好きになった人は、死人でした〜幽霊物件対策班の怪奇事件ファイル〜

 驚く千夏に、晴高はさらに言う。
「だから。そいつ、死人。視えてるのは、俺とお前くらいなもので他のやつには視えてない」
「え……ええ!?」
 うそ……こんなにはっきり視えているのに? 
 千夏は内心焦って周りを見わたす。同じ係の職員たちは仕事の手をとめて不思議なものを見る目で千夏と晴高のやりとりを眺めていた。集まる視線が痛い。
(やっちゃった……!!)
 千夏は小さい頃から時々、霊を見ることがあった。
 「あの浮いているおばちゃん誰?」と友達に尋ねたら、変な子扱いされてからかわれたこともある。それからというもの、霊が視えることは外では言わないようにしていた。 
 そうやって気をつけてきたのに、今回、うっかり話しかけてしまったのは、
「え、だって。こんなにはっきり視えてるんですよ……!?」
 輪郭がぼやけることも透けることもなく、生きている人間と区別がつかないほどはっきり視えていたからだ。しかも、職員席に座っているなんて、完全に騙された。
「それは、たまたまそいつと波長があったんだろう。そいつ。前からこのあたりをウロウロしている浮遊霊だ」
 晴高が淡々とした口調で、さらに続ける。
「ネガティブな感情をもっていると霊と波長が合いやすくなるらしいしな。お前、八坂不動産からの異動なんだろ? おもいっきり左遷だよな。本当は、こんな子会社の出先なんて来たくなかったんだろ?」
 本心を見透かしたかのような容赦ない言葉に、千夏はピキッと固まった。
 二人のやりとりをオロオロしながら見ていた百瀬課長が、さすがにこれ以上はまずいと思ったのか間に入ってくる。
「ふ、二人とも。それくらいに……」
 しかしもう千夏には百瀬の言葉は耳に入ってはいなかった。そんな余裕なんて無い。
(そうよ。左遷よ! どうせ、私の前所属を聞いた時点でみんな薄々分かってたんでしょ!?)
 千夏はキッと晴高を睨んだ。
 睨んだけれど、すべて図星なので反論する言葉も浮かんでこない。
 周りの同情じみた視線が痛い。なんて、無様(ぶざま)なんだろう。泣きたい気分で涙をこらえながら、幽霊だと指摘された隣の席の男に目を向けた。
 元はと言えば、あんたが紛らわしく生きてる人間と変わらない見た目をしてたからいけないのよ。と、恨みがましい視線を向けたところで、千夏は「え?」と声を漏らした。
 いままでずっと微動だにせず俯いてデスクの一点を見つめていた幽霊男が、その双眸からハラハラと涙を流して静かに泣いていたのだ。
「ど、どうしたの? 大丈夫?」
 思わず幽霊男にそう尋ねてしまい、千夏はしまったぁ!と心の中で後悔した。また、幽霊男に話しかけてしまったじゃないか。
 晴高がやれやれという視線を投げてくる。
 あああああ、もう、今日の私、ダメすぎる。
 はぁと嘆息をついたそのとき、幽霊男がぽつりと何か言葉を発した。
「これ…………食べてもいいんですか?」
 弱い、いまにも空気に霧散してしまいそうな声。でも、驚きと嬉しさが混じりあったような響きがあった。
 幽霊の声なんて聞いたのは初めてだったけれど、こちらから会話を初めてしまった手前無視もできない。
 千夏は生きている人と同じように接することにした。
「ええ。どうぞ。アナタにあげたものだから」
「ありがとう……ございます……」
 幽霊男は涙を拭うこともせず、膝の上に置いていた右手をデスクの上に出すと、ゆっくりとした動作でサブレーの袋を手に取る。
 その瞬間、不思議なことが起こった。
 サブレーの袋はデスクの上に置かれたまま動いてはいないのに、幽霊男の手には同じサブレーの袋がある。まるで袋が分裂したようだった。彼の手にある方は、若干半透明で向こうの景色が透けている。
 彼はその袋を開けると中身を出してしみじみと眺めた後、おそるおそるといった様子で口に運んだ。
 彼がサブレーをかじると、さくっと小気味良い小さな音がした。
 そして、じっくり味わうように咀嚼する。
「ああ……うまい。やっぱ、うまいなぁ、これ……」
 彼は何度も「うまいなぁ」を繰り返しながら、嬉しそうにサブレーを食べた。
 あらためて彼をじっくり見ると、彼はいかにもサラリーマン然とした格好をしていた。明るめのグレースーツに青色のネクタイ。髪は茶色みのある明るい色をしていて、少し癖があるようだ。顔もそこそこ整っていて、イケメンと言うよりもどちらかというと愛嬌がある顔立ちをしている。もし幽霊でなければ、好青年として年上にも可愛がられたタイプだろうなぁ。千夏はそんな想像をしてしまう。
「まだ余りあるけど……食べる?」
 千夏がそう声をかけると、幽霊男はパッと嬉しそうにはにかんだ。笑った顔はちょっと可愛い。
「はい、どうぞ」
 缶の中に残っていたサブレーを渡すと、彼はにこにことサブレーを受け取る。ここでも不思議なことに、彼は確かにサブレーの袋を受け取ってその手にしっかり持っているのに、千夏の手にもまだサブレーの袋は残ったまま。つまり、彼が物を手に取ると、まるで物の幽体部分?だけが彼の手元にうつり、そのものの実体はその場に残るようなのだ。
「ありがとう」
 彼は礼をいうと、そのサブレーも袋をあけてむしゃむしゃ食べ始めた。どれだけお腹がすいていたのだろう。いや、幽霊もお腹がすくのかな?
 普通にやりとりのできる彼に、いつのまにかすっかり恐怖心はなくなっていた。千夏は自分の席に腰を下ろすと、マジマジと彼を眺める。
 たしかによく見ると全体的に若干半透明ではあるのだが、よく見ないとわからない程度だ。他の人にはこの幽霊男自体が視えてはいないのだろうが、千夏の目にはそう見えた。
 自分の席で頬杖つきながらサブレーを無心で食べる彼を眺めていたら、向かいの席から大きなため息が聞こえてきた。声のした方に視線だけ向けると、晴高だった。
「……あんた、すごいな。幽霊と会話できるのか」
 呆れたような驚いたような、そんな声で晴高がいう。
「え……ちょ、ちょっとまってください。私も、初めてですから。こんな風にコンタクトとれたのなんて」
 とそこに、それまでハラハラした様子で千夏たちのやりとりを見ていた百瀬課長がスッと目の前にやってきた。いつの間にか、その顔にはニコニコとした満面の笑顔が浮かんでいる。
「晴高くん。良かったじゃないか。パートナーが見つかって」
 当の晴高は、相変わらず無表情の仏頂面だったが、ややあって小さく頷く。
「はい。そうですね。ここまでの適任は、そうそういないと思います」
「だよね。じゃあ決まりだね」
 二人の間で、勝手に話が進んでいく。なんだか自分のことを言われていることは分かるのだが、話が見えなくて千夏は落ち着かない。
「……え、ちょ…………なんのことですか?」
 戸惑う千夏の両肩を、百瀬課長はがっしりと掴むと、逃がさないよ?とでもいうように強い笑顔で言った。
