で何かを食べるような仕草をした。
パクリ、もぐもぐもぐ。
その瞬間、不思議なことに少しだけのぞみの中の"怖くて仕方がない"気持ちが和らいだ。
もう一度。
パクリ、もぐもぐもぐ。
どきどきと破裂寸前のように脈打っていた胸の音が落ちついて、目の前の光景を少し冷静に見られるようになってきた。
パクリ、もぐもぐもぐ。
紅が満足そうにペロリと赤い唇を舐めた。
「うーん。やっぱり思ったとおりのぞみの"ぞぞぞ"は美味しいねぇ」
満足そうな紅を見て、子どもたちのうちの何人かが、頬を膨らませた。
「あー! 紅さま、ずるーい! 僕も"ぞぞぞ"食べたーい!」