さーっと、湿気を含んだ冷たい風が森の中を吹き抜けた。
「お、おい。なんか、急に寒くなってきた気がしねぇか?」
良二は寒そうに両腕をさすった。ざわざわと森の木々がざわめく。
「そ、そうね……」
咲江も、おどおどと辺りを見回す。まだ日は陰り始めたばかりの時刻のはずなのに、いつのまにか薄暗さが増していた。
「か、帰るぞ」
良二は斜面を大股で登り始める。
「ちょっと待ってよ。おいていかないで!」
咲江もあわててそれに続いた。二人の背中が斜面を登っていく。それを元気も大股で追いかけた。そして、湧き上がる黒い気持ちを抑え込み、低い声で彼らに呼び掛ける。
『阿賀沢さん』
二人は、凍り付いたように足を止める。どうやら元気の声は彼らに届いたようだ。おろおろと辺りを見回す二人の顔は蒼白になっていた。恐怖に怯えている様子が手に取るようにわかる。
元気は、もう一度彼らの名前を呼んだ。
『良二さんと、咲江さん。覚えてますか。高村です。オレ……あなたタチニ何か失礼なコトシましたか?』
一歩一歩、彼らに歩み寄りながら低い声で尋ねる。もう彼らの顔しか見えていなかった。良二と咲江は蒼白な顔して、ただ口をパクパクさせるしかできないようだった。
『俺、何モシテナイデスよね。ナノニ、なんで俺ヲ殺しタンデスカ』
周りの木々がざわめき揺れる。風もないのに、まるで人の手で激しく揺らされたかのようにざわめいた。
『オレはナニモ見テナカッタノニ。なのにアンタタチは、カッテニ俺のことを邪魔だと思って殺シタんだ』
咲江は尻から倒れこみ、あわあわとポケットから数珠を出して拝みだした。般若心境のようなものを唱えているが、そんなもの苦しくも何ともない。晴高の読経と比べると、蚊に刺された程度の威力しかなかった。
咲江の横を通りすぎたとき、彼女がもつ数珠が勝手に引きちぎれる。
良二に追いつくと、元気は両腕で彼の喉を掴んだ。
『ジャアオレガ、アンタタチノコトヲ殺シテモイイッテコトデスヨネ?』
そのときはじめて良二の目が元気の姿を捉えたようだった。身体に触れたことで、視えるようになったのかもしれない。その目に怯えが色濃く影を落とす。
「わ、わるかった……すまんっ、このとおりだっ」
良二は元気の腕を引き離そうと掴んだが、どれだけ爪を立てられようが痛みなんて感じない。だって、自分は死んでいるんだから。
元気の腕や身体から黒いモヤのようなものが立ち上りはじめていた。
『ユルサナイ……オマエラモシネバイイ』
元気は良二の首を掴む腕に力を込めた。
「……かはっ……」
良二の顔が赤く染まる。それでも元気は力を弱めなかった。そのとき。
良二のズボンのポケットから何かがするりと落ちた。見ると、それは良二のスマホだった。
元気の目が揺らぐ。憎しみと怒りに覆われそうになっていた元気の心に、一瞬、別の感情がよぎった。
そうだ。約束してたんだ。遺体の場所を見つけたら、連絡するって。
連絡する? 誰に? 誰に。
スマホに注意がいったことで、良二を掴む腕の力が弱まったのだろう。良二は元気の腕を振り払うと、地面に倒れこむ。数回咳をすると、一目散に斜面を登り始めた。それを見て、咲江も半狂乱に叫びながら良二を追って斜面を登っていった。
しかし、元気の視線はスマホにくぎ付けになったままだった。
誰に、連絡するんだった? 誰か。大切な人。連絡をいまもきっと待っている人。
(そうだ。千夏だ)
そう思ったときには、身をかがめてスマホを手に取っていた。幸いロックはかかっていない。千夏の番号なら、暗記してある。一瞬ためらったものの、指でその番号を押した。
数回のコールのあと、彼女の声が聞こえた。なんだかとても懐かしく思える。目が潤んで、元気の顔が歪んだ。
スマホにかかってきた、見知らぬ番号。ごくりと生唾を飲み込んで、千夏は応答ボタンを押すとスマホに耳をつけた。
「はい」
電話の相手は無言。何もしゃべりかけてこない。でも、千夏にはその相手が元気だという強い確信があった。
「元気? 元気なの?」
相手はやはり何も答えない。なおも千夏は一方的に受話器に話しかけた。
「元気!? いま、どこにるの? 私たち、いまそっちに向かっているの」
晴高が車を路肩に止めると、運転席からこちらを振り向いてハンズフリーにするように小声で言ってくる。すぐに千夏は言われたとおりにすると、なおもスマホの向こうにいる相手に話しかけた。
「元気!! 返事して。元気。大丈夫なの?」
『チナツ』
ようやく向こうから声が返ってきた。その声は、たしかに元気の声だった。
でも、いつもと違い、なぜかぞくっとする寒さを感じる声。
いつもなら元気の声を聴けばいつも安心するのに、不安がどんどん強くなる。
「元気! いまどこにいるの?」
しかし元気はそれには答えない。その代わりに彼は別のことを言ってきた。
『……俺やっぱりユルセナイ。だから』
「だから?」
『チナツはこのケンモ、オレノことも忘レテホシイ。ごめん……』
息ができなくなる気がした。聞き間違いだと思いたかった。しゃくりあげるように無理やり息を吸い込む。なぜか笑みが零れた。涙も零れた。
「何を言ってるの? 元気。お願い、教えて。いますぐ私たち、そっちに駆け付けるから。いま、どこにいるのか教えて! 元気!」
彼が自分のもとから離れていこうとしているのがわかった。もう永遠に戻ってくるつもりはないのだと。
『ゴメン……それと、いままでありがとう』
いやだ。そんな別れの挨拶みたいなもの聞きたくない。
「元気。お願い。私の元に帰ってこなくてもいいから。でも、それでも。悪霊になったりしないで。そんな、これからももっとずっと苦しむようなことしないで」
視界が滲む。ぽたりと雫がスマホに落ちた。
『ごめん。それでも俺、ヤッパリアイツラヲミノガセナイ』
そのとき、晴高が運転席から手を伸ばしてきて千夏の手にあったスマホを掴むと話しかけた。
「おい。元気」
『晴高も。ごめん。俺、ジョレイ……』
「お前はまた繰り返すのか?」
除霊という言葉を晴高は打ち消すように言う。
『……でも』
スマホを通して聞こえる元気の声は、心なしか震えていた。
「お前はまた、好きな女を悲しませんのか?」
『……』
「愛してるんだろ? 大切なんだろ!?」
『俺は……』
晴高は畳みかける。
「なのに、お前は彼女を見捨てるのか? 彼女はお前を失って、一人で悲しんで、一人で立ち直って、お前じゃない誰かとお前のいない新たな人生を歩みだすんだよ。お前は今回も置いてけぼりで何もできないままだ。ただ悲しませて傷つかせて、絶望に叩き込んでおいて」
そこで一呼吸をおいて、強い口調で訴えた。
「前は不可抗力だったかもしれんが、いまは違うよな!? お前は選べるんだ。お前、それで本当にいいのかよ!?」
しばらくの沈黙。スマホからは、微かに嗚咽のようなものが聞こえてきた。
どれくらい経っただろう。
『わかった。場所を言う……』
元気のその言葉に、晴高はほっと安堵の息を漏らし、千夏はわたわたとトートバッグからメモ帳とペンを取り出した。そして、元気が言う場所をメモする。
メモした後、あちらのスマホの充電が切れそうというので一旦スマホを切ると、晴高は教えられた場所に向かって車を発進させた。
元気がいるのは千夏たちがいる場所から、さほど離れてはいない場所だった。切れたスマホを手に、千夏は祈るように目を閉じて額にあてる。
(どうか。元気が悪霊になっていたりしませんように。どうか。元の元気のままでいてくれますように)
晴高はスマホの地図アプリをたよりに、どんどん山深い方へと車を進めた。
晴高が元気を説得して、場所を聞き出してくれたおかげでなんとか道がつながった。しかも、晴高があんな風に声をあげて元気のことを説得してくれたのは意外だった。彼にとっては元気が悪霊になったとしても除霊してしまえばそれで済む話なのに。
「あの……晴高、さん」
千夏は運転席の彼に、ためらいがちに声をかける。
「ん?」
晴高は視線を前にむけたまま、聞き返してきた。
