晴高の運転する社用車のセダンに乗って連れてこられたのは、練馬区にある二階建ての賃貸アパートだった。
築年数は十年ほど。新しくもないが、そんなに古いわけでもない。実際、外から外観を見た限りでは、取り立てて不気味な感じや嫌な印象は受けなかった。
今回の調査対象になっているのは、二階にある202号室。
階段をのぼってその部屋の前まで来ると、『202』という表示のある部屋の前で三人は立ち止まった。
そう。三人なのだ。
晴高と千夏と、そして。
「なんで、アナタまでついてきてるのよ」
千夏は隣に立つ、よく見ると若干透けている幽霊男に言う。てっきり水道橋支店のあの席にずっと座っているのだとばかり思っていたその幽霊は、いつの間にか千夏と晴高のあとをついてきていたのだ。そのことに気づいたのは、さっき車を降りたとき。どうやって付いてきたのかはよくわからないけど、気がついたら後ろにいた。
「なんか、俺のせいで迷惑かけちゃったみたいだったから。申し訳なくて」
「申し訳ないと思うんなら、もう二度と私の前に姿をみせないでほしいんですけど」
この幽霊男は、もはや普通の人と変わらない調子で千夏に話しかけてくる。いっそ無視すればいいのかもしれないし、はっきりと拒絶すれば離れていってくれるのかもしれないけれど、今は初めて携わる仕事の最中なのでそこまでの余裕もなかった。
「すみません……」
千夏にきついことを言われて、幽霊男は高い背を丸めてしゅんと俯いた。
「とりあえず。幽霊さんは、その辺でふらふらしててください。いま、仕事中なので」
「あ、俺。高村元気って言います」
「元気、ね……」
なんとも幽霊には似つかわしくない名前だ、というのが名を聞いたときの第一印象だった。
生きていた時につけられた名前だろうから、幽霊っぽくなくても仕方がないのだろうけれど。
そして椅子に座っていたときは気づかなかったけど、この幽霊男、案外背が高いのだ。おそらく180センチ近くあるんじゃないだろうか。幽霊のくせにくるくるとよく変わる表情と言い、明るい髪色といい、さしずめゴールデンレトリバーみたいな印象だった。席で青白い顔をしてじっと俯いていたときとは別人のよう。
「すっかり憑かれたみたいだな。お前が話しかけたりするからだ。あとでお祓い行ってこい」
と、まるで他人事のように晴高はそう言い捨てると、会社から持ってきた管理用のマスターキーを使って202号室のドアを開けた。
晴高は元気よりも少し背が低いけど、濃い黒髪に黒いスーツと全体に黒っぽい印象が強い。常に視線も言葉も鋭くて、笑顔なんて初めから標準装備していないんではないかと疑いたくなるほどの仏頂面。でも、やたらと顔が整っているので、余計近寄りがたい雰囲気を醸している。元気がゴールデンレトリバーだとしたら、こっちはさしずめドーベルマンといったところかな。
なんとも正反対の二人とともに物件調査にやってきた千夏は、はぁと大きくため息をつくと202号室へと足を踏み入れた。
そこは、ごく普通の1LDKの部屋だった。しかし入った途端、急にぞわっと両腕に鳥肌が立つ。
(え、何これ)
室温が外とくらべてグッと低いような気がした。外はぽかぽかと春の陽気なのに、この部屋に入った途端、もう一枚上着がほしいくらいの寒さを感じる。
晴高は、玄関で持参したスリッパに履き替えるとすたすたと家の中へ入っていった。置いてけぼりにされたくなくて、千夏も靴をぬぐとストッキングのまま晴高のあとを追う。
玄関から入ってすぐのところにキッチンがあり、その奥にリビングダイニング。さらにその左隣には小ぶりな洋室があった。リビングダイニングと洋室のあいだは可動式の壁で仕切れるようになっていたが、いまは開いたままになっている。
そのどちらの部屋もベランダへ出られる掃き出し窓がついていた。窓からはあたたかな日差しが室内へと差し込んで、床に陽だまりをつくっている。
二階に位置し、窓からはよく日差しが差し込んでいるにもかかわらず、どこか部屋の中が薄暗い。
(……ここ、嫌だ……)
心の奥から、今すぐこの部屋を立ち去りたい気持ちがぞわぞわとわいてきた。何が嫌なのかはわからない。室内は家具一つなく殺風景。でも掃除が行き届いているし、とくに嫌悪感を覚えるような要素はないはずなのだ。それなのに、なぜかここにいたくない、いてはいけないという気持ちが抑えきれなくなってくる。
晴高が一緒にいるからいいものの、自分ひとりだったら間違いなくすぐに逃げ去っていただろう。
「なんか、嫌な感じですね、ここ」
スプリングコートの上から腕をさすりつつ、千夏は晴高のそばに行く。
晴高は手に持っていたビジネスバッグからファイルブックを取り出してページを繰っている。ファイルブックには、会社のデータベースをプリントアウトしてきたと思しき資料が挟まっていた。
「ここの最後の借主は、松原涼子。三年ほどここに住んでいたが、彼女からは特に苦情のようなものはあがっていない」
「三年もこの部屋に住んでいたんですか……」
「当時は何の問題もなかったんだろう。問題が出たのは彼女の死後だからな」
涼子さんは、一人暮らしの派遣社員だった。数か月前に職場で突然倒れて亡くなっている。死因は、脳卒中だった。彼女の死後、ここにあった家具類は賃貸契約の保証人でもあった彼女の両親に引き渡されている。でも……。