「君には晴高くんと一緒にペアを組んで仕事をしてもらうことにしたよ。君たちの担当は、特殊物件対策班だ」
「…………はぁ」
 特殊物件ってなんだ? と顔に疑問符を一杯浮べていると、大きな嘆息混じりに晴高が教えてくれた。
「別名、幽霊物件対策班。つまり、幽霊の出る物件を調査して除霊するのが俺たちの仕事だ。幽霊が出ると借り手がつかなかったり、ついてもすぐに出て行かれたりするしな」
「…………ゆ、ゆうれい…………ですか?」
「そう。この仕事は霊が視えないことには務まらない。いままで俺独りでやってたから、抱えてる物件は結構多いんだ。このあとすぐ現地調査いくぞ」
「ええ!? 今から幽霊物件の調査ですか!?」
 晴高からは冗談を言っている雰囲気は微塵も感じられない。なんだか、着任早々妙なことになってしまった。
 それもこれも、この幽霊男のせいだと勝手に恨みがましく幽霊男を見ると、サブレーをかじったまま申し訳なさそうにこちらを見ていた彼の視線と目が合う。まったく、もう!
 晴高の運転する社用車のセダンに乗って連れてこられたのは、練馬区にある二階建ての賃貸アパートだった。
 築年数は十年ほど。新しくもないが、そんなに古いわけでもない。実際、外から外観を見た限りでは、取り立てて不気味な感じや嫌な印象は受けなかった。
 今回の調査対象になっているのは、二階にある202号室。
 階段をのぼってその部屋の前まで来ると、『202』という表示のある部屋の前で三人は立ち止まった。
 そう。三人なのだ。
 晴高と千夏と、そして。
「なんで、アナタまでついてきてるのよ」
 千夏は隣に立つ、よく見ると若干透けている幽霊男に言う。てっきり水道橋支店のあの席にずっと座っているのだとばかり思っていたその幽霊は、いつの間にか千夏と晴高のあとをついてきていたのだ。そのことに気づいたのは、さっき車を降りたとき。どうやって付いてきたのかはよくわからないけど、気がついたら後ろにいた。
「なんか、俺のせいで迷惑かけちゃったみたいだったから。申し訳なくて」
「申し訳ないと思うんなら、もう二度と私の前に姿をみせないでほしいんですけど」
 この幽霊男は、もはや普通の人と変わらない調子で千夏に話しかけてくる。いっそ無視すればいいのかもしれないし、はっきりと拒絶すれば離れていってくれるのかもしれないけれど、今は初めて携わる仕事の最中なのでそこまでの余裕もなかった。
「すみません……」
 千夏にきついことを言われて、幽霊男は高い背を丸めてしゅんと俯いた。
「とりあえず。幽霊さんは、その辺でふらふらしててください。いま、仕事中なので」
「あ、俺。高村元気って言います」
「元気、ね……」
 なんとも幽霊には似つかわしくない名前だ、というのが名を聞いたときの第一印象だった。
 生きていた時につけられた名前だろうから、幽霊っぽくなくても仕方がないのだろうけれど。
 そして椅子に座っていたときは気づかなかったけど、この幽霊男、案外背が高いのだ。おそらく180センチ近くあるんじゃないだろうか。幽霊のくせにくるくるとよく変わる表情と言い、明るい髪色といい、さしずめゴールデンレトリバーみたいな印象だった。席で青白い顔をしてじっと俯いていたときとは別人のよう。
「すっかり憑かれたみたいだな。お前が話しかけたりするからだ。あとでお祓い行ってこい」
 と、まるで他人事のように晴高はそう言い捨てると、会社から持ってきた管理用のマスターキーを使って202号室のドアを開けた。
 晴高は元気よりも少し背が低いけど、濃い黒髪に黒いスーツと全体に黒っぽい印象が強い。常に視線も言葉も鋭くて、笑顔なんて初めから標準装備していないんではないかと疑いたくなるほどの仏頂面。でも、やたらと顔が整っているので、余計近寄りがたい雰囲気を醸している。元気がゴールデンレトリバーだとしたら、こっちはさしずめドーベルマンといったところかな。
 なんとも正反対の二人とともに物件調査にやってきた千夏は、はぁと大きくため息をつくと202号室へと足を踏み入れた。
 そこは、ごく普通の1LDKの部屋だった。しかし入った途端、急にぞわっと両腕に鳥肌が立つ。
(え、何これ)
 室温が外とくらべてグッと低いような気がした。外はぽかぽかと春の陽気なのに、この部屋に入った途端、もう一枚上着がほしいくらいの寒さを感じる。
 晴高は、玄関で持参したスリッパに履き替えるとすたすたと家の中へ入っていった。置いてけぼりにされたくなくて、千夏も靴をぬぐとストッキングのまま晴高のあとを追う。
 玄関から入ってすぐのところにキッチンがあり、その奥にリビングダイニング。さらにその左隣には小ぶりな洋室があった。リビングダイニングと洋室のあいだは可動式の壁で仕切れるようになっていたが、いまは開いたままになっている。
 そのどちらの部屋もベランダへ出られる掃き出し窓がついていた。窓からはあたたかな日差しが室内へと差し込んで、床に陽だまりをつくっている。
 二階に位置し、窓からはよく日差しが差し込んでいるにもかかわらず、どこか部屋の中が薄暗い。
(……ここ、嫌だ……)
 心の奥から、今すぐこの部屋を立ち去りたい気持ちがぞわぞわとわいてきた。何が嫌なのかはわからない。室内は家具一つなく殺風景。でも掃除が行き届いているし、とくに嫌悪感を覚えるような要素はないはずなのだ。それなのに、なぜかここにいたくない、いてはいけないという気持ちが抑えきれなくなってくる。
 晴高が一緒にいるからいいものの、自分ひとりだったら間違いなくすぐに逃げ去っていただろう。
「なんか、嫌な感じですね、ここ」
 スプリングコートの上から腕をさすりつつ、千夏は晴高のそばに行く。
 晴高は手に持っていたビジネスバッグからファイルブックを取り出してページを繰っている。ファイルブックには、会社のデータベースをプリントアウトしてきたと思しき資料が挟まっていた。
「ここの最後の借主は、松原涼子。三年ほどここに住んでいたが、彼女からは特に苦情のようなものはあがっていない」
「三年もこの部屋に住んでいたんですか……」
「当時は何の問題もなかったんだろう。問題が出たのは彼女の死後だからな」
 涼子さんは、一人暮らしの派遣社員だった。数か月前に職場で突然倒れて亡くなっている。死因は、脳卒中だった。彼女の死後、ここにあった家具類は賃貸契約の保証人でもあった彼女の両親に引き渡されている。でも……。
「この部屋の明け渡しが完了した後、おかしなことが起こりはじめたんだ」
 晴高はファイル片手に淡々と語る。
