好きになった人は、死人でした〜幽霊物件対策班の怪奇事件ファイル〜

「じゃ、じゃあ……元気は、阿賀沢さんのお兄さんが殺されたことは知っていたの?」
 千夏が率直にそう口にすると、彼はぶんぶんと大きく首を横に振った。
「そんなの知ってるわけないじゃないか。俺、そもそもお兄さんとは面識なかったし。会ったことあるのは弟さんと彼の奥さんだけだった。でも、お兄さんも売買には同意してるけど仕事が忙しいから来れないって言われて」
 嫌な予感がした。心臓が不協和音を奏でているような、嫌な動悸がする。たぶんそれは、千夏だけでなく晴高も、そして元気自身も感じていたのだろう。
 でも、誰もそれを口にはできなかった。そのことに気づきたくなかった。
「とりあえず、だ。その日のことをもう一回思い出して整理してみろ」
 晴高の言葉に、ごくりと元気が生唾を飲み込む。
「どうだったっけな……。普段は客先に行くときは上司と二人で行くことが多かったんだ。銀行内の決まりで、そうなってた。でも、あそこに行ったときは、一人だったような気がするんだよな……たぶん、一緒に行く予定だった上司にたまたま急な用事が入ったとかで一人で行くことになったんじゃないかな。あの頃まだ、阿賀沢さんたちはあそこで料亭をやってたから、時間や日程はずらせなかったんだと思う。それで、俺は一人で行って。阿賀沢さんの弟さんとその奥さんが応対してくれて、一緒に建物や庭を見たのは覚えているんだ。そんで、一通り見た後、あの霊の記憶にもあったけど、たぶん礼を言って職場に戻ったんだと思う」
 それは通常の業務の一部であり、なんの問題もないはずだった。だからこそ、元気自身もあまりはっきりとは覚えていないようだった。
「まっすぐ職場に戻ったのか? どこかに寄ったりせず?」
 晴高の問いかけに、元気はこくんと頷いたが。
「あれ? ちょっと待って……。俺、大体、現況調査行ったときは、建物とか周りの様子とかを写真に撮らせてもらうんだ。あの日はどうしたんだっけ……」
 そこまで呟くように言ってから、言葉が止まる。
 しばらく何かを考えたあと、元気は「あ」と言って顔を上げた。
「そうだ。写真だ」
「……写真?」
 おうむ返しに聞く千夏に、元気は堰を切ったように話し出す。
「そう。阿賀沢さんたちと別れて一旦帰りかけたときに、写真を撮ってなかったことを思い出したんだ。でも、話してるときにあとで写真撮らせてくださいねって聞いてOKもらってたから、とくに気にせずそのまま道路からあの料亭の写真をこのスマホで何枚も取ったんだ。あの当時はぐるっと庭全体を覆うように背の高い垣根があって。その周りから何枚も」
 そこまで早口で言ってから、元気の声のトーンが落ちる。
「でもそしたら突然、阿賀沢さんが出てきて。ほんのちょっと前に別れたときの親し気な様子から豹変して、すごく怒ってたんだ。勝手に撮るなって言って。でも俺、一応許可はとってあったし。なんでそんな怒られるのかわからなくて、とりあえずひたすら謝って職場に戻った。……すごく驚いたし怖かったから。あのときの阿賀沢さんの顔。いま、はっきり思い出した」
 三人の視線が、自然とスマホに集まった。
 このスマホで元気が撮った写真。
 そして、阿賀沢兄と思しき霊の記憶の中で見た情景をつなぎ合わせてみると、元気が写真を撮った時間帯とその垣根の向こうで殺人が行われていた時間帯がちょうど重なる。
 その後、阿賀沢弟が写真を撮るなと激高していたことからしても、彼らもそのことを知っていたはず。
「このスマホの中の写真って、取り出せないんでしょうか」
 その写真に何が映っていたのかは予想がついた。でも、確認してみたかった。
「これだけ派手に壊れてると、データを取り出すのは難しいかもしれないな」
 そう晴高は唸ったが、元気は「そうだ、ちょっとスマホ使ってもいい?」と言ってテーブルに置いてあった千夏のスマホで何かを探し始める。
「現況調査行くとすぐに写真でスマホがいっぱいになるから、俺、データは自分のクラウドに保存してあったんだ。まだ生きてるかな……ここ、無料だったからまだ登録は……」
 元気は慣れた手つきでクラウドのアプリを探し出すと、千夏がそれをダウンロードする。「えっと、あのころ使ってたメアド、なんだっけ……」とかブツブツ言いながらも元気がメールアドレスとパスワードを入力すると、保管されていた写真フォルダが出てきた。
 そこにはいくつかのフォルダがあったが、元気は『仕事用』と書かれたフォルダを開く。途端にディスプレイいっぱいに写真画像が現れた。撮影した日付の新しいもの順に並んでいる。
「あった。このあたりだ」
 それは、十数枚の写真だった。背の高い垣根と、さらにその隙間から奥にある日本家屋がわずかに見える。現在は取り壊されて残っていないその建物や垣根に千夏は見覚えはなかったが、一緒に映り込んでいる道路の感じや隣家の形からそこがあのマンション建設現場と同じ場所だというのはわかる。
 その中に、その写真はあった。
 垣根の間から、何か白いものを振り上げている男性が映り込んでいる写真。さらにその男性の足元に誰かが倒れているのも映っていた。おそらくそれは、弟に後頭部を殴られて倒れた阿賀沢兄なのだろう。
「これか……この写真をとったから阿賀沢さんはあんなに怒っていたのか……」
 そして激高しただけにとどまらず、元気からそのスマホを何らかの方法で盗んで壊して埋めたのだ。すべては殺人の証拠を消すために。
 元気はスマホを、もうこれ以上見たくないというように手でおしのけると再び頭を抱えた。
「元気。もう一回確認させてくれ。お前が事故死したのって、それからどれくらいあとのことなんだ」
 一つ一つ言葉を置いていくように、慎重に言葉を並べて尋ねる晴高。
 元気は頭を抱えたまましばらく黙っていたが、やがてボソボソと答えだす。
「そのすぐあとにスマホをなくして。それから一週間も経ってないから……」
「そうだよな。それくらいだって言ってたよな。……なあ。お前もうすうす気づいてるよな」
 静かな晴高の声。元気はうつむいたまま、何の反応もしない。いや、できないのかもしれない。千夏にも晴高が言おうとしていることは、わかっていた。でも、それを口にはできなかった。その可能性を考えたくもなかった。
 しかし、相手は既に殺人を起こしている殺人犯なのだ。そんな相手に倫理や法律が何の妨げになるだろう。
 もしかしたら、元気は……。
「お前が死んだ自動車事故。それって、……本当に事故だったのか?」
 晴高の言葉に、わずかにびくりと元気の肩が動くのが千夏にもわかる。
