大学病院に着くと、登吾とまどかは無機質な長い廊下をカツカツ靴音を響かせながら、一番奥にある研究棟に向かった。
登吾から、研究に関する施設使用の連絡を受けたせいか、廊下ですれ違ったスタッフが準備が整っていると告げてから、意味ありげな目をまどかに向ける。以前使用したのであろうその装置を、全く覚えていないまどかは決まりが悪くなり目を逸らした。
ようやく登吾の部屋に辿り着くと、出迎えた秘書が、チャコールグレーのカーペットが敷かれた応接室へと案内してくれた。
部屋の広さや置いてあるものを見て、まどかは改めて、父が脳科学研究の第一人者であることを認識した。
オーク材でできた重厚な机とその上に積まれた書類、医学書がびっしり並んだ本棚に目をやった時、飾られている写真立てが、ふいに目に飛び込んできた。
薄いオレンジシャーベット色の塗り壁の家を背景にして、手前にあるオリーブの木の下に5人の男女が立っている
その中の3人は、遠目にまどかと両親だと分かるが、父と同年代の外国人と、その外国人に面差しの似た若い男性は誰だろうと、まどかはソファーから立ち上がって、引き寄せられるように本棚に歩み寄り写真を手に取った。
日本にも南欧風の家はあるが、窓にミントグリーン色の木製の鎧戸が付いているのは、どうみても本物の南欧の家のように見える。
日本を出たことがないと思っていたのは、間違いだったのかといぶかしみながら、今朝の話から行くと、おそらくフランス人のダニエルとアレックスであろう人物に、まどかは視線を戻した。
白髪まじりのチェスナットブラウンの髪を、知性的な広い額に流したダニエルは、ライトグレーの瞳に笑顔の似合う紳士だった。
ダニエルの息子であり、脳神経科学の研究助手のアレックスは、緩くウェーブのかかったアッシュブラウンの髪と、人の心を見通すような青みがかったグレーの瞳を持つハンサムな青年だ。
日に焼けて引き締まった体躯がワイルドな印象を与えないのは、いたずらっぽく上がった眉毛と片方だけ上がった口元が、撮っている人間、多分母親にからかうような表情を向けているからだろう。
年齢は二十代半ばだろうか、登吾とダニエルより頭半分くらい高い身長は、185cm以上ありそうだった。
平均身長がそんなに高くないと聞くフランス人にしては高身長だ。
「アレックス・・・」
声に出して名前を呼んでみる。
その途端、急に視界がぐらりと揺れたように感じた。
まるで動き出したエレベーターに乗っているような浮遊感が身体を包む。
一瞬何か赤いものが見えたと思ったら、身体が硬直し、不安の渦が巻き起こった。
がたがたと勝手に身体が震え出したまどかを、登吾が驚いて支えソファーに座らせる。
だが、側にいる登吾の姿さえ目に入っていないのか、まどかは唇をわななかせ、目を見開いたまま、見えないものに向かって叫び出した。
登吾は秘書に、鎮静剤をもってくるように指示し、まどかの口にハンカチをかませ、抱きしめながら必死で呼びかける。
「まどか。まどか。ここは日本だ。大丈夫。落ち着いて。こわいものなんてないんだよ。聞こえるか?」
まどかが、今にも失神しそうになった時、頭の中でまた男性の声が聞こえた。
『マドカ逃げたらダメだ!今君がどこにいるかを知るんだ!こっちにこもろうとしても、俺が押し戻す。怖くないから見てごらん』
まどかの目が焦点を結び、登吾のカッターシャツを握り締めている自分の手をとらえた。
荒い息を吐きながら上を向くと、登吾が心配そうにまどかを見下ろしている。
口に押し込まれたハンカチを抜きながら、まどかは自分が、冷汗をびっしょりとかいていることに気が付いた。
「私…パニックになったの?アレックスの声が聞こえたわ。こっちに逃げようとしても、押し戻すから、現実を見ろって」
登吾が顔をくしゃりとゆがめ、まどかを支える手に力がこもった。
「私は、まどかが今のままでいてくれることだけを願って、アレックスが命がけでまどかを救ってくれたことに、目を瞑ろうとしていた。すまないアレックス。まどかの中にいるなら許してくれ」
「お父さん。これはどういうこと?どうしてアレックスの声が聞こえるの?私の中にいるってどういうこと?」
「断言はできないが、眠っている時や、危険を感じた時に声が聞こえるのは、アレックスの意識がまどかの中に閉じ込められている可能性がある。私にはアレックスとコンタクトが取れないから、今はまどかにしか状況が分からない。ちょっとこっちへ来てくれ。フランスで使用した装置と同じものがあるから、見てくれないか」