「この部屋の明け渡しが完了したのが十日前。その翌日の夜に、隣の201号室の住民が深夜に帰宅すると、壁の向こうから女性の泣くような声が聞こえたんだそうだ。その声は一晩中聞こえていたと報告にある。さらにその次の日には泣きながら共用廊下をさまよいあるく女性の影を複数の住人が見ている。そしてそのあと日は違うが、夜中に寝ていると突然金縛りにあい、女性の霊が足元から泣きながら這い上ってきたという報告が二件あがっている。こっちは102号室と、203号室だな。どちらもこの部屋と隣接した部屋だ」
 ほかにも壁や天井から叩くような音が聞こえたり、閉めたはずの窓やドアが勝手に開いたという報告もあった。
 当然住民からは苦情や調査依頼が殺到し、中には賃貸契約中にもかかわらず「こんな家には住めない」とホテル暮らしをしだした入居者もいるという。
 こんな状態では退去者が続出してどんどん空き室が増え、やがてここには誰も住まなくなってしまうことだろう。それを大家さんは非常に心配しているのだという。
「実際のところ、その影や声の正体が松原涼子だっていう確証はない。ただ、奇妙なことが起こり始めたのがこの部屋の明け渡しの直後だったことや、怪異の大半がこの部屋に隣接した部屋で起こっていることから、松原涼子の霊が関係している可能性は高いだろうな」
 というのが、晴高の見解だった。
 今日もまた、日が暮れるとこのアパートのあちこちで怪奇現象が引き起こされるんだろうか。いまはまだ外が明るいからいいけど、その怪異の原因とおぼしき部屋にいると考えただけで怖くて呼吸が浅くなってくる気がした。
 この世のものではない存在を相手に、自分たちに一体何ができるというんだろう。
「どう……するんですか?」
 おそるおそる晴高に尋ねると、彼は持っていたカバンを足元へ置いた。そして右手首にしていた水晶のブレスレットを親指と人差し指の間にさげて片手拝みすると、
「どうするもなにも。俺たちはただ、霊をみつけて除霊をするだけだ」
 目をつぶり、御経を唱え始める。
 いつもの少しぼそぼそとしたしゃべり方とは違い、朗々としたよく通る声でよどみなく晴高の口から紡がれる御経。
 経を詠む声が部屋中に染みわたっていくと、千夏はこの部屋に入ってからずっと感じていた心の表面が泡立つような不安が嘘のように落ち着いてくるのを実感した。
 しかしほっとしたのも束の間、千夏の背後から「うう……」とうめき声が聞こえた。明らかな男の声。驚いて振り向くと、先ほどまで千夏と同じように部屋を眺めていた元気が、胸を押さえて苦しそうに俯いていた。
「……え。ちょっと、どうしたの?」
 どうしたもなにも、読経のせいなのは明らかだった。そのことに晴高も気づいたようで、唐突に経を詠むのを止める。御経が消えると、元気はうつむいたまま膝に手をついて安堵したように肩で大きく息をした。
「……死ぬかと思った」
「いや、アナタすでに死んでるでしょ」
 つい間髪いれず、そう突っ込んでしまう千夏。
 元気は顔をあげると、脂汗のにじんだ額を手の甲で拭いながら弱ったように笑みを浮かべる。
「死んでから、体調悪くなるの初めてだったからさ。驚いちゃって」
 そんな感想をもらす元気だったが、彼を眺める晴高の目は冷たい。まるで実験動物の反応でも検証するかのような乾いた目で、彼の変化をジロジロ見ていた。
「やっぱ、ソレにも効くんだな。どうせなら一緒に除霊してしまってもいいんだが」
 晴高がそう言うと、元気もさすがに身の危険を感じたのか後ずさって彼から距離をとる。晴高が数珠を持つ手を元気に向けて再び口を開こうとしたとき、千夏は二人の間に割って入った。元気を背に隠すように晴高の前に立つ。
 なぜ、彼をかばおうと思ったのかはわからない。でも、生きている人間と同じように笑ったりしゃべったりする彼を見ていると、ここで無理やり除霊してしまうことは何とも気の毒な気がしてしまったのだ。
 それに現時点では、彼は何ら悪さはしていない。除霊しなければならない理由もない。
 晴高の鋭い目で見つめられるとついたじろいでしまうが、それでも負けまいと千夏はじっと晴高を見つめた。しばらく見つめあった後、晴高のほうが先に折れる。彼は小さく嘆息すると、淡々とした口調で苦言を呈した。
「一応忠告しとくが、ソイツをかばったところで(ろく)なことにはならんと思うぞ」
「わかってます。……でも、なんだか苦しそうだったから、気の毒で。除霊ってそんなに苦しいものなんですか?」
「さあな。俺は幽霊になったことないから知らんが、幽霊なんてもともと何かしら未練があってこの世に残ってるもんだ。除霊ってのは、この世にとどまりたがっている霊を無理やり引きはがしてあの世に追いやるんだから、苦しみを感じるやつもいるのかもな」
 晴高はそう言いながら床においたカバンを取り上げると、中から一枚の紙を取り出して千夏に渡してくる。
 縦長な白い紙に黒と朱の墨で文字が描きつけられている。お札のようだった。
「それを後ろの幽霊に持たせておけ。そうすれば、(きょう)の影響を受けないで済むはずだ」
 持たせておけ、と言われたってどうやって渡せばいいのかわからない。千夏はお札をもったまま晴高と元気を見比べた後、元気の胸におしつけるようにお札をつきつけた。当然、千夏の手は元気の身体を何の抵抗もなくすり抜ける。
 やっぱり、この人は実在しない人間なんだ。いくら会話ができて、生きている人間と変わらない外見をしていても、この人は幽霊なんだということを千夏は改めて実感する。
 そんな千夏の感傷をよそに、元気はそのお札を受け取るような仕草をした。すると、サブレーの時と同じように、お札が実体と半透明な幽体とに分かれ、元気の手には幽体のお札があった。実体の方はいまだに千夏の手の中にあるけど、一応これで元気に渡したことになるみたい。
 そのやり取りを見届けると、晴高は再び水晶の数珠を持った右手を片手拝みの形にして読経を再開した。
 元気の様子が気になったけれど、お札をもらった彼は今度は読経の影響を受けないようでケロッとしていた。本人も不思議なのか、ぽつりと「お札、すげぇ」とつぶやくのが聞こえてきたので、思わず千夏はクスリと笑みを漏らす。
 晴高の読経は続く。
 それにつれて明らかに部屋の空気が変わってきた。それまでは不気味にシンと静まり返っていた室内が、読経の声にあわせてあちこちでバチバチという大きな静電気のような音がしだす。あれはラップ音というやつかもしれない。
 室内の空気が、千夏にもよく説明できないけれど、なぜかとても荒らぶっているように感じられた。何かがひどく怒っている。そんな落ち着かなさ。
 そのとき、元気の声が読経の声にかぶさって響く。
「あ! あれ!」
 元気が指さしたのは、寝室として使われていたであろう洋室の一角。
 その部屋の隅に、吹き溜まるように黒いモヤが表れていた。
 モヤは次第に大きくなり、人の形のような輪郭を作り出す。
 千夏はごくりと生唾を飲み込んだ。あれが、このアパートの住民たちを困らせている人影の正体なのだろう。

