見上げた先にある正門を眺めて、出たのはなぜかため息だった。
たかだか学校の門だというのに美しい曲線を描く個性的なデザインは、流石は美大の正門といった感情を抱かせる。
この春から私が通う大学は、よくて一浪か二浪、それで受からなければ何年も費やして入るような伝統ある美術学校だ。
そんな学校に私がストレートで受かっただなんて、何かの間違いか、もしくは本当に奇跡としか言いようがない。
「ミヤちゃん」
中学時代の恩師の名前を小さく呟き、整備されたアスファルトの表面をスニーカーの底で蹴ってみる。
きっと彼女もここを何度も歩いたのだろう。
お得意の不機嫌面で、絵の具の匂いをまとわせながら。
そう思うと、自然に笑みが溢れた。
私がこの大学を志願した理由はただひとつ。
それはミヤちゃんがここに通っていたからだ。
「……ミヤちゃん」
見ててよ。
私、絶対にここで成長してみせるから。
あなたの横に堂々と並び立てるくらいに。
誓いを胸に息を大きく吸えば、青っぽい春の匂いがした。
もうすぐ日も暮れるだろう。
帰って夕ごはんにしようと、踵を返して正門を後にする。
一人暮らしをするために借りたアパートは、大学から歩いて十五分のところにあった。
築三十年の少し古びた安いアパートだけれど、美大の予備校にかかった費用とこれからの授業料を考えれば文句などは言えないし、一人で暮らすには申し分はない。
アパートは二階建てで、私の部屋は二階の204号室。
錆びついた外階段を上がった、奥から二番目だ。
隣の203号室は女性が住んでいて、帰宅時間から推察するに、夜のお仕事をされている。
反対隣である角部屋の205号室の住人はというと、引っ越してきてからこの一週間、まだその姿を見たことがなかった。
しかし表札には雑な字で原田と書いてあるから、人が住んでいないわけではないのだろうと思っていたけれど。
「誰……?」
アパートの前にたどり着くと、205号室の前に人影が見えた。
それは見慣れない男性で、柵に手を掛けて煙草を吸っている。
もしかして原田さんだろうか。
おそるおそる軋む階段を上り終えれば、煙草を吸っていた彼も私の存在に気がついたようで、真っ直ぐこちらに視線を向けた。
遠くからではよく分からなかったけれど、男性はとても背が高く、均整のとれた顔立ちをしている。
落ち着いているのにぞくりとするような獰猛さを潜めている、まるで野生の動物みたいな雰囲気の持ち主だ。
しかし長く伸びた髪やまばらに生えたヒゲが、その顔立ちのよさを打ち消していた。
せっかくいいものを持っているのに、なんだかもったいない。
私には関係のないことだけれど。
「205号室の方ですか? 私、一週間前に隣に引っ越してきた柳です」
いちおう挨拶くらいはしておこうと、私は男性に向かって頭を下げた。
しかし彼は興味なさげにまばたきをするだけで、声を発することはなく、品定めをするような目つきで私を見下ろしている。
その目つきに不快感を覚え、早く退散してしまおうとポケットから部屋の鍵を取り出すと。
「それさぁ」
「へっ?」
ふいに発せられた言葉に小さく驚いてしまった。
視線を戻せば、彼はなぜか私の手元を見ている。
「すぐそこの美大のやつ?」
「ああ、はい、そうですけど」
男性が指差したのは、私が手に提げていたビニールバッグだった。
一見おしゃれなショップバッグのような見た目のそれは、たしかに私が大学でもらったものだ。
「あんた、絵を描くんだろ」
すると彼は、まるで確信しているかのようにそう言った。
彼が言ったとおり、私の進学先は絵画科だ。
けれど美大は絵画科以外にも彫刻や建築、デザインなど多岐に渡る学部がある。
それなのに、どうして彼は私が絵を描く人間なのだと分かったのだろう。
「ちょっと、カズ! 何よこれ!」
どこかに絵の具でもついていただろうかと不思議に思っていると、突然205号室の中から女性が現れた。
キャミソール型の派手なワンピースを着た彼女はなぜかとてもご立腹な様子で、こめかみに青筋を立てながら手に持った数枚の紙を男性に向かって突きつけている。
「この女、アンナでしょ!? なんでこんな女なんか描いたの!?」