部屋を出るのと同時に、秘書が鎮静剤をもってきたので、念のため登吾は注射器の入ったそのセットを受け取った。
そして、まどかを促し、研究棟の奥にある実験室に入った。
外界から完全に遮断されたその部屋には、細長いカプセルを縦半分に割ったようなベッドがあり、頭部には大きなドーナツ型のMRIに似た機器が設置されている。
ベッド脇には、モニターが置かれ、まどかにはわからない多数のスイッチやダイアルとレバーが並んでいた。部屋の壁には、被験者を観察するためにあるのだろうと思われる横長の窓があるが、ミラー効果でこちらからは何も見えないようになっている。
まどかは、部屋の隅から隅まで見て回り、装置にも触れて一生懸命考えてみたが、思い当たるものは何もなかった。苛立つ気持ちを抑え、何とか思い出そうと両手をこめかみにあて、ぐいぐい揉みこんでみる。
そんなまどかを労わるように、登吾はまどかをベッドに腰掛けさせ、コントロールボックスから伸びた何本もの線に繋がれたパネルと、クリップ式のイヤホン、ゴーグルなどをどうやって使用するのかを説明した。
登吾の話によると、これはバーチャル空間を利用した治療機械で、軽い不安障害を抱えた患者に対して使われるという。
事例の一つは、何らかの理由や失敗から、相手に対して不快を与えるのではないかというプレッシャーが働き、対人恐怖症になった人に、バーチャル空間で、自信を持たせる体験をさせ、不安な気持ちを克服させることができるらしい
日本には恥の文化があるせいか、この患者は群を抜いて多いらしく、文化依存症候群とされ、海外でもそのまま「Taijin Kyofusyo」と呼ばれる。
思春期などにみられる「あがり症」はこの一種だが、症状は軽く自然に治る場合が多い。
ただ、こじらせると、引きこもりになるなど、社会的生活が困難になり、治療が必要になる。
そこまで聞いて、まどかは胸の奥がチリチリするような、不安と不満をもって、登吾の話を遮った。
「私は対人恐怖症だったの?それで、この治療をわざわざフランスで受けたっていうの?」
「いや違う。…まだ、それだったら、どれほど良かったか」
「いい加減にして!もう、隠すのはやめてちょうだい!」
「マドカ、記憶喪失には2種類ある。自分の心を守るために忘れていた方がいい場合もある。お前の場合は特殊すぎて、パニックが酷過ぎた。アレックスはそんなまどかを見ていられなくて、一か八かの賭けに出たが、停電のアクシデントで失敗したんだ。事実を思い出したら、廃人になる可能性もある。それでも聞きたいか?」
そんな深刻な内容だとは思ってもみず、まどかは返事に困った。
忘れてしまいたいほどショックな出来事に遭遇したというのだろうか?
でも、この生活はアレックスの支えがあるから成り立つ仮初めのものに違いない。
私を救うために犠牲になったアレックスを、このまま見殺しにしていいのだろうか?
「お父さん、私がパニックになったのはいつ、どこで?場所は?」
「……お前が記憶を失ったのは2016年昨年の夏だ。
2年前の2015年の3月に、ダニエルが日本での共同研究を終えて南フランスに戻った後、家族を連れて遊びに来ないかと誘ってきた。
それで、去年のお前の夏休みを利用して、家族揃って2週間の予定でダニエルを尋ねて行ったんだ」
「この写真がその時のものね?」
「ああ、そうだ。お前とアレックスは気があって、二人でよく出かけた。
帰国の前夜も、ニースの花火大会にまどかを連れて行く許可をアレックスが求めてきて、その日は遅く帰ると……」
登吾は途中で言葉を切り、顎をぐっと引いて、耐えるように下を向いてしまった。
「お父さん、少し考えさせて。この部屋のパソコンを使っていい?」
辛そうな登吾を直視できず、まどかは自分で調べられることを調べようと思った。
「ああ、私も医局に行くよ。お昼を一緒に食べよう。それまでここで待っていてくれ」
秘書に後は頼むと言づけて、登吾は部屋を出ていた。
まどかは、教えてもらったパスワードでパソコンを開き、昨年2016年の夏にニースで起こった事件を調べた。
それは簡単にヒットした。
いくつものタイトルが並び、画像を見た瞬間、まどかはまた、
突然激しい眩暈を覚えた。
心臓を鷲掴みにされるような得体のしれない恐怖が襲い、
全身が粟立って血の気が引いていく。