 オオオオオオオオオオオォォォォォォォォォォォォォ

 声とも泣き声ともつかない音を発しながら、晴高に黒い影の一部が伸びる。それは、読経をやめさせようと霊が手を伸ばしているようにも見えた。
 晴高の読経はなおも続いている。
 地の底から響いてくるかのような不気味な音は、やがて千夏の耳にはっきりとした声として聞こえてきた。

……ヤメテ……、ヤメテ……クルシイ……ヤメテ……

 元気のときと同じように、霊は苦しそうだ。でも除霊のためには仕方ない。そう思おうとした。でも、霊の次の言葉に千夏はハッとする。

……タスケテ、ミーコ……タスケテ……

(え……ミーコ?)
 いま、霊は確かにそう言ったように聞こえた。
 タスケテと言っているように聞こえたけれど、自分のことを言っているわけではないようだ。
 この霊は何かを訴えかけてきている。そんな霊を一方的に除霊してしまっていいのだろうか。こんな強制退去のような方法でいいんだろうか。ぐるぐると疑問が浮かんでくる。

ミーコ……シンジャウ……ミーコ……

 目の前の苦しそうにもがく霊を見ていると、なんだか居たたまれなくなってくる。
 それで、つい口をついて出てしまった。
「晴高さん、ちょっと待ってください!」
 晴高が読経をやめて、ギロッとこちらを睨んできて初めて「ああああ、やっちまったぁ!」と千夏は内心焦ったがもう遅い。
 読経が止まったことで、黒い影もスーッと空中に溶け込むように消えてしまった。
「……どういうことだ?」
 そう言って睨んでくる晴高の視線が痛い。声に明らかな抗議の色が滲んでいた。
「……すみません。つい」
 千夏はしゅんと肩を落とすと、素直に謝る。
「お前は、俺の邪魔をしにきたのか?」
 晴高の剣呑な声が千夏に刺さる。
「……いえ、違います」
 彼の仕事の邪魔をしようという意識は微塵もなかった。でも、邪魔になっていたのは確かだ。元気が除霊されかけていたのを妨害したし、今度は本来の仕事であるこの部屋の霊を除霊することまで妨げた。それに関しては、言い訳のしようもない。
 晴高は千夏に聞こえるようにあからさまにため息をつくと、
「もう、いい」
 そう一言呟いて、カバンを手にすたすたと玄関に向かって歩き出した。
「……え? あ、ちょ……!」
 慌てて千夏は彼の背中を追いかける。
「待ってください。どこへ行くんですか?」
 千夏の静止の声に彼が応えて足を止めたときにはもう、彼は靴を履き終えて共用廊下に出たところだった。晴高は尻ポケットから取り出したタバコを咥えるものの、「くそ。禁煙してたんだった」と忌々しげに咥えたタバコを手で握りつぶし、睨むような冷たい視線で千夏を振り返る。
「どうもなにも。除霊されたくないんだろ。だったら、お前が自分でやれ。この部屋をなんとかしろ。期限は今週いっぱいだ」
「私、一人で……ですか」
「他に誰がいるんだ」
 千夏はただ視えるだけの人間だ。晴高のように除霊の術など持っていない。
 その上、今しがた目にしたあの恐ろしい霊とたった一人で向き合うだなんて、想像しただけで身体の芯から冷たくなってくる。
 でも、さっきあの霊が訴えてきた言葉が気になっているのも確かなのだ。
 ここで千夏が嫌だといえば、晴高は「ほれみろ」とすぐにあの霊を除霊しにかかるだろう。そうすれば、抱えている案件の一つが完了して、この仕事はおしまい。
 晴高は、もしかすると一人でやれと突き放すことで千夏が音《ね》を上げて除霊に同意するのを期待して、こんな冷たい態度を取っているのかもしれない。元々冷たい人なのかもしれないけれど。今朝顔見知りになったばかりの上司の考えることなんて、分かるはずもない。
 ただ一つ言えることは、ここで千夏が逃げてしまえば、あの霊の訴えが顧みられることは二度とないということだ。
 千夏は意を決して顔を上げる。そして、真っ直ぐに晴高を見つめて言った。
「やります。私、今夜ここに残ります」
 自分でも意外なほど、凛とした声が出た。鉄面皮のような仏頂面の晴高の目が、一瞬大きく開かれたように見えた。彼も、千夏のこの反応は予想外だったのかもしれない。無理もない、千夏自身だって驚いているんだから。
 でも、さっき。晴高がもっていたファイルを横から覗いたときに見てしまったのだ。見えたのは松原涼子のプロフィール。彼女は、千夏と同い年だった。
 自分と同じ年月生きていた人が、なぜいまここで皆を悩ます霊になんてなっているのか、知りたかった。気になった。放っておけなかった。
 晴高はしばらく何かを考えているようだったけれど、カバンから何かを取り出すと、
「勝手にしろ」
 そういいながら、千夏に投げてよこした。
 取り落としそうになりながらも受け取って見てみると、鍵束のようだ。
「管理会社用のマスターキーとかだ。資料はあとで会社の個人アドレスに送っておく」
 それだけ申しわたすと、晴高はくるっと向きを変えて廊下を階段の方へと歩き去ってしまった。彼が階段を降りる音、ついで乗ってきた社用車のドアを開け閉めする音。車の去っていく音が消えたら、辺りはしんと静まり返った。
 各部屋には住民もいるはずなのだけど、まだ日が高いので留守にしているのか、それとも幽霊を恐れて帰ってこない人が多いのか。住宅街のど真ん中にあるというのに、ポツンと取り残されたようにアパートには人の気配がなかった。
 忘れかけていた恐怖が再び忍び寄ってくる。それを振り払おうと、千夏は空元気を奮い立たせ、無理して平気そうな声で言った。
「なんなら、あなたももう帰っていいわよ? べつにうちの会社の職員じゃないんだし」
 しかし元気は気の毒そうな顔でゆるゆると首を横に振る。
「俺もまだここにいるよ。どうせ帰るところもないし。助けてもらったから。……それにしても、あの晴高ってやつ酷いよな。今日異動してきたばっかの部下を、いきなりこんな現場に放置するなんて」
 元気は晴高の千夏に対する扱いの悪さを怒ってくれた。それで少しだけ胸のモヤモヤは晴れたけど、それ以上に予期せずして背負ってしまった仕事の重荷で胃がキリキリと痛み出していた。
「仕方ないよ。私が自分で言い出したことだもん」
 そして自分を奮い立たせるように努めて明るく言った。
「さて。少し早いけど晩御飯食べてきちゃうね。とりあえず、あの霊にもう一度会って彼女が訴えていることに耳を傾けてみるしかないもの」
 気がつくと廊下に落ちる千夏の影が長くなっていた。元気の足元には、もちろん影はない。赤くなり始めた空が、今日はやけに不気味に思えた。
 千夏が早めの夕ご飯を食べに駅前のファミレスへ向かうと、いつのまにか傍から元気の気配が消えていた。やっぱり、なんだかんだ言いつつも職場に戻ったのだろう。他の場所へでかけたのかもしれない。
 千夏は口では強気なことを言いつつも、内心では元気の存在を頼もしく感じていたようだった。彼がいなくなってはじめて、そのことに気づく。彼がいないことが、酷く心細かった。幽霊なんかに何を勝手に期待していたんだろう。これは自分の仕事であって、元気には関係ないことなのに。
 これからあの幽霊アパートへ戻って、たった一人で幽霊と対峙して解決策を導き出さなければならないことを考えると、恐怖で胃に穴があきそうだった。それは時間経過とともにどんどん強くなってくる。アパートへと帰る足取りが重かった。それでも、逃げ出すわけにはいかない。
 小さな勇気を振り絞ってアパートへ戻ると、入り口のところに見慣れた長身のスーツ男子が立っているのが見えた。元気だ。千夏の顔に自然と笑みが浮かぶ。彼の姿を見た途端、胸の中に温かな灯火がポッと灯ったかのようだった。一人じゃないことが、こんなにも有り難いだなんて。
 よく考えると元気自身も幽霊なのだが、彼からは怖いとか不気味といったネガティブな印象は一切受けない。始終眉間にしわを寄せている晴高と比べると、元気の方がずっと人間らしく思えるから不思議だ。
「戻ってこなくても良かったのに」
 強がってそんなことを言うと、
「こんなとこに一人で置いておくなんて、できないよ」
 そう当然のような調子で返ってきた。千夏の顔が、思わず綻ぶ。本当は、戻ってきてくれてありがとうって言いたかったのに、なんでこういうときに限って言葉が上手く出てこないんだろう。
「それに、誰かと喋るなんて久しぶりだから、つい嬉しくてさ」
 そういって、元気ははにかんだ。
