好きになった人は、死人でした〜幽霊物件対策班の怪奇事件ファイル〜

 華奈子が教えてくれた部屋の前までやってくる。けれど室内を目にしたとたん、広がる異様な光景に息をのんだ。
 テーブルや椅子が散乱するその奥の左隅に、黒い物でおおわれた塊のようなものがあった。まるで黒いコブのようになったソレ。近づいてみると、長い髪の毛が何重にも絡まってその隅を覆っていた。
 他に手洗い場らしきものは見当たらない。となると、
(きっとこの中に、ソウタ君が……!)
 いつもなら気持ち悪くて近寄ることもできなかっただろう。でも早くソウタくんを助け出してあげなきゃという気持ちが、恐怖心に勝った。
 千夏と元気はすぐにそのコブにとりつくと、髪のようなものを引きはがしていく。しかし、その髪のようなものはまるで意思をもっているかのごとく、引きはがしても引きはがしてもシュルシュルと絡みついて剥がれない。
 少し遅れてデイルームに入ってきた晴高が、
「ちょっと下がってろ」
 と言うと、その髪のコブに札をペタッと貼り付けた。すると、突然、火もないのにその髪のコブが燃え出す。

 ギャアアアアアアアアアアアアアアア

 断末魔のような音をあげて髪は灰に変わり、パラパラと燃え落ちた。
 すると、その下に手洗い場と収納扉が現れる。
「あった! これだ!」
 千夏はその扉を開けようと取っ手を引くが、びくともしない。鍵穴などどこにも見当たらないのに、鍵でもかかっているようにピタリと扉はくっついて開かなかった。
「かわって」
 元気と場所を代わると、彼はその前に座って片方の足を扉の片側にあてる。そうして身体を支えると、両手で片扉の取っ手を掴んで全力で引っ張った。
「くっ……」
 それでもはじめはびくともしなかった扉だったが、元気が力をかけ続けるとピリッと扉の境目に亀裂のようなものが走り、カパッと開いた。
「やった、開いたぁ」
 はぁっと安どのため息を漏らす元気。その中を覗き込むと、小さな男の子が膝を抱えて座ってその膝に頭を埋めている。
 千夏は急いでトートバッグから靴を取り出すと、しゃがんで収納扉の前に置いた。
「ソウタくん。……だよね?」
 男の子は何の反応もしなかったが、千夏はそのまま続けた。
「お靴、もってきたよ。君に合う新しいお靴だよ」
 靴、という言葉に、初めて男の子は反応した。ハッと顔をあげると床に置かれた真新しい靴に目を向ける。

 ……クツ……? ボクノ……?

 男の子の声が頭の中で聞こえてくる。千夏は、大きく頷いた。
「そう。あなたの靴よ。これを履いて、あなたはどこへだって行けるの。好きなところへ行けるんだよ」

 ……ボク……

 男の子が顔をあげる。その顔はやはり、ソウタと呼ばれたあの男の子と同じものだった。ソウタが向きを変えてこちらに足をむけてきたので、千夏は片足ずつ彼の足へ靴を履かせてあげる。そして、彼の手をとって手助けしてやると、ソウタは自分から収納スペースの外へと出てきた。彼の手はとてもあたたかくて、強い霊力のようなものが握っている千夏の手にも流れ込んでくるようだった。
「とりあえず、病院の外に出るか?」
 元気が尋ねると、ソウタは初めて笑顔を見せる。それは、華奈子の記憶の中で見せていたものと同じ屈託のない笑顔だった。
「さあ、もう行きましょう」
 もうここには用はない。とりあえず、ソウタに靴を渡すという目的は達成したのだ。これで何が変わったのかはわからないけれど、場を支配していた重苦しい圧迫感のようなものが急に薄れてきているように感じた。
 しかし、部屋の入口に目を向けて、千夏は息をのんだ。

