文学部の西棟は新しい建物だ。東棟は逆に、木造の床が抜け落ちそうなほどに古く、地下には何が潜んでいるやら皆目見当も付かない。
わたしは古い東棟のほうが好きだ。西棟は何だか息苦しい。
学園祭期間中はすべて休講になるから、西棟の入口も休祝日と同じように施錠されていた。センサーに学生証を触れさせて待つと、カチッと音がして扉のロックが解除される。
その途端、学生証を持つ手にピリッと痛みが走った。
「いつッ……!」
取り落とした学生証を、ひょいとかがんだ沖田が空中でつかまえた。
「こんな鍵があるんだな。人工エレキとやらを使った仕掛けかい?」
「そうだよ。わたし、この扉、苦手なんだ。いつもバチッてなる」
沖田から学生証を受け取って、扉を押す。
しんとした館内に入る。扉は背後で閉じた後、ジーッと音を立ててロックされた。
沖田は、機能性一点張りのホールを見渡した。
「これはまた殺風景だね」
「現代の建物には、こういうのも多いよ」
「ふぅん。それで、あんたが所属しなけりゃいけない場所っていうのはどこ?」
「上の階だよ」
階段はホールにも増して、つるりと白くて殺風景だ。へえ、と漏らした沖田の声が反響した。沖田はわたしに目配せをして、案内を促す。
学子堂ではゆっくり過ごしてきた。コーヒーをおかわりして、庭にも少し出て。とはいえ、まだ学園祭は始まらない。
どうやって時間をつぶそうかと思っていたら、沖田が「大学という場所を見てみたい」と言った。わたしが籍を置く文学部を。
わたしは唇を噛み締め、階段に一歩、踏み出した。
心臓がざわざわと鳴っている。肩で息をする。首筋の毛が逆立つように感じる。
立ち止まるな。
一段、また一段。大丈夫。上っていける。
足音もなく、沖田が付いてくる。
体が重い。でも、ちゃんと動く。頭は痛くならない。
恐怖感とも嫌悪感ともつかないものが喉を絞め上げる。呼吸が乱れる。胃の中で鈍痛がうごめく。吐きそうになる。
一段、また一段。上る。上る。上る。
踊り場で、わたしはビクリと固まった。
廊下を歩く複数人の足音と、にぎやかに交わされる会話。研究室のある階だ。会話に、知った名前が登場した。日本中世史の教授の名前。
隠れたい、と思った。
間に合わなかった。
国史研究室の先輩たちが廊下から現れた。しゃべりながら階段を下りてくる。彼らと、踊り場で固まったわたしと、視線が合った。
呼吸ができない。
彼らはスッと目をそらした。わたしを避けた、というわけではなさそうだった。
おそらく彼らは、わたしが国史研究室の院生だと気付いていない。覚えていないのだ。わたしを批判したことはおろか、わたしが自分たちの後輩であることすら。
赤の他人と行き違うかのような、温度のない無視だった。先輩たちはしゃべりながら階段を下りていく。
わたしは固まったままだった。いや、がちがちにこわばっていたわけではない。震えていた。
足音と声が遠ざかっていく。何をしゃべっているのか、言葉が聞き分けられない。殺風景な階段に、わんわんと尾を引く反響。
はあ、と沖田が息をついた。
「あんたはわかりやすいね」
肩に温かい手が置かれた。その途端、金縛りが解けたかのように、わたしは呼吸ができるようになった。
「……わかりやすい?」
「今の人たち、倶利伽羅峠の戦いがどうのこうのって言ってた。いくら学のないおれでも、源平合戦くらいはちょっと知ってるよ。あの人たちが国史研究室とやらの?」
「先輩だよ。わたしの顔も覚えてなかったみたいだけど……国史研究室は学生の人数も多いし、仕方ないかな」
「一人だけ気付いたみたいだったよ。立ち止まってこっちを見て、何か言おうとしてた」
わたしは、ひゅっと息を呑んだ。
沖田は眉尻を下げて笑った。
「そういう顔しそうだなって思ったからさ、とっさに相手のこと、にらんじまった。そしたら、慌てて頭を下げて行っちゃったよ」
「……誰だったんだろう?」
「心当たり、ないの?」
わたしは唇を噛んだ。頭に靄《もや》がかかっているみたいだ。
先輩たちの名前が思い出せない。一年前まで、できるだけ毎日、先輩たちと顔を合わせようと努力していたのに。本人たちが去ってしまうと、顔も声も、もうおぼろげだ。
同じじゃないか。
わたしのことをろくに覚えていない先輩たちと、わたしは同じだ。大事な後輩だと思ってもらえないのは、わたしが彼らを大事だと思っていないから。
「全部、自分に返ってくるんだよね。よくないおこないや、正しくないおこない。うわべだけの親切とか、おためごかしとか、その場をやり過ごすための嘘とか」
「間違ったことしたって思ってる? それとも、悪いことした、なのかな」
「どっちも」
「でも、あんたはまじめにやってたんだろう?」
「空回りしてたみたい。誰のためにも、何のためにもなってなかった」
沖田は、すねたように眉根を寄せた。
「全部返ってくるなんて嘘だ。あんたがまじめにやってたぶんを、誰もあんたに返してくれやしなかったんだよ。ちゃんとやってたんなら、どうしてあんただけ、しけた顔をしているんだ?」
声がしたのは唐突だった。
階段の上から、聞き慣れた穏やかな声が降ってきた。
「おや、浜北さん。こちらで会うとは珍しいですね」
「弦岡先生……」
いつの間にそこにいたんだろう? 物音も気配もなかった。ハッとした沖田が身構える。
分厚い本を数冊抱えた弦岡先生は、きちんと足音を立てて階段を下りてきた。
「東洋史研究室の学生さんに貸していた本が急遽必要になりまして、回収しに来たところでした。国史研究室では院生主体の読書会が開かれているようでしたが、浜北さんはそちらに用があるのですか?」
「いえ、あの……」
読書会という名のゼミで読むのは、戦前の国史研究者の著作だった。古めかしい言葉で書かれ、考え方も古めかしい。研究対象とされた過去と、それを研究する歴史学者が生きていた当時という過去。入れ子になった二重の過去を両方とも勉強する必要があった。
確か、発表の担当になったことがある。
だけど、待って。誰の著作を読んでいたっけ? いつの時代を調べたっけ? 発表したとき、何を言われたっけ?