「アンナ?」
「こないだカズにベタベタしてきた女!」
女性のすさまじい迫力を物ともせず、男性はふうと煙草の煙を口から吐き出した。
「ねぇ、なんでよ! もうアタシしか描かないって約束したじゃん!」
「そんな約束してねーし。てかそんなのただのデッサンだろ」
「関係ないよ! どうせエッチもしたくせに!」
「だったら?」
「最っ低!」
その瞬間、まるで小気味いい音を出すかのように、女性は男性の頬を平手打ちした。
およそ普段の生活では見ることのない光景を目の当たりにして、ただただ唖然としてしまう。
一人で驚く私をよそに、女性はこれでもかというほどに男性を罵倒し始めたが、彼は声も出さず、淡々と彼女を見下ろし続けている。
悔しさに満ちた表情の女性は、彼のその態度を見て余計に怒りが増したらしい。
205号室に戻ったかと思うと、すぐさま小さなクラッチバッグを持って、この修羅場を後にしていった。
去り際に女性が落としていった紙がひらひらと宙を舞う。
私は操られるようにそれらをキャッチし、下に落ちた数枚も拾った。
全部で八枚――すべてが裸婦画だ。
長い黒髪の女性が裸でこちらを見つめている。
先ほどの女性も髪が長かったけれど、絵の人物とは顔が違うから、彼女とは別のアンナという人なのだろう。
構図は様々で、だいたいは全身や上半身、その後ろ姿。
空いたスペースに手や脚、乳房が描かれている。
白黒のシンプルな絵だ。
普通の画用紙に鉛筆を走らせただけのものだろう。
それだけなのに。
「……すごい」
とてつもなく上手い。
いや、上手いなんて陳腐な言葉ではこの絵を表現することはできなかった。
女の生々しさが伝わってくるのだ。
湿ったような息遣いや、視線の先の相手を求めてやまない、そんな感情までもが。
「あなたが描いたんですか?」
紙から目線を上げて尋ねると、目の前の男性は煙草を携帯灰皿に押し込んでいた。
叩かれた左の頬が赤くなっていて痛々しい。
しかし彼は別段気に留めた様子もなく、長い前髪の隙間から私を見やると、右の口の端を吊り上げてニヤリと笑った。
「だとしたら何?」
「何って――」
「あんたもモデルしてくれんの? この絵の女と同じように」
「モデル……?」
私が?
この絵の女の人のように?
それはこの初対面の男性の前で裸になれということ?
あまりに突拍子もない誘いに目を丸くしていると、男性は私の様子を見て堪えかねたように笑った。
「どうして笑うんですか」
「ははっ、だってさぁ」
男性は私の問いに答えることなく笑い続け、しまいには涙まで浮かべ始めた。
なんだか馬鹿にされている気分で面白くない。
「こんな状況なら、あんたみたいなやつはすぐに逃げないとだろ」
「はあ」
「それに俺が殴られてんのを黙って見てるし。口を開いたかと思えば絵のことだし。変なヤツだな?」
笑い疲れたのか、はあはあと息を切らしながら男性はそう言った。
別に私は黙って見ていたわけではなく、あの修羅場に驚いて動けなかっただけだ。
それにこの絵にはもっと驚かされた。
だから話しかけたのにはぐらかすように笑うだなんて、そちらこそ変な人ではないか。
「それとも本当にモデルしてくれんの?」
すると先ほどまでの馬鹿にしたような喋り方とは打って変わって、彼は私の耳元で妖艶に囁いた。
後ずさる間もなくずいと顔を近づけられ、真っ黒な瞳に私が映る。
思ったとおりの、綺麗な顔。
「遠慮しておきます」
「あっそ、残念。気が向いたらよろしく」
彼はそう言い残すと、さほど残念そうな様子もなく205号室へと帰っていった。
やはりからかわれただけだったらしい。
そこで私はふと、自分の腕に抱えていた紙の束に気づいた。
あの人が描いたと思われる絵だけれど、返さなくてもよかったのだろうか。
そう思って、再びじっくりとその絵に見入る。
ただの素描なのに見る者を圧倒させる力を感じ、私に初めてミヤちゃんの絵を見たときのことを思い出させた。
◇
中村美弥子。
それがミヤちゃんの本名だ。
彼女は私が中学三年生のときに赴任してきた、新卒の美術教師だった。
私の記憶の中のミヤちゃんは、いつも夕日と一緒にいる。