 ヒタ、ヒタ、ヒタ、ヒタ

 廊下の方から何かがやってくる。それも一つではなかった。
 肘から先のない腕だけが床を掴むようにして這いながらこちらに近づいてくる。肘より先は黒いモヤに隠れてしまって見えなかった。それが一本だけではない。腕だけでなく、足だけのものもある。十本以上の手足がこちらに迫ってきている。

 オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ………

 廊下の向こうからはさらにたくさんの悪霊たちが迫ってきているのが感じられた。
 窓から出ようにも、窓の外も黒い髪の毛のようなもので覆われている。
「いよいよ取り囲まれたな」
 晴高が唸る。
「どうする?」
 元気はソウタを守るように彼の前に立つ。晴高はフッと鼻で笑った。
「核になっていたソウタが悪霊の手の中から離れたおかげで、悪霊たちの力が弱まっている。だから必死で取り返そうとしてきてんだろうが、これなら俺でも対処できる」
 廊下の奥から、のっそりと黒いモヤの塊のようなものが顔を出した。すでに人の背丈よりもはるかに大きく育っている黒い怨念の塊。そこには、いくつもの人の顔が現れては消えていく。そのどれもが、苦痛と悲しみと怒りに満ちていた。

 …………ニクイ…ニクイ……
 ……ナンデ…クライ、クライヨ……
 …タスケテ……オネガイ……イヤ…イタイ……
 ……コッチヘ、オイデ……オマエモ、イッショニ……コッチヘ……

 アレに取り込まれたら命がなくなるだけでは済まない。千夏も元気もアレらと同じものになって、永遠に苦しみ彷徨《さまよ》うことになるのだろう。
 晴高は恐れる様子もなくそのモヤに向かい合うと、肩に下げていたワンショルダーバッグから何か金色の棒のようなものを三本取り出して投げた。
 それがモヤに次々と突き刺さる。刺さるたびにモヤはギャアと声をあげて、痛みに苦しんでいるかのように身をよじらせた。
 晴高は手を止めることなく、今度は数珠をもって片手拝みにすると、
「オン・アキュシュビヤ・ウン」
 晴高の凛とした声が響く。すると、

