のぞみが赤くなってうつむくと、頭の上で男性がくすりと笑った気配がした。
「君はかの子の母親に少し似ているかもしれないね。間違えたというわけではないだろうけど…」
そこまで言われて、のぞみは「あっ!」と声をあげる。
「その子…お母さんは、お仕事って言ってました。あの、もしかしてお父さん…ですか?」
彼が父親だというならば女の子の言動には納得がいく。母親が仕事をしている間は父親が面倒をみているということだろう。
それにしてもこのイケメンが子持ちだというのは少し…いやかなり残念な気もするが。
のぞみの問いかけに再び男性がくすりと笑った。
「いいや、私はかの子の父親ではないよ。この子の母親が仕事に出ている間、お預かりしているんだ。上の神社でね」
「上の神社で…?」
呟いてのぞみは鳥居を見上げる。
いつのまにか、少しだけ日が陰りはじめていた。
「それより君はここで何をしているの? この神社には街の人はあまり来ないのに」
泣き疲れたのか、指を吸いながら眠たそうに目を閉じる女の子の頭を撫でて、男性がのぞみに尋ねる。
のぞみは慌ててポケットに入れていたメモを出した。さっきまでいた不動産屋さんの名前が書いてある。おじさんに、宮司にはうちの名前を言えばいいと言われて渡されたのだ。
「稲荷不動産のおじさんからのご紹介で来ました。…アパートを借りかれるかもしれないってお聞きして…」
ごにょごにょと、少し声が小さくなってしまう。ここで子どもを預かっているという言葉、衣服から察するに彼は神社の関係者なのだろう。
今更ながら、格安でアパートを借りられるなんてそんな都合の良い話が本当にあるのだろうかと少し不安になった。
一方で目の前の男性の方はというと少し意外そうに眉を上げてのぞみを見た。
「君が…?」
のぞみは頬を染めた。
「あ、あの一応成人はしています! 二十一歳です!!」
とりあえず賃貸借契約を結べる年齢だということをアピールする。さっきの不動産屋ではそれを真っ先に確認された。
それでなくてものぞみは童顔で、未だに高校生に間違えられることがある。
そんなのぞみの必死の自己アピールは彼の意表を突いたようだった。一瞬切れ長の瞳を瞬かせてから、思わずといった様子で吹き出す。そして女の子を抱いたままくっくと笑っている。
のぞみの胸がまたどきまぎと音を立てる。笑顔はますますイケメンだった。
「あ、あの…」
「ごめんごめん、それは大丈夫。ふふふ、稲荷不動産さんから聞いてるよ。私がここの宮司だ。さっそくアパートを案内しよう」
彼はそう言って女の子を抱いたまま軽やかに踵を返す。男性にしては少し長めの髪が、ふわりと風になびいた。
のぞみは目を見開く。
不動産屋さんのおじさんから、宮司さんと聞いたときは、おじいさんを想像していたからだ。
まさかこんなに若い人だなんて。
さらにいうとものすごくイケメンで…。
そんなことを考えて立ち尽くしているのぞみを、鳥居のところまで行った宮司が振り返る。その瞳が一瞬、紅く光って見えた気がしてのぞみはこくりと喉を鳴らした。
「…どうかした?」
鳥居の上にとまるカラスが、かぁと鳴いた。
「あ、いえ…」
慌てて返事をしてのぞみは階段をゆっくりと上る。頂上まで近づくにつれて鳥居の向こうに本殿が見えてきた。
古びた大きな本殿は鬱蒼とした森の陰になって、少し暗く見える。思わず振り返ると、さっきまでカンカンに晴れていたはずの空は灰色の雲に覆われていた。あんなに暑かったはずなのに、今は少し肌寒ささえ感じるくらいだ。
のぞみはふるりと小さく震えて、自分で自分をぎゅっと抱いた。
「…天気が、悪くなってきましたね」
呟くと、背後で宮司がくすりと笑った。
「そう? …ここはいつもこんなもんだよ」