今日は何曜日だっけ? 読書会は何曜日に開かれるものだったっけ?
読書会、おもしろかったっけ? それとも、嫌なことでもあったんだっけ?
覚えていない。研究室に行けば思い出せるだろうか。
でも、もう体が動かない。研究室のある階へ上るのは、途方もない重労働だ。
わたしは情けなくなってうつむいた。弦岡先生の革靴が視界の中で立ち止まる。ほどよくくたびれた、光沢のある茶色。
「無理はお勧めしませんよ。いろんな選択肢があるはずです。もとの所属研究室だけがあなたに学位を与える権限を持っているわけではない。そうでしょう?」
わたしはうなずく。ますます深く下を向く。
学位って何だっけ? なぜそれがほしかったんだっけ? それさえあれば、わたし、生きていけるんだっけ?
肩に、また、温かい手が載った。さっきはすぐ離れていった手は、今度はちょっと力を込めて、わたしの肩を抱いた。
沖田がいくぶん硬い調子で言った。
「ここへ案内しろって頼んだのはおれだ。浜北さんは最初から嫌がってた」
ああ、と弦岡先生は得心したらしい。
「あなたが、沖田さんですか?」
「そうだよ。見りゃわかるだろう?」
「いえ、確信が持てませんでした。私は、新撰組の沖田総司という人物の顔を知りませんから」
「あんたは誰?」
「弦岡といいます。浜北さんを国史研究室から引き抜こうとたくらんでいる、腹の黒い一教員ですよ」
引き抜く。わたしを。
驚きに弾かれ、わたしは顔を上げた。
弦岡先生は控えめに、にこにこと微笑んでいる。
「浜北さん、せっかく彼に大学を案内するなら、何も休講の日の棟内にいつまでも足を止めることもないでしょう。屋外を散策してごらんなさい。あちこちで木々の紅葉が見られます」
弦岡先生はそれだけ告げると、会釈をして、階段を下りていった。
ぽん、と沖田が私の背中を叩いた。
「それじゃ、あの先生のお勧めに従って、外に出ようか」
肩と背中と。沖田の手が触れたところから、ぬくもりが広がっていく。沖田はわたしの手首をつかんで、ゆっくり歩き出した。
「ここまででいいの? 研究室、見たかったんじゃない?」
「別に。もう十分」
「気分屋だよね。きみが何をしたいのか、わたしにはよくわからない」
階段を下りていく。手首をつかまれているせいで、足下がかえって不安定だ。間延びしたリズムで、一歩一歩、わたしは研究室から遠ざかる。
沖田は喉の奥で小さく笑った。
「ない居場所って、どんなものなんだろうなって。それを見物してみたかっただけ」
「……所属すべきなのに所属できない場所、ということ?」
「そう。おれ、考えるのは苦手だし、話を聞いて思い描くのもうまくない。じゃあ、この目で見れば何かわかるかなって気がしたんだけど」
「何でそんなこと知りたいの? きみには帰る場所があるでしょ?」
「あるよ。そこに居場所がないなんて思ったことないよ。居場所があるのにこんな病持ちの体だから、うんざりするけどね」
「じゃあ、どうして?」
沖田は答えなかった。またほんの少し笑う。そして、まったく別のことを言った。
「あんたもさ、まじめにやったぶん、ちゃんと返ってきてるじゃないか。おれ、あの先生は嫌いじゃない感じがしたよ。たくらみに乗ってあげたら?」
不意打ちだ。
「でも」
「所属とやらへの義理立て? 自分が選んだ道だから変えられない? ない居場所なんか、捨てっちまえばいいだろう。少なくとも、死ぬってわかってて古い道にしがみ付くより、薄情でも何でも、生きてたほうがマシだ」
沖田はわたしの手首を離さないまま、かたくなに表情を見せなかった。次第に押し殺されていく声は、しかし、殺風景な階段に反響して、残酷なほど鮮明に聞き取れてしまった。
***
時計台に張り付く人々がいた。茶色いレンガの壁面にハシゴを掛け、続々とよじ登っていく。
「あれは何をやっているんだ?」
沖田はぽかんとして彼らを見上げた。わたしは肩をすくめた。
「熊野寮の連中だよ。時計台の上から拡声器で主張を叫ぶのが恒例行事になってるって聞いた」
「ああ、雑巾がけのときの。いちばん上にいるのは、あのとき渡辺って呼ばれてた人だね。でも、あんなところで叫ぶのって意味あるの?」
「さあ? 暴力という手段を使わずに世直しを訴えるには、ああやって目立つことをするのがいいらしいよ。彼らが言うにはね」
以前、あんなふうに時計台を非暴力占拠する人々をじっくり見物したことがある。高いところに立って拡声器で叫ぶ姿は確かに学生たちを惹き付けたが、肝心の世直し主張はひどく音割れして、まったく聞き取れなかった。
沖田は腰の刀に触れた。