「さっきは、ありがとうございます。私だけだったら、元気を心変わりさせることができたかどうか」
「あの幽霊男が心変わりしたのは、お前の存在のおかげだと思うがな。俺はただ、事実を言っただけだ」
と、なんでもないことのように言う。
「でも……おかげで、元気。場所を言ってくれましたし」
「言っとくが。まだあいつが悪霊になってないかどうかは、声だけでは俺にもわからん。阿賀沢夫妻もどうなったかわからんしな。すべては現地についてみないとなんとも」
それは、確かにそうなのだ。
先ほど聞いた元気の声が思い起こされる。
あれは間違いなく元気の声のはずだった。それなのに、どこか遠くから聞こえているような、冷たい響きのある声でもあった。
「もしあいつが悪霊化していたら、お前の前だろうとなんだろうとその場で除霊する。いいな」
心を決めて、こくんと千夏はうなずく。
「……わかってます」
窓の外を見ると、そろそろ日が暮れ始めていた。
(元気……どうか、無事でいて……)
祈るしかできないことが、とてももどかしかった。
空が夕焼けに染まる黄昏時。
晴高の車は、スマホの地図アプリを頼りに森の中の舗装されていない道を進んでいた。元気に教えられた地点にはもうかなり近いはず。
「いた。あそこだ」
晴高は念のため、少し手前で車を止めた。山道から少し下った場所に、膝立ちになり頭を垂れた人影が見える。千夏と晴高は車から降りた。離れていてもわかる、明るめの髪色にスーツ姿の長身の男性。
「元気……!」
千夏が元気のもとへと降りていこうとするのを、晴高は腕を掴んでとめた。
「晴高さん……」
晴高は目を細めて注意深く元気を観察する。無言で眺めていたが少しして、はぁと小さく息を漏らす。
「いまのところ、大丈夫そうだ。悪霊っぽい気配は感じられない」
それを耳にした瞬間、千夏は元気の元に駆け出していた。
「元気!」
彼は、膝立ちのまま握りこんだ両手を額にあて、祈るような姿勢のまま微動だにしなかった。千夏は彼の手前で立ち止ると、おそるおそる彼に近づいていく。
「……元気?」
千夏が近づいてくる気配に気づいたのか、彼がゆっくりと顔をあげた。
そして千夏の顔をみると、心の底から安堵したような表情を浮かべる。彼の頬は涙で濡れていた。
「千夏……。俺、あいつらに……あいつらを殺そうと思った。でも……でも……」
彼が大事そうに包み込んでいた両手を開いた。その手のひらには、共に交わしたあのリングが握られていた。
「千夏を失いたくなかった。もう一人になんかなりたくない。ただ、君の存在だけが……君を想うと、こっち側にいなきゃだめだって思って……」
千夏も彼の前に膝をつくと、彼の両手を自分の手でやさしく包み込む。
彼がぎりぎりのところで踏みとどまってくれたのがわかった。それがどれだけ、強い意志を要するものだったことか。どれだけ、たくさんの感情を乗り越える必要があったのか。それらを乗り越えて、いまここに元気がいる。元のままの彼がいる。そのことに、嬉しさと感謝の気持ちでいっぱいだった。
「うん……こっち側にいてくれて、ありがとう。元気。あなたに会いたかった。ずっと」
「俺も……」
彼と額をくっつける。ぎゅっと包みこんだ彼の手を強く握って、どちらともなく目を閉じた。温かな体温とともに彼の優しさが伝わってくるようだった。お互いの存在がすぐ間近に感じ、溶け合うように思えた。
「おかえり。元気」
顔を離してそう笑みをこぼすと、彼の顔にも笑顔が広がる。
「ただいま」
そう返した彼は、優しく穏やかな彼のままだった。
その後。
千夏たちは警察に全てを伝えた。
とはいっても、霊云々のところはそのまま伝えたところで信じてもらえるはずもない。そこで、多少話を脚色することにした。
幸運にも、生前の元気と晴高は同じ建物で仕事をしていた時期がある。そこで、当時から元気と晴高は友人だったということにしたのだ。会社は違えど、同じ建物の二階と三階で働く間柄。何かの拍子で知り合って友人になっていたとしても別におかしくはない。
そして、元気は生前、阿賀沢浩司の殺害と遺体遺棄を偶然知ってしまい、あの殺害の瞬間が写った写真のアドレスとともに、「もしかしたら自分も殺されるかもしれない」と記した直筆の手紙を晴高に渡してあったことにした。
ちなみに、その手紙は幽霊になった元気が書いたものだ。だから筆跡は問題ない。
晴高はずっとその手紙と写真を持っていたが、報復を恐れて警察に言えずにいた。しかし、たまたまあの神田の物件を調査することになり、そこで元気のスマホを発見したことで今になってすべてを警察に打ち明けることにした……という筋書きにしたのだ。
警察は筆跡鑑定の結果、その手紙を高村元気の直筆のものと認定。
そこに書かれた証言をもとに都内の山中を捜索したところ、白骨化した遺体を発見した。DNA鑑定の結果、その遺体は阿賀沢浩司のものと断定された。
すぐに逮捕状が発行され、阿賀沢良二とその妻・咲江は逮捕される。
そのとき、彼らはひどく衰弱した様子で、あっさりと罪を認めたのだという。
また、交通事故として処理されていた高村元気の件も捜査が開始された。
高村元気を車で轢いた男も、阿賀沢夫妻が逮捕されるとすぐに、多重債務の肩代わりを条件に殺害を依頼されて引き受けたことを自白した。
それにより、実行犯の男はもちろんのこと、阿賀沢夫妻も高村元気の殺人教唆で再逮捕されたのだった。
ある金曜日の午前中。
いつものように千夏が自分のデスクで仕事をしていると、隣のデスクでタブレットを見ていた元気が声をかけてきた。
「千夏。君の口座に、少しだけどお金入れといた」
「え? あ、うん。ありがとう」
すぐに自分のネット口座の残高を確認してみると、確かに少し増えている。最近、元気はこうやって月に何度か、生活費としてデイトレードでの売り上げを千夏にくれるようになっていた。
とはいえ、元気の食べたものは結局は千夏の胃袋に入るのだし、彼と同居するにあたってさほどお金がかかるわけでもないのだが、元気は生活費を千夏に渡したいらしい。
「順調に利益がでるようになってきたんだね」
「最近はね。俺さ、昔から仕事しないでデイトレードで暮らしたいなってずっと思ってたんだよね。それ考えると、今の生活はあのころ考えてた理想といえば理想なんだよな」
「死んでるけどね」
「そう。死んでるっていうのが、唯一理想と違うんだ」
そんなことを言いながら、元気は笑う。名は体を表すというか、本当に元気は元気な幽霊だなぁと千夏は目を細めた。阿賀沢夫妻が逮捕されたら元気は成仏してしまうんじゃないかと密かに心配してもいたけれど、今のところそんな気配もなさそうだ。
「お前、うちの案件の現場検証も手伝っているしな。本来なら給料も出すべきなのかもしれんが」
と向いのデスクに座る晴高が、パソコンから視線を離すことなく言う。
「幽霊にお給料を出すなんて、前代未聞ですね」
千夏がくすりと笑って言うと、晴高はファイルを片手に椅子から立ちあがり、「そうだな」と返す。
ファイルをキャビネットに仕舞いにいくのだろう。
けれど、晴高はキャビネットの方へ歩きかけたところで、突然ぐらっと態勢を崩した。手に持っていたファイルがドサっと床に落ちる。
とっさに壁に手をついて支えようとしたようだったけれど、そのまま床に倒れこんでしまった。
「晴高さんっ!?」
慌てて千夏と元気は彼のもとに駆け寄る。
ほかの職員たちも異変に気付いて、ざわざわと集まってきた。
床にうつぶせに倒れた晴高はピクリとも動かない。千夏は彼のそばに膝をつくと、その身体を揺さぶった。
「晴高さんっ!! 大丈夫ですか!?」
よく見ると、もともと色白な彼の肌は、血の気が引いたように蒼白だった。
「救急車、呼んだ方がよくないか?」
そばで様子を伺っていた元気の声に、千夏ははじかれたように顔をあげると、
「そうだ、救急車!」
立ち上がってデスクの電話に手を伸ばそうとした。
その際、身体が元気に触れる。
(え?)