 胸が苦しい。でも、元気はいま、千夏とは比べ物にならない遥かに残酷な苦しみの中にいるのだろう。
「お前は」
 殺人の証拠隠滅のためにあの人たちに……。
「殺されたんじゃないのか」
 晴高の言葉が、ワンワンと頭の中にコダマする。
 何か元気に声をかけたいと思うのに、どんな声をかければいいのかもわからない。何も浮かばない。どんな言葉を並べたところで、元気がいま抱えている絶望の大きさに比べれば稚拙なものに思えてしまう。
 ただ、悲しかった。なんで元気がそんな目にあわなきゃならないんだろう。そんな他人の身勝手なことで、すべてを奪われなければならなかったんだろう。
 何も悪いことなんてしていない。普通に仕事をして普通に暮らしていただけの元気は、そのあと迎えるはずだった楽しいことも、嬉しいことも、その人生のすべてを奪われたのだ。
 それなのに彼を殺したかもしれない人たちは、いまものうのうと暮らしている。
 もしかすると、あの物件を売ったお金で人生を謳歌しているかもしれない。
 そんな理不尽なことなんて、あっていいのだろうか。
 悔しい。悲しくて、とてつもなく悔しい。千夏は何も言えないまま、ただ唇を噛んでいた。
 テーブルの上で頭を抱えたままだった元気が、ぽつぽつとしゃべる言葉が聞こえてくる。
「俺。あのときから、違和感を覚えてたんだ」
「違和感?」
 頭の中を渦巻く沢山の感情に押しつぶされそうになって声すら出せない千夏とは違い、晴高は淡々と聞き返していた。
「……俺、俺を轢いた運転手の裁判も傍聴しにいったんだ。その人は、疲労で居眠りしてたせいで赤信号を見過ごして、横断歩道を渡っていた俺を轢いたってことになってた」
 感情をこらえたように抑えぎみの、いつもより低い声を絞り出すように元気は続ける。
「でもさ、俺。轢かれる直前に、あの人のこと見てるんだ。絶対にあっちも俺のことを見てたんだよ。目が合った気がしたんだ。こっちにすごいスピードで走ってくるとき、ハンドル握りながらあの人は確かに俺のことを見てた」
「じゃあ、居眠りじゃなかったと」
「……絶対に居眠りなんかしてなかった。ブレーキ痕もなかったんだ。あの人は俺を見ながらブレーキを踏むこともなく俺を轢いたんだ」
 そして顔を上げると、一呼吸挟んでから、いっきに吐き出す。
「いま、わかった。俺、だから幽霊になってずっとここに残ってたんだ。それが未練だったんだ。自覚してなかったけど、たぶん気づいてたんだよ。あれが事故じゃないってこと。殺されたんだってことも!」
 そう叫ぶように言うと、元気は晴高と千夏の顔を交互に見比べて目を伏せた。
「だから……俺、もうここにはいられない」
「元気?」
 千夏の背筋に、ぞくりと寒気が走った。ここにはいられないって、どういうこと? 心臓の音が嫌に大きく聞こえる。その音は不安が大きくなるのに合わせて、どんどん大きくなるようだった。ダメ。いま、ここで元気を行かせたらダメだ。もう二度と会えなくなるかもしれない。そんな直感に息ができなくなりそうだった。
「自覚してしまったらもう、見て見ぬふりなんてできない」
 元気はこちらを見ずに、そう呟くように言う。
「元気。お前、あいつらに復讐しようとか考えてるんじゃないよな」
 晴高の問いかけに、元気は言葉を濁す。
「わかんない……わかんないけど」
 曖昧なままはっきりとは言わないが、元気が復讐を意識していることは痛いほどわかった。千夏自身だって、彼と同じ目に合えば同じことを考えるだろう。晴高は、
「恨みのままに行動すれば、いずれあの工事現場にいる阿賀沢の霊みたいになって、やがて悪霊になるぞ」
 元気を射るような視線で見ながら、そう強い口調ではっきり口にした。
 元気は晴高と目を合わせるものの、引くことも、反発することもなく、ただ悲しそうにその視線を受け止める。彼自身も悪霊云々のことはわかっているのだろう。
 しかし、だからといって逃げることもできないにちがいない。彼がこの世に幽霊として残っているのは、未練を抱いているのはまさにそのためなのだから。
 元気は、目元を和らげて穏やかな口調で言った。
「……晴高と千夏はこの件からは手を引いてほしい。これは俺の問題だし。相手は二人も殺してるんだ。危険すぎる」
 そして千夏を見ると、微笑んだ。
「それと、千夏。いままでありがとう。俺、すごく楽しかった。いっぱい、良くしてくれてありがとう」
「元気!?」
 元気がどこかに行ってしまう。自分の手の届かない遠くに行ってしまう。
 千夏は思わず元気の腕をつかもうとした。しかしその手は空を切るだけで何も触れることはなかった。その手に千夏はぎゅっと拳をつくる。
 もう元気は千夏に触れさせてくれるつもりがないんだ。彼の身体にも、彼の心にも。元気は、弱く笑う。泣きそうな笑みだった。
「ごめん。俺のことも、この事件のことも忘れて……」
「いやっ」
 反射的に言葉が口をついて出てきた。
「……千夏」
「嫌だ。いやだいやだいやだ! そんなの絶対に嫌!」
 千夏はいやいやをするように大きく首を横に振ると、テーブルの上に置いてあった元気の壊れたスマホを手に取った。
 それをトートバックに入れて肩にかけると、元気の横を通り過ぎ、会議室の出口に向かって足早に歩きだす。
「おい! お前も、どこに行くんだよ!」
 晴高の声に千夏は立ち止まってくるっと振り返ると彼に言った。
「警察に行ってきます」
「なんのために」
「決まってるじゃないですか! あの物件の敷地から、元気のスマホが出てきたことを教えてもう一度捜査をやりなおしてもらうんです!」
「ただ敷地からスマホが出てきたってだけじゃ、殺人の証拠になんかなりえるわけないだろ。俺たちはあの霊の記憶から教えてもらったからあの人が誰に殺されたのかもわかってるが、たぶん表向きは失踪したことになっているはずだ。遺体すらみつかってないのに、どうやって警察に動いてもらえるっていうんだ。まして元気の死亡は事故ってことで片付いてるんだぞ」
 晴高の言うとおりだった。いまはまだ警察は、阿賀沢兄の件も元気の件も、殺人事件とすら認識していない。
「それは、そうですが……」
 千夏は唇をかむ。理不尽に元気を殺しておきながら、まったく罪にすら問われていないだなんて。
「千夏、ありがとう。そうやって俺のために怒ってくれるだけでも、俺には充分だから」
 穏やかな元気の声。ああ、そうだ。あなたはそうやって、たくさんの理不尽を飲み込んできたんだ。それがもう、悲しくて仕方がなかった。
「だって……許せないよ。元気には、もっとたくさんの未来があったはずなのに。楽しいことも、嬉しいことも、悲しいことも、つらいことも。人としての人生の出来事がいっぱい残されてたはずなのに。それを全部、理不尽に奪ったやつらを許せない」
