初音は用済みのペットボトルを捨て、ちゃぶ台の前に腰を下ろすと、恒子の出してくれた麦茶で喉を潤した。タオルで汗を拭き、携帯を充電しておく。
 「こげん暑か中歩かせて悪かな。婆ちゃんがまだ運転できたらよかったとばってん、最近どうも足腰が悪うなってなあ」
 仕方のないことだ、と初音は思う。世間にはつまらぬプライドからか、体の不調を自覚していながら運転をやめない高齢者もいるのだという。それに比べて、恒子は自らの運転が初音の身に危険を及ぼすことを案じているのだ。むしろ感謝すべきである。
 初音は改めて内装を見渡した。やはり昔と何も変わっていない。
 ただ一点をのぞいては――
 居間の片隅に置かれた位牌が目に留まる。あれは、初音の祖父のものだ。彼が他界したのは六年前。妻に負けないくらい明朗闊達な人で、死の一か月前まで普段と変わりなく生活していたという。死因は風邪をこじらせた肺炎だった。当時母の口から訃報を聞いた初音でさえ、すぐには受け入れられなかったのだから、恒子のショックは計り知れないものだったろう。初音たち家族は恒子に同居を持ち掛けたが、拒まれた。
 それまで物心ついたときから毎年のように訪れていた祖父母の家に、ぱたりと足が向かなくなったのもこれがきっかけである。
 しかし、今の恒子は夫の死を乗り越えている。それが分かって、初音は少し安心していた。
 
 体が休まり恒子との会話もひと段落してくると、初音は出かけることにした。思えば、小さい頃もここに来たときは大体外で遊んでいた。都会っ子とは言えないものの中小都市育ちの初音にとっては、このような里山の風景はたまらなく魅力的なのだ。
 充電した携帯をポシェットに入れた。
 「ちょっと散歩にでも行ってくるね」
 「そうかえ。日射病には気を付けなっせ」
 狐石にもな、と恒子は加えた。
 初音は昔聞いたことを記憶の底から引っ張り出す。
 狐石というのはただの石ころではなく、石の姿を借りた、この集落の土地神みたいな存在である。しかしこの神様、どうやら一筋縄ではいかないらしいのだ。強く願えば何でも叶えてくれるものの、どんな形で叶うか、そして代償に何を要求されるかが分からないのだという。
 といってもどこにあるかは誰も知らないというし、初音も見かけた覚えなどない。よしんば偶然見つけてしまったとしても、何も願わなければそれで済む話である。