急に千夏の頭の中でバチンと何かがスパークした。霊と同調するときの前兆と同じ感覚。
しかし、いまここにいる霊は元気だけだ。彼だけに触れても今までこんなことなんてなかったのに。
…………。
戸惑う千夏におかまいなしに、千夏の視界一面が真っ白く覆われた。
眩しい。事情がわからないながらも、千夏は目を眇める。周りのざわめきが遠くなっていった。
その白い光が収まって目を開けると、見慣れたいつものオフィスの景色に、別の景色が重なって見えた。
昼間の屋外のようだった。柔らかな日差しの降り注ぐテラスにあるベンチ。そこに座って、静かに本を読んでいるようだった。そのとき、ふいに誰かに声をかけられる。
「カナコおねえちゃん!」
名前を呼ばれて顔を上げると、母親に付き添われた五歳くらいの男の子がこちらにやってくるところだった。その子はパジャマ姿で、傍らには点滴をつけたキャスターを引いている。
どうやらここは病院のテラスのようだった。彼らの後ろには、いま彼らが出てきたと思しき大きな病院の建物が見える。
母親がこちらにぺこりと頭をさげてくるので、カナコと呼ばれたその人も頭を下げる。男の子は親し気な様子でカナコの隣に座った。
「ソウタくん。今日は顔色いいね」
「うん。今日はすごくいいの」
ソウタというその男の子はベンチに座るとまだ足がつかないようで、足をブラブラさせながら話し始める。子供用の小さなスリッパが、彼の足から脱げそうになっていた。
「なんのエホンよんでたの?」
カナコが読んでいるのは小説のようだったが、ソウタはきっとまだ本といえば絵本しか知らない年ごろなのだろう。
「えっとね。旅行記、かな。いろんな土地に旅をするお話」
なるべく小さな子にもわかるようにかみ砕いて教えるカナコの言葉に、ソウタは「フーン」とわかってるのかわかってないのかよくわからない返事をすると、また足を交互に揺らした。その拍子に、片足のスリッパが脱げてしまう。
「ぼく、スリッパいやだな。すぐぬげちゃう」
そうぽつりとつぶやくと、カナコを見上げてにっこり笑う。
「ぼく早くよくなって、おそとにでたい! テラスじゃなくて、下のお庭とか、おうちとか、もっともっといろんなとこ」
ソウタの無邪気な言葉に、そばに寄り添っていた母親が一瞬泣きそうなほどに顔をゆがめたのをカナコは見てしまった。慌てて見なかったことにするように、目をそらす。だけどそんなことを知ってか知らずか、母親は一瞬見せた表情とは裏腹に明るい声で返した。
「そのときには、足にあった靴を買わなきゃね。ここに来るときに履いてきた靴は、もう小さくなって履けなくなってしまったものね」
その声は、どこか無理やり明るく保とうとしているような雰囲気があった。でも、母親の言葉に、ソウタは「うんっ」と元気にうなずいた。
場面が変わって、あたりが急に薄暗くなる。
場所は室内のようだったけれど、窓は割れて裂けたカーテンが垂れ、椅子やテーブルがあちこちに散乱していた。
急に廃墟の中に放り込まれたようだ。
人の気配はまったくないように思えたが、部屋の片隅からか細い声が聞こえる。
それはよく聞くと子どもの泣き声で、部屋の隅にある手洗い場の下の収納扉の中から聞こえてくるようだった。
割れた窓から吹き込む風がその子の声をかき消すけれど、風がやんだ一瞬。
その子が、しゃくりあげながらつぶやくのが聞こえた。
「……クツガ、ナイノ……」
…………。
バチン、と再び頭の中に静電気が走るような衝撃があって、千夏は我に返った。
今、視えていたものは何だろう。ここには元気以外の霊の気配なんてないはずなのに、誰と同調して誰の記憶を視たのだろう。
気がつくと晴高は既に意識を取り戻していたようで、床に手をついて起き上がろうとしていた。慌てて千夏も彼に手を貸す。
「だ、大丈夫かい?」
百瀬課長もおろおろと心配している様子だったけれど、晴高はまだ青ざめた顔をしつつも、
「大丈夫です。ちょっと、立ち眩みがしただけですから……」
と、きっぱり答えた。
「でも、すぐに病院行った方がいいですよ。救急車、呼びましょうか?」
千夏の言葉に、晴高はゆるゆると頭を横に振る。
「本当に、なんでもない。ただ疲れが溜まっただけだ……」
本人は大丈夫と言い張るが、はた目で見る限りはとてもそうは見えなかった。
元気に目をやると、彼も心配そうな目で晴高を見ている。
「とにかく、午後は休みとって帰れよ。んで医者行くか、寝てるかしてろ。無理してると早死にすんぞ」
そう幽霊の元気に気遣われて、晴高は黙りこくる。千夏も、
「そうですよ。仕事だったら、急ぎの奴は私でやっておきますから。帰った方がいいですよ」
もうここに異動になってから何か月も経つんだし。晴高が一日くらいいなくても、千夏だけでも仕事は回せる。その言葉に元気も、うんうんとうなずいた。
「そうそう。俺も手伝うしさ」
二人に言われ、ついでに百瀬課長も「そうしたほうがいい」と言うので、晴高は渋々だったが午後は有給休暇を取ってくれた。
彼の体調が幾分落ち着いてから簡単に急ぎの仕事の引継ぎを受けていると、もう昼休みの時間になっていた。帰り支度を始める晴高。外のコンビニに昼ご飯を買いにいくので途中まで送って行こうと思っていた千夏は、ふと先ほど晴高が倒れたときにおこった不可解な出来事を思い出す。
「そういえば、さっき晴高さんが倒れた時。なぜか霊と同調したときと同じようなことが起こったんですよね」
「……なんだって?」
自分のノートパソコンをシャットダウンさせていた晴高が、手を止めて怪訝そうにこちらを見る。千夏は「視えたよね?」と元気に尋ねると、彼もこくんと頷いた。
「なんか病院のテラスみたいなとこだった。ベンチで小さな男の子と話してて、若い女性の記憶みたいだったな。なんだっけ、男の子がその人の名前呼んでたよな。えっと……か、か……」
「カナコおねえちゃん?」
と、千夏。
「そう! カナコおねえちゃんって呼んでた」
それを聞いて、切れ長な晴高の目が大きく見開かれ、驚いたように千夏たちを見た。
「カナコ……?」
「晴高さん、心当たりあるんですか?」
晴高はサッと千夏から視線を逸らす。しかし、その瞳は、彼にしては珍しくおどおどと不安げにさまよっていた。
「まさか、そんなことって……」
そう呟くのが聞こえたが、元気が「知り合い?」と尋ねると、少しあってから晴高は首を横に振った。
「いや、知らない」
やけにきっぱりと否定されたものだから、それ以上は千夏も元気も追及はできなかった。その後、一緒に会社を出ると、駅の方向に歩いていってコンビニの前で分かれる。
「ちゃんと休めよー」
そう声をかける元気に、晴高は「ああ」と小さく答えると駅の方へ歩いて行った。
その後ろ姿はいつになく生気がないように感じられて、千夏の胸にチクリと不安が広がる。彼の姿が人ごみの間に見えなくなってから、千夏は元気に聞いてみた。
「ねえ。元気も見たよね?」
「ん?」
「さっき晴高さんが倒れたときに見えた記憶の……一番最後」
あれは、荒廃した室内の景色のようだった。そこの手洗い場の下で閉じこもっていた子ども。なぜあんな場所に子どもが一人でいるのか、理由はさっぱりわからない。ただ、泣き声とほんの一言しか聞こえなかったけれど、あの声はもしかすると初めの景色に出てきた男の子、ソウタくんなんじゃないかなという気が強くしていた。
「俺も見た。でも……すごく禍々しい雰囲気を感じて、晴高には言えなかったな」
なんだか良くないことが起きようとしているようで、不吉な予感がいつまでも心のどこかにこびりついては離れなかった。