「でも、俺はそのおかげで君に出会えた」
 はっきりと元気はそう口にする。それだけが、ただ唯一の真実なのだと。それだけが唯一の望みだとでもいうように。
 千夏の瞳が滲む。
 それでも。
「私と出会ってなくても、元気は生きていれば幸せになってたはずでしょ! 死んだことで見てきたたくさんの悲しい思いや、やりきれない思いをしなくて済んだでしょ!? それに……このまま元気を一人で行かせたら、元気が元気のままではいられないような気がしてすごく怖い」
 晴高が言っていた、悪霊になるというものがどういうものなのかはよくわからない。でもそれはきっと、幸せとは真逆にあるものなのだろう。延々と終わらない怨嗟と苦しみの中にいることになるのだろう。
 絶対に元気を一人で行かせてはいけない。それだけは、絶対に譲れなかった。
 じっと睨むように元気を見つめる。元気も、こちらから目を離さず見ていた。
 どれだけそうやって、お互い無言で膠着していたのだろう。その沈黙をやぶったのは、晴高の嘆息だった。
「どっちの希望も聞くわけにはいかないな。元気、自ら悪霊になろうとしているお前を俺が見逃すとでも思うのか? いますぐここで除霊するぞ。千夏、相手は二人も殺してる殺人犯だ。下手に動けば、お前の命だって危ない。……だから、まぁ結局、現状維持だ。三人で何とかするしかない。ただ目標は変える。あの霊を除霊か成仏させるっていうのは第二目標にして、第一目標は」
 晴高は千夏と元気の顔を交互に見ると、二人の前に手を差し出した。
「殺人犯どもの検挙だ」
 千夏と元気は目を見合わせると頷いた。そして、晴高の手の上に手を重ねる。
「幽霊物件対策班、再始動。だな」
 警察に殺人事件として動いてもらうためには、阿賀沢兄か高村元気の死亡に殺人の疑いがあるという証拠をつきつける必要があった。
 元気の方はスマホが出てきただけでは証拠として弱すぎる。もうとっくに遺体も火葬されてしまっているし、両親や元婚約者もあれが事故ではなく殺人だったとは全く考えていないのだという。事故車両もとっくに廃車になっているだろう。立件の可能性があるとしたら、元気を轢いた相手が自白することぐらいだろうか。
 一方、阿賀沢兄の方については彼らが経営していた料亭のサイトを探してみたところ、会社紹介の役員の欄には現在も兄の名前が載っていた。阿賀沢(あがさわ)浩司(こうじ)という名のようだ。
 もし彼の遺体を発見できれば、一気に殺人として警察が動いてくれる可能性は高くなる。阿賀沢浩司が殺されたとわかれば、同じ敷地内に埋められていた元気のスマホと、元気のクラウドに残っていた写真を証拠に出すことで、こちらも殺人事件として捜査してもらえる可能性があった。
「というわけで、まずは阿賀沢浩司の遺体をみつけるのが先決だろうな」
 晴高がハンバーガーを齧りながら、そう結論づけた。
 ここは先ほどの会議室。とはいえ、もう勤務時間を過ぎていたので近くのファーストフード店で早めの夕食を買ってきたのだ。
 千夏もオレンジジュースを紙コップからストローで吸う。体中に染み渡る心地がした。元気のスマホが見つかってからというもの、感情の変化が忙しくて空腹すら忘れてしまっていた。考えてみたら、朝から何も食べていなかった。ナゲットも美味しい。
「でもさ。どうやって、探すんだよ」
 元気がフィッシュバーガーをもぐもぐ食べながら言うのに、晴高が返す。
「あの建物を解体したときに遺体が出てきたなんて話は聞いたことがない。さっきちょっと職場のデータベースで調べてみたが、やっぱそんな情報はなかった。ということは、解体される前にどこかに運び出したんだろうな」
「ということは、……車、ですかね」
 千夏が尋ねると、晴高は食べ終わったハンバーガーの包みをクシャっと潰した。
「だろうな。お前ら、聞いたんだろ?」
 晴高の問いかけに、千夏と元気は頷く。
 阿賀沢浩司の霊の記憶を見たときに、弟が言うのが聞こえたのだ。
『じたばたすんな。山にでも、うめときゃバレやしないさ』
 それだけで本当に山に埋めたかどうかは確証は持てないが、東京のど真ん中で成人男性の遺体を隠せる場所などそう選択肢はない。
 東京都心からだって、車で数時間走ればあっという間に山の中だ。
「……あの霊と同調すれば、もっと詳しいことわかるんでしょうか」
 ぽつりと千夏は思いついたことを口にする。
 しかしそれには晴高が良い顔をしなかった。
「……確かに本人に聞くのが一番早いんだろうが。アレはもう相当恨みに凝り固まっているように見えた。お前らの目にはどう見えていたのか知らんが、俺にはほとんど真っ黒に視えたんだよ。危険すぎるだろ」
 そうは言うものの阿賀沢浩司が一番確実なことを知っているのは確かなのだ。
 ちょうど夜も更けてきたこともあり、千夏たちはもう一度あのマンション建設現場へ行ってみることにした。社用車で現場につくと、防音シートにおおわれた更地に足を踏み入れる。
 しかし一歩踏み込んだ瞬間、千夏は先日とは空気が変わっていることに気づいた。
「あ、あれ?」
 いままでは昼に来た時も、夜に訪れた時も、ずっとどこからか視られているような視線を感じていた。あれは今になって思えば、阿賀沢浩司が隠れて千夏たちを観察し
 ていたのだとわかるが、今日はその視線を感じないのだ。
「……やっぱ、そうか」
 晴高が軽く嘆息する。
「え? どういうことなんですか?」
「阿賀沢浩司の未練は、ある程度解消されてしまったってことだよ。まだ多少気配は感じるから成仏したわけじゃないんだろうが、前回よりもはるかに薄い」
 晴高はスタスタと敷地の角へと歩いていく。そこは元気のスマホが見つかった場所だ。今はもう穴は埋め戻してあるが、晴高は目を閉じて手を合わせると、短く経を唱えてから顔を上げた。
「あの人は、自分の殺害そのものよりも、不動産を弟に騙されて取られたことよりも。無関係の銀行マンを巻き込んでしまったことを悔やんでいたんだろうな」
「……」
 元気の目が揺らぐ。彼はじっと、スマホが埋まっていた場所を見つめていた。
「マンション建設を妨害していたのだって、おそらくだが、ここに埋められていた元気のスマホを守るためだったんだろう。それを本人の手に戻せて殺害の事実を伝えられたんだから……思い残すことが少なくなって、霊としての存在感が薄れたんだろうな」
「……なんで、いい人ばかりがひどい目に合うんでしょうね」
 千夏の心の中に、さらに悔しさが募る。
「いい人、だからなのかもな……」