 ギャアアアアアアアアアアア

 黒いモヤが断末魔のような悲鳴をあげた。そして、しゅるしゅるしゅると空気に霧散するように次第に小さくなり、最後は跡形もなく消えてしまった。あとには、カランカランと音をたてて晴高が刺した金属の棒のようなものが床に落ちてくる。
「空気が……」
 元気のつぶやきに、千夏もうなずいた。
「うん。軽くなってる。嘘みたい、あんなにたくさんいた悪霊も急に気配が薄くなっていく」
 禍々しい髪の毛で覆われていた窓も、いまは青空が見える。室内も、日の光が差し込んでぐっと明るさを増していた。
「あれが親玉だったからな。親玉が消えてしまえば、いくら悪霊といえどもこんな昼間っから堂々と出てこれるわけはない。ほかの奴らは一旦姿を隠しただけだろうが、この程度なら俺でも簡単に祓える」
 そう言うと、晴高は悪霊の親玉が消えた場所まで歩いていった。そして、そこに落ちていた金属の棒のようなものを拾い上げる。それは、両端が五股にわかれた不思議な形をしていた。
「これは密教の道具で、独鈷杵《どっこしょ》っていうんだ。結界を張ったり、いまみたいに悪霊にダメージを与えるのに使える」
 それらを再びバッグにしまうと、
「ようやく、終わったな」
 晴高が小さく息をついたときだった。
 千夏たちの前に、いつの間にか白いモヤのようなものが立ち込め始めていた。その白いモヤは集まって濃さを増していき、煙のようになって晴高の周りを取り巻きはじめる。
 晴高自身も戸惑っている様子だったが、その白いモヤからは悪い気配は一切感じられない。白いモヤは晴高の全身にまとわりついたあと、彼の身体から離れてその目の前で次第に人の形を成し始める。
 モヤは小柄な一人の女性の姿となった。長い髪に、白いワンピースの二十代前半と思しき女性。千夏にも見覚えがある。霊の記憶の中でも見たし、この病院で千夏の手を引いてここまで導いてくれたのも、彼女だった。
 「華奈子……」
 そう言う晴高の声は震えていた。
 華奈子は、晴高を穏やかな目で見上げると静かな微笑みを(たた)える。
『晴高君』
 両手を伸ばすと、彼女は晴高の頬に触れた。
『やっと会えた』
 そう呟いて背伸びするように顔を近づけると、華奈子は静かに抱き着いた。
「俺も……、ずっと。ずっと、会いたかった」
 呻くように応える晴高に、華奈子は愛しげな瞳をそそぐ。
『うん。ずっと会いに来てくれてるの、いつも知ってたよ。……もっといっぱい一緒にいたかったけど。私、もう逝かなくちゃ』
 彼女の身体もまた、キラキラと光を放ち始めていた。成仏しかけているのだ。華奈子は晴高から離れると、千夏と元気に向けて頭を下げる。
『ありがとう。あなたたちのおかげで、颯太君のことを助けることができました。晴高くんのことも。本当にありがとう……』
 そして今度は、颯太ににっこりと笑いかける。
『颯太君、お姉ちゃん先に行っているね。颯太くんはそっちでいっぱい遊んでから来ればいいからね』
 そして、華奈子は最後にもう一度晴高に向き合うと彼を指さした。
『晴高君!』
 はつらつとした声で告げる。
『君に、幸あれ!』
 その言葉を聞いた晴高の顔が、ハッとなった。すぐに、くしゃりと涙に歪む。
「それ、俺が卒業式の日にクラスの皆に言った言葉だろ」
 華奈子はエヘヘと笑った。そして、ふわりと穏やかな笑顔になると、そのままスウッと空気に溶け込むように消えてしまった。
『大好きだよ』
 そう、ぽつりと言葉を残して。
 華奈子の消えた場所を見つめながら、晴高も応える。
「ああ。俺も、大好きだ」
 その声が華奈子に届いたのかどうかはわからない。でも、きっと届いたと千夏は信じている。人が逝くのは一瞬だ。でも、その別れはきっと一生忘れられないものになるに違いない。
 晴高はしばらく華奈子がいまいた場所を見つめていたが、腕で顔を拭った後こちらを向いた彼は、もういつものクールな彼に戻っていた。
 さて、あとは颯太のことだ。
「颯太くん。このあと、どうする? 行きたいところがあるなら連れて行ってあげるけど」
 千夏に聞かれて颯太は少し考えていたけれど、パッと顔をあげる。
『ボク、おうち帰りたい! パパとママと、それと妹のサヤカにも会うんだ!』
「いいよ、おうちに連れていってあげる。でも、どこか覚えてる……?」
 千夏の問いかけに颯太は少し考えたあと、こくんと頷いた。
『ホイクエンからならおうちまでわかるよ』
「保育園の名前はわかる? あと、どのあたりにあったのかとか」
 うーんと颯太は窓の外を眺めたあと、もう一度大きく頷いた。
『ボクのおうちね。セーセキサクラガオカのエキのちかくだったよ。ケーオーせんなの』