地響きと襲い来る影を感じた途端、まどかは耐えられずに意識を手放した。
登吾から、研究に関する施設使用の連絡を受けたせいか、廊下ですれ違ったスタッフが準備が整っていると告げてから、意味ありげな目をまどかに向ける。以前使用したのであろうその装置を、全く覚えていないまどかは決まりが悪くなり目を逸らした。
ようやく登吾の部屋に辿り着くと、出迎えた秘書が、チャコールグレーのカーペットが敷かれた応接室へと案内してくれた。
部屋の広さや置いてあるものを見て、まどかは改めて、父が脳科学研究の第一人者であることを認識した。
オーク材でできた重厚な机とその上に積まれた書類、医学書がびっしり並んだ本棚に目をやった時、飾られている写真立てが、ふいに目に飛び込んできた。
薄いオレンジシャーベット色の塗り壁の家を背景にして、手前にあるオリーブの木の下に5人の男女が立っている
その中の3人は、遠目にまどかと両親だと分かるが、父と同年代の外国人と、その外国人に面差しの似た若い男性は誰だろうと、まどかはソファーから立ち上がって、引き寄せられるように本棚に歩み寄り写真を手に取った。
日本にも南欧風の家はあるが、窓にミントグリーン色の木製の鎧戸が付いているのは、どうみても本物の南欧の家のように見える。
日本を出たことがないと思っていたのは、間違いだったのかといぶかしみながら、今朝の話から行くと、おそらくフランス人のダニエルとアレックスであろう人物に、まどかは視線を戻した。
白髪まじりのチェスナットブラウンの髪を、知性的な広い額に流したダニエルは、ライトグレーの瞳に笑顔の似合う紳士だった。
ダニエルの息子であり、脳神経科学の研究助手のアレックスは、緩くウェーブのかかったアッシュブラウンの髪と、人の心を見通すような青みがかったグレーの瞳を持つハンサムな青年だ。
日に焼けて引き締まった体躯がワイルドな印象を与えないのは、いたずらっぽく上がった眉毛と片方だけ上がった口元が、撮っている人間、多分母親にからかうような表情を向けているからだろう。
年齢は二十代半ばだろうか、登吾とダニエルより頭半分くらい高い身長は、185cm以上ありそうだった。
平均身長がそんなに高くないと聞くフランス人にしては高身長だ。
「アレックス・・・」
声に出して名前を呼んでみる。
その途端、急に視界がぐらりと揺れたように感じた。
まるで動き出したエレベーターに乗っているような浮遊感が身体を包む。
一瞬何か赤いものが見えたと思ったら、身体が硬直し、不安の渦が巻き起こった。
がたがたと勝手に身体が震え出したまどかを、登吾が驚いて支えソファーに座らせる。
だが、側にいる登吾の姿さえ目に入っていないのか、まどかは唇をわななかせ、目を見開いたまま、見えないものに向かって叫び出した。
登吾は秘書に、鎮静剤をもってくるように指示し、まどかの口にハンカチをかませ、抱きしめながら必死で呼びかける。
「まどか。まどか。ここは日本だ。大丈夫。落ち着いて。こわいものなんてないんだよ。聞こえるか?」
まどかが、今にも失神しそうになった時、頭の中でまた男性の声が聞こえた。
『マドカ逃げたらダメだ!今君がどこにいるかを知るんだ!こっちにこもろうとしても、俺が押し戻す。怖くないから見てごらん』
まどかの目が焦点を結び、登吾のカッターシャツを握り締めている自分の手をとらえた。
荒い息を吐きながら上を向くと、登吾が心配そうにまどかを見下ろしている。
口に押し込まれたハンカチを抜きながら、まどかは自分が、冷汗をびっしょりとかいていることに気が付いた。
「私…パニックになったの?アレックスの声が聞こえたわ。こっちに逃げようとしても、押し戻すから、現実を見ろって」
登吾が顔をくしゃりとゆがめ、まどかを支える手に力がこもった。
「私は、まどかが今のままでいてくれることだけを願って、アレックスが命がけでまどかを救ってくれたことに、目を瞑ろうとしていた。すまないアレックス。まどかの中にいるなら許してくれ」
「お父さん。これはどういうこと?どうしてアレックスの声が聞こえるの?私の中にいるってどういうこと?」
「断言はできないが、眠っている時や、危険を感じた時に声が聞こえるのは、アレックスの意識がまどかの中に閉じ込められている可能性がある。私にはアレックスとコンタクトが取れないから、今はまどかにしか状況が分からない。ちょっとこっちへ来てくれ。フランスで使用した装置と同じものがあるから、見てくれないか」
