山神あやかし保育園〜園長先生は、イケメンの天狗です〜

「太一を受け入れて下さって、ありがとうございます。あやかしたちからの苦情も、うまくやってくださって…」
「保育園のためだもの」
 なんでもないことだと紅は首振る。
 その時、のぞみがパタパタと足早に離れの風呂へ向かう様子が見えた。
 深夜に風呂に入るのはちょっと怖いけれど、汗を流さずには寝られないと言っていた。それなら付き添ってやると言ったら、真っ赤になって頬を膨らませたのを思い出して、紅の口元が自然と緩む。
 紅は志津を振り返った。
「太一のことは、あまり心配しなくていいよ。急かさなければ、なんとかなるだろう」
 紅が微笑むと、志津がコンと鳴いて頷いた。そして紅の視線の先をじっと見つめた。
「良い方ですね。可愛らしくて…」
「そうだろう? それにすごく頑張り屋さんなんだ。子どもたちにも好かれているし。太一のことも彼女がいればきっと何かいい解決方法が見つかると思う」
 少し得意げに言う紅に、志津が切れ長の目を瞬かせた。
「紅さまは、少し変わられましたね」
 志津の言葉に紅はわずかに眉を上げた。
「そう? …老けたかな」
「まぁ、ふふふ。昔は…いえ昔もお優しくはありましたけれど、どこか近寄りがたいものを常に背負っていらっしゃいました。今みたいな柔らかい表情の紅さまは、初めてでございます」
 思いがけない志津の言葉に、紅は少し照れ臭くなって、鼻の頭をぽりぽりとかいた。
「それは…、褒めているのだろうか」
「ふふふ、もちろんそうでございます。新しいお嫁さまの影響ではないですか」
 紅は少し考えて、「うん、そうかもしれないね」と頷いた。
 初めは軽い好奇心だった。
 嫁をよこすはずの稲荷の親父のいたずらに、少しだけ乗っかってやろうと思ったのだ。
 それなのに…。
 紅は浴衣の胸の辺りをぎゅっと掴んでのぞみがいる風呂場の灯りをじっと見つめた。
 怒ったり笑ったり忙しく変わる表情、子どもたちを見つめる優しい眼差し。
「まだ出会って間もないというのに、私の中に入り込んで、…今じゃそばにいないと落ち着かないくらいなんだ。人間って不思議だね、志津」
 志津が微笑んで頷いた。
「ふふふ、私も連れ合いと一緒になってからは驚くことばかりでございます。昔はあやかしと人間の距離が近かったなんて年寄りの言葉、嘘だと思っていましたけれど、本当なのだと実感しております。何しろ、人は情が深い」
「うん…でも、私たちも…本当はそうなのかもしれないよ。だからあのとき…、私たちは夫婦でいられなくなったのだろう」
 そう言って紅は遠い目をした。森でフクロウがホーホーと鳴いている。
 黙り込む二人の視線の先で、のぞみがほかほかとゆげを立てて風呂場から出てきた。桃色に染まりつやつやとしているあの頬を突くのがここのところの紅のお気に入りだ。
「お嫁さまに…、私たちのことを伝えてありますか」
 志津が静かに問いかける。紅は黙って首を振った。
「私からは、何も。そのうち、おしゃべりなこづえあたりから聞くかもしれないけれど。口止めしといた方がいいと思う?」
 志津が、白い尻尾をピンと立てた。
「紅さま、なりません。きちんと自分の口からお話し下さいませ。人はあやかしと違って過去が気になるものでございます」
「それは…そうかもしれないけれど」
 紅は口を尖らせて、肩を落とした。
「…嫌われるのが怖いんだ」
「まぁ! ふふふ」
 志津がふわりと尻尾を揺らして笑う。
「あやかしの長さまが、なんてお姿。とても子どもたちには見せられませんね」
「だってこの間も嫁が六人いたことをこづえに暴露されたんだ。これ以上何か知られたら、出て行ってしまうかも」
 本当にあの時は肝を冷やした。
「それでも!」
 再び志津の尻尾がピンと立ち上がった。
「おなごは殿方の口から聞きたいものでございます。必ずあなたさまの口から聞かせて差し上げてくださいませ。それより前に言わないように、こづえさんには私から言っておきますゆえ」
 紅は少し驚いて彼女を見た。
「…志津はどうしてそこまでするんだい?」
「あなたさまに…、幸せになっていただきたい。ただそれだけにございます。それに私は情の深い人間の妻ですから」
 のぞみの部屋の灯りが消えているのを確認してから、紅は立ち上がる。