「頭のいい人たちが言うことは、いつの時代も同じなのかもしれないな。おれには、語るための言葉がない。刀を抜く以外の方法は知らない。間違ってるとしても、この頭は今さらよくなりやしないしな」
わたしは思わず、一つの名前をつぶやいた。
「伊東甲子太郎《いとう・かしたろう》」
沖田は振り向いた。貼り付けたような笑みだった。
「そうそう。伊東さんも言葉で訴える人だ。あの人が新撰組に加わったのは、山南さんが死ぬちょっと前だったな。山南さんも伊東さんも、二人とも学者先生みたいに頭がいいから、一緒に難しいことをしゃべりながら茶を飲んだりしてたよ」
「新撰組では、伊東甲子太郎、異端なんじゃない?」
「異端って何のことだろうね。新撰組は大きくなった。いろんな人がいるよ。あんたも伊東さんのことが嫌い?」
「きみは?」
「どうでもいい、だな。おれが好きなのは自分の刀と、近藤さん、土方さん、永倉さん、原田さん、井上さん、斎藤さんに平助、そして山南さん。江戸から一緒に出てきたみんなのことだけでいっぱいいっぱいだ」
新撰組の中核だった古参メンバーの名を挙げるときだけ、沖田の笑みがやわらいだ。
「好きでも嫌いでもなく、どうでもいい、か」
「余計なことは考えたくない。考えるのって、くたびれるだろう」
「そうだね」
沖田は時計台を見上げた。いや、見上げるふりをしただけかもしれない。きっと、その目に映っているのは、レンガの塔でも十一月の青空でもない。
「おれが人間に生まれたのは、何かの間違いだったんじゃないかな。おれは刀に生まれたかった」
「刀……戦うための武器に?」
「近藤さんか土方さんに使われる刀だったらよかった。いや、近藤さんは荒っぽい振り回し方をするし、土方さんはもっとずっと荒っぽいから、無駄のない剣筋の斎藤さんがいいかな。斎藤さんは刀の手入れもすごく丁寧だし」
「大事にされたいんだね」
「そう、大事にされたい。そして、おれが大事だと思ってる人の役に立ちたい。考えるのが下手な悪い頭なんかいらないし、病にかかって動けなくなる不便な体もいらない。ただの刀がいい。手入れされればいつまでも輝いていられる刀になりたい」
「刀は折れるんじゃない?」
「そりゃね、おれも折ったことあるよ。気に入ってた打刀。帽子のとこで折れた。術が使える刀鍛冶を探して、無理やり破断の位置を動かしてもらって、脇差に造り直した。変な力をかけちゃったから、もとの茎《なかご》から真ん中あたりまで、粉々に砕けちゃったけど」
時計台のまわりには見物人が集まりつつあった。アニメやゲームのキャラクターに扮したコスプレイヤーがけっこう多い。普通の和服のわたしや沖田は、だいぶ地味なほうだ。
わたしと沖田と、どちらからともなく歩き出した。
キャンパスは古い建物と新しい建物が入り交じって、雑多な印象だ。どの建物のそばにも広い駐輪場がある。そろそろ客の姿が増えてきた構内を、自転車の群れがすいすいと走っていく。
巡野がもといた陳列館は、大正年間に建てられたネオバロック風の洋館だ。外壁はグレーで、扉や窓枠や屋根には淡いグリーンが使われている。傍らに立つ木々は秋の色に染まっていた。
洋館を背に、沖田は振り向いた。
「この建物、古いんだね?」
「きみがいた時代のほうが古いけどね」
「そうなんだよな。ピンと来ないよ。変な気分だ。ねえ、おれたちの時代って、いつ終わったの?」
ごく軽い調子で投げられた問いに、ぎょっとする。
「終わったって、何が……どういう意味で?」
沖田は刀の柄をさらりと撫でた。
「ここでは誰も帯刀していない。武士はどこに消えたんだ? 郷士だった近藤さんも土方さんも、きちんとした武士の身分を得るために必死だったのに、この時代にはもう、武士であることって何の意味もないの?」
この時代には、という言い方は悠長に過ぎるだろう。
沖田の知る武士の時代とは、徳川幕府が政権を握っていたころのことだ。沖田は一八六六年の秋からやって来た。徳川幕府が大政奉還をおこなうまで、あと一年しかない。
明治と年号が改まると、明治三年には廃刀令が発布され、武士の特権である帯刀は禁じられた。明治十年、すなわち一八七七年の西南戦争をもって武士の時代が完全に滅んだ、という言い方をする人もいる。
もしも沖田が肺結核を悪化させず、幕末から明治初年にかけての戦乱を生き抜くことができ、天寿をまっとうする運命にあったならば。
帯刀を禁じられ、武士が絶滅するという出来事は、人生の前半のうちに経験したことになる。新撰組の数少ない生き残り、永倉新八や斎藤一が実際にそういう人生を送った。
言葉を見付けられないわたしに、沖田はひらりと手を振ってみせた。