部屋を出るのと同時に、秘書が鎮静剤をもってきたので、念のため登吾は注射器の入ったそのセットを受け取った。
そして、まどかを促し、研究棟の奥にある実験室に入った。
外界から完全に遮断されたその部屋には、細長いカプセルを縦半分に割ったようなベッドがあり、頭部には大きなドーナツ型のMRIに似た機器が設置されている。
ベッド脇には、モニターが置かれ、まどかにはわからない多数のスイッチやダイアルとレバーが並んでいた。部屋の壁には、被験者を観察するためにあるのだろうと思われる横長の窓があるが、ミラー効果でこちらからは何も見えないようになっている。
まどかは、部屋の隅から隅まで見て回り、装置にも触れて一生懸命考えてみたが、思い当たるものは何もなかった。苛立つ気持ちを抑え、何とか思い出そうと両手をこめかみにあて、ぐいぐい揉みこんでみる。
そんなまどかを労わるように、登吾はまどかをベッドに腰掛けさせ、コントロールボックスから伸びた何本もの線に繋がれたパネルと、クリップ式のイヤホン、ゴーグルなどをどうやって使用するのかを説明した。
登吾の話によると、これはバーチャル空間を利用した治療機械で、軽い不安障害を抱えた患者に対して使われるという。
事例の一つは、何らかの理由や失敗から、相手に対して不快を与えるのではないかというプレッシャーが働き、対人恐怖症になった人に、バーチャル空間で、自信を持たせる体験をさせ、不安な気持ちを克服させることができるらしい
日本には恥の文化があるせいか、この患者は群を抜いて多いらしく、文化依存症候群とされ、海外でもそのまま「Taijin Kyofusyo」と呼ばれる。
思春期などにみられる「あがり症」はこの一種だが、症状は軽く自然に治る場合が多い。
ただ、こじらせると、引きこもりになるなど、社会的生活が困難になり、治療が必要になる。
そこまで聞いて、まどかは胸の奥がチリチリするような、不安と不満をもって、登吾の話を遮った。
「私は対人恐怖症だったの?それで、この治療をわざわざフランスで受けたっていうの?」
「いや違う。…まだ、それだったら、どれほど良かったか」
「いい加減にして!もう、隠すのはやめてちょうだい!」
「マドカ、記憶喪失には2種類ある。自分の心を守るために忘れていた方がいい場合もある。お前の場合は特殊すぎて、パニックが酷過ぎた。アレックスはそんなまどかを見ていられなくて、一か八かの賭けに出たが、停電のアクシデントで失敗したんだ。事実を思い出したら、廃人になる可能性もある。それでも聞きたいか?」
そんな深刻な内容だとは思ってもみず、まどかは返事に困った。
忘れてしまいたいほどショックな出来事に遭遇したというのだろうか?
でも、この生活はアレックスの支えがあるから成り立つ仮初めのものに違いない。
私を救うために犠牲になったアレックスを、このまま見殺しにしていいのだろうか?
「お父さん、私がパニックになったのはいつ、どこで?場所は?」
「……お前が記憶を失ったのは2016年昨年の夏だ。
2年前の2015年の3月に、ダニエルが日本での共同研究を終えて南フランスに戻った後、家族を連れて遊びに来ないかと誘ってきた。
それで、去年のお前の夏休みを利用して、家族揃って2週間の予定でダニエルを尋ねて行ったんだ」
「この写真がその時のものね?」
「ああ、そうだ。お前とアレックスは気があって、二人でよく出かけた。
帰国の前夜も、ニースの花火大会にまどかを連れて行く許可をアレックスが求めてきて、その日は遅く帰ると……」
登吾は途中で言葉を切り、顎をぐっと引いて、耐えるように下を向いてしまった。
「お父さん、少し考えさせて。この部屋のパソコンを使っていい?」
辛そうな登吾を直視できず、まどかは自分で調べられることを調べようと思った。
「ああ、私も医局に行くよ。お昼を一緒に食べよう。それまでここで待っていてくれ」
秘書に後は頼むと言づけて、登吾は部屋を出ていた。
まどかは、教えてもらったパスワードでパソコンを開き、昨年2016年の夏にニースで起こった事件を調べた。
それは簡単にヒットした。
いくつものタイトルが並び、画像を見た瞬間、まどかはまた、
突然激しい眩暈を覚えた。
心臓を鷲掴みにされるような得体のしれない恐怖が襲い、
全身が粟立って血の気が引いていく。
地響きと襲い来る影を感じた途端、まどかは耐えられずに意識を手放した。