その日の夜。千夏は晩御飯を作りながら、ふと晴高のことが気にかかった。あんなに体調が悪そうだったけど、ちゃんと家まで帰りついたのかな。それに彼は独身のはず。看病してくれる人がいるようにも思えない。
迷惑かなと思いつつも電話をかけてみることにした。しかし、何回コールしてみても晴高は電話にでなかった。胸騒ぎがどんどん強くなる。晴高を通して見えた、あの禍々しい霊の記憶のようなものも気になっていた。
「元気……私、ちょっと晴高さんの家まで行ってみようと思うの」
「うん。それがいいかもね。住所、わかる?」
元気に言われ、千夏は少し考える。
「もし課長か総務の誰かが残っていれば、電話で事情を話せば教えてもらえるかも」
早速職場に電話すると、運よく課長が残っていた。事情を話すと、それは心配だからとすぐに職員のデータベースから晴高の住所をみつけてきて教えてくれる。
千夏と元気はすぐにタクシーで晴高のマンションへと向かった。途中でコンビニに寄って飲み物やおかゆのレトルトなども買っていく。
彼の住まいは三田線巣鴨駅から少し歩いた閑静な住宅街にある賃貸マンションだった。彼の部屋は、三階の301号室。表札は出ていなかったが、この部屋のはずだ。
千夏はインターホンを押す。しかし、何の反応も帰ってこない。室内でインターホンが鳴っていることはドア越しに聞こえてくるのに、それ以外の物音はまったくしなかった。
廊下に面した曇りガラスの窓からも室内の明かりは見えない。
千夏は、ドンドンとドアを叩く。
「晴高さん! 山崎です!」
やはり、何の反応もなかった。
「留守なのかな」
どこかにでかけているのだろうか。今はもう夜の十時過ぎ。あんなに体調が悪そうだったのに、こんな時間まで出歩いているとは思えないのだが。
管理人さんに頼んで開けてもらおうか。でも、本当に留守だったら勝手に入ったことが知られたら怒られるだろうな。そう思って迷っていたら、元気がドアに手をあてて神妙な顔をしていた。
「どうしたの?」
「いや……なんか、おかしくないか? この向こう。妙に霊的な力を感じる」
千夏にはよくわからなかったが、元気は霊的な何かを感じたらしい。
「そうなの……? え、それってどういうこと?」
「わからない。でも、良い状態じゃない。なんか、霊的に閉じられているというか、壁のようなものがあるというか」
心配になって、ダメもとでノブを回してみる。すると、鍵がかかっていなかったのか、するりと開いた。
「あ、開いてる!」
室内は暗く、照明は一切ついていなかった。
しかし、廊下から漏れ入る光で、玄関に晴高のものと思しき黒の革靴が置いてあるのが目に入る。しかもその靴は脱ぎ散らかされていた。几帳面な晴高らしくない行動。よほど体調が悪かったのか、それとも……。
「晴高さん!?」
千夏は闇に沈む室内に声をかけるが、返答はない。玄関の壁を触って照明スイッチを探すとすぐに見つかった。でもいくら押しても、カチッカチッと鳴るだけでなぜか照明がつかない。
千夏は靴を脱ぐと、家に上がった。
「晴高さんっ、いますか!?」
入ってまず感じたのは、異様に暗いということだった。
リビングの奥にある掃き出し窓のカーテンは閉められていないのに、まったく外の光が入って来ていないかのような暗さだった。
千夏が開けたドアから漏れ入る外廊下の光だけが唯一の光源。
懐中電灯を持ってこなかったことを悔やみながら、千夏は室内に足を踏み入れる。そのとき。
「……く、るな……」
呻き声のようなものが耳をかすめた。すぐに声のした方に目を向けると、リビングの壁際にひときわ闇の濃い場所があった。まるで、そこだけ墨でぬりつぶされたようだ。その中に、わずかに人の腕のようなものが見えていた。
「晴高!!!」
元気はその闇の方へと駆け寄ると、闇の一部を掴んだ。
「なんだ、これ!?」
強く引きはがすと、人の形のように闇が切り取られる。
「千夏! 塩!」
あっけにとられていた千夏だったが、元気の声で我に返るとトートバッグからお清めの塩を取り出した。こんな仕事をしている以上、念のために常備しているものだ。普段は小分けにして持ち歩いているのだけど、今回は保存用のタッパーごと大量に持ってきていた。そのタッパーを取り出すと、元気に引きはがされた人影のような闇に千夏は塩を投げつける。
………アアアアアア………
影は悶え苦しむように身体をくねらせていたが、やがてスッっと闇に溶け込むように消えてしまった。
「こら。晴高にまとわりつくなよっ」
さらに、元気は晴高の身体にとりついている影を引っぺがしていく。黒い闇は明らかに何らかの霊体のようだった。霊体なんて普通は触れられるものではないが、同じ霊体である元気は人が人を掴むのと同じような容易さで霊体を掴んで晴高の身体から剥がしていく。
「きゃあああっ」
こっちに向かってきた黒い影に千夏はお清めの塩を鷲掴みにしてドンドン投げつけた。今度は呻き声を発する暇もなく、影は消えてしまう。
そうやって何体処理したのだろうか。はがしてもはがしても埒があかないくらい、何重にも闇のような人影が晴高にまとわりついていた。しかしそれも、ついにはすべて元気によって引きはがされ、千夏の塩で消えてしまう。
終わったと思った瞬間、バチバチと天井の照明が明滅して、パッと家中の明かりが点いた。部屋の空気も、すっかり正常なものに戻る。
晴高はリビングの床に四つん這いになっていた。黒髪も全身もぐっしょりと汗に濡れ、肩で大きく息をしている。苦しそうだ。ついでにいうと、千夏の撒いた塩まみれにもなっている。
「晴高……大丈夫か?」
元気が床に手をついて晴高をのぞき込むと、彼はまだ辛そうだったが小さく頷いた。
千夏が床に撒いた塩を掃除機で片づけていると、怪しいものがないか見回りに行っていた元気がリビングへと戻ってきた。
「悪い気配はほとんど消えてるみたいだ。あっちの部屋の奥とかベランダとかには、ごちゃごちゃ黒いモヤみたいなのがわだかまってたところが何か所かあったから、蹴散らしておいた」
「ありがとう」
そんな会話をしていたら、シャワーを浴びに浴室に行っていた晴高も戻ってきた。さっきまでいつものスーツを着ていた晴高だったが、今はさすがに部屋着に着替えている。彼は戻ってくるなり、ソファにどさっと横になって目を閉じた。まだどこか体調が悪いのかもしれない。
晴高に、さっきの悪霊みたいなものがなんだったのか聞いてみたい気持ちは強かった。でも、憔悴している彼に今それを聞くのは酷な気がして聞けないでいる。元気も心配そうだ。
さて、このあとどうしよう。あの悪霊みたいなものが晴高の体調不良の原因だろうというのは千夏にもわかる。壁にかかった時計はもう夜の十二時過ぎを指していた。このまま晴高を一人にしておけばまた同じ状態にならないとも限らないから、彼をここに置いて帰るのは不安だった。どうしようかな、そんなことを悩んでいたらボソボソと晴高の声が聞こえてきた。
「……すまなかったな」
いつものような張りの感じられない、弱い声音。
「いえ。何度か電話したんですが、出なかったので心配になって。あ、カギは開いてたので勝手に入ってきちゃいました……すみません」
緊急事態だったとはいえ勝手に入ってしまったことを気まずく思う千夏だったが、晴高は何も言わなかった。
元気はダイニングテーブルの椅子を引っ張ってきてソファのそばに置くと、背もたれに抱き着くようにして座る。
「……なあ。俺、霊のことはよくわかんねぇけど、お前、まじでヤバイことになってんじゃないのか?」
強い調子が滲む元気の声。けれど、晴高は目をつぶったまま何も答えなかった。
もしかして眠ってしまったのかなと千夏が思い始めたころ、晴高はうっすらと目を開けてボソッと返してきた。