「別にいいよ。おれたちの行く末を知りたいわけじゃないんだ。むしろ、知りたくない。おれ自身の死にざまだけは、ちょっと気になるけどね」
「それも言えないよ」
「だろうね。だから訊かない。じゃ、行こうか」
「どこに?」
「決まってるだろう。祭りとやらに、だよ。そろそろ始まるんじゃない? 音楽が聞こえてくるよ」
沖田は、にぎわい出した空気がそのあたりに固まっているかのように、空のほうへ向けた人差し指をくるくる回してみせた。
***
学園祭って、いつからあるものなんだろう? 誰が何の目的で、こんなことを始めたんだろう?
せっかく案内をするのなら、きちんとした説明をするほうがいいんじゃないか。そんな考えもチラッと浮かんだが、どうでもいいやと思い直した。
沖田がものごとの由来や歴史をいちいち知りたがるはずもない。万一知りたがるようなら、後で巡野に説明させよう。
グラウンドは、おまつり広場と名付けられていた。学生たちによる模擬店がずらりと並んでいる。
沖田は目を輝かせた。
「祭りだね!」
「きみの知ってる祭りの景色に似てる?」
「音楽が鳴って、屋台が並んで買い食いができて、人がたくさんいて、あっちには舞台もある。祭りじゃなかったら何だ?」
「こういうのは好き?」
「たぶん好き。数えるほどしか行ったことがないから、たぶんとしか言えないけど」
沖田は両親を早くに亡くし、幼いうちから近藤勇の道場の門下生として育てられたという。祭りに行ったのは、いつ、誰とのことだったのだろう? 江戸で? それとも京都に移ってきてから?
「わたしもあんまり祭りには行ったことがないよ」
「知ってる。案内しろとは言わないよ。巡野さんが抜かりなく、見どころをまとめた書付を寄越してくれたから」
沖田は袂《たもと》から紙片を取り出し、ぴらぴらと開いてみせた。流麗な行書体によるメモが、器用なことにボールペンの筆跡で書き付けられている。
「巡野は字がうまいよね」
「むしろ今の時代の教育が生ぬるいんですって言ってたよ。学問を志す人なら、書や詩歌や漢文くらいできて当たり前でしょうって」
「真に受けないで。あいつのころでも、よっぽどちゃんとした家柄のお坊ちゃんじゃない限り、そんなにきちんとした教育は受けられなかったはずだよ。何て書いてあるの?」
「どの店のものなら食っていいか、全部書いてくれてる。古代米の焼きおにぎりとか、素材にこだわったタコせんとか、信州の大学の連中が売りに来る林檎とか。浜北さんはどこかに用があるんだっけ?」
「本を買いに行く約束をしてるの。それはこの広場の出店じゃなくて、建物の中で部屋を借りて店を出しているはずなんだけど」
「屋内企画っていうやつ? 化け物小屋もあるらしいね」
それは水泳部のお化け屋敷のことだろうか。あるいは、ランニング同好会の美脚女装喫茶のことだろうか。どちらも、一年ぶんの活動費を稼ぐために、命懸けの気迫で企画を作り上げるという。
巡野のメモを見ながら、沖田は目を輝かせている。わたしは呆れた。
「化け物小屋なんて興味あるの?」
「ずいぶんイヤそうな顔をするね。あ、もしかして怖いのか?」
「そんなんじゃない」
「よし、じゃあ行ってみよう。度胸試しだ」
沖田はわたしの手首をつかんで歩き出す。
「ちょっと。ねえ、歩きにくいよ」
「はぐれるよりいいだろう?」
「手首つかまれて引っ張られるのって、連行されてるみたい」
「ああ、壬生狼のおれが相手役なら、そういう物騒なのがちょうどいい」
沖田は、からりとした笑い声を上げた。手をつなぎ直すでもない。痛いくらいの力でわたしの手首をつかんだまま、半歩先をすたすた歩く。
どこで何の企画がおこなわれているのか把握していないのは、わたしも沖田も同じだ。呼び声や音楽に誘われ、気の赴くままに、ふらりと建物に入ってみる。
学部生のころには全学共通科目で毎日利用していた場所が、今日はすっかりお祭りムードに染まっている。
あちこちに弾ける、色づいた空気。マンドリンの生演奏。超絶技巧のジャグリング。エレクトーンと雅楽のコラボレーション。小劇団による即興寸劇。
最上階の大教室は暗幕に覆われていた。
「あの……星を、見ませんか?」
口下手そうな客引きの一言が、沖田の琴線に触れたらしい。
「ここ、入ってみよう」
にこりとして振り向くと、大教室へとわたしを連行する。
プラネタリウムの上映が始まろうとしていた。足下の明かりをたどり、造り付けの硬い木の椅子に腰を下ろす。
ほどなく、すべての明かりが消えた。
次の瞬間、天井も壁もなくなった。空間にたくさんの小さな光が満ちた。宇宙が敷き詰められている。