 くわしく教えてくれる。もしかしたら、電車好きな子なのかもしれない。
 保育園の名前も憶えていた。スマホで検索してみると、聖蹟桜ヶ丘駅の近くにほぼこれだろうと思われる保育園がみつかる。これなら彼の家を探すのはさほど難しくはなさそうだ。
 晴高は残りの悪霊を祓うために残るというので、千夏と元気、颯太の三人で聖蹟桜ヶ丘駅まで向かうことになった。
 はじめは久しぶりに見る街の様子や電車に大はしゃぎだった颯太だったけれど、途中で疲れてしまったようで電車の中で寝始めた。その彼を元気が抱っこしながら、彼がかつて通っていたという保育園の前までやってくる。
 その頃には颯太も目を覚ましていて、元気の腕からぴょんと降りて保育園の柵から園内をしばらく懐かしそうに見た後、「ボクのおうち、こっちだよ」と先導して歩き出した。
 そこは保育園から歩いて十分ほどの場所にある住宅街の中の一軒家だった。
 いつしか日が沈み始めていたけれど、家の中からはいいニオイが漂っている。夕飯の支度をしているようだ。
 颯太は、タタタッと家に向かって走ると門の前で振り返った。
『ここ! ここがボクのおうち!!』
 郵便受けには、『森沢』とある。
「颯太くんのお名前は、森沢颯太くんで、いいのね?」
 千夏が聞くと、颯太はコクンと大きく頷いた。もし、彼の家族が引っ越ししてしまっていたらどうしようと少し心配だったが、ご家族は今もこの家に住んでいるようだ。
 ほっと胸をなで下ろした千夏はそこで気づく。颯太の全身がキラキラと輝き始めていた。彼の未練が果たされて、成仏しかけているようだ。
 千夏は笑顔で彼を見送る。
 家の中からは家族の声が聞こえていた。
 見送りはここまでで充分だろう。
「私たちはここまで。さぁ、ママとパパのところに行っておいで」
 そう言ってバイバイと手を振ると、颯太は『うん! バイバイ!』と手を振り返して、玄関の方へ走っていった。
 そして、もう一度こちらを見た後、『ただいま!』とはつらつとした声をかけて、ドアの向こうに消える。きっと、彼はもう大丈夫だろう。成仏するまでのしばらくの間、彼の大好きな家族といっぱい過ごしてほしいと切に願った。



 森沢家のキッチンでは母親がハンバーグを焼きあげ、ダイニングテーブルへと運んでいた。
 家族は三人のはず。それなのに、母親は四人分の料理を並べている。大きなハンバーグと、付け合わせのバターコーンにマッシュポテト。サラダと、オニオンスープもそれぞれ4皿ずつあった。
「ママー。おさら、一つおおいよ?」
 配膳を手伝ってフォークを並べていた五歳の沙也加が、母親に言いに行く。
 母親はエプロンで手を拭きながら、にっこりと笑った。
「ああ、いいのよ。今日は多く作っちゃったから。それにほら、お兄ちゃん、ハンバーグ大好きだったから。今日は一緒に、ね?」
「ふーん?」
 そこに父親もダイニングへとやってくる。
「お、今日はハンバーグか」
 そしていつもより一つずつ多い皿を見て、柔らかく目を細めた。
「颯太も好きだったからな。ハンバーグ」
「さあ、食べちゃいましょ。席についてついて」
「はーい」
 沙也加は返事をしながら自分の席に座る。
 そのとき。
 一瞬だけ、誰も座っていない席に誰かが座っているように見えた。
 瞬きをしたらもう誰もいなかったけれど、ニコニコ笑う顔が見えた気がした。