「……どっから、話したらいいんだろうな」
そうしてしばらく天井を見ながら何か考えているようだったが、やがて晴高はゆっくり起き上がるとソファに座った。
もとから色白な彼の顔色は、病的なまでに白くなっている。いまにもまた倒れてしまうんじゃないかと、千夏は内心はらはらしていた。
彼は膝に置いた腕で額を押さえて、身体の中の辛さを吐き出すように言った。
「お前らが昼間見たっていうカナコという女性は……おそらく、雨宮華奈子。俺が昔、つきあってた恋人の名前だ」
きっと、あのずっと右薬指につけているペアリングの相手なのだろう。と、千夏は察する。
「彼女は三年前に病死した。もともと身体が弱い子で、二十歳まで生きられないって言われてたから、二十二まで生きたのは幸運だったんだろうな」
彼女の葬儀はつつがなく行われたはずだった。しかし、それだけでは終わらなかったのだと晴高は言う。
「しばらくして、アイツが入院してた病院でおかしなことが起こりはじめたんだ。夜な夜な、いるはずのない人間の足音が聞こえたり、話し声がしたり。いろいろな霊障がおこって、マスコミに心霊病院なんて紹介されるほどになっていた」
妙な胸騒ぎを覚えて晴高はその病院を訪れるが、病院の様子が以前とは様変わりしていたことに驚いたのだそうだ。
「華奈子が入院してたころ、俺もよく見舞いに行ってたんだ。けど、そのころは感じたことのないような禍々しい瘴気のようなものに包まれていた」
「もしかして、そこに華奈子さんの霊もいた?」
元気の問いかけに、晴高は少し迷ったあとコクンと頷いた。
「あいつの気配を感じた。……驚いたよ。てっきり、成仏したとばっかり思っていたから。どうやら、あいつは悪霊たちに取り巻かれてあそこに閉じ込められているようなんだ。でも、気配はそれだけじゃなかった。たくさんの霊の、それも悪霊といわれるものの気配があそこにあった」
いつの間にか、病院は悪霊たちの巣窟になっていたのだそうだ。
もちろんそんな状態になって経営がうまくいくはずもない。ちょうど施設が老朽化しつつあったこともあって、病院側はその建物を放棄して別の場所に移転したのだという。
「あそこには昔から霊の通り道があったらしいんだ。そこに病院を建てたのがまずかったんだろうな。でもそれだけならまぁ、普通より心霊現象が多く起こるくらいで済んだのかもしれないが、運悪く病院で死んだやつの中にとても霊力が高いやつがいたんだ。そいつが核となって霊道を通りがかった霊やら付近の悪霊やらを呼び寄せて、あんなになっちまったらしい」
いっきに話して疲れたのか、晴高がふぅと息を吐きだす。
「廃墟になってからは、以前に増して日に日に悪霊は増えている。それを俺は、暇さえあればあそこに祓いに行っていたんだが……とうとう手に負えなくなって、このありさまだ。……迷惑かけたな」
そう言うと、晴高はふらりと立ち上がってキッチンカウンターに置いてあった車のキーを手に取り、玄関へ行こうとした。まだふらふらとしていて足取りがおぼつかない。どこへ行こうというのだろう。いや、どこへ行くのかは想像はついた。
千夏は玄関の手前で彼の前に立ちはだかる。
「…………」
晴高は怪訝そうに、千夏を見下ろした。やつれているせいか、いつもより眼光が鋭い。思わず怯みそうになりながらも、千夏はキッと晴高を見返した。
「どこへ、行くんですか」
「決まってるだろ。どんどん悪霊が増えてる。俺が祓わないと」
「そんな身体で、そんなとこに行けるわけないじゃないですか!」
「俺がやらなかったら、誰がやるんだ。そうしないと、華奈子はいつまでも」
晴高が腕で千夏を押しのけ、なおも玄関へ向かおうとしたため千夏は彼の腕を掴んで引き留める。
「それなら、私たちも一緒に行きます」
睨むようにして千夏が言う。晴高だけを行かせるわけにはいかない。
しかし、晴高はぴしゃりと拒絶した。
「だめだ。お前らには危険すぎる」
「晴高さんにとっても危険ですよね?」
すぐに千夏は言い返す。さらに傍に来た元気が付け加える。
「お前、すでにそこのやつらに憑りつかれてんだろ。さっきの黒い霊たちはなんだよ。あれ、悪霊ってやつだろ? このまんまだと、どんどん衰弱してしまいには死んじまうよ? ……お前まさかさ、死んじまってもいいとか思ってないよな?」
その元気の言葉に、晴高の瞳がわずかに揺れたように千夏には思えた。
その廃病院には彼の恋人の華奈子の霊もいるのだ。そういう心理に陥る気持ちもわからないではない。でも、それが晴高にとって良いことだとは千夏には到底思えなかった。
「お前、俺に悪霊になるなって言っておきながら、お前が悪霊に食われに行くなんてどういうことだよ?」
元気の言葉は、言っている内容とは裏腹に晴高を責める調子ではなかった。口ぶりから、ただ晴高の力になりたいと思っているのが伝わってくる。
晴高は二人から視線をそらして、唇をかむようにジッと床を見つめていた。
沈黙を破ったのは、千夏だった。
「私……もう一つ気になっていることがあるんです。前に晴高さんが倒れたとき、生前の華奈子さんのものらしき記憶を見たと言いました。でも、見たものはそれだけじゃないんです」
千夏がそう言うと、晴高は千夏を見て怪訝そうに眉を寄せた。
「ほかに……? ……何を見たんだ?」
言ってもいいよね?と元気に目で確認すると、彼はこちらの意図に気づいて小さく頷き返して晴高に話し始めた。
「あの景色は、どこかの廃墟の中だった。そこらじゅうに禍々しい空気が漂っていて。その部屋の隅に隠れて小さな男の子が泣いてたんだ。あれ、たぶん、最初に見たソウタって子だと思う」
元気も、やはりあの泣き声はソウタのものだと感じたようだった。
今度は、千夏が引継いで話を続ける。
「そのソウタ君が言ってたんです。……靴、どこ……って。ソウタくんは病気を治して外に出るのを夢見ていました。彼は入院中で、病院のスリッパを履いていたから。元気になったら靴を買ってもらう約束をお母さんとしていました。もしかして彼は靴がなくて、いまだにあの病院から出られずにいるんじゃないでしょうか。それに、初めのテラスの景色は華奈子さんの目から見たものでした。ということは……」
千夏の言葉に、晴高が驚いたように息をのむのがわかった。
「その廃墟の景色を見ていたのも……」
千夏は大きくうなずく。
「あれは死後の華奈子さんが見た記憶なんじゃないかと思うんです。私が霊に触れて視える記憶は、その人にとってとても想いの籠った記憶ばかりです。だから、もしかしてあの光景には何か深い意味があるんじゃないかと思って……」
そこまで話した後、元気があっけらかんと言う。
「意味もなにも。ソウタは靴が欲しかったんだろ? だったら、靴を届けてあげりゃいいじゃん?」
その言葉に、晴高はしばらく何かを考えた後、はぁっと嘆息を漏らした。
「たしかに、俺もあの病院に行ったときに悪霊たちの中から子どもの泣き声らしきものを聞いたことがある。ソイツが泣くたびに霊たちは力を増しているようにも見えた。それが、そのソウタってやつである可能性は高いのかもしれんな。だとすると、欲しがっていた靴をあげれば何かが変わるかもしれない」
とりあえず、やるべきことは決まったみたい。三人は一緒に、廃病院へと行ってみることになった。
とはいえ、ひとまず晴高には休息が必要。このまま霊のでた部屋に一人で置いておくのも何かと不安なので、タクシーを拾って千夏の家まで彼を連れていくことにした。千夏の家に着くと晴高にはリビングのソファで寝てもらうことにする。いつもは元気が使っているけれど、彼は寝なくても平気なので構わないという。
そして、翌朝。