 風のない静かな夜を月が照らしている。
 紅は、頭を下げて立ち去る白いキツネの後ろ姿をじっと見つめて呟いた。
「志津は強くなったな。さて私は…」
 志津と話をした次の日、のぞみは子どもたちの園庭での遊びに、太一とともにまざることにした。
 今までは危ないからとサケ子と紅に止められていたけれど、側から見ているだけではわからないこともあるはずだと思ったからだ。
 だがこののぞみの提案に、紅は眉をひそめて否と唱えた。
「怪我をするよ、私は賛成できないな」
 それは重々承知だった。それでものぞみは諦めなかった。
「私研修で行った保育園で外遊びでは大人気だったんですよ!女の先生だけど力持ちだって」
 子ども達とともに遊び、得られるものは頭の中で考えて得られるものより何倍も意味があるとのぞみは思う。
 人間としてあやかしの子どもたちにまざる太一の気持ちが、自分ならわかるかもしれない。
「もちろん危険なことはしないようにします。だから、お願いします」
 そう言って頭を下げると紅は少し考えてからやや渋い顔で頷いた。
「…わかった。ただし、くれぐれも無理をしてはいけないよ」
「ありがとうございます!!」
 こうしてのぞみは、紅の了解を取り付けて外遊びに加わることになった。
「ねぇ、みんな。今日は追いかけごっこに先生も入れてくれない?」
 夕食後我先にと園庭に転がり出る子どもたちに、のぞみは声をかける。
 すぐに、「うん、いいよ!」という元気な答えが返ってきた。
 今までは外の遊びにのぞみは加わらないというのが子どもたちの間でも当たり前になっていたから、驚きながらも嬉しそうにしてくれているのが可愛らしい。
 のぞみの胸に温かいものが広がった。
「良かった!太一君行こう!」
 のぞみはみんなより少し遅れて縁側で靴を履いている太一に言った。
 園庭で子どもたちがしている遊びは大抵鬼ごっこのようだった。
 メンバーに本当の鬼の子、六平、七平、八平が混ざっているのが可笑しくてのぞみはくすりと笑ったけれど、内容は思ったよりもハードだった。
 まず、のぞみの知っている鬼ごっことはルールが逆だった。
 鬼は、六平七平八平の三人で、彼らが追いかけるのではなく、彼らを皆で追いかけるのだ。
 並外れた素早さとジャンプ力がある彼らを捕まえることは、至難の技だ。しかも、桁外れにスタミナがあるからいつまでたっても終わらない。これを降園時間まで延々と続けるというのだから、開いた口が塞がらないというのはこのことだ。
 それでも単純な遊びほど面白いのかもしれないとのぞみは思う。その日はずっと鬼の子たちの背中を夢中になって追いかけた。
 捕まりそうで捕まらない彼らを挟み撃ちにして、あと一歩で逃したときは一つ目の子ヒトシと太一と共に地団駄を踏んで悔しがった。
 勢い余って、河童の子のための小さな池にのぞみがはまってしまったときは皆、お腹がよじれるまで笑いころげた。
 そして降園時間が近づく頃には、太一とのぞみ、それから鬼を追いかける役の子たちの間にはある連帯感が生まれていた。
「あー楽しかった!でもさすが鬼の子三兄弟、なかなか捕まらないね。悔しいなぁ」
 のぞみが縁側でヘトヘトになって言う。
 太一がひたいに玉のような汗を浮かべて、へへへと笑った。
「明日は絶対捕まえてやる」
 ヒトシが大きな一つ目をパチパチとさせて太一を見た。
「太一お前賢いんだな。滑り台で挟み撃ちはなかなかいい作戦だったぜ。オイラ、鬼には敵わないって思っていたけど太一の作戦があれば、捕まえられる気がしたよ」
 本当にその通りだった。
 太一は、ここ数日で鬼の子の動きをよく観察していたらしい。滑り台で追い詰めようと皆に言ってあと少しのところまで彼らを追い詰めた。
 今までは子ども達だけで遊んでいたから、太一の言葉に耳を貸す者がいなかったようだ。だが今日はのぞみがいたから太一も少し大胆に振る舞えたのだろう。そしてその結果、皆の彼を見る目が今日一日で少し変わった。
「明日はもっとすごい作戦を考えてくることにするよ」
 太一がそう答えたとき、六平が口を挟んだ。
「へん、どんな作戦を立てても一緒さ。半分人間のお前になんか絶対に捕まらないからな!もしもお前がオイラを捕まえられたら、その時はオイラお前の子分になってやらぁ!」