 
「これで、一件落着だね」
 駅に戻るためにくるっと向きを変えたそのとき、隣に立つ元気が一瞬、きらりと光を帯びているように見えた。
(…………え?)
 目をこすってもう一度見てみると、颯太が消えていったドアをじっと見つめている元気はいつもと変わらない彼だった。千夏の視線に気付いて、彼がこちらを見やる。
「ん? どうした?」
「う、ううん。なんでもない……」
「さぁ。晴高のところに戻ろうぜ。あいつ、大丈夫かな。またぶっ倒れてなきゃいいけど」
 そう元気が冗談めかして言うので、千夏はいま感じた不安をクスリと笑みに変える。
「うん。そうだね」
 いま見たのは、きっと何かの見間違いだよ。そう思うことにした。
 でも、駅へと戻る道すがら。駅に行くのに近いからと公園を抜けていたときのことだった。元気が突然足を止める。
 どうしたのかと思って千夏も足を止めて振り返ると、彼は自分の両手を見つめて立ちすくんでいた。
 「どうし……」
 そこまで言いかけて、千夏も驚きで目を見開く。彼の両手がキラキラと輝きだしていた。
 元気は千夏に視線を戻すと、申し訳なさそうに目じりを下げた。
「千夏……俺も、もうそろそろ逝かなくちゃいけないみたいだ」
 そう語る元気の全身が光を帯びはじめていた。颯太や華奈子、それにいままで成仏を見届けた数々の霊たちと同じように、その身体がキラキラと光の粒子を放って輝き始める。
 その輝きを千夏は驚きをもって見つめた。そして、それが意味することを理解する。こうなるともう、誰にも止められないこともわかっている。
 元気にもとうとう、成仏する瞬間がやって来たのだ。
 元気は成仏できるというのに、心底申し訳なさそうな顔をしていた。千夏は、胸に湧き上がるたくさんの思いを飲み混んで元気を見つめ返す。
「なんて顔してるのよ」
 そう言って、無理やり笑う。目の端に涙は浮かんでしまったけれど、彼がようやくこの世での未練を果たして次へと進めるのだ。嬉しいことじゃないはずがない。そう自分に言い聞かせた。
「あっちに逝っても、元気でね」
 そう空元気を振り絞って笑顔で言うと、抑えきれなかった涙が一粒、ホロリとこぼれおちた。元気も、くしゃっと辛そうに顔を歪めて千夏を見つめる。
「俺、また戻ってくる。千夏のそばに帰ってくるよ。それがどんな形かは、分からないけど」
 その言葉に、千夏も小さく頷いた。
 成仏すれば、彼は輪廻の輪の中に戻っていずれ生まれ変わるのだろう。今の彼とは違う誰かになってしまうのかもしれない。そうしたらもう、千夏には彼が彼とは分からなくなるに違いない。それでも、いずれ再び彼がこの世に戻ってきてくれると言うその言葉が、唯一の希望のように思えた。
 言葉を返そうとするのにうまく言葉にならず、千夏はただ頷くしかできない。そんな千夏に、元気は柔らかな眼差しを向けてくれる。
「千夏、君に出会えて良かった。君との日々はほんとに、楽しくて……ずっと続けばいいのに、って思ってた」
「私も……同じ」
 彼の顔をもっと見ていたかった。彼の笑顔をずっと見ていたかった。涙で滲んでしまいたくなくて、彼に心配をかけたくなくて。千夏は必死で涙をこらえたけれどこらえきれなくて。
 堪らず千夏は元気に抱きついた。元気はしっかりと受け止めてくれる。
「……ごめんね。悲しませて」
 千夏はぶんぶんと首を横に振った。
 逝かないで、なんて言えない。
「私は、あなたの未練になんかなりたくないもの」
 そう声を振り絞るように返す。精一杯の強がりだった。
 千夏に回した元気の腕がぎゅっと強くなる。
「俺に、幸せをくれてありがとう。愛してるよ。千夏」
「うん。私も。愛してる、元気」
 お互い、相手を離すまいとするかのように強く抱き合う。
 唐突に、千夏の腕の中にあった元気の感触がふわりと消えた。
 彼は光の粒となり、そして空気に溶け込むように見えなくなった。
 あとに、カランと何かが落ちる。
 指で拾い上げるとそれは、彼が左薬指につけていたシルバーのペアリングだった。
 千夏はそれを手のひらで強く握りしめると胸にあてて、空を見上げた。
(逝ってらっしゃい)
 また、いつか出会える日まで。
 またいつか、二人の運命が重なるその日まで。