幸い土曜日だったのでいつもより少し遅めに起きた千夏だったが、ソファの晴高はまだ寝ているようだった。もしかしたら、悪霊たちの影響でここしばらくちゃんと寝られていなかったのかもしれない。
キッチンへ行って朝ごはんは何を作ろうかなぁと迷うものの、晴高の体調を考えるとあっさりした食べやすいものにしたほうがいいだろう。結局、冷蔵庫の中身と相談して、雑炊を作ることにした。
「さあ、できたよ」
器三つに雑炊を盛ってテーブルへ運ぶと、ダイニングテーブルでタブレットを見ていた元気は「ああ、ありがとう」と顔をあげる。
「なんかさ。晴高が言ってた病院。やっぱいまはもう幽霊病院として有名みたいで、ネット上にいっぱい出てるね。ほとんどがブログとか心霊体験レポみたいなやつだけど」
「へぇ、そうなんだ。心霊スポットになってるのかな」
「そうみたい。しかも、最恐の心霊スポットとして有名みたいだな。行った奴がしばらく原因不明で寝込んだり、二階から落ちて怪我したりとか実際いろいろあるみたいでさ」
朝ごはんの準備ができたところで、ソファに横になっていた晴高が起きてきた。
「あ、晴高さん。朝ごはん、どうぞ」
「……ああ」
晴高は額を抑えて呻くように言う。まだ体調が戻りきっていないのかもしれないけれど、もしかすると単に寝起きが悪いだけなのかも。とりあえず席についてもらう。
「いただきます」
「いただきまーす!」
「……ます」
千夏はレンゲで雑炊を自分の口に運ぶ。ちょうどいい塩加減の優しい味が口の中に広がった。
晴高は食べてくれるのだろうかと気になって、自分も食べながらチラと晴高を見る。彼はまだ少し寝ぼけているようでゆっくりとした動作だったけれど、レンゲを口元に運んでもそもそと雑炊を食べ始めた。
千夏は元気と目を見合わせ小さく笑いあう。良かった、食べてくれそうだ。
朝ごはんが終わって、食後のお茶を飲んでいるときだった。それまでずっと黙っていた晴高が、ぽつぽつと話し始めた。
「……華奈子とは四年くらいの付き合いだったんだ」
彼の視線は、目の前の湯飲みに注がれているようでいて、どこか遠くを見ているようでもある。
千夏も元気もお茶をすすりながら、特に促すようなこともせず晴高の言葉を待つ。
晴高は、記憶の引き出しから大切なものを取り出すように少しずつ話し始めた。
「身体が弱くて入退院を繰り返していたから実質的に一緒にいれた時間は短かったし、何もしてあげられなかった。良くなったら一緒に旅行に行こうって約束してたのに、叶わなかったしな……」
短いといいつつも、それが晴高にとってかけがえのない時間だったのだろうということが彼の口調から察せられた。だから、彼は今もこんなにも彼女のことを想っているのだろう。そして、それはきっと華奈子にとっても同じだったのだろう。
なんてことを思っていたら晴高が衝撃的なことを口にする。
「俺、元は女子高で教師をやっていたんだ」
「……え。お前、先生だったの?」
と驚いた顔をする元気。晴高は、小さく苦笑を浮かべて返す。
「ああ。現代社会とかを教えてた。華奈子は、……俺が勤めてた高校の生徒だったんだ。知り合ったとき、アイツは高三で、俺は新任教師だった」
「……意外過ぎる」
千夏も唸る。でも驚く半面、クールで無口なイケメンの新任教師なんて女子生徒たちの間で人気あったんだろうなぁなんて想像してしまった。
「付き合いだしたのは、華奈子が卒業してからだったんだが。……身体の弱いアイツは高三のとき治療のためにしばらく休んでいたことがあったんだ。それをなぜか、俺が彼女を孕ませたせいで彼女は学校に来れなくなっていたっていう噂がたって。……もちろんそんな事実はないし、学校にはそう説明したんだが。卒業したばかりの華奈子と付き合ってたのは確かだし、学校側もそれにあまりいい顔しなくてな。結局、学校は辞めて、叔父が管理職をやってた八坂不動産管理に拾ってもらったんだ」
そんな経緯があっただなんて全然知らなかった。たしかに、八坂不動産管理には彼と同じ苗字の久世という管理職がいる。だから紛らわしいので晴高は久世係長ではなく晴高係長と職場では呼ばれているのだ。
「華奈子さんは、大学とかに行ってたのか?」
元気の問いかけに、晴高は頷く。
「ああ。美術系の大学に通ってた。でも、結局休んでばかりで卒業はできなかったな……。卒業したら籍を入れる約束してたんだけど、それも果たせなかった」
そういって晴高は自分の右薬指に嵌めたリングを触った。
「ときどき。俺は生きてていいのかなって、思うことがあるんだ。死ねば、アイツと同じところにいけるんじゃないか。それを、アイツも望んでるんじゃないか、って」
そう語る晴高の言葉はわずかに震えていた。いつもの彼からは信じられない姿だが、いまの晴高は本当にそのまま命を捨ててしまうんじゃないかと心配になるほど儚げに見えた。でも、その気持ちの切実さを千夏は痛いほどわかってしまう。
千夏の視線がスッと元気の方に向いた。
元気のことを見つめながら、千夏は思う。今は元気がそばにいてくれるからいいけれど、もし何かの事情で彼がここからいなくなってしまったら。彼が、生きている限り到達できない場所へ行ってしまったら。晴高と同じことを想わずにいられるだろうか。一人で強く生きていけるだろうか。……そんな自信なんてなかった。
しかし、そんな千夏の思いを否定するように、元気がぴしゃりと強い口調で言った。
「そうかな。悪いけど、俺にはそうは思えない」
晴高が視線をあげて、少し驚いたように元気を見る。
「なんで、そんなことお前にわかるんだよ」
「わかるよ。俺、死人だもん。だから……死んだやつの気持ちは、よくわかる。誰だって、大切なやつを残して逝きたいなんて思わない。でも、そうせざるをえないんだったら、せめて……」
元気は、小さく笑んだ。
「せめて。残していった人には、幸せに生きてほしいって思うもんだろ。華奈子さんも同じだと思うよ。だってさ、考えてみろよ。お前が倒れたとき、俺と千夏が見た霊の記憶。あれ、誰の目からみた記憶だった?」
「あれは、たぶん華奈子さんの見た記憶だったよね?」
千夏の言葉に、元気はこくんと大きくうなずく。
「そう。あれは華奈子さんのものだ。ということは、晴高の身体に彼女の霊の残滓が残っていたってことなんだよ。あれだけの悪霊に取り巻かれても、晴高がいまも一応生きてるのは、こいつ自身が祓ってきたっていうのもあるんだろうけどさ。華奈子さんが晴高のことを守ろうとしてたんじゃないかって……どうしても、そう思えるんだ」
「でも、逆に華奈子さんが晴高さんをあっち側に連れて行こうとしてるんだったら?」
ただ霊の残滓があったというだけでは、どっちにもとれてしまう。
しかし元気は首を横に振った。
「もしあっち側に連れてこうとしてるんだったら、病院に晴高が行ったときにとっくに連れてってるよ。こいつ自身があっち側にこんなに惹かれてんだから簡単だろ? でも、晴高はまだ生きてる」
元気が話している間、晴高はテーブルを見つめていた。しかし、急に立ち上がると、「悪い。ちょっとタバコ吸ってくる」と抑揚の薄い声で呟いてベランダに出て行ってしまった。
リビングの窓越しに彼の背中が見える。紫煙をくゆらせながら、彼は何を考えているのだろう。その姿は何かを自分の中で決着つけようとしているようにも見えた。
その病院は東京西部の多摩川支流に近い山間部に建っていた。五階建ての大きな建物で三階部分に広いテラスらしきものも見える。華奈子の記憶で見たテラスと同じ形状のものだ。
しかし、いまはすっかり廃墟となり、どの窓もガラスが割れて無残な様相を呈していた。
その正門の手前で車を止めて、三人は廃墟となった建物を見上げた。
