耳慣れない名をのぞみが繰り返したとき、「そろそろ出勤の時間だよ、こづえ」という声がして、二人は振り向く。
 紅が扉にもたれかかるようにして立っていた。
「紅さま」
 かの子が駆け寄る。
 こづえを見る紅の目尻が少しだけ赤みを帯びた。
「も、もうそんな時間か」
 こづえが少し慌てたように言って立ち上がる。そしてそそくさと仕事へ行ってしまった。それをかの子と一緒に見送りながら、のぞみは隣の紅を盗み見た。
 その綺麗な横顔に、いつもののぞみをからかうような雰囲気はない。ただ怖いくらいに近寄りがたい空気が漂っているだけだった。
 なんだか急に彼をまったく知らない人のように感じてのぞみの胸が苦しいくらいに痛んだ。
 アパートの秘密なんて、きっと少しぞぞぞとするだけで大したことはないだろうと思っていた。黙っていた紅に少し文句を言って、笑って済むような。だがそうではないと、紅の横顔が言っている。
「…少し、山へ行ってくる。かの子をお願いできるかい?」
 いつもと変わらない穏やかな口調。それが返って、二人の間にけして超えることのできない隔たりを作っているように思えた。
 のぞみは頭に浮かんだすべての疑問を尋ねることなどできないままに、ただ「はい」と答えるしかなかった。