 そして、千夏は自宅へと帰ってくる。
「ただいま」
 そう独り言を言ってから靴を脱いで、リビングへ向かった。
 がらんと静かなリビング。
 こんなに広かったっけ。
 そして、こんなに静かだったっけ。
 もう、彼と出会う前がどうだったかなんて思い出せない。
 ほんの今朝まで、「ただいま」と言えば「おかえり」と返してくれる声がそこにあった。ソファに座ってタブレットを眺める姿があった。
 千夏はカバンを床に置くと、ふらつくようにリビングの隅にある衣装ケースの前にペタンと座った。そこには彼のために買った衣服が入っている。
 引き出しを開けて、シャツを一枚手に取った。
 まったく誰も袖を通したことのない新しい匂いのするシャツ。でもそれは、彼がよく着ていたシャツ。千夏はそれを、ぎゅっと抱きしめて顔を埋めた。
 キッチンにはまだ彼が使っていた茶碗や箸が洗ったまま残っている。
 洗面所には彼の歯ブラシもある。そして、トートバッグの中には彼が愛用していたタブレットが入っていた。彼の名前が刻印された、タブレット。これが届いたとき、彼は本当に嬉しそうにしていたっけ。
 彼の痕跡が、家中のあちらこちらに残っていた。たしかに、元気という人間はこの場所にいて、一緒に暮らしていたのだ。
 それなのに、彼はもうここにはいない。
 もう、どこを探してもいない。
 この世のどこにも、いない。
 もうあの笑顔も、あたたかい声も、大きな手も、戻っては来ない。
 抱きしめて顔を埋めたシャツから、嗚咽が漏れた。
 一度堰を切って流れ出した涙は、なかなか止まらなかった。
 たったひとりきりの寒い部屋で、泣き続ける。
 その左親指には、彼が残していったペアリングが静かに輝いていた。
 元気が成仏してから、数ヶ月が経った。
 季節は巡って、再び春がやってくる。
 千夏が八坂不動産管理に異動になってから一年。そこで高村元気と出会ってからも、一年が経とうとしていた。
 元気の両親とは、彼の殺害事件の捜査に協力する際に面識ができていた。
 晴高が、生前彼と友人関係にあり、彼から手紙を託されていたという筋書きにしてあったため、彼の両親から一度会って話したいという連絡がくる。
 呼ばれたのは晴高一人だったが、彼は千夏にも「一緒にくるか?」と誘ってくれた。
 千夏は公的には、元気とは何の関係性もないことになっている。
 それどころか元気と面識があるはずがないのだ。千夏が八坂不動産管理水道橋支店に異動してきたのは彼の死後、三年も経ってからのことなのだから。
 それでも千夏は晴高の誘いに乗った。元気が生きていた痕跡をこの目で見てみたかったから。
 桜が満開を過ぎて、花びらが地面を薄桃色に変えていた土曜日。
 千夏と晴高は、高村元気の実家を訪れた。彼の実家は、以前彼が言っていたように登戸から少し歩いたところにある住宅街にあった。
 インターホンを押すなりすぐに出てきてくれた元気の母は、千夏と晴高の姿を見ると「遠いところをわざわざ、よくおいでくださいました」と、目じりを下げて二人の手を握った。
 見てすぐに、その人が元気の母親だとわかる。穏やかな目じりが、元気にそっくりだった。その後ろから出てきた彼の父親も、彼とよく似た髪質をした背が高く優しそうな男性だった。
 まず、千夏たちは奥の仏間に通される。そこには小ぶりだがセンスの良い仏壇が置かれていて、その前に写真立てに入れられた一枚の写真が飾られていた。
 生前の高村元気の写真だ。
 仏壇に手を合わせて、千夏はその写真にじっと目をやる。
(元気が、生きていたころの姿……)
 考えてみると、あれだけ一緒にいたのに、彼の生きていたころの姿を見たのはこれが初めてだった。元気の母の話によると、遺影に使った写真なのだという。
 写真の中で朗らかに笑う元気は、千夏の知っている彼だった。見ている人を安心させ、あたたかな気持ちにさせてくれる彼の笑顔。いまはもう、記憶の中にしかない懐かしい彼。
(元気、今頃どうしているんだろう)
 死後の世界がどうなっているのかは知らないけれど、きっと彼ならうまくやっているのだろうと千夏は信じている。
 そのあと小一時間、晴高と元気の両親が話すのを千夏は横で黙って聞いていた。自分は元気とは直接面識がないことになっているので、ボロが出ないように口をはさむことはしない。
 晴高が話す元気の話は、どうやって知り合ったかという部分以外は本当の話のようだった。ただし、今から四年以上前の話ではなく、つい数か月前の彼の姿ではあるけれど。