千夏は肩から下げたトートバッグを胸にぎゅっと抱いたまま、ごくりと息を飲む。その中には、ここに来る途中で買った子どもの靴が入っていた。男の子用のデザインで、店員さんにおおよその年齢を伝えて合いそうなサイズを選んでもらったもの。
まだお昼を少し過ぎたばかりで今日はよく晴れているというのに、廃墟の周りだけが明らかに薄暗い。まるで全体に薄いモヤがかかっているようだった。
日が高いためか霊のようなものは視えていないが、嫌な気配を全身に感じてぞわぞわと両腕に鳥肌がたったままおさまらない。
(ここ、本当に怖い……)
行きたくない。ここに近づてはいけない。そう本能が警鐘をならしているようだった。一歩だってその建物に近づくことを、全身が拒んでいる。
「すげぇな、ここ。よく、こんだけ集まったな」
千夏には嫌な気配だけしか感じられないけれど、元気にはそこに集まる霊たちが視えているようだ。
「元気には何が見えてるの?」
おそるおそる尋ねると、彼は眉を寄せて廃墟を眺める。
「とにかく、禍々しいっていうのが一番ぴったりくるな。……窓のあちこちから、黒い人影がこっち見てるし。ほかにも人の顔がたくさん埋まった黒い塊がうろうろしてるのも視えた。腕だけのものとか、下半身だけのとか、そんなのもいる。こんな日の高い時間からあんなにたくさんウヨウヨしてるなんて、どう考えても異常だよ」
「そうだ。ここは異常だ。半分、あっちの世界とつながってしまっているといっても過言じゃない。だから」
一度言葉を区切ると、晴高は険しい視線で千夏たちに念を押す。
「その靴をソウタに渡したらすぐに建物から出るんだ。いいな」
晴高に念を押され、千夏はもう一度トートバッグをぎゅっと抱くと、こくこくと頷いた。
ここに来る前に、千夏と元気が以前に見た廃墟の様子を晴高に詳しく話して聞かせたところ、部屋の広さや散らばっている椅子などから、一階の会計用待合室か各階の入院者用に用意されていたデイルームではないかと言う。
デイルームは院内に数か所あったようだけど、小児科病棟のある五階が一番あやしいということになった。
そうこうしている間にも、廃病院を取り巻く黒いモヤのようなものは密度を増してきているように思えた。
「……行くか」
隣に立つ元気が手を差し出してくる。それを左手でぎゅっと握って、こくんと千夏はうなずく。すぐ後ろに立つ晴高が読経を始めた。
すると、それまで濃くなる一方だったモヤが、少しずつ薄れていくようにも見えた。
千夏と元気は同時に、敷地の中へと足を踏み出す。
途端にねっとりと肌に絡みつくような空気の濃度を感じた。まるで水の中を歩いているかのよう。しかも敷地内に入った途端、まだ昼過ぎのはずなのに夕方のように辺りが薄暗くなる。
千夏たちの前に、建物の入り口がぽっかりと口を開けていた。
オオオオオオオオ………
建物を通り抜ける風が不気味に鳴る。
足が竦んでしまいそうだった。
幸い、霊らしき姿は千夏には視えない。
建物に向かって歩き出すと、どんどん足が速くなった。早くここから立ち去りたいという恐怖が足を急かす。
後ろからついてきてくれている晴高の読経の声が心強かった。霊が近寄ってこないのは、この読経のおかげなんだろう。
病院のエントランスから中へと足を踏み入れる。中も想像以上に荒れていた。
天井がところどころはがれ落ち、窓ガラスはほとんどが割れ、周りには医療ワゴンやら落ち葉やらゴミのようなものが散乱していた。
まず、入ってすぐのところから見ていくことにする。そこには会計待ちをするための待合室らしき場所があった。今は椅子が無残に散乱しているけれど、元気が建物の外から見たという人影や不気味な黒い塊のようなものは今は見えない。ソウタが隠れていたあの手洗い場のようなものも見当たらなかった。
「ここじゃないみたいだね」
元気の声からも緊張が感じられる。
まずは一階をざっと探してみて、該当の場所がなければ上の階に行く予定だった。
晴高の読経に交じって、どこか遠くから風の鳴くような音がずっと響いている。
けれど、待合室から出たとたん、その風の鳴くようだった音がだんだんと大きくなってきた。
(あれ、風の音なんかじゃない……?)
オオオオオオオオオオオオオォォオォォォォオォオォォォ……
さっきは風が吹き抜ける音にしか聞こえなかったけれど、今ならわかる。
これは声だ。たくさんの人の、うめき声。ひとつひとつが、生者への憎しみと恨みで満ちていた。
……ニクイ…ニクイ……
……ナンデ…クライ、クライヨ……
…タスケテ……オネガイ……イヤ…イタイ……
……シニタクナイ……シニタクナイ……コワイ……シニタクナイ……
廊下の奥がやけに暗いと思って目を凝らすと、そこに黒いモヤが集まりだしていた。モヤはどんどん大きくなっていく。廊下をふさぐほどの大きさになったかと思うと、その合間から何本もの人間の手足が見えた。時折苦痛にゆがむ人の顔も浮かんでは消える。それらが口々に、生者への憎しみを呟き続ける。
モヤはしだいに大きさを増しながら、こちらへ何本もの手をのばし、ゆっくりと近づいてくる。
「……まずい。いったん逃げるか」
晴高がそう言ったときだった。
『マッテタ』
三人の誰でもない、女性の声が耳をかすめる。
「え?」
千夏が辺りを見回していると、
『コッチ……』
もう一度同じ声。そのとたん、誰かにぐいと右手を引かれた。
(え?)
いつの間にか、千夏の前に華奢な背中があった。白いワンピースの、髪の長い小柄な女性のような背中。その細い腕で千夏の手のひらをしっかりと握り、千夏を導くように手を引いていた。
千夏は手を引かれるまま、彼女と一緒に走っていた。当然、元気もついてくる。晴高もついてきているのが足音でわかっていた。
背中を向けているため手を引く女性の顔は見えない。
でも、それが誰なのか千夏はわかっていた。おそらく、元気や晴高もわかっていただろう。
(華奈子さん……)
胸が締め付けられそうだった。
彼女に導かれるままに廊下を走り、階段を上った。いっきに五階までのぼったので途中で息が切れそうになったけれど、肩で呼吸をしながらなんとか登りきる。
五階も一階と変わらないくらい荒れ果てていた。散乱したガラスや落ち葉のほかに、墨のような泥水の水たまりがあちらこちらにある。その水たまりの間を抜けて、華奈子に手を引かれたまままっすぐに廊下を走っていく。しかし、突然、彼女の身体がぐらりと崩れた。
「きゃ、きゃっ!」
千夏は足を止めて、悲鳴をあげる。華奈子のすぐ足元にあった水たまりから、何本もの黒い腕が伸びてきて、華奈子に絡みついていた。華奈子は千夏を突き飛ばすようにして手を放す。倒れそうになった千夏を元気が支えた。
次の瞬間にはもう、華奈子の姿はその場から掻き消えていた。でもその寸前、
『……アノヘヤ……アノコヲ、オネガイ……』
そう頼む華奈子の声が確かに聞こえた。
「行こう。あの先だ」
晴高はそう言うと、すぐに読経を始める。あちこちの水たまりから黒い手が伸びてきて、千夏たちに迫ってきていたが、その手が読経に反応して一瞬動きを止める。その隙をみて、千夏と元気は走り出した。もうとっくに息は上がっているけれど、頑張って足を動かす。目標は、消える直前に華奈子が指さしていたあの部屋だ。
華奈子が教えてくれた部屋の前までやってくる。けれど室内を目にしたとたん、広がる異様な光景に息をのんだ。
テーブルや椅子が散乱するその奥の左隅に、黒い物でおおわれた塊のようなものがあった。まるで黒いコブのようになったソレ。近づいてみると、長い髪の毛が何重にも絡まってその隅を覆っていた。
他に手洗い場らしきものは見当たらない。となると、
(きっとこの中に、ソウタ君が……!)