 晴高の呟きに、千夏はキッと睨むように彼を見た。彼にあたっても仕方ないことなのだけど、胸に沸くムカムカするほどの憤りをどこかにぶつけたかった。
「おかしいですよね! おかしいですよ!」
「おかしいな。まぁ、報いは受けてもらおう。因果応報って言葉もあるしな」
「でも、お兄さんの方がダメとなると……」
「あとはもう一人の当事者に尋ねるしかないだろう。ただ……危険は伴う。俺たちが殺人に気付いていることは極力察せられないようにしなきゃな」
 もう一人の当事者。つまり、加害者である阿賀沢弟夫妻だ。
 千夏は、元気とその視線の先にあるスマホが埋められていた現場に目をやった。なんとかして、彼らの罪をあばきたい。その表の顔の裏にあるものを引きづり出したい。元気のためにも。お兄さんのためにも。
「……実は、ちょっと思いついたことがあるんです。極力私たちに危険が及ばなくて、彼らに自分から行動してもらえる方法なんですけど……」
 千夏は、ここにくるまでにずっと考えていた作戦を晴高に伝えた。それは自分たちにしかできない作戦だった。
 翌日。
 あのマンション工事物件の不動産登記簿謄本から前所有者である阿賀沢弟夫妻の連絡先を調べ、晴高が彼らに連絡をとった。
 連絡の内容は、『物件を調査していたところ、前所有者のものと思しき持ち物がでてきたので確認したい』にした。その持ち物が『壊れたスマホ』で、『銀行の名前があったので、その銀行に引き渡してもよいか』とも伝えてあった。
 すると、すぐに会いたいという連絡が返ってくる。
 彼らにとっても、わざわざ壊して埋めたはずのスマホが今頃になって出てくるのはマズイと感じたのだろう。
 会う場所は八坂不動産管理の会議室。
 約束の日時に現れたのは、五十代半ばと思しき短く刈り込んだゴマ塩頭の男性と、同年代の厚化粧の女性だった。女性が通った場所は、つんと強い香水の匂いが残った。
 彼らを会議室へ案内するのは晴高。千夏は一番最後について歩きながら、隣にいる元気の手を握る。じんわりとした温かさが伝わってきた。
「……大丈夫?」
 そう問いかけると、元気はこくんと頷いて小さく笑った。
「ああ。大丈夫」
 元気にとって、彼らは生前自分が担当した仕事の相手でもあり、加害者でもある。元気の顔はこわばってはいたが、ぎゅっと千夏の手を握り返してきた。
 長テーブルを二つくっつけた席の奥へ阿賀沢夫婦を座らせ、手前に晴高と千夏の二人が座った。元気もその隣にいるのだが、彼らには視えてはいないようだ。
 男性は交換した名刺から阿賀沢弟、本名・阿賀沢(あがさわ)良二(りょうじ)であることは確認できた。女性の方は良二の妻、咲江(さきえ)だ。
 二人とも浩司の記憶の中で見た人物と同じだった。
 お互いに当たり障りのない挨拶を交わした後、まず晴高が話を切り出す。
「本日お呼び立てしたのは、先日お電話でもお伝えしましたが、このスマホの件です」
 晴高は透明なビニール袋に入ったあのスマホをテーブルの上に置いた。
 一瞬だけだが、阿賀沢夫妻の表情が険しくなったのを千夏は見逃さなかった。
 良二がスマホへ手を伸ばすが、彼の手が触れる寸前で晴高はそれをヒョイっと取り上げる。良二は怪訝そうに晴高を見たが、晴高は相変わらずの無表情のままスマホの裏に貼られた銀行のシールを見せながら言った。
「このスマホに見覚えはございますでしょうか?」
「あ、それは……」
 良二の視線がさまよう。どう答えれば怪しまれないか考えを巡らせているのだろう。
「そ、それは。うちに来てた銀行マンがうちで落としてったものなんだよ。いつか返さなきゃいけないなと思ってたんだが、まさかそんなところにあったなんて」
 銀行マンとは、高村元気のことだろう。
 次は千夏が口を開く。
「その方の連絡先はご存知でしょうか? なんでしたら私どもの方でお返ししておきますが」
 良二は弱ったように半笑いを浮かべて、首に手を当て小首を傾げた。
「いやぁ、覚えてねぇな。もう随分前のことだしな。途中で担当者も変わったんで。そこの銀行とはうちもまだ取引あっから、あとでうちの方から返しておきますよ」
 良二がそのスマホを晴高の手から取ろうとした。口調の柔らかさとは裏腹に、その手は素早い。しかし、それより早く晴高がスマホをテーブルの下へと仕舞ってしまったので、良二の手は空を切った。
 良二は、忌々しげに晴高を睨むが、晴高は涼しい顔のまま。
「申し訳ありませんが、これは今すぐにはお渡しできません」
「なんだって?」
 良二の声に怒気が滲む。
 それまでヘラヘラと薄っぺらい笑顔を浮かべていたのが一転、凄むように晴高を睨んできた。
「このスマホは元々あなた方の土地だったところから発見されたものですから、念のため確認する必要があっただけです。ただここに書かれている名前は銀行の名前ですので、そちらにも確認は取らせていただきます。それまでこちらで一時保管いたします」
 淡々と告げる晴高。
「なんだって!? それを渡すために呼び出したんじゃねぇのかよ!!」
 良二は声を荒げ、晴高の胸倉を掴む。千夏は、晴高と良二のやりとりをはらはらしながら見ていた。
「あ、あんたっ」
 咲江も慌てた様子で良二の腕を掴んで止めようとする。良二はまだ晴高のことを睨みつけたままだったが、しぶしぶといった様子で手を離すとどかっと椅子に腰を下ろした……はずだったのだが、彼が腰を下ろしたところに椅子はなかった。いつの間にか椅子は後ろにずれていたのだ。
 千夏の目には、良二が立ち上がったときに彼の後ろにまわった元気が椅子を引いたのが視えていた。これも千夏が考えた作戦通り。
 後ろに倒れて腰を打ち付けた良二は尻をさすりながら、目を白黒させていた。
 晴高は眼鏡を直しながら、冷静な口調で彼に言う。
「本日お越しいただいたのはスマホの件だけではありません。私たちは、あの神田の土地の調査を行っております。あの土地では怪奇現象が頻発して、マンション建設工事がもう一年以上止まっていることはご存じですか」
「か、怪奇現象だって……何言ってんだ。馬鹿にしてんのか!?」
「いいえ。馬鹿にしてなんかいません。私たちは特殊物件対策班と申します。別名、幽霊物件対策班。弊社や関連会社が抱えている問題物件のうち、幽霊が関与している物件を調査し問題解決をするのが仕事です。ちなみに、私は僧籍も持っています」
 そんな浮世離れした話を、晴高はニコリともせず無表情のまま語る。
「ば、馬鹿らしいっ! おら、帰るぞ!」
 良二は咲江の腕を掴むと、立ち上がって会議室の外へと大股で歩いていこうとした。しかし、会議室のドアの手前で彼は躓いて床に倒れこむ。これも、元気が良二の足に自分の足をひっかけたのだ。
