それは志津も同じなのだろう。
板の間に突っ伏して肩を震わせて泣いている。隣で颯太が少し呆然として座っている。
のぞみの脳裏にあやかし園での日々の思い出が次々と浮かんだ。
騙されて初めてこの建物へ入った日、嬉々としてのぞみにセクハラをする紅の笑顔。一平からのぞみを守ってくれた強い背中、頭を撫でる優しい手。のぞみを騙していたことがバレた時の下がった眉、それから妻になってくれと言った時の真剣な眼差し。
こんなところで終わらせるわけにはいかない。
絶対に終わらせない。
のぞみは颯太に歩み寄り、大きく息を吸ってから口を開いた。
「お兄ちゃん!!何ぼんやりとしてるの!志津さんを支えて!太一君は大丈夫、紅さまが助けに行かれたんだもの。このくらいでへばるなら、あやかしと夫婦になるなんて大それたことしないでよ!」
颯太と志津が二人同時に顔を上げて少し唖然としてのぞみを見た。
のぞみはしゃがみ込み、志津の肩に手を置いた。
「志津さん、太一君は必ず戻ります。でもヌエが強いと言うのならいくら紅さまでも油断は禁物なのでしょう。もし知っていたら教えて下さい。結界を張り続ける紅さまが、ヌエに匹敵するほどの力を取り戻すにはどうしたらいいですか?」
涙に濡れる瞳を瞬かせて少し考えてから、志津は震える唇を開いた。
「紅さまは、"ぞぞぞ"を食べなくても自らの力と存在意義を補う力をお持ちです。それでもすぐに補いたければ、やはり"ぞぞぞ"を食べることが一番ではないでしょうか」
のぞみはゆっくりと頷いた。
そしてこづえを振り返る。こづえが真っ青になって首を振った。
「のぞみ、ダメだ…、ダメだよ!危険すぎる。紅さまは来るなと言ったんだろう?!」
「それでも他に方法はないわ。こづえさんお願い、私の"ぞぞぞ"を切り離して」
のぞみの言葉にこづえは目を見開いたまま、口をパクパクさせている。
颯太が掠れた声を出した。
「のぞみ…」
「お兄ちゃん、お兄ちゃんへの恨み言は帰ったらたっぷり言わせてもらいますから。それまではしっかり志津さんを守っていて。でないと絶対に許さないんだから!」
あやかし達からおぉ!という声が上がる。お嫁さま、許婚さまと皆が口々に唱えている。のぞみは彼らに微笑みかけた。
「安心して下さい。紅さまは必ずここを…あやかし園を守って下さいます。それまで、子ども達をお願いします」
それからサケ子の周りに集まっている子どもたちに向き直った。
「みんな、お願いがあるんだけど」
子ども達は目をパチクリとさせてのぞみの方を不思議そうに見た。
「こんなに沢山のお父さんお母さんが、保育園に集まっていることなんて滅多にないよ、嬉しいね。せっかくだから、みんなが保育園で練習していたあれを見てもらうことにしない?ほら、あれ…サケ子先生のぞぞぞ講座!」
子ども達の目が輝いた。
「やる!やりたい!」
「オイラ上手にできるようになった!」
「私も!」
のぞみはにっこりと頷いた。
「じゃあ先生が、驚かされる役をやるからね。せいのでいくよ」
チラリと振り返るとこづえはまだ納得のいかない表情で、それでも普段"ぞぞぞ"を持ち帰るときに使う大きな白い袋を手にしている。
のぞみはよしと頷いて、子ども達に合図を出した。
「いくよ、せーの!」
真っ黒い夜の海がうねりをあげて、天高くそびえる波が今にも街を呑み込もうとしている。
のぞみは震える脚を励まして、海岸に立っていた。背中に担いだ白い袋には満杯の"ぞぞぞ"。ふわふわとのぞみに寄り添うように浮かんでいる。
目を凝らせば、海上に浮かぶ紅の姿。弱々しい赤い光に包まれて、脇に太一を抱えている。
太一は意識がないようだった。
おおーん!!という鳴き声が響く。発したのは紅と向かい合わせにいる奇妙なカタチをした獣だった。
ヌエだ。
体は虎のごとく縞模様、されど顔の周りは獅子のような立髪に覆われて、紫色の牙が顎の下まで伸びている。血走った眼がギョロギョロとして憎々しげに紅を見ている。
のぞみの胸が張り裂けそうになった。こづえは結界が薄れていることを感じとって、紅が劣勢なのかもしれないと言ったけれど、本当にそのとおりだった。
彼は身体のあちらこちらから血を流して膝を付いている。そして、肩で息をしていた。
ヌエがもう一度おおーんと鳴いた。
「良い様だな、天狗よ。他のあやかしも守ってやろうなどという愚かな考えがその身を滅ぼすのだ。己の身を己で守れないあやかしなどは、屑同然だというのに」
ヌエから紫色の刃が飛ぶ。紅の肩から新たな血が散った。
紅を包む赤い光はいよいよ弱くなって、今にも消えてしまいそうだ。
「紅さま!!」
のぞみはごうごうと唸る風に負けないように力の限り叫んだ。
「紅さま!!」
紅が振り向いて目を見開いた。
「のぞみ!!なぜ来た?!待っていろと言っただろう!!!」
焦りを隠そうともせずに一方的に怒鳴りつける余裕のない紅をヌエが声をあげてせせら笑った。
