スマホにかかってきた、見知らぬ番号。ごくりと生唾を飲み込んで、千夏は応答ボタンを押すとスマホに耳をつけた。
「はい」
 電話の相手は無言。何もしゃべりかけてこない。でも、千夏にはその相手が元気だという強い確信があった。
「元気? 元気なの?」
 相手はやはり何も答えない。なおも千夏は一方的に受話器に話しかけた。
「元気!? いま、どこにるの? 私たち、いまそっちに向かっているの」
 晴高が車を路肩に止めると、運転席からこちらを振り向いてハンズフリーにするように小声で言ってくる。すぐに千夏は言われたとおりにすると、なおもスマホの向こうにいる相手に話しかけた。
「元気!! 返事して。元気。大丈夫なの?」
『チナツ』
 ようやく向こうから声が返ってきた。その声は、たしかに元気の声だった。
 でも、いつもと違い、なぜかぞくっとする寒さを感じる声。
 いつもなら元気の声を聴けばいつも安心するのに、不安がどんどん強くなる。
「元気! いまどこにいるの?」
 しかし元気はそれには答えない。その代わりに彼は別のことを言ってきた。
『……俺やっぱりユルセナイ。だから』
「だから?」
『チナツはこのケンモ、オレノことも忘レテホシイ。ごめん……』
 息ができなくなる気がした。聞き間違いだと思いたかった。しゃくりあげるように無理やり息を吸い込む。なぜか笑みが零れた。涙も零れた。
「何を言ってるの? 元気。お願い、教えて。いますぐ私たち、そっちに駆け付けるから。いま、どこにいるのか教えて! 元気!」
 彼が自分のもとから離れていこうとしているのがわかった。もう永遠に戻ってくるつもりはないのだと。
『ゴメン……それと、いままでありがとう』
 いやだ。そんな別れの挨拶みたいなもの聞きたくない。
「元気。お願い。私の元に帰ってこなくてもいいから。でも、それでも。悪霊になったりしないで。そんな、これからももっとずっと苦しむようなことしないで」
 視界が滲む。ぽたりと雫がスマホに落ちた。
『ごめん。それでも俺、ヤッパリアイツラヲミノガセナイ』
 そのとき、晴高が運転席から手を伸ばしてきて千夏の手にあったスマホを掴むと話しかけた。
「おい。元気」
『晴高も。ごめん。俺、ジョレイ……』
「お前はまた繰り返すのか?」
 除霊という言葉を晴高は打ち消すように言う。
『……でも』
 スマホを通して聞こえる元気の声は、心なしか震えていた。
「お前はまた、好きな女を悲しませんのか?」
『……』
「愛してるんだろ? 大切なんだろ!?」
『俺は……』
 晴高は畳みかける。
「なのに、お前は彼女を見捨てるのか? 彼女はお前を失って、一人で悲しんで、一人で立ち直って、お前じゃない誰かとお前のいない新たな人生を歩みだすんだよ。お前は今回も置いてけぼりで何もできないままだ。ただ悲しませて傷つかせて、絶望に叩き込んでおいて」
 そこで一呼吸をおいて、強い口調で訴えた。
「前は不可抗力だったかもしれんが、いまは違うよな!? お前は選べるんだ。お前、それで本当にいいのかよ!?」
 しばらくの沈黙。スマホからは、微かに嗚咽のようなものが聞こえてきた。
 どれくらい経っただろう。
『わかった。場所を言う……』
 元気のその言葉に、晴高はほっと安堵の息を漏らし、千夏はわたわたとトートバッグからメモ帳とペンを取り出した。そして、元気が言う場所をメモする。
 メモした後、あちらのスマホの充電が切れそうというので一旦スマホを切ると、晴高は教えられた場所に向かって車を発進させた。
 元気がいるのは千夏たちがいる場所から、さほど離れてはいない場所だった。切れたスマホを手に、千夏は祈るように目を閉じて額にあてる。
(どうか。元気が悪霊になっていたりしませんように。どうか。元の元気のままでいてくれますように)
 晴高はスマホの地図アプリをたよりに、どんどん山深い方へと車を進めた。
 晴高が元気を説得して、場所を聞き出してくれたおかげでなんとか道がつながった。しかも、晴高があんな風に声をあげて元気のことを説得してくれたのは意外だった。彼にとっては元気が悪霊になったとしても除霊してしまえばそれで済む話なのに。
「あの……晴高、さん」
 千夏は運転席の彼に、ためらいがちに声をかける。
「ん?」
 晴高は視線を前にむけたまま、聞き返してきた。
「さっきは、ありがとうございます。私だけだったら、元気を心変わりさせることができたかどうか」
「あの幽霊男が心変わりしたのは、お前の存在のおかげだと思うがな。俺はただ、事実を言っただけだ」
 と、なんでもないことのように言う。
「でも……おかげで、元気。場所を言ってくれましたし」
「言っとくが。まだあいつが悪霊になってないかどうかは、声だけでは俺にもわからん。阿賀沢夫妻もどうなったかわからんしな。すべては現地についてみないとなんとも」
 それは、確かにそうなのだ。
 先ほど聞いた元気の声が思い起こされる。
 あれは間違いなく元気の声のはずだった。それなのに、どこか遠くから聞こえているような、冷たい響きのある声でもあった。
「もしあいつが悪霊化していたら、お前の前だろうとなんだろうとその場で除霊する。いいな」
 心を決めて、こくんと千夏はうなずく。
「……わかってます」
 窓の外を見ると、そろそろ日が暮れ始めていた。
(元気……どうか、無事でいて……)
 祈るしかできないことが、とてももどかしかった。