「あの物件は霊現象が頻発しています。工事車両の原因不明の故障、工事担当者の急病。そして、なぜか敷地内に落ちていたこのスマホ。霊障はアナタがたにも起きているのではありませんか? このままにしておけば、もっと大きな不幸が降りかかるかもしれませんよ」
 と、晴高は畳みかけるように胡散臭いことを言う。
 そのとき、誰も座っていないパイプ椅子が数脚、ガタガタとひとりでに動き出した。大きく動いた後、そのまま後ろにぱたんと倒れる。
 誰も触っていないのに勝手に動く椅子を見た良二は顔を青ざめさせた。千夏から見てもわかるほどの、青ざめよう。
 彼らの背後には、元気が微妙な苦笑を浮かべて立っている。霊障には違いない。全部、幽霊である元気がやっているのだから。彼らだって二人も殺しているのだ。恨みを買う自覚なら充分すぎるほどあるだろう。彼らを怖がらせることができれば、下準備は終了だ。今度は千夏が話の主導権を引き継ぐ。
 とはいえ、殺人のことを千夏たちが知っていることは気付かせないようにするために、彼らに聞かせる話は少し加工することにした。
「失礼ですが、阿賀沢様。あの土地にいるのは、やはり阿賀沢様御由来の霊かと思います。おそらくご先祖様の霊なのではないでしょうか。私も多少霊感があるのですが、あの土地で霊障を起こしていた霊は『野犬が掘り起こしてくれた。あと少しで出られる。そうすれば戻れる』と仰っていました。何のことなのかは私にはわかりませんが、もしかしたら阿賀沢様は何か心当たりございませんでしょうか」
 千夏に問われ、良二はさっきまでの威勢が嘘のように焦点の合わない目で虚空をぼんやり見ながら、ぶるぶると首を横に振った。咲江も小刻みに体を震わせている。
 さらに千夏は畳みかけた。
「これだけの霊障ですから、一刻の猶予もないかと思われます。このままですと私共も物件のマンション建設が進みません。しかし、それ以上に阿賀沢様にとっても放置しておくのは大変危険かと思われますので、こうしてお伝えいたしました」
 阿賀沢夫妻は「墓参りにでも行ってみます」と言うと、もう晴高の手にある元気のスマホには目もくれず、二人して青い顔をしたままそそくさと会議室を去っていった。
 彼らが帰ったあと、先ほど倒した椅子を自分で片付けながら元気は、
「俺もあいつらについてって、もっと脅してこようか?」
 と提案してきた。しかし晴高は頭を縦に振らなかった。
「いや。今はいいだろ。この程度の脅しでも動くかもしれん。それに、お前は極力、単独であの二人と接触しないほうがいい」
 千夏も、それがいいと何度もうなずく。
 元気があの二人と接触するのは、正直とても怖い。彼らは元気を殺した張本人かもしれないのだ。今は冷静を保っている元気であっても、いつ冷静さを失うかわからない。そうなると、彼らはともかくとして元気の身が心配だ。もう、今の元気には戻れなくなってしまうかもしれない。そう思うと、たまらなく怖かった。
「さてと。とはいえ、俺たちも行かなきゃな。あいつらが動き出すまで、見張るか」
 と晴高。そう、種は蒔いた。あとは、彼らがどうでるか、だ。
 千夏たちは晴高の車で、阿賀沢夫妻の自宅のそばまで来た。
 そこは世田谷の高級住宅街にある大きな一軒家だった。ずいぶん、羽振りが良さそうだ。建物はまだ新しそうだったので、あの神田の不動産を売った金で建てたのだろう。
 晴高は阿賀沢宅の玄関が見える少し離れた路上に車を止めた。
 先ほど元気に確認しにいってもらったところ、彼らが八坂不動産管理の水道橋支店に来た時に乗っていた車が車庫の中にまだあるようだ。
 塀は高いが、二階の部屋に明かりがついていることからも夫妻は自宅にいるに違いない。
「動きますかね、阿賀沢さんたち」
 今回は元気と一緒に後部座席に座っている千夏が尋ねる。運転席の晴高は、
「さぁな。どうだかわからんが、あいつらが動かなければ……」
「俺がまた脅しにいきゃいいんだろ? 夜中に寝てるとこ脅してやろうかな。痛いよぉ~。痛いよぉ~。車に跳ね飛ばされて折れた手足と潰れた内臓が痛いよぉ~って」
 元気が手をお化けのようにして、うつむき加減で怖い声を出したものだから、
「ヒッ……」
 千夏はビクッと肩を縮めた。
 さすが幽霊。演技が迫真すぎる。元気だとわかっていても、背筋がぞくっと寒くなるようだった。しかも、本当に痛い思いをして死んでいるので、その声には偽りのない恨みつらみが詰まっている気がした。
 千夏が本気で怖がっていると、元気はパッといつもの彼に戻り「ごめん、つい」と朗らかに笑う。しかし、すぐにスッと真顔になると、
「ずっと毎晩、脅してやればいいよ」
 元気は車の窓から阿賀沢宅を眺めながら、そう呟いた。

 それから数時間後。ポツリポツリと降り出した雨が本降りになった頃。
 阿賀沢宅の電動ガレージが開いた。中から車が出てくる。阿賀沢夫妻が水道橋支店に来た時に乗っていたのと同じ、高級外車のセダンだ。
 晴高もすぐに車を出す。あまり近づきすぎても怪しまれるので、距離を保ちながらも離れすぎずついて行った。
 阿賀沢夫婦の車は住宅街の中をしばらく走って、東京を東西に貫く甲州街道に出ると西の方向に向かって進んでいった。
「やっぱ、多摩の方に向かっているな」
 しかし、雨で車が多いことに加え、事故を起こした車両があったらしく片側一車線しか通行できなくなっているようだ。道は酷く渋滞していた。
 まだなんとか阿賀沢の車は見えてはいるが、横の道からどんどん車が入ってきて、阿賀沢の車との距離が離されていく。元気はじっと進行方向を見ていた。その顔に焦りの色が濃くなっていく。
「元気……」
 千夏は元気の左手に触れた。彼の左薬指にシルバーのリングが見えた。千夏とペアのやつだ。
「大丈夫だよ、元気。今回見逃しても、またチャンスはあるよ」
 元気は指を絡めるように千夏の指を握り返してくると、頷くように少し俯いた。そのまま何かを考えていたようだったが、
「……俺、あいつらの車に乗りこんどく。そうすれば見逃さないから」
 そう早口に言うと千夏の指から手を離した。
「元気!?」
 咄嗟に千夏は元気の腕を掴んで引き止めようとしたが、それよりも彼が車から出るのが早かった。
「おい! やめろって!」
 晴高も焦った声を出すが、元気は、
「あいつらを逃すわけにはいかない。どっか着いたら公衆電話探して電話する」
 そう言うと、雨の中、車の間を縫って前方へ走って行ってしまった。
 すぐに、元気の背中が遠くなり見えなくなる。
「あの、馬鹿」
 晴高は唸った。
「ど、どうしましょう」