いつもなら気持ち悪くて近寄ることもできなかっただろう。でも早くソウタくんを助け出してあげなきゃという気持ちが、恐怖心に勝った。
千夏と元気はすぐにそのコブにとりつくと、髪のようなものを引きはがしていく。しかし、その髪のようなものはまるで意思をもっているかのごとく、引きはがしても引きはがしてもシュルシュルと絡みついて剥がれない。
少し遅れてデイルームに入ってきた晴高が、
「ちょっと下がってろ」
と言うと、その髪のコブに札をペタッと貼り付けた。すると、突然、火もないのにその髪のコブが燃え出す。
ギャアアアアアアアアアアアアアアア
断末魔のような音をあげて髪は灰に変わり、パラパラと燃え落ちた。
すると、その下に手洗い場と収納扉が現れる。
「あった! これだ!」
千夏はその扉を開けようと取っ手を引くが、びくともしない。鍵穴などどこにも見当たらないのに、鍵でもかかっているようにピタリと扉はくっついて開かなかった。
「かわって」
元気と場所を代わると、彼はその前に座って片方の足を扉の片側にあてる。そうして身体を支えると、両手で片扉の取っ手を掴んで全力で引っ張った。
「くっ……」
それでもはじめはびくともしなかった扉だったが、元気が力をかけ続けるとピリッと扉の境目に亀裂のようなものが走り、カパッと開いた。
「やった、開いたぁ」
はぁっと安どのため息を漏らす元気。その中を覗き込むと、小さな男の子が膝を抱えて座ってその膝に頭を埋めている。
千夏は急いでトートバッグから靴を取り出すと、しゃがんで収納扉の前に置いた。
「ソウタくん。……だよね?」
男の子は何の反応もしなかったが、千夏はそのまま続けた。
「お靴、もってきたよ。君に合う新しいお靴だよ」
靴、という言葉に、初めて男の子は反応した。ハッと顔をあげると床に置かれた真新しい靴に目を向ける。
……クツ……? ボクノ……?
男の子の声が頭の中で聞こえてくる。千夏は、大きく頷いた。
「そう。あなたの靴よ。これを履いて、あなたはどこへだって行けるの。好きなところへ行けるんだよ」
……ボク……
男の子が顔をあげる。その顔はやはり、ソウタと呼ばれたあの男の子と同じものだった。ソウタが向きを変えてこちらに足をむけてきたので、千夏は片足ずつ彼の足へ靴を履かせてあげる。そして、彼の手をとって手助けしてやると、ソウタは自分から収納スペースの外へと出てきた。彼の手はとてもあたたかくて、強い霊力のようなものが握っている千夏の手にも流れ込んでくるようだった。
「とりあえず、病院の外に出るか?」
元気が尋ねると、ソウタは初めて笑顔を見せる。それは、華奈子の記憶の中で見せていたものと同じ屈託のない笑顔だった。
「さあ、もう行きましょう」
もうここには用はない。とりあえず、ソウタに靴を渡すという目的は達成したのだ。これで何が変わったのかはわからないけれど、場を支配していた重苦しい圧迫感のようなものが急に薄れてきているように感じた。
しかし、部屋の入口に目を向けて、千夏は息をのんだ。
ヒタ、ヒタ、ヒタ、ヒタ
廊下の方から何かがやってくる。それも一つではなかった。
肘から先のない腕だけが床を掴むようにして這いながらこちらに近づいてくる。肘より先は黒いモヤに隠れてしまって見えなかった。それが一本だけではない。腕だけでなく、足だけのものもある。十本以上の手足がこちらに迫ってきている。
オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ………
廊下の向こうからはさらにたくさんの悪霊たちが迫ってきているのが感じられた。
窓から出ようにも、窓の外も黒い髪の毛のようなもので覆われている。
「いよいよ取り囲まれたな」
晴高が唸る。
「どうする?」
元気はソウタを守るように彼の前に立つ。晴高はフッと鼻で笑った。
「核になっていたソウタが悪霊の手の中から離れたおかげで、悪霊たちの力が弱まっている。だから必死で取り返そうとしてきてんだろうが、これなら俺でも対処できる」
廊下の奥から、のっそりと黒いモヤの塊のようなものが顔を出した。すでに人の背丈よりもはるかに大きく育っている黒い怨念の塊。そこには、いくつもの人の顔が現れては消えていく。そのどれもが、苦痛と悲しみと怒りに満ちていた。
…………ニクイ…ニクイ……
……ナンデ…クライ、クライヨ……
…タスケテ……オネガイ……イヤ…イタイ……
……コッチヘ、オイデ……オマエモ、イッショニ……コッチヘ……
アレに取り込まれたら命がなくなるだけでは済まない。千夏も元気もアレらと同じものになって、永遠に苦しみ彷徨《さまよ》うことになるのだろう。
晴高は恐れる様子もなくそのモヤに向かい合うと、肩に下げていたワンショルダーバッグから何か金色の棒のようなものを三本取り出して投げた。
それがモヤに次々と突き刺さる。刺さるたびにモヤはギャアと声をあげて、痛みに苦しんでいるかのように身をよじらせた。
晴高は手を止めることなく、今度は数珠をもって片手拝みにすると、
「オン・アキュシュビヤ・ウン」
晴高の凛とした声が響く。すると、
ギャアアアアアアアアアアア
黒いモヤが断末魔のような悲鳴をあげた。そして、しゅるしゅるしゅると空気に霧散するように次第に小さくなり、最後は跡形もなく消えてしまった。あとには、カランカランと音をたてて晴高が刺した金属の棒のようなものが床に落ちてくる。
「空気が……」
元気のつぶやきに、千夏もうなずいた。
「うん。軽くなってる。嘘みたい、あんなにたくさんいた悪霊も急に気配が薄くなっていく」
禍々しい髪の毛で覆われていた窓も、いまは青空が見える。室内も、日の光が差し込んでぐっと明るさを増していた。
「あれが親玉だったからな。親玉が消えてしまえば、いくら悪霊といえどもこんな昼間っから堂々と出てこれるわけはない。ほかの奴らは一旦姿を隠しただけだろうが、この程度なら俺でも簡単に祓える」
そう言うと、晴高は悪霊の親玉が消えた場所まで歩いていった。そして、そこに落ちていた金属の棒のようなものを拾い上げる。それは、両端が五股にわかれた不思議な形をしていた。
「これは密教の道具で、独鈷杵《どっこしょ》っていうんだ。結界を張ったり、いまみたいに悪霊にダメージを与えるのに使える」
それらを再びバッグにしまうと、
「ようやく、終わったな」
晴高が小さく息をついたときだった。
千夏たちの前に、いつの間にか白いモヤのようなものが立ち込め始めていた。その白いモヤは集まって濃さを増していき、煙のようになって晴高の周りを取り巻きはじめる。
晴高自身も戸惑っている様子だったが、その白いモヤからは悪い気配は一切感じられない。白いモヤは晴高の全身にまとわりついたあと、彼の身体から離れてその目の前で次第に人の形を成し始める。
モヤは小柄な一人の女性の姿となった。長い髪に、白いワンピースの二十代前半と思しき女性。千夏にも見覚えがある。霊の記憶の中でも見たし、この病院で千夏の手を引いてここまで導いてくれたのも、彼女だった。
「華奈子……」
そう言う晴高の声は震えていた。