 それはそうだろうな、と千夏も思う。視える人はちょくちょくいるのだろうが、会話できる相手となると珍しいだろう。千夏自身も幽霊と会話するのなんて初めてのこと。話しかけてくる相手がいままでいなかっただけなのかもしれないけど、晴高が言っていた『たまたま波長があった』というのもあながち外れてはいないのかもしれない。
「話す時間ならいっぱいあるわよ。それじゃあ、とりあえず部屋に入りましょうか」
 日が沈んだいま、アパートの周りは暗闇に包まれていた。もちろん周囲の住宅の明かりや街灯、それにアパートの共用廊下にも照明はしっかりついている。それでも、そのアパートの周りだけ、モヤでもかかってんじゃないかと思うほどに薄暗く感じられた。
 階段を上って202号室の前まで来ると、晴高から渡されたマスターキーでドアを開ける。夕飯を食べに出る前に部屋中の照明をつけていったので、室内は煌々《こうこう》と明るい……はずなのだが、やっぱり薄暗く感じてしまう。
 開いたドアの隙間から、冷えた空気がスーッと千夏の肌を掠めて通り過ぎて行った。室内は、昼間以上にヒンヤリと冷たい空気で満たされていた。
 千夏はコンビニの袋を手に持ったままリビングダイニングを通り、洋室へと向かう。カーテンがないため、窓ガラスには夜が写り込んでいた。千夏は普段、自宅にいるときは暗くなるとすぐにカーテンを閉めるようにしている。暗い窓の外からこの世ならざるものが覗き込んでる気がしてしまって気持ちが悪いからだ。
 でも今日は、カーテンがないことに却って安心を覚えた。いくらこのアパートに人の気配が薄いとはいえ、住宅街の真っ只中に建っているのだ。窓から外を見ると街灯や道路を通る通行人、向かいの家の明かりなどが見渡せる。人の気配を感じられるのが、いまはとても心強かった。
 千夏は壁に寄りかかるようにしてペタンと床に座る。スマホで会社の個人メールアドレスを確認してみると、晴高からメールが届いていた。メールにはファイルが添付されている。
 松原涼子と、その後引き起こされた怪異についてのPDFだった。メールには添付ファイルのほかには「山崎様」と宛名が書かれているだけで、本文に「大丈夫か?」の一言もないあたり、やっぱり晴高は徹底的に冷たいやつだという認識を新たにした。
 幽霊が出るのは夜中だろうから、それまでまだ時間がある。千夏は時間潰しも兼ねて、晴高から届いた資料を読み込んでみた。
 松原涼子は、都内の会社に派遣社員として勤めていた。この部屋の保証人になっているのは、埼玉に住む彼女の父親。元気もスマホを覗き込んでくるので、彼にも見えるようにスマホの位置を調整する。
 生前は住民トラブルのようなものは一切なし。両親の連絡先も書いてあった。明日、電話して話を聞いてみようかな。何か糸口になることが見つかるかもしれない。
 しばらく資料を読みふけっていたけれど、そのうち小さなスマホの画面を眺めるのも疲れてしまって、千夏は「ふぅ」と顔を上げた。
「出てくるのかなぁ」
 そんな言葉が口をついて出る。
「毎日出てるらしいからね。今も、ほんのわずかだけど気配は感じてる」
 そう元気が部屋の奥をちらちらと見ながら言った。
「…………やっぱり、いるんだ」
「うん。でも、いまはじっと(ひそ)んでいるという感じかな。たぶん、動きやすい時間になるまで待ってるんだろうね」
「こういうのって地縛霊、っていうのよね……?」
 あまり詳しい霊の種類はわからないけど、いつまでもじっと同じ場所に留まる霊のことをそう呼ぶ程度のことは知っていた。何かその場所に思い入れがあって、離れられないのだろうか。
「たぶんね。俺も、よく知らないけど」
「元気は、浮遊霊?」
「さぁ、どうだろうね。自分でもよくわからない」
「ああ、そっか。いまはフラフラしてるけど、普段はあのオフィスにいるんだっけ」
 今朝、初めて元気の姿を見たときのことを思い出してみる。元気は、生気のない顔をして空いているデスクに座って俯いていた。改めて思うけど、生きている人と変わらないくらいコミュニケーションがとれる今の元気とは、まるで別人だ。
 元気は、千夏の疑問に曖昧な苦笑を浮べた。
「俺だってずっとあそこにいたわけじゃないよ。他に、行くところがなかったから仕方なくあそこにいただけ」
「でも、あそこで亡くなった……ってわけでもないんでしょ?」
 こくんと元気は頷く。
「俺、あそこの下の階にある銀行に勤めてたんだ」
「え? あ、そうなんだ。銀行マンかぁ」
 スーツ姿が(さま)になっているなと思っていたら、やっぱり普段からスーツを着るお仕事だったようだ。
「そう。不動産融資の担当だった。二階にデスクがあってさ。幽霊になってから行くとこなくって、元々自分のデスクがあったあたりをウロウロしてたんだ。そしたら、幽霊が出るって噂がたっちゃって。怖がった職員にお札を貼られて居づらくなったから、上の階に移動したんだ」
 なんと、そんな事情があったとは。
「でも、なんで職場にいるの? 元の自宅とかは?」
「借りてたワンルームはいまは別の人が入ってる。……新しい住人が、恋人連れ込んでてさ。そんなところに居座るの嫌だろ?」
「あはは。確かに。他人がいちゃついてるのなんて、見たくないよね。それなら、まだ職場の方がましかぁ」
 それは気持ち分かるなぁと笑う千夏に、うん、と元気は神妙な顔で頷いた。
 そして、彼は闇に沈む窓の外に目を向けながら、ぽつりと言う。
「俺……彼女にプロポーズしようとして、家を出たところで交通事故にあって死んじゃったんだ」
「え……」
 千夏は言葉につまる。元気は、窓の外を見ながらもその目はどこか遠くを見ているようだった。
「最後に見たのは、彼女に渡そうとした指輪が目の前に転がってる光景だった。俺、どんだけついてないんだろうなぁ」
 こちらに視線を戻した元気は、目尻をさげて笑った。もう全てを受け入れてしまったというような、そんな穏やかな笑み。でも、とても切なく儚い光を宿しているような、そんな彼の目を千夏は見ていられなくて彼から目を逸らすと、膝を抱いてぽつりと返した。
「そっか……」
 かける言葉がみつからなかった。千夏が黙っていると、元気は自分から話し出す。
「もちろん、彼女のとこにも行ってみたよ。しばらく、そこにいた。……でもさ。あの日から、もう三年も経つんだ。彼女も、いつまでも同じ所に留まっているわけがないよね。……半年くらい前に、別の人と結婚したんだ。幸せそうだった。これからも、幸せでいてくれたらいいなって……思うよ」
 元気の声はとても穏やかだった。かつての恋人の幸せを願う彼の言葉に、一遍の嘘偽りも感じられない。彼の口調からは未練らしきものは少しも滲んではいなかった。
(じゃあ、なんで元気は未だに、この世に留まり続けているんだろう……)
 残した彼女が心配だ、というのならわかる。でも、その彼女は既に新たな人と新しい人生を歩み出しているという。なら、なぜ元気だけが昔のまま留まっているんだろう。何か他に未練があって、この世に残っているんだろうか。
「元気ってさ……」
「ん?」
「……人が良いよね。すごく」
「そうかな。そんなこともないと思うけど」
「幽霊なのに」
「幽霊だねぇ」
 そんな意味の無いやりとりを交わして、クスリと笑みを漏らす。
 そのときは、ここが幽霊物件だということをすっかり忘れていた。
 その心の隙をつくように、突然ズンと、部屋の空気が重くなる。
(え…………)
 ぞわっと、全身の毛が逆立つような悪寒が走った。
 反射的に窓の外に目をやると、さっきまで見えていた向かいの建物の明かりや街灯が一切見えなくなっている。ついで、バチバチッという音を立てて天井の照明が明滅。バチンという音とともに、停電でもしたかのように室内の電気がいっきに落ちた。
 目の前が真っ暗になって、何も見えない。
 手探りで背にしていた壁を触って、位置を確認しながら立ち上がる。ごくりと生唾を飲み込む音がやけに大きく響いた。
(寒い…………)
 急に室内の気温が下がったように感じられた。春先とは思えないような寒さだ。
「げ、元気……?」
 いままで隣にいたはずの幽霊男の名前を呼んでみるけど、なんの反応もない。そちらに手を伸ばすものの、千夏の右手は空しく空を切るだけ。考えてみたら、彼は実体がないのだからたとえそこにいたとしても触ることなど出来ない。
「元気、どこ……? いるんでしょ?」
 と、そのとき。