 阿賀沢の車に乗り込むということは、狭い車内で阿賀沢夫妻と元気の3人だけになるということだ。殺人の加害者と被害者。
 彼らだけにしたら、何が起こるかわからない。元気が何をするかわからない。嫌な動悸が胸の中で高鳴る。不吉な予感が募る。
「とにかく、俺たちもこのままあの車を追うしかない。くそっ、見失わなきゃいいんだが」
 しかし、晴高の懸念の通り。
 渋滞のひどい場所を抜け、ようやく車がスムーズに走り始めた頃には前方に阿賀沢の車は見えなくなっていた。
 ただ、道なりに西へと進んでいく。
「おそらく、どこかで道を逸れて山の方に行ったんだろうな……」
 コクンと千夏は頷いた。自然と手を胸の前で組んで、目を閉じ心の中で願った。
(元気、お願い。なにもしないで、大人しくしていて)
 そう強く祈る。
 でも、いくら普段温厚な彼でも、自分を殺した相手を目の前にして冷静でいられるはずがないんじゃないか。それが、彼の感情を負の方へ偏らせ、悪霊にしてしまうんじゃないか。いやもっと物理的に、元気は彼らに手を下してしまうんじゃないかと、怖い想像がドンドン浮かんでくる。
 しかし、反面。こうも思うのだ。
 元気の未練の元凶である彼らにようやく会えたのだ。ようやく彼自身の手で未練を果たせるところまで来た。だから、元気は自分の思うままにするべきなんじゃないかって。だって、元気はいままで彼らのせいでたくさんの辛い思いをしてきたのだ。自ら悪霊化してでも復讐を願うなら、どうしてそれを止められるんだろう。
 相反する想いが、千夏の中で交錯する。
 もし元気が悪霊になってしまえば、晴高は彼を除霊するだろう。
 いろんな考えや感情が、頭の中でぐるぐると渦巻いていた。頭がパンクしそうだ。
 でも、そんな感情の渦の中から、千夏の一番素直な気持ちを掬い取ってみると、そこにあるのは純粋で強い想いだった。
(それでも、やっぱり私は、笑ったあなたに会いたい)
 どれだけ車は走ったのだろうか。もう数時間は走り続けているはずだ。
 気がつくと窓の外はほとんど民家もない郊外の景色が映り込んでいた。
 その時、千夏のスマホが鳴る。
 弾かれたようにスマホの画面を見ると、そこには見知らぬ番号からの着信が表示されていた。
 晴高の車を降りた元気は、渋滞の雨の中、道路にたまった水を踏みちらしながら走っていた。しかし、彼のことに気を留める人はいない。幽霊である彼の姿はほとんどの人には視えないのだから。
(どこだ……)
 走りながら、阿賀沢の車を探す。あいつらが乗っていたのは、白いドイツ製の高級外車。片側二車線の甲州街道に車が列をなしていた。事故でこの先が一車線通行になっているせいで車が詰まっていた。そのうえ、この雨だ。いつもより車の数そのものも多い。さらに横道からどんどん車が入ってくるため、列は長くなる一方だった。
(どこだ。まさか見逃したなんて)
 もしこちらが見逃している間に横道に入られてしまえば、それ以上車をたどれなくなる。
 心臓なんてとっくに火葬されて自分の身体にはないはずなのに、ドクドクと脈打つようだった。彼らは阿賀沢浩司の遺体を確認しにいったに違いない。これを逃せば、もう二度と彼らから遺体の隠し場所を引き出すことはできないかもしれない。それを思うと、焦りが強くなる。
 と、そのとき。目の端に見覚えのある白いセダンが映った。
(あった!)
 間違いない。阿賀沢(あがさわ)良二(りょうじ)の車だ。
 元気は車のそばまで走り寄ると、ドアをすり抜けて車の後部座席に乗り込んだ。こういうとき幽霊の身体は便利でいい。普段はあまりやらないが、幽霊にとって物理的な障壁はあまり意味をなさない。もちろん結界があったり札を張られたりすると入れなくなることもあるが、そういう場所はあまり多くない。
 運転席には良二、助手席には咲江の背中が見える。脅しが効いたのか、彼らは一言も発しないまま黙々と運転していた。ただ良二がいらいらした様子でハンドルを指でたたく音だけが、雨音と一緒に聞こえていた。
 まさか元気の霊が乗っているとはつゆとも思わず、良二の車はしばらく甲州街道をひたすら走って八王子を超え、やがて山間部へと進んでいく。
 山の中を走りだしてからかなり経ったころ、車はようやくスピードを落として路肩に止まる。雨はすっかり止み、雲の合間から晴れ間が覗いていた。
 そこは舗装された道すらない、山の奥深くだった。周囲は高い木々に覆われ、まだ日が出ている時間帯だというのにどこか薄暗い。
 二人は車から降りると、木々の茂った斜面を降りていった。
「たしか、この辺りだったんだよな」
「もう覚えちゃいないわよ。ああ、やだ。早く帰りましょうよ。薄気味悪いわ」
 咲江は自分の身体を抱くようにして、文句を言う。
「そんなこと言ったって。もし本当に野犬なんかが掘り起こしててみろ。遺体が見つかりでもしたら、一巻の終わりだぞ。そろそろ白骨化してるだろうから、一回取り出してどこか別のところに隠すのもありかもしれんな」
 そんな恐ろしいことを口にしながら良二は斜面を下る。
「たぶん、この辺りなんだ。遺体やら骨やら、見えるか?」
 良二はキョロキョロと辺りを見回す。後からついてきた咲江もしぶしぶといった様子だったが、同じように辺りを調べていた。しかし何もみつからない。
「ふぅ。なんだ。なんもねぇじゃねぇかよ。最近雨が多いから土が流れ出して、遺体が出てきたんじゃねぇかと心配になったが。ったく、あの不動産屋ども。適当なこと言いやがって」
「きっとあれよ。私たちから金でもたかろうと思ってんじゃないかしら」
 阿賀沢夫妻は、遺体がちゃんと埋まっていることに安心したのか、先ほどとは打って変わって口数が多くなる。安堵からか、周りに彼ら以外の誰もいない場所だからか。彼らは、事件のことを口にし始めた。
「ったく。もっと深くうめときゃよかったのよ」
「ほんとにな。あんときは気が動転してたから。あれだな。兄貴の方ももっと考えて殺りゃよかったな。その点、あのバカな銀行マンは上手くいったが」
 彼らは元気がすぐそこにいるとは気づきもせず、元気の殺害のことを話しだす。その口調は、とても軽かった。
「やっぱ、事故に見せかけるっていいわよね。金ちらつかせれば、いくらでもやる人間はみつかるし」
「そうだな。怪しまれねぇようにあの銀行マンの葬式にも顔出したが、彼女っぽい若い女の子が棺にしがみついてわんわん泣いててな。泣きそうになるのをこらえるのに必死だったよ。笑っちまいそうでさ」
 元気は、目の前に緞帳がおりたように視界がスッと暗くなったような気がした。
(こいつらは、何を話してんだ? 何がおかしかったって? 何が笑いそうだったって?)