彼女と初めて話をしたのも、ちょうど夕暮れどきだった。
ミヤちゃんが放課後の美術室で絵を描いているところを、私が偶然目撃したのだ。
「先生の頭の中ってどうなってるんだろう。一度見てみたいな」
それは黄色と黒がメインに使われた抽象画だった。
色彩のコントラストが強烈な、けれど不思議と優しい絵だ。
黄色と黒は危険を知らせる組み合わせのはずなのに、どうしてこんなに引き寄せられてしまうのだろう。
逆立ちしたって私にはこんな世界を生み出すことはできない。
そんな彼女の持つセンスに惹かれた。
こんなにも何かに強く魅了されたのは、人生で初めてのことだった。
「私は嫌ね。頭の中を見られるなんて」
初対面だというのに、ぶっきらぼうな口調でミヤちゃんは言葉を返した。
その歯に衣着せぬ物言いのせいで、新任早々だというのに彼女が周囲から変わり者扱いされていることは私も知っていた。
だから特に関わるつもりなんてなかったのに、この瞬間にはすでに、私は彼女に惹かれていたのかもしれない。
「先生でも嫌だって思うんですか?」
「そりゃあそうよ。教師って言ったって、聖人君子じゃないんだから」
そう言って、再び筆先でキャンバスをなぞっていく。
その姿は聖人君子さえ飛び越えて、もはや神様のように思えた。
◇
ミヤちゃんは世間一般の大人と呼ばれる人とは少し違っていた。
なんと言うか、子供の心を持ったまま大人になってしまったような、そんな危うさを抱いているとても正直な人だった。
建前すら使わないその姿勢が、いっそ眩しく見えるくらいに。
絵の上手い人って変な人が多いのかもしれない。
ミヤちゃんも変な人だったけど、あの男性も負けず劣らず変な人だった。
だって女性に殴られる瞬間、灰が彼女に当たらないように、手に持った煙草を遠ざけたのだから。
どうしてそこまでして彼は殴られたのだろう。
「変なヤツだな」
彼の言葉を真似て呟く。
私と奇妙な隣人の交流は、こうして始まったのだった。
たかだか学校の門だというのに美しい曲線を描く個性的なデザインは、流石は美大の正門といった感情を抱かせる。
この春から私が通う大学は、よくて一浪か二浪、それで受からなければ何年も費やして入るような伝統ある美術学校だ。
そんな学校に私がストレートで受かっただなんて、何かの間違いか、もしくは本当に奇跡としか言いようがない。
「ミヤちゃん」
中学時代の恩師の名前を小さく呟き、整備されたアスファルトの表面をスニーカーの底で蹴ってみる。
きっと彼女もここを何度も歩いたのだろう。
お得意の不機嫌面で、絵の具の匂いをまとわせながら。
そう思うと、自然に笑みが溢れた。
私がこの大学を志願した理由はただひとつ。
それはミヤちゃんがここに通っていたからだ。
「……ミヤちゃん」
見ててよ。
私、絶対にここで成長してみせるから。
あなたの横に堂々と並び立てるくらいに。
誓いを胸に息を大きく吸えば、青っぽい春の匂いがした。
もうすぐ日も暮れるだろう。
帰って夕ごはんにしようと、踵を返して正門を後にする。
一人暮らしをするために借りたアパートは、大学から歩いて十五分のところにあった。
築三十年の少し古びた安いアパートだけれど、美大の予備校にかかった費用とこれからの授業料を考えれば文句などは言えないし、一人で暮らすには申し分はない。
アパートは二階建てで、私の部屋は二階の204号室。
錆びついた外階段を上がった、奥から二番目だ。
隣の203号室は女性が住んでいて、帰宅時間から推察するに、夜のお仕事をされている。
反対隣である角部屋の205号室の住人はというと、引っ越してきてからこの一週間、まだその姿を見たことがなかった。
しかし表札には雑な字で原田と書いてあるから、人が住んでいないわけではないのだろうと思っていたけれど。
「誰……?」
アパートの前にたどり着くと、205号室の前に人影が見えた。
それは見慣れない男性で、柵に手を掛けて煙草を吸っている。
もしかして原田さんだろうか。
おそるおそる軋む階段を上り終えれば、煙草を吸っていた彼も私の存在に気がついたようで、真っ直ぐこちらに視線を向けた。