 ……ミーコ……ミーコ……ゴメンネ……ワタシガ……

 どこからともなく、濡れた泣き声交じりの声が耳を掠める。
 闇に少し慣れた目をこらして室内を見渡すと、ヌルッと闇夜の中を(うごめ)く影のようなものを目の端にとらえた。
(何か、いる……!?)
 あれは見たらマズイものだ。そう本能が警鐘をならす。心臓の音が、バクバクと高鳴った。闇の中、黒い影はふらふらと移動しているようだった。まるで彷徨(さまよ)っているようでもあり、何かをしているようでもある影。

 ……ミーコ……シンジャウ……ダレカ……タスケテ……

 その影はそう何度も何度も繰り返していた。何が原因なのかはわからないけど、その言葉から焦りと後悔のようなものがひしひしと伝わってくる。
 影はまだ、千夏の存在には気付いていないようでフラフラと玄関のほうへと移動していた。千夏は緊張で身じろぎひとつできない。まるで金縛りになったようだった。
 あのまま進むと霊は廊下に出てしまうだろう。ご近所の迷惑を考えると阻止しなきゃ。でも、恐怖のあまり早く出て行ってほしいという気持ちがせめぎあう。いや、恐怖のあまり後者の気持ちのほうがはるかに強かった。
 怖くて千夏はぎゅっと目を閉じた。
(はやく、出ていって!)
 そう心の中で願う。
 そうしているうちに、あの声が遠ざかっていった。そして完全に聞こえなくなる。
 よかった、廊下に出て行ったんだ、そう思って目を開けたそのときだった。

 ……ミーコ……ミーコ……ヲ……

 千夏の足に女がすがりついていた。
「っ…………!」
 思わず目を見開いて息を飲む。女は長い髪を振り乱し、こちらに向けられた目は白く濁っていた。千夏の足を掴んで這い上がってこようとしている。
「ひっっっっっ!!!!」
 ひきつけを起こしたように千夏は声にならない声を上げる。気を失いそうになったそのとき、
「その人を脅かすなよ!」
 怒気を孕んだ力強い声が聞こえた。元気の声だ。そう思った瞬間、千夏はすんでのところで意識を保つことができた。
 闇に目を凝らすと、元気が女の霊の肩を掴んで、千夏から引き剥がそうとしていた。しかし、足を掴んできた彼女の手は氷のように冷たく、それでいて信じられないほどの強い力でしがみついていて離れない。
「いやっ、こないで!!」
 千夏は恐怖のあまり、手をばたつかせるしかできなかった。
 手をがむしゃらにばたつかせるけれど、女の幽霊を通り抜けてしまってどれだけ押しのけようとしても雲をつかむようだった。女はなおも千夏の身体を上ってこようとする。
「くっそ、なんでこんなに力が強いんだ……!」
 元気も女の幽霊を引きはがそうとしてくれているのだけど、うまくいかないようだった。霊の世界では思いの強さが力の強さに影響するのだろうか。物理法則の世界とはまた別の論理で動いているのかもしれない。ふとそんなことを思ってしまうけれど、その間にも女の霊はどんどん上ってくる。
「いやっ、いや!」
 もう腰のあたりまで上ってきている女の幽霊を追い払おうとがむしゃらに動かした千夏の手が、幽霊の身体をつかんでいた元気の手に当たる。
 その瞬間、バチンと、頭の中が何かがスパークした。大きな静電気が眉間のあたりで起こったような衝撃。
 え? ナニコレ? と思っている間もなく、千夏の視界は一瞬にして真っ白になった。
 …………。
 すぐに視界を覆った白い光は消える。目の前には元気の姿もあの霊の姿も見えていた。アパートの情景も目に映っている。
 しかしそれとは別にさらにもう一枚、別の動画が重なるように目の前に他の景色が映っている。
(え? どういうこと?……)
 目に映るもう一つは、どうやら昼間の景色のようだった。窓から、穏やかな日差しが差し込んでいる。ああ、あれはこのアパートだ。このアパートの、この部屋だ。
 しかし、床にはラグマットが敷かれ、壁際にはタンスに本棚。壁の端にはキャットタワーというのだろうか、猫が遊ぶ三段のタワーのようなものがある。
 あまり物がなくシンプルな室内だったが、丁寧に暮らしてる様子が窺えた。
(ああ……これは、かつてのこの部屋の情景……)
 千夏は誰かの目を借りて部屋の中を見ているようだった。自由に首を動かせるわけではなく、ただ誰かの身体に乗り移って見ているだけのような感覚。
『ミーコ、どこー?』
 若い女性の声だった。器に入れたペットフードを手にして、彼女は部屋で何かを探している。そのときふと、その視線が掃き出し窓の端を捉えた。窓は十センチほど開いていた。
『ミーコ!?』
 彼女は慌てた様子で窓に取りつくと、窓を大きく開けて外を見る。このアパートの庭とその向こうに見える隣の敷地や道路を、きょろきょろと焦った様子で見ながら何かを探していた。
『ミーコ! どこいったの!? ミーコ!』
 彼女の声は、涙声になっていた。

 それから、さらに景色が切り替わる。
 今度はどこかの街の中のようだった。
『ミーコ! どこにいるの。お願い、返事して。ミーコ!』
 彼女は駐車場に止められている車の下や路地裏などを探して回っていた。壁の上から庭を覗いてみたり、空き地の草むらを見てみたり。そうしているうちに、どこかの神社にたどり着く。辺りは雨が降りしきっていた。
『ミーコ! いたら、お願い。返事して!』
 そのとき、
 どこかから『ニャーン』というか細い声が聞こえた。
『ミーコ!?』
 その声に彼女ははじかれたように反応した。そしてか細い声を頼りに辺りを必死に探して、ようやく神社の本殿の床下で一匹の猫をみつけた。青みがかった灰色の体毛に、緑の目をした猫。しかしその猫は後ろ脚にひどいケガを負っているようで床下にぺとっと横になっていた。
『ミーコ! ミーコ! いま、助けてあげるからね! タスケテ、アゲルカラネ……』
 …………。
 バチンと再び頭の中に静電気が走るような衝撃があって、千夏は我に返った。
 あの神社の景色はすっかり消え、目に映るのは元の暗い室内のみ。
 目の前で、元気が目を丸くして千夏のことを凝視していた。
「なんだ……いまの……。猫……?」
 そのひと言で、元気も同じ物を視ていたのだとわかる。
 千夏は大きく頷いた。
「うん。たぶん、この部屋で飼われていた猫だと思うの」
 あれはかつてのこの部屋と、どこかの街の景色。そして、あの光景を見ていたのは、目の前にいるこの女の幽霊。あれは彼女の生前の記憶。そう思えてならなかった。千夏は、元気の腕に押さえつけられて今は大人しくすすり泣くばかりの女の霊に声をかける。
「アナタはあの猫のことが未練のあまり、霊としてさまよっていたんですね……松原涼子さん」
 名前を呼ばれえて、彼女は両手で顔を隠すようにしてワッと泣きだす。