 元気の脳裏に自分の葬式の記憶がちらつく。掲げられた自分の遺影。ボロボロに壊れた身体が入った棺の前で、大好きだった彼女が泣いていた。
 遺影の中の自分は、馬鹿みたいに明るく笑っていた。
 心の中が真っ黒に塗りつぶされていく。
 なんで、お前らが生きてんだ。なんで、俺は死んでんだ。なんで。なんで。なんで。……オナジオモイヲ アジアワセテヤル
 さーっと、湿気を含んだ冷たい風が森の中を吹き抜けた。
「お、おい。なんか、急に寒くなってきた気がしねぇか?」
 良二は寒そうに両腕をさすった。ざわざわと森の木々がざわめく。
「そ、そうね……」
 咲江も、おどおどと辺りを見回す。まだ日は陰り始めたばかりの時刻のはずなのに、いつのまにか薄暗さが増していた。
「か、帰るぞ」
 良二は斜面を大股で登り始める。
「ちょっと待ってよ。おいていかないで!」
 咲江もあわててそれに続いた。二人の背中が斜面を登っていく。それを元気も大股で追いかけた。そして、湧き上がる黒い気持ちを抑え込み、低い声で彼らに呼び掛ける。
『阿賀沢さん』
 二人は、凍り付いたように足を止める。どうやら元気の声は彼らに届いたようだ。おろおろと辺りを見回す二人の顔は蒼白になっていた。恐怖に怯えている様子が手に取るようにわかる。
 元気は、もう一度彼らの名前を呼んだ。
『良二さんと、咲江さん。覚えてますか。高村です。オレ……あなたタチニ何か失礼なコトシましたか?』
 一歩一歩、彼らに歩み寄りながら低い声で尋ねる。もう彼らの顔しか見えていなかった。良二と咲江は蒼白な顔して、ただ口をパクパクさせるしかできないようだった。
『俺、何モシテナイデスよね。ナノニ、なんで俺ヲ殺しタンデスカ』
 周りの木々がざわめき揺れる。風もないのに、まるで人の手で激しく揺らされたかのようにざわめいた。
『オレはナニモ見テナカッタノニ。なのにアンタタチは、カッテニ俺のことを邪魔だと思って殺シタんだ』
 咲江は尻から倒れこみ、あわあわとポケットから数珠を出して拝みだした。般若心境のようなものを唱えているが、そんなもの苦しくも何ともない。晴高の読経と比べると、蚊に刺された程度の威力しかなかった。
 咲江の横を通りすぎたとき、彼女がもつ数珠が勝手に引きちぎれる。
 良二に追いつくと、元気は両腕で彼の喉を掴んだ。
『ジャアオレガ、アンタタチノコトヲ殺シテモイイッテコトデスヨネ?』
 そのときはじめて良二の目が元気の姿を捉えたようだった。身体に触れたことで、視えるようになったのかもしれない。その目に怯えが色濃く影を落とす。
「わ、わるかった……すまんっ、このとおりだっ」
 良二は元気の腕を引き離そうと掴んだが、どれだけ爪を立てられようが痛みなんて感じない。だって、自分は死んでいるんだから。
 元気の腕や身体から黒いモヤのようなものが立ち上りはじめていた。
『ユルサナイ……オマエラモシネバイイ』
 元気は良二の首を掴む腕に力を込めた。
「……かはっ……」
 良二の顔が赤く染まる。それでも元気は力を弱めなかった。そのとき。
 良二のズボンのポケットから何かがするりと落ちた。見ると、それは良二のスマホだった。
 元気の目が揺らぐ。憎しみと怒りに覆われそうになっていた元気の心に、一瞬、別の感情がよぎった。
 そうだ。約束してたんだ。遺体の場所を見つけたら、連絡するって。
 連絡する? 誰に? 誰に。
 スマホに注意がいったことで、良二を掴む腕の力が弱まったのだろう。良二は元気の腕を振り払うと、地面に倒れこむ。数回咳をすると、一目散に斜面を登り始めた。それを見て、咲江も半狂乱に叫びながら良二を追って斜面を登っていった。
 しかし、元気の視線はスマホにくぎ付けになったままだった。
 誰に、連絡するんだった? 誰か。大切な人。連絡をいまもきっと待っている人。
(そうだ。千夏だ)
 そう思ったときには、身をかがめてスマホを手に取っていた。幸いロックはかかっていない。千夏の番号なら、暗記してある。一瞬ためらったものの、指でその番号を押した。
 数回のコールのあと、彼女の声が聞こえた。なんだかとても懐かしく思える。目が潤んで、元気の顔が歪んだ。
 スマホにかかってきた、見知らぬ番号。ごくりと生唾を飲み込んで、千夏は応答ボタンを押すとスマホに耳をつけた。
「はい」
 電話の相手は無言。何もしゃべりかけてこない。でも、千夏にはその相手が元気だという強い確信があった。
「元気? 元気なの?」
 相手はやはり何も答えない。なおも千夏は一方的に受話器に話しかけた。
「元気!? いま、どこにるの? 私たち、いまそっちに向かっているの」
 晴高が車を路肩に止めると、運転席からこちらを振り向いてハンズフリーにするように小声で言ってくる。すぐに千夏は言われたとおりにすると、なおもスマホの向こうにいる相手に話しかけた。
「元気!! 返事して。元気。大丈夫なの?」
『チナツ』
 ようやく向こうから声が返ってきた。その声は、たしかに元気の声だった。
 でも、いつもと違い、なぜかぞくっとする寒さを感じる声。
 いつもなら元気の声を聴けばいつも安心するのに、不安がどんどん強くなる。
「元気! いまどこにいるの?」
 しかし元気はそれには答えない。その代わりに彼は別のことを言ってきた。
『……俺やっぱりユルセナイ。だから』
「だから?」
『チナツはこのケンモ、オレノことも忘レテホシイ。ごめん……』
 息ができなくなる気がした。聞き間違いだと思いたかった。しゃくりあげるように無理やり息を吸い込む。なぜか笑みが零れた。涙も零れた。
「何を言ってるの? 元気。お願い、教えて。いますぐ私たち、そっちに駆け付けるから。いま、どこにいるのか教えて! 元気!」
 彼が自分のもとから離れていこうとしているのがわかった。もう永遠に戻ってくるつもりはないのだと。
『ゴメン……それと、いままでありがとう』
 いやだ。そんな別れの挨拶みたいなもの聞きたくない。
「元気。お願い。私の元に帰ってこなくてもいいから。でも、それでも。悪霊になったりしないで。そんな、これからももっとずっと苦しむようなことしないで」
 視界が滲む。ぽたりと雫がスマホに落ちた。
『ごめん。それでも俺、ヤッパリアイツラヲミノガセナイ』
 そのとき、晴高が運転席から手を伸ばしてきて千夏の手にあったスマホを掴むと話しかけた。
「おい。元気」
『晴高も。ごめん。俺、ジョレイ……』
「お前はまた繰り返すのか?」
 除霊という言葉を晴高は打ち消すように言う。
『……でも』