遠くからではよく分からなかったけれど、男性はとても背が高く、均整のとれた顔立ちをしている。
落ち着いているのにぞくりとするような獰猛さを潜めている、まるで野生の動物みたいな雰囲気の持ち主だ。
しかし長く伸びた髪やまばらに生えたヒゲが、その顔立ちのよさを打ち消していた。
せっかくいいものを持っているのに、なんだかもったいない。
私には関係のないことだけれど。
「205号室の方ですか? 私、一週間前に隣に引っ越してきた柳です」
いちおう挨拶くらいはしておこうと、私は男性に向かって頭を下げた。
しかし彼は興味なさげにまばたきをするだけで、声を発することはなく、品定めをするような目つきで私を見下ろしている。
その目つきに不快感を覚え、早く退散してしまおうとポケットから部屋の鍵を取り出すと。
「それさぁ」
「へっ?」
ふいに発せられた言葉に小さく驚いてしまった。
視線を戻せば、彼はなぜか私の手元を見ている。
「すぐそこの美大のやつ?」
「ああ、はい、そうですけど」
男性が指差したのは、私が手に提げていたビニールバッグだった。
一見おしゃれなショップバッグのような見た目のそれは、たしかに私が大学でもらったものだ。
「あんた、絵を描くんだろ」
すると彼は、まるで確信しているかのようにそう言った。
彼が言ったとおり、私の進学先は絵画科だ。
けれど美大は絵画科以外にも彫刻や建築、デザインなど多岐に渡る学部がある。
それなのに、どうして彼は私が絵を描く人間なのだと分かったのだろう。
「ちょっと、カズ! 何よこれ!」
どこかに絵の具でもついていただろうかと不思議に思っていると、突然205号室の中から女性が現れた。
キャミソール型の派手なワンピースを着た彼女はなぜかとてもご立腹な様子で、こめかみに青筋を立てながら手に持った数枚の紙を男性に向かって突きつけている。
「この女、アンナでしょ!? なんでこんな女なんか描いたの!?」
「アンナ?」
「こないだカズにベタベタしてきた女!」
女性のすさまじい迫力を物ともせず、男性はふうと煙草の煙を口から吐き出した。
「ねぇ、なんでよ! もうアタシしか描かないって約束したじゃん!」
「そんな約束してねーし。てかそんなのただのデッサンだろ」
「関係ないよ! どうせエッチもしたくせに!」
「だったら?」
「最っ低!」
その瞬間、まるで小気味いい音を出すかのように、女性は男性の頬を平手打ちした。
およそ普段の生活では見ることのない光景を目の当たりにして、ただただ唖然としてしまう。
一人で驚く私をよそに、女性はこれでもかというほどに男性を罵倒し始めたが、彼は声も出さず、淡々と彼女を見下ろし続けている。
悔しさに満ちた表情の女性は、彼のその態度を見て余計に怒りが増したらしい。
205号室に戻ったかと思うと、すぐさま小さなクラッチバッグを持って、この修羅場を後にしていった。
去り際に女性が落としていった紙がひらひらと宙を舞う。
私は操られるようにそれらをキャッチし、下に落ちた数枚も拾った。
全部で八枚――すべてが裸婦画だ。
長い黒髪の女性が裸でこちらを見つめている。
先ほどの女性も髪が長かったけれど、絵の人物とは顔が違うから、彼女とは別のアンナという人なのだろう。
構図は様々で、だいたいは全身や上半身、その後ろ姿。
空いたスペースに手や脚、乳房が描かれている。
白黒のシンプルな絵だ。
普通の画用紙に鉛筆を走らせただけのものだろう。
それだけなのに。
「……すごい」
とてつもなく上手い。
いや、上手いなんて陳腐な言葉ではこの絵を表現することはできなかった。
女の生々しさが伝わってくるのだ。
湿ったような息遣いや、視線の先の相手を求めてやまない、そんな感情までもが。
「あなたが描いたんですか?」
紙から目線を上げて尋ねると、目の前の男性は煙草を携帯灰皿に押し込んでいた。
叩かれた左の頬が赤くなっていて痛々しい。
しかし彼は別段気に留めた様子もなく、長い前髪の隙間から私を見やると、右の口の端を吊り上げてニヤリと笑った。
「だとしたら何?」
「何って――」
「あんたもモデルしてくれんの? この絵の女と同じように」
「モデル……?」
私が?