 半分人間であることを否定するような言い方に、のぞみの胸がコツンと鳴った。だがどのように注意をすべきかを考えあぐねているうちに、靴を脱いだ太一が縁側に立ち上がる。
 そして、母親似の白い尻尾をピンと立てて切れ長の瞳で六平を睨んだ。
「今の言葉、忘れるなよ」
「まったく…、無理はしないと約束しただろう?」
 彼にしては珍しく小言のようなことを言いながら、紅がのぞみの膝に消毒液を湿らせたガーゼを当てる。
 のぞみはその痛みに少し顔を歪めて、「すみません…」と謝った。
 仕事が終わったあとののぞみの部屋である。いつものようにアパートまで送ってくれた紅は、繋いだ手を離さなかった。
 手当てをするから部屋まで行くと言う彼に、のぞみは真っ赤になって首を振ったが、いうことをきかなければ明日からは外遊びはなしだと言われてしぶしぶ部屋に招き入れた。
 そして追い立てられるように風呂に入り、今手当てを受けている。
 仕事中はそれほどでもないと思った傷はよく見ると、思ったよりも深かった。それから自分でも気がつかないところあちらこちらに打ち身ができている。
 紅がとくにひどい太もものアザに視線を送って顔をしかめた。
「のぞみが手を出すなというから黙って見ていたけれど、本当に気が気じゃなかったよ。他のことは何も手がつかなくて、おままごとのお父さん役も失格だとかの子に言われてしまったよ」
 ぷんぷんと怒りながら、それでも紅は優しい手つきで、のぞみの傷の手当てをしてゆく。
 のぞみは頬を染めて彼を見つめた。
「ごめんなさい。今日は何だか夢中だったから、あまり痛みを感じなかったんです。今になって痛いなぁと思いますけど。…でもそのおかげで、太一君が無理をしてでも鬼ごっこにまざりたがったわけがわかりました」
「わけ?」
 紅がのぞみの足に視線を落としたままで聞き返した。
「はい。とにかくすごく楽しいんです!鬼三兄弟はすごく素早くてスタミナもあってかっこいい。彼らに憧れみたいな気持ちを抱いてるんじゃないかなぁ、太一君」
 のぞみは部屋の電球を見上げてにっこりとした。
「人間の子どもって、子どもが大好きなんです。だからやっぱり太一君の行動は自然なことです。彼の気持ちが伝われば、あやかしの子だってもしかしたら…」
 手当てを終えた紅の手が伸びてきてのぞみの頭を優しく撫でた。
 綺麗な切れ長の目に見つめられてのぞみの身体が少しだけ熱くなった。
「なるほどね、まざってみてわかることもあるようだ。それでもやっぱり無理は禁物だよ。のぞ先生に何かあったら、それこそ子どもたちは悲しむだろう。さぁ、今日は疲れただろう、もうお休み」
 そう言って紅はのぞみを抱き上げ、あらかじめ敷いてあった布団の上にそっと下ろした。
 促されるままに横になり布団がわりのタオルケットを身体にかけられると、どっと疲れを感じて、急激な眠気がのぞみを襲う。
 だがのぞみが夢の世界へ行く前に、紅が静かに、少し迷いながら口を開いた。
「のぞみ、太一の母親のことだけれど…」
「…志津さん?」
 目を擦りながらのぞみは答える。
 紅が頷いて、でもすぐには続きを言わずに黙り込んだ。
「…紅さま?」
 自分から言い出したくせに、何かにためらう彼を少し不思議に思いながら、のぞみは目をパチパチとさせた。
 しばらくして紅は思い切ったように顔をあげて口を開いた。
「彼女は、私の以前の妻なんだ」
「…え?」
 のぞみは呟いたまま、次に言うべき言葉を見つけられない。言われたことの意味がすぐには理解できなかった。
 脳裏に志津の上品な立ち姿が浮ぶ。
 意外といえば意外な紅の告白、だが一方で妙に納得してしまう自分がいるのも事実だった。
 あやかしの女性をのぞみはそう沢山は知らないけれど、彼女が長(おさ)のお嫁さまにふさわしい美しさと聡明さを兼ね備えていることは確かだと思う。
「あやかしは気まぐれだからね。夫婦別れも少なくはないし、あまり過去を気にしないから、そういうことって別に珍しくはないんだけど」
「…紅さまにはお嫁さまが沢山いらっしゃったってこづえさんが言ってました。それならそういうこともありますよね」
 のぞみの口からそんな言葉がついて出る。だがすぐに、しまったと思って唇を噛んだ。
 これじゃあまるで彼の過去に嫉妬して嫌味を言っているみたいだ。