アパートは、古びた本殿の隣にあった。神社の敷地内には誰もいない。森の木々が風になびいでザザーと音を立てるのと、宮司の下駄がカランカランと鳴る音だけが響いている。
「ここだよ」
アパートの前で足を止めて宮司が振り返る。のぞみはゴクリと喉を鳴らしてその建物を見上げた。
"そうとう古い"とおじさんが言っていたから、ある程度は覚悟していたけれど、これは…。
鬱蒼と茂る森にへばりつくように建っている木造二階建てのその建物は、今にも崩れ落ちそうに傾いている。二階の部屋のいくつかの窓はガラスが割れていた。入口へと続く外階段も苔むして、もう何年も誰も通っていないように見える。
もしかして、いやもしかしくても今現在住んでいる人はいないに違いない。
のぞみの背中を冷たい汗が伝う。
おじさんは事故物件ではないと言ったけれど、それでも"何か"はいるようなそんなたたずまいだった。
言葉もなくただアパートを見上げるのぞみをよそに、宮司は何がおかしいのかふふふと笑ってから、口を開いた。
「今は誰も住んでいないからさ、ちょっと荒れてるけど。君が住むなら少しはきれいにするよ。…なにしろ、これまではこういうのがいいって言う連中が住んでいたから、わざと手入れはしてなかったんだけど」
のぞみは宮司の横顔をチラリと見た。こういうのがいいなんて人いるのだろうかと思いながら。
のぞみだっておんぼろが嫌だなんていうつもりはない。贅沢は言えないことはさっきの不動産屋で思い知った。でもそうじゃなくて、このアパートは、それを差し引いても…。
「…何か出そうだって?」
「ひゃっ!」
のぞみは耳を押さえて声をあげた。宮司が、いつのまにかそばまで来て、低い声で囁いたのだ。のぞみの背中を、ぞぞぞぞと悪寒のようなものが駆け抜けた。
「おおおおおどかさないでください!!」
これから大家になるかもしれない人だということも忘れて、のぞみは彼を詰った。自慢じゃないけどのぞみは筋金入りの怖がりだった。
テレビも映画も本も漫画も徹底的にそういうジャンルは避けてきた。修学旅行の肝試しだって無理を言って不参加にしたくらいなのだ。
(わ、わ、悪い冗談だわ…!)
そんなのぞみの怒りも意に介さず、宮司は愉快そうにはははと笑った。
「さっきも思ったけど、君いい反応するなぁ。その、ひゃっていうの…いいね、とっても私の好みだ」
そう言って宮司は赤い舌でぺろりと唇を舐めた。
「なななななにを言って…!」
のぞみは再び声をあげて、わなわなと唇を震わせた。こういう冗談が好きな人はのぞみの苦手中の苦手だった。
あわあわと言うのぞみに宮司はぷっと吹き出してカラカラと笑った。
「ははは! うそうそ、ごめんごめん! 大丈夫だよ。今まで住んでた住人からはお化けが出るなんて話聞いていないからね。驚かして申し訳ない」
謝られてもすぐには警戒を解かずに睨みつけたままののぞみに、宮司はにっこりと笑いかけている。そして首を傾げて試すようにのぞみを見た。
「でもやっぱり女の子が住むには古すぎるかな。君怖がりみたいだし。…どうする? やめておく?」
のぞみはぎゅっと右の手を握り締めて、うっと言葉に詰まって考えた。
この街にのぞみに貸せる部屋はここ以外ないだろうとおじさんは言っていた。だとすれば、ここで引き下がるわけにはいかない。のぞみはこの街でどうしてもやりたいことがあるのだから。
女性のように紅く見える唇に笑みを湛えて、宮司はのぞみの答えを待っている。
のぞみは、小さく深呼吸をしてからゆっくりと首を振った。
「いいえ、大きな声を出したりしてすみません。…中を見せてください」
そう言って決心が鈍らないうちにと足を踏み鳴らして、入口へと続く小道を先へ行く。
後ろで宮司が、「がんばるね、楽しみだ」とつぶいた。