* * *

「座ってくれるか?」

 私の家のはずなのに、伊予さんはさっさと台所のテーブルに座ると、そう促してきた。無意識に壁際に貼りついていた私は、「うん」と応えて向かい側に腰をおろした。

 伊予さんはいつもと様子が違った。大荷物もなく、服装も初めて会った日と同じスーツ姿だった。
 私の視線に気づいたのだろう、伊予さんは自分の服装を見下ろし小さく笑った。

 伊予さんは、本当は誰なの?

 この家の担当だった倉井さんはどこへ?

 疑問を口にできないまま、沈黙の時間が流れている。
 不思議と、さっきまで感じていた怖さはなかった。大事なことを話そうとしているのが伝わってくるし、伊予さんは正しいことを言う人だから。

「最初に言っておくと、倉井さんは無事やで」

 平坦な声の伊予さん。倉井さんの名前も出していないのに、自ら告白したことに違和感はなかった。それがなぜかと尋ねられてもわからない。ただ、言葉がすっと頭に染みこむ感じ。

「倉井さんは、亜弥ちゃんの家との契約が流れたと思ってるねん。今は、もっと条件のいいお宅で仕事をしてるわ」
「そうなんだ。よかった」
「嘘はどんなに本当らしくラッピングしても、結局は嘘なんやな。亜弥ちゃんを困らせてしまってごめんなさい」

 大きな体をすぼめ、肩を落としている。

「全然いいよ。それよりちゃんと話をしてほしい。わからないことばっかりで混乱してるから」
「……やろうな」

 今日の伊予さんはあからさまにおかしい。今日だけ? 
 違う、前回も前々回も、私になにか言いかけてやめていたよね。

「亜弥ちゃん。聞かせてほしいねん。亜弥ちゃんのお母さんってどんな人やった?」
「え……」

 伊予さんの視線の先には棚に飾られたお母さんの写真がある。ほがらかで、記憶よりもふっくらしていて。

「お母さんのことで覚えていることってある?」
「そんな話……今、重要なの?」

 過去はいつだって、ひょっこり顔をのぞかせていた。忘れようとするほど忘れられず、おぼろげな姿を見せては私をせつなくしてばかり。

 写真立ての中にいるお母さんを、いつしか意識して見ないようにしていた。