「ぬはははは!天狗よ。人間の嫁をとったという噂は本当だったのだな?そこまで落ちぶれていたとは、はなからワシの相手ではなかったということだ」
「のぞみ!戻れ!みんなのところへ行け!!」
ヌエを無視して、紅が再びのぞみに怒鳴りつける。だがのぞみはそれには従わずに海と陸のギリギリの境目まで駆け寄った。そして白い袋を肩から下ろした。
何がおかしいのかヌエが再び笑い出した。
「ぬはははは!ワシは人間などには興味はない。だがこの娘が戻らぬときの天狗の嘆く声を聞いてみたい」
そしてのぞみの方へ向き直る。
「やめろ!!!」
のぞみを庇うように紅が立ちはだかる。その背中を見つめながらのぞみは白い袋の口を開けた。
「紅さま!ぞぞぞです!」
その瞬間、袋の口から沢山のぞぞぞが溢れ出す。そしてまるで意思があるかのように我先にと海の方へ飛び出した。
のぞみには、その一つ一つが子ども達のように見える。
小さくて色が濃いのはかの子、三つの風船がくっついたような形は鬼三兄弟、それから少しひらべったいのはヒトシで…。みんな一目散に紅の背中を目指す。
闇夜に眩しいくらいに光り輝くぞぞぞに気がついたヌエが、焦ったような唸り声を上げた。そして紫色の光をのぞみに向かって繰り出した。だがそれはのぞみまで届く寸前のところまできて、赤い光に跳ね飛ばされた。
ああああー!と声をあげて、紅が立ち上がる。同時に赤い光に包まれた太一が、ゆっくりとのぞみのもとへ下りてきた。
のぞみは急いで手を伸ばし、幼子を腕に抱く。目を閉じてはいるもののその身体が温かいことを確認して、のぞみはホッと息をついた。
「お前などに、のぞみを傷つけさせはしない」
紅の声が荒れ狂う嵐の中にはっきりと響いた。風に髪をなびかせてヌエを見据える紅にはさっきまでの傷はない。
力が戻ったのだ。
ヌエがぐるると怯むゆように唸りだす。
紅が右手を上げてヌエに向けた。
「ま、ま、待て、待ってくれ」
紅にみなぎる力は圧倒的で強大だ。かなわないと悟ったヌエが、焦ったような声を出す。だが紅が許すはずもないことは明白だった。
「強き者のみが生き残るこの世界で、お前の言うことはもっともだ。だからこそ私は今までお前を放ってきた、…たとえ我が子を食われても。だがもうこれ以上、子を食らうことは許さない」
冷淡に、紅が言い放つ。
のぞみの目から涙が溢れた。
強き者のみが残る世界、弱きは食われあるいは消えてゆく。それでもその世界に彼はあやかし園を作った。幼い子らが安心して育つことができるあの場所を。それが失った我が子を思う、彼の心なのだろう。
「もう誰一人としてお前の餌食にはしない。今こそお前は、己の言葉に従うのだ。己の身を守ることができないあやかしは消えれば良いと言った己の…」
「ま、ま、待て!」
「さらばだ、ヌエ」
その瞬間赤い光が刃となって、逃れようとするヌエの背中に襲いかかる。
ぎゃあああああ!という耳を塞ぎたくなるほどの凄まじい叫び声と同時にどどーんと稲妻が鳴り、ヌエに落ちる。
のぞみは太一を腕に抱いて、ビリビリと身体に響く爆音に耳を塞ぎながら、地面にうずくまった。
「…のぞみ…のぞみ、もう大丈夫だから、目を開けてごらん」
囁くような紅の声に、のぞみはゆっくりと目を開いた。紅がのぞみと眠る太一を抱いて、嵐の去った夜空を飛んでいる。
雲が晴れて、月も出ている。
「紅さま。…ヌエは?消えたんですか」
のぞみは彼を見上げて少しぼんやりとしたまま尋ねる。
紅がゆっくりと首を振った。
「消えてはいない。だがむこう千年くらいは悪さをすることはないだろう」
のぞみは安堵の息を吐いて、紅の胸に顔を埋める。紅がのぞみを抱く腕に力を込めて、掠れた声で話し始めた。
「…私には、志津の心を癒すことができなかった。おそらく…私に、私自身に我が子を思う心が足りなかったのだと思う。子を慈しむ心、愛おしむ気持ち…当時の私にはわからなかった。…その心を知りたくてあやかし園を作ったんだ」
のぞみは紅に抱きついたまま、その話に耳を傾けた。
「園に来る親と子を、毎日見続けていればそれがわかるかもしれないと…。だがそうしたところで、何かが変わるというものでもないというのに。所詮私は、心のない天狗なのだから」
紅は傷ついたように眉を寄せて、首を振る。のぞみは思わず口を開いた。
「紅さまは心のない天狗ではありません」
だが紅は目を閉じて唇を噛んだ。まるでそう言われるのがつらいのだというように。
「のぞみ、私はのぞみが思うような良いあやかしではないのだよ。長い間この辺りでヌエが好き放題に子を喰らうのを、それがあやかしの定めだとして放ってきたのだから」
彼はまだ、子を、志津を救えなかった自分を許すことができていないのだとのぞみは思った。
のぞみは紅の浴衣をぎゅっと掴んで、彼を見上げた。
「紅さまに志津さんの心が癒せなかったのは、心が足りなかったからではありません。紅さまも…志津さんと同じようにつらかったからではないですか。今だって…こんなにも」