なぜだろう?
 今は兄の顔など見たくはないと心の底から思うのに、兄を取られたはずの志津にはその感情は湧いてこない。
 のぞみは紅に抱かれたまま、濡れた瞳で瞬きをして彼女を見つめる。
 白いキツネは闇夜に浮かび、神々しいほどに美しく思えた。
「のぞみ先生…」
 志津がゆっくりと口を開く。
「貴方さまのような可愛い妹がありながらあやかしの女に走った愚かな夫を許して下さいとは申しません。ただ…ただ少し私の思い出話を聞いて下さいませ」
 ざざざと大木の葉を揺らす風がのぞみの濡れた頬を撫でる。それを少しだけ心地よく感じて、のぞみは志津の話に耳を傾けた。
「颯太と出会った当時、私は隣町にある実家の稲荷神社に閉じこもっておりました。紅さまと夫婦別れをしたすぐ後で、何もかもどうでもよくなり自暴自棄になっていたのです」
 志津の言葉にのぞみはハッとして紅を見上げる。
 そう言えば志津が紅のかつての妻であったことは聞かされていたけれど、なぜ夫婦別れしたのかは知らなかったと思い当たる。だが月明かりで逆光になっている紅の表情はわからなかった。
 そんなのぞみに志津が少し慌てて言葉を足した。