 晴高の話は千夏が知っているものもあったが、始めて聞く話もあって新鮮だった。
 千夏は知らなかったが、元気と晴高は一緒に酒を飲みに行ったこともあったらしい。同い年の彼らは、なんだかんだでお互いに友人としてやっていたようだ。
 晴高の話を聞きながら、元気の両親は生前の息子の姿を思い浮かべていたのだろう。母親は始終ハンカチを片手に目じりを拭いていたし、父親はずっとこちらにやさしい目を向けて何度も頷き返していた。
 千夏にとっても、久しぶりに元気に会えた気がして嬉しいひとときだった。
 始終和やかに訪問を終えて、高村家を後にする。電車で家へと向かう途中で、千夏はふと思い立って途中下車することにした。
「晴高さん。私、次の駅でちょっと寄り道していきます」
 次に着く駅名表示を見て、晴高も千夏がどこへ行こうとしているのかわかったのだろう。
「わかった。じゃあ、また月曜に」
 と、素っ気ない言葉が返ってくるだけで、彼は一緒に来るとは言わなかった。その気遣いが有難い。
 千夏はぺこりと頭を下げると、電車を降りた。
 そして駅前の花屋で花束を買うと、地図アプリを見ながら目的の場所へと向かった。
「あった……この交差点だ」
 そこは駅から少し歩いたところにある交差点だった。
 四年前の春、高村元気が交通事故にあった場所。この路上で、彼は亡くなったのだ。春のあたたかな風が吹くたびに、街路に植えられた桜の花びらが舞う。
 千夏は交差点の横断歩道の脇にしゃがむと、持ってきた花束を置いて手を合わせた。しばらく拝んだ後、ゆっくりと立ち上がって横断歩道を眺める。
 亡くなる直前、彼は当時付き合っていた彼女と会うために、胸ポケットに婚約指輪を忍ばせてこの道を渡っていた。
 そのときの彼の姿が目に浮かぶようだった。
 無意識に千夏は自分の指にはまった二つのリングを触る。左薬指にあるのはピンクゴールドのリング。左親指は元々元気が身につけていたシルバーのリングだ。二つはいまも、千夏の左手に輝いている。
 桜吹雪が舞う、穏やかで静かな横断歩道。
 信号が青になった。その横断歩道の先を千夏は見つめるが、動けない。通行人が次々と千夏の横を通り過ぎて渡っていく。それでも、千夏は歩き出すことはできず、ただその先を見つめていた。信号は赤に変わり、車道を何台も車が通り過ぎていく。そして、再び青になり、赤に変わり、何度繰り返しただろうか。
 もう何度目かわからない青信号。
 いつまでも渡らない千夏を不思議そうにしながら、人々が通り過ぎて行く。
 それでも足が動かない。
 そのとき。すぐ隣に人の気配を感じた。
 背の高い人影。
 ついで、柔らかな声を掛けられる。
「青だよ。渡らないの?」
 聞き覚えのある声だった。忘れるはずもない、懐かしい声。
 千夏は、ハッと顔を上げると隣を見た。
 瞬間、驚きと喜びで涙が溢れだす。
「元、気……」
 彼が立っていた。初めて会ったときと変わらないスーツ姿。ふわふわとした茶色みのある髪で、はにかんだ笑みを浮かべている彼。
「なんで……!」
 千夏は驚きで叫びだしそうになるのをこらえながら、それだけをなんとか口にした。成仏したはずの彼がなぜここにいるのか。もしかして、これは自分が見ている幻覚なんじゃないかとすら疑った。彼を想いすぎるあまりに、彼を幻視するようになったんじゃないかと。
でも、目の前の彼は消えてしまうこともなく、頭を掻くと嬉しそうに目尻を下げて微笑んだ。
「やっと、戻ってこれた」
「で、でも……成仏したはずじゃ……」
「したよ。そんで、あっち側に行った。だからもう俺、浮遊霊じゃないんだ。昇格?っていうか。守護霊とかいうやつになったんだ。でも、生きてる人間には姿を見せちゃいけないって言われて。そのあたりの調整に手間取って遅くなっちゃった」
 そう元気は申し訳なさそうに言うが、千夏は次から次へと湧き出てくる涙を振り払うように首を横に振った。
 そして、笑顔になる。涙は止まらなかったけれど、悲しい涙じゃないから。
「元気。おかえり」
 元気も、柔らかな春の木漏れ日のような笑顔で返す。
「ただいま。千夏」
 たまらず、千夏は元気に抱きついた。存在を確かめるように強く強く抱きしめる。
 たしかに、そこに元気がいた。彼のぬくもりがあった。
 それは桜の舞う、よく晴れたうららかな春の日のことだった。

