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「うっわー、珍しいやん! さなが自分で来るなんて! 明日、槍でも降るんとちゃう?」

 ハイテンションで迎えてくれた由衣《ゆい》は、わたしの傍らに立つ沖田に目を丸くした。誰、と口パクで尋ねてくるが、わたしはあえて気付かないふりをする。

 由衣とは一回生のころからの付き合いだ。学部横断型のポケットゼミで一緒だった。多忙なはずの薬学部だが、由衣は今でもこうして頻繁に文芸サークル「レブン書院」に首を突っ込んでいる。

 一時期はわたしもレブン書院に入っていた。季刊の同人誌に一度だけ短編小説を寄稿したことがある。週一回の例会にだんだん息切れしてきて、それを察した由衣が「辞めていいよ」と言ってくれた。

 レブン書院のブースでは、若いメンバーたちが思い思いに読書を楽しんでいた。新刊をメインに据え、既刊本も取りそろえて並べてあるものの、商売っ気は皆無だ。

 由衣はくるくるした髪を弾ませて、わたしのところへ飛んできた。そのままの勢いで抱き付いてくる。

「おー、心の友よ! けっこう久しぶりやんなー。元気しとったん?」
「それなりに」
「今朝、巡野くんから、今日こそ行きますよーいう連絡をもらったから、こうして待っててん。そしたら、まさかやん。さなが自分で来るとは!」

「イケメンコンビのご来店じゃなくてごめんね」
「んもう、何でそんな言い方するん? さなの顔が見られて嬉しいんやって!」
「そう」
「相変わらずクールやなー。いや、ツンデレか。素直になったらええのに」

 由衣は、思ったことが口からぽんぽん飛び出していく。その言葉があまりに率直でギョッとさせられることもあるが、裏表のない明快さはうらやましい。
 ぴょんと離れていった由衣は、同人誌の新刊を袋に詰める。わたしは財布を取り出した。

「千二百円だっけ?」
「千円でいいよー。身内価格ね」
「ありがとう」

「わざわざ来てくれたんやもん。おまけしたくなるやん。まあ、巡野くんのきれいな顔と切石さんの鼻血モンな腕筋が見られへんのは寂しいけどー」
「伝えておく」

「巡野くんと切石さんは留守番?」
「たぶんね。少なくとも、キャンパス内にはいない感じがする」
「ほんま珍しいなー。普段、さながどこに行くときでも、二人のうちのどっちかは必ずボディガードに付いてはるやん?」
「今回はあの二人にしてやられたの。おかげで、あいつと学祭を回ることになっちゃって」

 由衣は目をきらきらさせた。
「してやられた? あいつって? え? つまり、やっぱりデート?」
 詰め寄られると気まずい。

「いや、別にそういうことじゃない」
「じゃ、どういうこと?」
「どうって……別にその、あー……」

 後ろから肩をつかまれた。誰のしわざか、振り向かなくてもわかっている。骨張った指は力が強くて、ちょっと痛い。

「浜北さん、用事終わった?」
 沖田は退屈そうなのを隠しもしない。わたしは同人誌の袋を手に取った。
「終わったよ。次、行こうか。じゃあ、由衣、また今度」

 言い終わらないうちに、沖田はわたしの手から袋を奪い、わたしの手首をつかんで、すたすたと歩き出す。
 とてもいい笑顔になった由衣が、いつにも増して声を弾ませた。

「ごゆっくり~♪ 今度、た~っぷり、話聞かせてなー!」
「話すほどのこともないってば」

 レブン書院のブースである講義室を出る。沖田は廊下を進みながら、肩越しにわたしを見やった。

「寮の外にも、親しい相手がいるんだね」
「わたしに友達が一人もいないと思ってた?」
「思ってたよ。だから、まあ、安心した。あんたも、普通に年ごろの娘らしい顔をするじゃないか」

 不意打ちだ。ドキリとした。
「な、何その言い方?」
 沖田はにっこりと、口元にえくぼを刻んだ。

「ずいぶんかわいらしい顔でうろたえていたけど、何の話をしていたんだ?」
「きみには関係ない」
「嘘が下手だな。デートって、逢い引きという意味だろう?」
「はぁ!?」

 足が止まってしまった。沖田は止まらなかったから、わたしは危うくつんのめりかける。
 沖田はけらけらと笑った。

「寮でさんざん冷やかされてるからね、デートがどうのこうのって。いくらおれでも覚えちまうよ」
「ちょ、え、だ、誰がそんなこと言ってるの!」
「けっこうみんな言うよ」
「何でそう平然としてるかな、きみは?」
「怒ることでもないだろう。やましいことがあるわけでもないし」

 顔が熱い。脳みそが沸騰しているみたいだ。思考はぐるぐる、ちっともまとまらない。
 呼吸が上がるのと胸が苦しいのは、沖田の歩くのが速すぎるせいだ。そういうことにしておく。

「ねえ、疲れた。座りたい」
「そうだね。どこかで茶でも飲もうか」

 おあつらえ向きの店が、まもなく目に留まった。そこだけ時代劇から抜け出してきたかのように凝ったセットの茶店がある。「伝統菓子研究会」ののぼりと、緋毛氈を敷いた縁台が置かれていた。

 沖田は、巡野からもらった書付を取り出すと、紙面と茶店とを見比べた。満面に笑みを浮かべる。

「おれ、この店がいい」
「わかった。伝統菓子って、何があるのかな?」

 わたしたちの会話を聞き付けて、看板娘然とした前掛け姿の学生が、にこにこしてメニューを広げてみせた。

「学園祭最終日の今日は、滋賀県大津に江戸時代から伝わるお菓子をそろえています。このあたりから大津までって、意外と近いんですよ。山中越えと呼ばれるルート、片道十キロくらいでしたね。研究会のみんなで歩いてみたんです」

 一瞬、沖田が身を震わせるのがわかった。貼り付けたような笑みは動かなかった。沖田は言った。
「なつかしいな。山南さんとも一緒に食べたからね。最後に」

 最後に、と。沖田は確かに言った。ほとんど吐息のような声だった。骨張っていて皮がかさついた手は、無意識にだろうか、刀の柄に触れていた。かすかに震えていた。

 そのとき不意に、わたしは、沖田総司が人斬りであることをはっきりと思い出した。笑みの形の目の奥に、呑み込み切れない後悔が揺らいでいるように見えた。