 ……タスケテ……ミーコ……タスケテ……

 そして彼女は徐々に姿が薄く透明になっていき、スーッと空気に溶け込むように消えてしまった。
 いつのまにか、重苦しかった部屋の空気がすっかり正常になっている。窓の外にも、街灯の光や向かいの建物の明かりが戻っていた。
 パチパチっという音とともに、室内の照明も全て元通りに()く。
「…………もど、った……」
 安堵した途端、千夏は足から床に崩れ落ちた。
「お、おい……、千夏!」
 咄嗟に元気が千夏を支えようと手を伸ばすが、彼の手をするっとすり抜けてペタンと床に座り込む。足に力が入らない。
「あ、はははは…………なんか、今頃になって急に怖さがぶりかえして。足が笑っちゃって……」
 なにはともあれ、手がかりは掴めた。あとは、調べてみるだけだ。
 それにしても、先ほど見えたあの光景はなんだったんだろう。まるで、霊の記憶を覗いたかのようだった。
「おつかれさま」
「うん。元気も、ありがとう」
 一人だったら、きっと途中で気絶していただろう。元気がいてくれたから、乗り越えられた。少し休んでいると足に力が戻ってきたため、千夏は壁に手をつくと、よいしょと立ちあがる。
「このままここにいると床の上で眠り込んじゃいそうだから。今日はもう帰るね」
「ああ、それがいいと思うよ」
 出勤初日にしては、どう考えたって働き過ぎだ。ぶつぶつと文句をいいながら玄関へ向かい、パンプスを履く。履きながら、ふと気になった。
「元気は、このあとどうするの? どっかに帰るの?」
 そう尋ねると、彼は曖昧な苦笑を浮べて小首を傾げた。
「別にいくところもないから、あのオフィスに戻るよ」
「そっか……じゃあ、また明日だね」
 照明を消して外の共用廊下に出ると、晴高から借りたマスターキーでドアを施錠する。スマホをつけてみると、もう朝の五時近くだった。段々と空が白みはじめている。電車はもう動いているだろうか。
 アパートの階段を降りると、道路の脇にシルバーのセダンが一台止まっているのが目に付いた。これ、自分がここまで乗ってきた社用車と似てる車だなぁなんて思いながらその横を通り過ぎようとしたとき、運転席を見て千夏はギョッとして足を止める。
 運転席に座っていたのは、見覚えのある目つきのきついイケメン。晴高だったからだ。どおりで見た事ある車だと思った。
「なんで……」
 運転席のパワーウィンドウが下がって、晴高がクイッと顎で後部座席を示した。
「乗れ。家まで送っていくから」
「…………なんで、晴高さん。こんなところにいるんですか」
 千夏の疑問に、晴高は露骨に大きなため息をついた。
「初心者の部下を、一人で現場においておくわけないだろ。俺はそこまで無責任じゃない」
(いるなら、いると一言言ってくれれば! どんだけ怖かったと思ってんだ、この男は……!!!!)
 ふつふつと晴高に対する怒りが沸いてくる。しかしそれが精いっぱいで、いまは疲労のあまり言い合いをする気力も残っていなかった。
 千夏は幾分乱暴に後部座席のドアを開けると、どかっと座席に腰を落とした。すぐに車は発進する。晴高に聞かれて家の場所を伝えると、ほんの数分と持たず眠りに落ちてしまっていた。
 晴高に自宅まで送ってもらった際、「明日は代休にしとくから、休め」と彼が言うのでお言葉に甘えて一日ゆっくりと休ませてもらった。そしてその次の日に出社すると、百瀬課長が千夏の姿を見るや否や駆け寄ってくる。
「いきなり晴高くんが無理させたんだって? 彼には私からもよく言っておくから」
 と心配する百瀬課長に、
「い、いえ。大丈夫ですから」
 何度も大丈夫です、と笑みを重ねた。
 親会社にいた時は、仕事の締め切りが迫ってくると会社に泊り込むことも少なくなかった。それに比べれば一晩の徹夜なんてたいしたことない……はずだったのだけど、霊に触れたせいか、昨日は酷い疲労感と眠気とだるさにやられて一日中寝ていたのだ。代休にしてもらえて助かった。
 おかげで、今日はすっかり回復。
 自分のデスクへ行くと、晴高は黙々とノートパソコンで作業をしていたし、元気は相変わらず空席になっている千夏の隣の席に座っている。
 ただひとつ違うのは、元気は一昨日のような青い顔をして俯いてなどおらず、千夏の姿を見つけると元気そうに笑いながら手を振ってきたことだ。
 まったくもって、幽霊ぽくなくなってしまった。
(元々こういう性格なんだよね、きっと)
 千夏が席について「おはようございます」と挨拶すると、晴高は視線すらあげずに「おう」と呟くだけだし、元気は明るく元気に「おはよう」と返してくる。
 うん。出社、実質二日目だけど。これがこれから自分が毎朝みる光景なのだろうなと思うと、存外悪くない。そう思ってから自分で自分の気持ちに、少し驚いた。ほんの数日前まで、子会社へ勤務することがあんなに惨めで気が重かったのに。いつの間にか、この癖の強い同僚たちと仕事するのも悪くはないかな、なんて思い始めていた。
 さて、今日は調べ物しなきゃ。まず千夏はあの日あのアパートで経験したことを晴高に報告する。彼はキーボードを打つ手を止めもせずに話を聞いていた。
 ちゃんと聞いているのか?と心配になるも、一通り千夏が話し終わると彼は「へぇ……」と感心したように感想を口にした。
「そんな現象、初めて聞いた……」
「え? 何がです?」
「いや、だからその。霊の記憶が覗けたって話」
 そこに食いついてくるあたり、ちゃんと千夏の話には耳を傾けていたようだ。千夏はデスクに身を乗り出すと、はす向かいの席に座る晴高に食い気味に尋ねる。
「やっぱり、珍しい現象なんですね」
「……そうだな。身内に坊さんや、霊能力あるやつは多いけど。そんな話聞いたことがない」
「俺も、初めてだったよ。いままでも他の霊に触ったことはあったけど、あんな風になったことなんてなかった。でも、千夏が俺の手に触れようとした途端、起きながら夢をみているみたいに別の映像が見えたんだ。がーって頭の中に映像の激流が流れ込んできた感じだった」
 そう語る元気は、のんきに湯飲みから熱いお茶をすすっている。ちなみに、そのお茶を淹れたのは千夏だ。自分のものを淹れてくるついでに淹れてきた。晴高にもいるかどうか聞いてみたけど、こちらは「いらない」とすげなく断られてしまった。
「あのとき見えたものが本当に涼子さんの記憶なのかどうか、確証はないんですけど。とりあえず、いろいろ調べてみたいことがあるので、涼子さんのご両親に連絡を取ってみてもいいですか?」
「ああ、それは構わんが。ソレも連れていくのか?」
 晴高は彼の前の席で、のんきにお茶を飲んでいる元気を目で示す。
「それは彼の好きにすればいいかなと思ってますが、また霊の出る現場に行くときはぜひ連れていきたいな、なんて思ってはいます……」
 そう晴高の様子をうかがいながら躊躇いがちに言う千夏に、はぁと彼は露骨に大きくため息をついた。