 数日後、職場でのこと。
 晴高は自販機横のベンチで、昼休憩の残り時間を缶コーヒーを飲んで過ごしていた。
 隣には、成仏したはずなのにまた千夏とともにひょっこりと出勤してくるようになった元気が、同じコーヒーを手にして座っている。守護霊になったとか言ってたが、晴高の知る限りこんなに表に出てくる守護霊なんて聞いたことがない。相変わらず、存在自体がふざけた奴だ。
「なあ、お前。守護霊ってことはずっと千夏のそばにいるんだよな?」
 晴高が缶コーヒーを飲みながら聞くと、元気は両手で缶を包み込むようにして持ちながら、うんと答えた。
「そうだけど」
「じゃあさ。もしどっちかが心変わりしたらどうすんだよ。男女の関係なら、今後どうなるかなんてわからないよな?」
 生きてるもの同士なら別れてそれでお終《しま》いだ。浮遊霊と生きている人間という関係でさえも、別れることはできた。しかし、守護霊とその対象となるとそうはいかないだろう。
「もちろん、その可能性も考えたさ。でも例えそうなったとしても、俺がこれからも彼女を守り続けることには変りはないよ。千夏がもし、俺じゃない誰かを好きになってそいつと家庭を持ちたいと思うようになったら、そんときは俺もほかの守護霊たちと同じように視えなくなるだけさ」
 そう言って、元気は笑った。守護霊という存在になるにあたって、こいつもこいつなりに覚悟を決めてきたんだなというのがその言葉から伺える。
「そうか」
 もっとも、千夏のあの嬉しそうな様子を見る限り、そんな心配をする必要はなさそうだけどな。そんなことを思いながら、晴高は立ち上がって、自販機脇の缶入れに空き缶を捨てた。
 デスクに戻ろうとしたら、後ろから元気の声が引き止める。
「お前だってさ」
 晴高は振り返る。元気は缶を傾けてコクリと一口飲んだあと、やわらかく笑う。
「いるよ。お前の隣に、華奈子さん」
 元気の指摘に、晴高はハッとする。しかし、すぐにその顔にふわりと小さな笑みがこぼれた。
「そうか」
 元気も、目を細める。
「亡くなった後もさ、俺たちみたいに大切な人のそばにいることを願う霊もいるんだよ。そうして、まだ生きてる人のことを見守ってるんだ。だって、生きている人が死んだ人を想うのと同じように、俺らだって生きてる人のことをいつまでも想い続けてるんだよ」
 死は人をへだててしまう。
 でも人の心は、なくならない。
 誰かを想う気持ちは、いつまでもなくならない。
 そう言って、元気は穏やかに笑うのだった。

(完)

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