わあ、と声を上げたのは、わたしと沖田と同時だった。
星座の名前はろくに知らない。今の季節ならオリオン座の三つ星が見えると、その程度の知識だけだ。明るさごとの等級だとか、どのくらい離れたところの星だとか、聞いても覚えられない。
でも。
きれいだ。ただ率直に、そう感じた。偽物の星空だとわかっていても、それでも、きれいだ。
下から上へ、すーっと流れていく星を見送る。どちらが上なのか下なのか、もう、そんなことはどうでもいい。
星が美しい場所の話を、比較的最近、誰かから聞いた。意外な誰かだった。誰だっけ。
ああ、思い出した。弦岡先生だ。
沙漠の遺跡の発掘調査でのこと。昼間とは打って変わって冷え込んだ空気の中、星を見たと言っていた。
地平線から流れ出す天の川が空をいっぱいによぎって、反対側の地平線に消える。月のない夜の流星は、突き刺さるように鋭いきらめきの尾を引いて、夜通し無数に降った。
その空は、ここに映し出された星の海と似ているのだろうか。そこにはどんな風が吹いているのだろうか。砂の色は、空気の匂いは、乾いた冷たさは、一体どんなふうなのだろうか。
つと、袖《そで》を引かれた。
「何を思い出してるの?」
沖田がささやいた。暗い中でも、笑った形の唇が見分けられた。わたしは答えた。
「思い出すっていうか、思い描いてた。行ってみたい場所のこと」
言葉にした途端、すとんと、わたしは理解した。
わたしは、行ってみたいんだ。星の美しい沙漠の遺跡へ。
「そっか。おれはね、思い出してた。江戸にいたころ、出稽古の帰りは星明かりを頼りに歩いていたなあって。山南さんが星の名前を教えてくれたっけ」
「星の名前、覚えてる?」
「ちっとも。あそこに三つ並んでる明るい星は見覚えがあるよ。そのくらいだな」
「わたしと同じだ。わたしも全然、星は覚えられない」
「北辰《ほくしん》ってどれかな? 北の空にあるんだろう? あれを覚えておけば道に迷わないって、山南さんが言っていた。何度教わってもわからないままだったな」
ささやくときの沖田の声は、低く歌うみたいだ。優しく柔らかな声をしている。
だから、わたしは混乱する。沖田は今まで幾人も殺してきたはずなのに、なぜこんなにも、ごくありふれた男なんだろうか。
音色とともに、浮かんだすべての星が降ってくる。きらきらと降って降って降って、夜空の幻影が美しく壊れていき……そして、プラネタリウムの上映が終わった。
講義室が明るくなっても、しばし夢心地だった。やっぱり星の解説は頭に留まっていない。垣間見た憧れの残像だけが、ひりひりと胸を焼いている。
***
「うっわー、珍しいやん! さなが自分で来るなんて! 明日、槍でも降るんとちゃう?」
ハイテンションで迎えてくれた由衣《ゆい》は、わたしの傍らに立つ沖田に目を丸くした。誰、と口パクで尋ねてくるが、わたしはあえて気付かないふりをする。
由衣とは一回生のころからの付き合いだ。学部横断型のポケットゼミで一緒だった。多忙なはずの薬学部だが、由衣は今でもこうして頻繁に文芸サークル「レブン書院」に首を突っ込んでいる。
一時期はわたしもレブン書院に入っていた。季刊の同人誌に一度だけ短編小説を寄稿したことがある。週一回の例会にだんだん息切れしてきて、それを察した由衣が「辞めていいよ」と言ってくれた。
レブン書院のブースでは、若いメンバーたちが思い思いに読書を楽しんでいた。新刊をメインに据え、既刊本も取りそろえて並べてあるものの、商売っ気は皆無だ。
由衣はくるくるした髪を弾ませて、わたしのところへ飛んできた。そのままの勢いで抱き付いてくる。
「おー、心の友よ! けっこう久しぶりやんなー。元気しとったん?」
「それなりに」
「今朝、巡野くんから、今日こそ行きますよーいう連絡をもらったから、こうして待っててん。そしたら、まさかやん。さなが自分で来るとは!」
「イケメンコンビのご来店じゃなくてごめんね」
「んもう、何でそんな言い方するん? さなの顔が見られて嬉しいんやって!」
「そう」
「相変わらずクールやなー。いや、ツンデレか。素直になったらええのに」
由衣は、思ったことが口からぽんぽん飛び出していく。その言葉があまりに率直でギョッとさせられることもあるが、裏表のない明快さはうらやましい。
ぴょんと離れていった由衣は、同人誌の新刊を袋に詰める。わたしは財布を取り出した。
「千二百円だっけ?」
「千円でいいよー。身内価格ね」
「ありがとう」
「わざわざ来てくれたんやもん。おまけしたくなるやん。まあ、巡野くんのきれいな顔と切石さんの鼻血モンな腕筋が見られへんのは寂しいけどー」