「この部屋の明け渡しが完了した後、おかしなことが起こりはじめたんだ」
築年数は十年ほど。新しくもないが、そんなに古いわけでもない。実際、外から外観を見た限りでは、取り立てて不気味な感じや嫌な印象は受けなかった。
今回の調査対象になっているのは、二階にある202号室。
階段をのぼってその部屋の前まで来ると、『202』という表示のある部屋の前で三人は立ち止まった。
そう。三人なのだ。
晴高と千夏と、そして。
「なんで、アナタまでついてきてるのよ」
千夏は隣に立つ、よく見ると若干透けている幽霊男に言う。てっきり水道橋支店のあの席にずっと座っているのだとばかり思っていたその幽霊は、いつの間にか千夏と晴高のあとをついてきていたのだ。そのことに気づいたのは、さっき車を降りたとき。どうやって付いてきたのかはよくわからないけど、気がついたら後ろにいた。
「なんか、俺のせいで迷惑かけちゃったみたいだったから。申し訳なくて」
「申し訳ないと思うんなら、もう二度と私の前に姿をみせないでほしいんですけど」
この幽霊男は、もはや普通の人と変わらない調子で千夏に話しかけてくる。いっそ無視すればいいのかもしれないし、はっきりと拒絶すれば離れていってくれるのかもしれないけれど、今は初めて携わる仕事の最中なのでそこまでの余裕もなかった。
「すみません……」
千夏にきついことを言われて、幽霊男は高い背を丸めてしゅんと俯いた。
「とりあえず。幽霊さんは、その辺でふらふらしててください。いま、仕事中なので」
「あ、俺。高村元気って言います」
「元気、ね……」
なんとも幽霊には似つかわしくない名前だ、というのが名を聞いたときの第一印象だった。
生きていた時につけられた名前だろうから、幽霊っぽくなくても仕方がないのだろうけれど。
そして椅子に座っていたときは気づかなかったけど、この幽霊男、案外背が高いのだ。おそらく180センチ近くあるんじゃないだろうか。幽霊のくせにくるくるとよく変わる表情と言い、明るい髪色といい、さしずめゴールデンレトリバーみたいな印象だった。席で青白い顔をしてじっと俯いていたときとは別人のよう。
「すっかり憑かれたみたいだな。お前が話しかけたりするからだ。あとでお祓い行ってこい」
と、まるで他人事のように晴高はそう言い捨てると、会社から持ってきた管理用のマスターキーを使って202号室のドアを開けた。
晴高は元気よりも少し背が低いけど、濃い黒髪に黒いスーツと全体に黒っぽい印象が強い。常に視線も言葉も鋭くて、笑顔なんて初めから標準装備していないんではないかと疑いたくなるほどの仏頂面。でも、やたらと顔が整っているので、余計近寄りがたい雰囲気を醸している。元気がゴールデンレトリバーだとしたら、こっちはさしずめドーベルマンといったところかな。
なんとも正反対の二人とともに物件調査にやってきた千夏は、はぁと大きくため息をつくと202号室へと足を踏み入れた。
そこは、ごく普通の1LDKの部屋だった。しかし入った途端、急にぞわっと両腕に鳥肌が立つ。
(え、何これ)
室温が外とくらべてグッと低いような気がした。外はぽかぽかと春の陽気なのに、この部屋に入った途端、もう一枚上着がほしいくらいの寒さを感じる。
晴高は、玄関で持参したスリッパに履き替えるとすたすたと家の中へ入っていった。置いてけぼりにされたくなくて、千夏も靴をぬぐとストッキングのまま晴高のあとを追う。
玄関から入ってすぐのところにキッチンがあり、その奥にリビングダイニング。さらにその左隣には小ぶりな洋室があった。リビングダイニングと洋室のあいだは可動式の壁で仕切れるようになっていたが、いまは開いたままになっている。
そのどちらの部屋もベランダへ出られる掃き出し窓がついていた。窓からはあたたかな日差しが室内へと差し込んで、床に陽だまりをつくっている。
二階に位置し、窓からはよく日差しが差し込んでいるにもかかわらず、どこか部屋の中が薄暗い。
(……ここ、嫌だ……)
心の奥から、今すぐこの部屋を立ち去りたい気持ちがぞわぞわとわいてきた。何が嫌なのかはわからない。室内は家具一つなく殺風景。でも掃除が行き届いているし、とくに嫌悪感を覚えるような要素はないはずなのだ。それなのに、なぜかここにいたくない、いてはいけないという気持ちが抑えきれなくなってくる。
晴高が一緒にいるからいいものの、自分ひとりだったら間違いなくすぐに逃げ去っていただろう。
「なんか、嫌な感じですね、ここ」
スプリングコートの上から腕をさすりつつ、千夏は晴高のそばに行く。
晴高は手に持っていたビジネスバッグからファイルブックを取り出してページを繰っている。ファイルブックには、会社のデータベースをプリントアウトしてきたと思しき資料が挟まっていた。
「ここの最後の借主は、松原涼子。三年ほどここに住んでいたが、彼女からは特に苦情のようなものはあがっていない」
「三年もこの部屋に住んでいたんですか……」
「当時は何の問題もなかったんだろう。問題が出たのは彼女の死後だからな」
涼子さんは、一人暮らしの派遣社員だった。数か月前に職場で突然倒れて亡くなっている。死因は、脳卒中だった。彼女の死後、ここにあった家具類は賃貸契約の保証人でもあった彼女の両親に引き渡されている。でも……。
「この部屋の明け渡しが完了した後、おかしなことが起こりはじめたんだ」