「もう一回、忠告しとくけど。霊障とか何かよからぬことがあれば、すぐにそいつから離れろ。直ちに除霊するから」
『除霊』という言葉に、元気がぴくりと肩を動かした。
 それに構わず晴高は話を続ける。
「それと。人前でそいつと会話してると完全に危ない奴だぞ、お前」
「……!!!!」
 たしかにそうだ。千夏の目には元気のことははっきり視えているけれど、他の大部分の人には彼の姿は視えない。その人たちからすると、千夏が一人で虚空に向かって会話をしているように見えることだろう。それはまずい。明らかにまずい。
「……気をつけます」
 しゅんと肩を落とすと、元気も「俺も気を付けるよ」と晴高に言う。
「これからは、人前で話しかけてこないでよね」
「それ、お互いさまだから」
 なんてついうっかり元気と話していたら、
「だから、ソレをやめろっていってんだろ」
 と晴高に呆れられてしまった。
 危ない危ない。ハッと周りを見わたすと、同僚の皆さんが気持ち悪そうな顔をしてこちらを見ていた。すぐに目をそらされる。もう手遅れかもしれない。
 千夏は晴高に断って会議室を借りると、そこに置かれているパイプ椅子の一つに腰を掛けた。元気も一緒に会議室に入る。わざわざこの部屋を借りたのは、元気と話しているところを他の人に見られて不審がられないようにするためだった。
「さてと。まずは松原さんのご両親に電話してみましょう。本当に松原涼子さんがミーコっていう猫ちゃんを飼っていた事実があるのか、もしそうだとするとその猫ちゃんがいまどこにいるのかを確認してみないとね」
 そう言うと涼子は会議室にある電話を手に取った。
 千夏はメモしてきた電話番号を打ち込むと、受話器を耳に当てる。隣にいる元気に聞こえるようにハンズフリー通話にした。
 しばらく呼び出しが続いて、留守なのかと電話を切ろうとしたときだった。
「はい」
 穏やかな女性の声が聞こえた。
 電話の主は松原涼子の母親だった。はじめは怪訝そうな声だったが、お嬢さんはお部屋で猫を飼ってらっしゃいましたか?と尋ねると、彼女の声のトーンが変わった。
「ミーコが戻ってきたんですかっ!?」
「やはり、お嬢様は猫をお飼いだったんですね」
 あの物件はペット可物件だったので、それ自体は何ら問題はない。ただ、賃貸契約を結んだ当時はまだ何も飼っていなかったためか、ペットに関しての記録は賃貸契約書類の中には含まれていなかったから、いままで本当に飼っていたのかどうかは判然としなかったのだ。でも、これではっきりした。やはり松原涼子はミーコという猫を飼っていた。
「ええ。二年前、だったかしら。お友達から譲ってもらったとかで。ロシアンブルーのとてもきれいな猫だったんですよ。とても可愛がっていたんです。でも少し前に、うっかり逃がしてしまったようで……娘はひどく気落ちして、悔やんでいました。自分がうっかり窓を閉め忘れたせいだ、って」
 そして、ミーコがいなくなって以降。彼女は時間を作っては、あちこちにミーコを探しに行っていたのだという。そこまでは、千夏が予想したとおりの展開だった。でも一つ気になっていることがある。それは、母親の第一声のこと。
「すみません。ちょっとお伺いしたいのですが、……ミーコちゃんはまだ涼子さんのもとに戻ってはいなかったんですか?」
 そう尋ねると、電話の向こう側で母親は声に涙を滲ませた。
「ええ……あれだけミーコに会いたがっていたのに。結局、見つける前に涼子はあんなことに……。こちらに連絡くださったのは、ミーコがあのアパートに戻ってきたのかと思ったんですが、そうではないんですね」
「はい……申し訳ありません。私たちもできる限りそのミーコちゃんを探してみます。また何か進展がありましたらご連絡いたしますね」
 そして、丁重に礼を述べると、そっと電話を切った。
 傍らでずっと電話の内容を聞いていた元気を見上げる。
「ミーコ、まだ見つかってないんだって。どういうことなんだろう?」
 元気も首を傾げた。
「俺たち、あの涼子さんの記憶らしきもので見たよな? 猫が逃げ出した直後に涼子さんが探してる景色と……どこかの神社みたいなとこで、ミーコらしき猫を見つけたところ」
 こくんと千夏はうなずく。そうなのだ。千夏たちは、涼子がミーコを見つけた光景を見ている。電話で涼子の母親もミーコはロシアンブルーだと言っていた。それも霊の記憶を通して見た特徴と一致する。
「涼子さんは、必死にミーコちゃんを探していて、そしてあの神社の床下でようやくみつけた。でもケガをしていたからどこかの動物病院に預けたけれど、そのあとご本人が急逝してしまった……ということなのかな」
 それが一番妥当な線のように思えた。せっかく見つけたのに家に連れ帰る前に不幸にも涼子は急逝してしまい、猫の所在を家族に伝えることもできなかった……という筋書き。
 しかし、元気はまだ納得がいかないといった様子で腕を組んで首を傾げている。
「でも、そうだとしてもだよ? あんな霊になって彷徨うほどのことかな。動物病院の人がカルテを見て携帯に電話すれば、家族とも連絡つくだろ?」
 たしかに、何かがひっかかる。亡くなった娘のスマホをそんなに早く解約するとも思えないから、きっといまは両親の手元にあるはず。連絡がつかないとは考えづらい。
 でも、涼子の霊はしきりに『ミーコ』『タスケテ』『シンジャウ』と言っていた。動物病院にいるのなら、なぜそんなことを周囲の人に訴える必要があったのだろう。
「なあ。俺もさっき気づいたことがあるんだけどさ。涼子さんのものらしき記憶を見たときに、街の中をひたすら探し回ってるの視ただろ?」
「うん。視たわね。必死に探してる想いがひしひしと伝わってきた。本当に、ミーコちゃんのことを大事に思っていたんだろうね」
「あの中にさ、民家の塀をひょいっと飛び越えて内側を覗いてるときがあったの覚えてる?」
「え?」
 言われてみれば、そんな景色を見た記憶がある。自動車の下を覗いたり、路地を覗いたりしていて、その次に、ひょいっと塀の上から民家の庭を……。
「あれ、千夏、自分でやろうと思ってできる?」
 塀は明らかに目線よりもずっと高かった。おそらく涼子が平均的な女性の伸長だったとすると、二メートルくらいだろうか。それをあの景色を見ていた人物は、助走もつけずにひょいっと覗いて……そして、その場に数秒停止していた。
 その事実の意味するところを理解して、千夏の腕にぞわっと鳥肌がたつ。
「……できるはずがない」
「だよな。生きてる人間には無理な動きだと思う。でも、俺にはできるよ? あまり人間っぽくない動きはしたくないから普段はしないけど、やろうと思えばできる。ほら」
 元気は軽くとんっとその場でジャンプする。生きている人ではありえないくらいの高さまで飛び上がると、その場から静止して千夏を見下ろした。そして、再びストンと床まで下りてくる。
「……じゃあ、ということは……」
「そう。あの街でミーコを探して、そして見つけたのはたぶんだけど。死んだあとの涼子さんだ」