「伝えておく」
「巡野くんと切石さんは留守番?」
「たぶんね。少なくとも、キャンパス内にはいない感じがする」
「ほんま珍しいなー。普段、さながどこに行くときでも、二人のうちのどっちかは必ずボディガードに付いてはるやん?」
「今回はあの二人にしてやられたの。おかげで、あいつと学祭を回ることになっちゃって」
由衣は目をきらきらさせた。
「してやられた? あいつって? え? つまり、やっぱりデート?」
詰め寄られると気まずい。
「いや、別にそういうことじゃない」
「じゃ、どういうこと?」
「どうって……別にその、あー……」
後ろから肩をつかまれた。誰のしわざか、振り向かなくてもわかっている。骨張った指は力が強くて、ちょっと痛い。
「浜北さん、用事終わった?」
沖田は退屈そうなのを隠しもしない。わたしは同人誌の袋を手に取った。
「終わったよ。次、行こうか。じゃあ、由衣、また今度」
言い終わらないうちに、沖田はわたしの手から袋を奪い、わたしの手首をつかんで、すたすたと歩き出す。
とてもいい笑顔になった由衣が、いつにも増して声を弾ませた。
「ごゆっくり~♪ 今度、た~っぷり、話聞かせてなー!」
「話すほどのこともないってば」
レブン書院のブースである講義室を出る。沖田は廊下を進みながら、肩越しにわたしを見やった。
「寮の外にも、親しい相手がいるんだね」
「わたしに友達が一人もいないと思ってた?」
「思ってたよ。だから、まあ、安心した。あんたも、普通に年ごろの娘らしい顔をするじゃないか」
不意打ちだ。ドキリとした。
「な、何その言い方?」
沖田はにっこりと、口元にえくぼを刻んだ。
「ずいぶんかわいらしい顔でうろたえていたけど、何の話をしていたんだ?」
「きみには関係ない」
「嘘が下手だな。デートって、逢い引きという意味だろう?」
「はぁ!?」
足が止まってしまった。沖田は止まらなかったから、わたしは危うくつんのめりかける。
沖田はけらけらと笑った。
「寮でさんざん冷やかされてるからね、デートがどうのこうのって。いくらおれでも覚えちまうよ」
「ちょ、え、だ、誰がそんなこと言ってるの!」
「けっこうみんな言うよ」
「何でそう平然としてるかな、きみは?」
「怒ることでもないだろう。やましいことがあるわけでもないし」
顔が熱い。脳みそが沸騰しているみたいだ。思考はぐるぐる、ちっともまとまらない。
呼吸が上がるのと胸が苦しいのは、沖田の歩くのが速すぎるせいだ。そういうことにしておく。
「ねえ、疲れた。座りたい」
「そうだね。どこかで茶でも飲もうか」
おあつらえ向きの店が、まもなく目に留まった。そこだけ時代劇から抜け出してきたかのように凝ったセットの茶店がある。「伝統菓子研究会」ののぼりと、緋毛氈を敷いた縁台が置かれていた。
沖田は、巡野からもらった書付を取り出すと、紙面と茶店とを見比べた。満面に笑みを浮かべる。
「おれ、この店がいい」
「わかった。伝統菓子って、何があるのかな?」
わたしたちの会話を聞き付けて、看板娘然とした前掛け姿の学生が、にこにこしてメニューを広げてみせた。
「学園祭最終日の今日は、滋賀県大津に江戸時代から伝わるお菓子をそろえています。このあたりから大津までって、意外と近いんですよ。山中越えと呼ばれるルート、片道十キロくらいでしたね。研究会のみんなで歩いてみたんです」
一瞬、沖田が身を震わせるのがわかった。貼り付けたような笑みは動かなかった。沖田は言った。
「なつかしいな。山南さんとも一緒に食べたからね。最後に」
最後に、と。沖田は確かに言った。ほとんど吐息のような声だった。骨張っていて皮がかさついた手は、無意識にだろうか、刀の柄に触れていた。かすかに震えていた。
そのとき不意に、わたしは、沖田総司が人斬りであることをはっきりと思い出した。笑みの形の目の奥に、呑み込み切れない後悔が揺らいでいるように見えた。
***
沖田総司のような人間とお化け屋敷に入るのはよくない。最悪だ。ひどい目に遭った。
水泳部のお化け屋敷はクォリティの高さで有名だ。売り上げ目標もキッチリ定められており、それを下回った場合、十一月の鴨川に飛び込むことになっているらしい。
わたしは最初から行きたくなかった。
「イヤだ。絶対イヤだ!」
ちゃんと主張したのに、言えば言うほど沖田はおもしろがった。水泳部の屈強な男どもも、嬉しそうに「うふふふ」と笑いながら取り囲んできた。例によって沖田に手首をつかまれて、わたしはお化け屋敷に連行された。