この絵の女の人のように?
それはこの初対面の男性の前で裸になれということ?
あまりに突拍子もない誘いに目を丸くしていると、男性は私の様子を見て堪えかねたように笑った。
「どうして笑うんですか」
「ははっ、だってさぁ」
男性は私の問いに答えることなく笑い続け、しまいには涙まで浮かべ始めた。
なんだか馬鹿にされている気分で面白くない。
「こんな状況なら、あんたみたいなやつはすぐに逃げないとだろ」
「はあ」
「それに俺が殴られてんのを黙って見てるし。口を開いたかと思えば絵のことだし。変なヤツだな?」
笑い疲れたのか、はあはあと息を切らしながら男性はそう言った。
別に私は黙って見ていたわけではなく、あの修羅場に驚いて動けなかっただけだ。
それにこの絵にはもっと驚かされた。
だから話しかけたのにはぐらかすように笑うだなんて、そちらこそ変な人ではないか。
「それとも本当にモデルしてくれんの?」
すると先ほどまでの馬鹿にしたような喋り方とは打って変わって、彼は私の耳元で妖艶に囁いた。
後ずさる間もなくずいと顔を近づけられ、真っ黒な瞳に私が映る。
思ったとおりの、綺麗な顔。
「遠慮しておきます」
「あっそ、残念。気が向いたらよろしく」
彼はそう言い残すと、さほど残念そうな様子もなく205号室へと帰っていった。
やはりからかわれただけだったらしい。
そこで私はふと、自分の腕に抱えていた紙の束に気づいた。
あの人が描いたと思われる絵だけれど、返さなくてもよかったのだろうか。
そう思って、再びじっくりとその絵に見入る。
ただの素描なのに見る者を圧倒させる力を感じ、私に初めてミヤちゃんの絵を見たときのことを思い出させた。
◇
中村美弥子。
それがミヤちゃんの本名だ。
彼女は私が中学三年生のときに赴任してきた、新卒の美術教師だった。
私の記憶の中のミヤちゃんは、いつも夕日と一緒にいる。
彼女と初めて話をしたのも、ちょうど夕暮れどきだった。
ミヤちゃんが放課後の美術室で絵を描いているところを、私が偶然目撃したのだ。
「先生の頭の中ってどうなってるんだろう。一度見てみたいな」
それは黄色と黒がメインに使われた抽象画だった。
色彩のコントラストが強烈な、けれど不思議と優しい絵だ。
黄色と黒は危険を知らせる組み合わせのはずなのに、どうしてこんなに引き寄せられてしまうのだろう。
逆立ちしたって私にはこんな世界を生み出すことはできない。
そんな彼女の持つセンスに惹かれた。
こんなにも何かに強く魅了されたのは、人生で初めてのことだった。
「私は嫌ね。頭の中を見られるなんて」
初対面だというのに、ぶっきらぼうな口調でミヤちゃんは言葉を返した。
その歯に衣着せぬ物言いのせいで、新任早々だというのに彼女が周囲から変わり者扱いされていることは私も知っていた。
だから特に関わるつもりなんてなかったのに、この瞬間にはすでに、私は彼女に惹かれていたのかもしれない。
「先生でも嫌だって思うんですか?」
「そりゃあそうよ。教師って言ったって、聖人君子じゃないんだから」
そう言って、再び筆先でキャンバスをなぞっていく。
その姿は聖人君子さえ飛び越えて、もはや神様のように思えた。
◇
ミヤちゃんは世間一般の大人と呼ばれる人とは少し違っていた。
なんと言うか、子供の心を持ったまま大人になってしまったような、そんな危うさを抱いているとても正直な人だった。
建前すら使わないその姿勢が、いっそ眩しく見えるくらいに。
絵の上手い人って変な人が多いのかもしれない。
ミヤちゃんも変な人だったけど、あの男性も負けず劣らず変な人だった。
だって女性に殴られる瞬間、灰が彼女に当たらないように、手に持った煙草を遠ざけたのだから。
どうしてそこまでして彼は殴られたのだろう。
「変なヤツだな」
彼の言葉を真似て呟く。
私と奇妙な隣人の交流は、こうして始まったのだった。