おのずと見える類いの本物と、見世物のお化けは全然違う。
「何でいちいちおどかしに来るの!」
「それが役目だからだろう」
「何できみはそう平然としてるの!」
「気配でわかっちまうからなあ。でも、よくできてるよね、ここのお化け。ほら、そこ」
無理やり方向転換させられて、直後。目の前にべろーんと垂れ下がってくる、顔色悪すぎなろくろ首。
「…………」
わたし、フリーズ。
「あははははは、その顔! 巡野さんに写真機を借りてくればよかった」
もうやだ。本当にイヤだ。さっさと外に出たい。
今ならまだ、来た道を引き返すほうが早い。そう思って振り返ると、しずしずと閉まる襖《ふすま》によって退路を断たれた。呆然。
次の瞬間、パッと、ライトが襖を照らした。目だらけだった。ライトを反射して光る目が、びっしりと襖を埋め尽くしている。
「…………ッ!」
わたしは沖田の腕を引っ張って振り向かせた。
「どうかした?」
沖田は笑い交じりの顔だ。
わたしは、目だらけの襖を指差した。いや、目だらけだったはずなのに、ライトがすでに消えている。目がどこにも見当たらない。
「ええぇぇぇ……」
「何を見たのさ? ほら、歩いて。置いてくよ?」
「やだ!」
ついたてで仕切られて迷路になった講義室を、沖田に引っ張り回される。沖田はまったく驚かないし怖がらない。わざわざわたしをお化けと対面させて、自分はけらけら笑っている。
出口の光が見えたときには、わたしはぐったり疲れ果てていた。とどめのおまけに、首筋にむにょっと湿った冷たいものが触れたときは、声もなく崩れ落ちてしまった。
きょとんとする沖田がわたしを振り返る。
「ついに腰が抜けたの?」
その背後に、すーっと、スマホサイズの板状のものが下りてきた。薄明かりに照らされて、わたしはそれの正体を知る。こんにゃくだ。糸で吊るされている。
沖田はそちらを見もしなかった。ただ、正確な位置に手をかざして、首筋に貼り付こうとしたこんにゃくを防いだ。
そして声を上げた。
「うわっ。何、今の?」
手ざわりが予想外だったらしい。沖田が振り向いたときには、こんにゃくはもう天井近くまで退避していた。沖田はきょろきょろして、首をかしげる。
ちょっと笑ってしまった。沖田は、むっと怒った顔をしてみせ、結局すぐに笑った。
時間が過ぎるのが速い。
おまつり広場のステージ前に到着したのは、ライヴが始まる直前だった。学園祭実行委員の腕章をした学生にチケットを提示し、アリーナ席のいちばん後ろに入り込む。
ステージ上では、五人組のロックバンドがスタンバイしていた。楽器が順にワンフレーズずつ鳴らされるのは、音量の調整のためだろうか。
沖田が目を丸くしている。
「音がでかいね」
「確かに。びっくりした」
「こういうのを聴いたことは?」
「生で聴いたことはない。ほら、巡野や長江くんが、よく機械で音楽を鳴らすでしょ? あれしか音楽に触れる機会はないよ」
「長江さんが聴かせてくれるやつ、おれはけっこう好きだよ。太鼓の音が走ってて、気持ちがいい。今から聴くのも、そういう類いかな?」
「たぶん」
ステージの上、ぱたりと音が途絶えた。それと同時に、青いライトがバンドメンバーを照らし出す。
その情景だけで、拍手と歓声が起こった。
音が始まる。
沖田が好きだと言ったばかりの、疾走するドラムの音。打ち鳴らされる音はシンプルなのに、なぜだろうか、まるで歌を奏でているようにも聞こえる。
腹の底に染みるベースの音と、ひずんで力強いギターの音と、きらびやかに弾むシンセサイザーの音。
四つの楽器の音が一つの生き物のように躍動する。突き抜けていく勢いに、心をさらわれる。
ステージの中央、音に包まれて立つ男性ヴォーカリストが、顔を上げた。息を吸う音をマイクが拾う。歌が語り起こされる。
眠れないまま明けた朝
空の端の夜の尻尾を
つかんで引き戻したい位
闇に馴染んだ目が痛い
まぶしく白い光が
僕を溶かしてしまいそう
跡形もなく溶けるなら
むしろ望んでみたいけど
しなやかに伸びる声だった。
淡々と歌い出したように見えた。その実、クールなんかではなかった。情感豊かだ。トーンが高くなるたびに、抑え切れないもどかしさがにじむ。
わたしはチラリと沖田を見やった。夕闇の中、目をきらきらと輝かせる横顔。刀の柄に触れた手が、リズムに合わせて、指先をトントンと弾ませている。
焦ったり妬んだり僻んだり怒ったり
醜い感情程 それはもう 鮮やかに
僕の中に息づいて 僕の形してるから
「そんなモノ 僕じゃない」と
言いたい内は溶けられない
この胸の泥の奥の底
その声をあげたのは何だ?
僕が押し殺した息
僕が忘れたふりの僕
僕にようやく聞こえた
青い月よ 消えないで
この胸の叫びは飼い慣らせないから
駆け抜けていく音の世界に心を奪われる。胸に、じんと響く。音も詞も、美しいと言うにはあまりにも泥くさく、剥き出しで率直だ。それが心地よい。
初めは驚いた音量の大きさも、風が逆巻く十一月の夕闇の冷たさも、まるで気にならなかった。歓声の上げ方もわからないわたしは、沖田の隣で、ただじっと歌を聴いていた。
***
御蔭寮の門をくぐると、おいしそうな匂いに迎えられた。中庭で火を焚いて料理を作っている。にぎわいが門のところまで響いている。
どこからともなく、神楽に似た音色が聞こえてくる。誰が奏でているわけでもない。寮が歌っているのだ。
人間が改まった神事や奉納をおこなわなくても、寮がひとりでに浮かれ出すのが年に一回、この日の午後。せっかくだからと、人間が寮に付き合って、中庭でわいわいと火を囲み、料理を楽しむ。それが御蔭寮の収穫祭だ。
沖田は鼻をひくつかせた。
「腹が減ったね。早く行こうよ」
「先に行って。わたし、部屋に荷物を置いてくる」
わかった、と言って沖田はさっさと行ってしまった。
わたしは左の袖《そで》をめくってみる。思ったとおり、沖田の指の痕がくっきり赤いあざになっていた。苦笑がこぼれた。
はぐれないように、と。でも、沖田は手をつなごうとしなかった。たぶん、手首をつかむだけのほうが振りほどきやすいからだろう。わたしに右側後方を歩かせたのは、そこが抜刀の邪魔にならないからか。
いや、そんなのはわたしの勝手な想像だが。
部屋に戻り、買ってきた同人誌を机の上に置く。鏡に向かい、帯と髪を少し整えて、中庭に出た。
「いい匂い。おなか減ったな」
大きな焚火が温かくて明るい。寮生のほとんどがここに集まっている。あっちもこっちもにぎやかだ。
振る舞われる料理は、寮で採れる農作物で作られている。あちらには大鍋、こちらにはバーベキューコンロ、向こうにはずらりと並べられたおにぎりがあって、飲み物は冷たいものも温かいものも各種そろっている。
炭火のバーベキューコンロには、ビニールハウスで年中作っている夏野菜たち。ピーマンやパプリカ、トウモロコシ、ナス、カボチャと、彩り豊かだ。
敷地内を流れる川では、アユやイワナやウナギが獲れる。川魚はたびたび普段の食卓に上るが、ウナギはさすがに数が少ないから、収穫祭の夜だけのご馳走だ。今がちょうど旬で、脂が乗っている。
焼きイモや焼き栗に、それらを使ったきんつばと、スイートポテトやモンブラン。林檎と早生みかんもまた、果実のままのものとパイに仕立てたものが並んでいる。
沖田は、切石と巡野と一緒に、大鍋の近くのテーブルを陣取っていた。
テーブルには、ところ狭しと料理が並んでいる。焼き野菜やお菓子、川魚の塩焼きやウナギの蒲焼き、誰かの差し入れとおぼしきローストされた肉のかたまり。
沖田はもう、どんぶりの中身を半分ほど減らしていた。どんぶりの中身は、御蔭寮生なら尋ねるまでもない。
わたしは沖田の隣に腰を下ろした。
「収穫祭定番のカレーうどん、きみの舌にも合う?」
沖田はつるつるとうどんをすすりながらうなずいた。
「ちょいと辛いけど、温まるね。うまいよ。それ、あんたのぶん」
「ありがとう」
「早く食いなよ。伸びちまうぞ」
「うん。いただきます」
御蔭寮のカレーうどんは、ごろごろ大きな具がたっぷり入っている。ジャガイモ、人参、玉ねぎ、大根、里芋。
昆布とかつおぶしの香ばしいだしに、味を調えるのは薄口醬油。
カレースパイスは御蔭寮秘伝のブレンドだ。ずいぶん昔、薬膳にも通じた薬学部生がレシピを書いたという噂ではあるけれど。
片栗粉でとろみのついたスープは、まだ熱々だった。散らしたネギと一緒に、くたりと柔らかいうどんをすする。
「ああ、これだ。これ、好きなんだよね」
香りはスパイシーだが、味わいはこの上なくまろやかだ。だしの風味に、煮込んだ野菜の優しい甘みが溶け込んでいる。
わたしは、冷やしたうどんは細くて歯ざわりのいいものが好きだが、御蔭寮のカレーだしに合うのは、くたくたの太いうどんだと思う。スープを吸ってぽってりしているくらいがおいしい。