 スマホを通して聞こえる元気の声は、心なしか震えていた。
「お前はまた、好きな女を悲しませんのか?」
『……』
「愛してるんだろ? 大切なんだろ!?」
『俺は……』
 晴高は畳みかける。
「なのに、お前は彼女を見捨てるのか? 彼女はお前を失って、一人で悲しんで、一人で立ち直って、お前じゃない誰かとお前のいない新たな人生を歩みだすんだよ。お前は今回も置いてけぼりで何もできないままだ。ただ悲しませて傷つかせて、絶望に叩き込んでおいて」
 そこで一呼吸をおいて、強い口調で訴えた。
「前は不可抗力だったかもしれんが、いまは違うよな!? お前は選べるんだ。お前、それで本当にいいのかよ!?」
 しばらくの沈黙。スマホからは、微かに嗚咽のようなものが聞こえてきた。
 どれくらい経っただろう。
『わかった。場所を言う……』
 元気のその言葉に、晴高はほっと安堵の息を漏らし、千夏はわたわたとトートバッグからメモ帳とペンを取り出した。そして、元気が言う場所をメモする。
 メモした後、あちらのスマホの充電が切れそうというので一旦スマホを切ると、晴高は教えられた場所に向かって車を発進させた。
 元気がいるのは千夏たちがいる場所から、さほど離れてはいない場所だった。切れたスマホを手に、千夏は祈るように目を閉じて額にあてる。
(どうか。元気が悪霊になっていたりしませんように。どうか。元の元気のままでいてくれますように)
 晴高はスマホの地図アプリをたよりに、どんどん山深い方へと車を進めた。
 晴高が元気を説得して、場所を聞き出してくれたおかげでなんとか道がつながった。しかも、晴高があんな風に声をあげて元気のことを説得してくれたのは意外だった。彼にとっては元気が悪霊になったとしても除霊してしまえばそれで済む話なのに。
「あの……晴高、さん」
 千夏は運転席の彼に、ためらいがちに声をかける。
「ん?」
 晴高は視線を前にむけたまま、聞き返してきた。
「さっきは、ありがとうございます。私だけだったら、元気を心変わりさせることができたかどうか」
「あの幽霊男が心変わりしたのは、お前の存在のおかげだと思うがな。俺はただ、事実を言っただけだ」
 と、なんでもないことのように言う。
「でも……おかげで、元気。場所を言ってくれましたし」
「言っとくが。まだあいつが悪霊になってないかどうかは、声だけでは俺にもわからん。阿賀沢夫妻もどうなったかわからんしな。すべては現地についてみないとなんとも」
 それは、確かにそうなのだ。
 先ほど聞いた元気の声が思い起こされる。
 あれは間違いなく元気の声のはずだった。それなのに、どこか遠くから聞こえているような、冷たい響きのある声でもあった。
「もしあいつが悪霊化していたら、お前の前だろうとなんだろうとその場で除霊する。いいな」
 心を決めて、こくんと千夏はうなずく。
「……わかってます」
 窓の外を見ると、そろそろ日が暮れ始めていた。
(元気……どうか、無事でいて……)
 祈るしかできないことが、とてももどかしかった。
 空が夕焼けに染まる黄昏時。
 晴高の車は、スマホの地図アプリを頼りに森の中の舗装されていない道を進んでいた。元気に教えられた地点にはもうかなり近いはず。
「いた。あそこだ」
 晴高は念のため、少し手前で車を止めた。山道から少し下った場所に、膝立ちになり頭を垂れた人影が見える。千夏と晴高は車から降りた。離れていてもわかる、明るめの髪色にスーツ姿の長身の男性。
「元気……!」
 千夏が元気のもとへと降りていこうとするのを、晴高は腕を掴んでとめた。
「晴高さん……」
 晴高は目を細めて注意深く元気を観察する。無言で眺めていたが少しして、はぁと小さく息を漏らす。
「いまのところ、大丈夫そうだ。悪霊っぽい気配は感じられない」
 それを耳にした瞬間、千夏は元気の元に駆け出していた。
「元気!」
 彼は、膝立ちのまま握りこんだ両手を(ひたい)にあて、祈るような姿勢のまま微動だにしなかった。千夏は彼の手前で立ち止ると、おそるおそる彼に近づいていく。
「……元気?」
 千夏が近づいてくる気配に気づいたのか、彼がゆっくりと顔をあげた。
 そして千夏の顔をみると、心の底から安堵したような表情を浮かべる。彼の頬は涙で濡れていた。
「千夏……。俺、あいつらに……あいつらを殺そうと思った。でも……でも……」
 彼が大事そうに包み込んでいた両手を開いた。その手のひらには、共に交わしたあのリングが握られていた。
「千夏を失いたくなかった。もう一人になんかなりたくない。ただ、君の存在だけが……君を想うと、こっち側にいなきゃだめだって思って……」
 千夏も彼の前に膝をつくと、彼の両手を自分の手でやさしく包み込む。
 彼がぎりぎりのところで踏みとどまってくれたのがわかった。それがどれだけ、強い意志を要するものだったことか。どれだけ、たくさんの感情を乗り越える必要があったのか。それらを乗り越えて、いまここに元気がいる。元のままの彼がいる。そのことに、嬉しさと感謝の気持ちでいっぱいだった。
「うん……こっち側にいてくれて、ありがとう。元気。あなたに会いたかった。ずっと」
「俺も……」
 彼と額をくっつける。ぎゅっと包みこんだ彼の手を強く握って、どちらともなく目を閉じた。温かな体温とともに彼の優しさが伝わってくるようだった。お互いの存在がすぐ間近に感じ、溶け合うように思えた。
「おかえり。元気」
 顔を離してそう笑みをこぼすと、彼の顔にも笑顔が広がる。
「ただいま」
 そう返した彼は、優しく穏やかな彼のままだった。

 その後。
 千夏たちは警察に全てを伝えた。
 とはいっても、霊云々のところはそのまま伝えたところで信じてもらえるはずもない。そこで、多少話を脚色することにした。
 幸運にも、生前の元気と晴高は同じ建物で仕事をしていた時期がある。そこで、当時から元気と晴高は友人だったということにしたのだ。会社は違えど、同じ建物の二階と三階で働く間柄。何かの拍子で知り合って友人になっていたとしても別におかしくはない。
 そして、元気は生前、阿賀沢浩司の殺害と遺体遺棄を偶然知ってしまい、あの殺害の瞬間が写った写真のアドレスとともに、「もしかしたら自分も殺されるかもしれない」と記した直筆の手紙を晴高に渡してあったことにした。
 ちなみに、その手紙は幽霊になった元気が書いたものだ。だから筆跡は問題ない。
 晴高はずっとその手紙と写真を持っていたが、報復を恐れて警察に言えずにいた。しかし、たまたまあの神田の物件を調査することになり、そこで元気のスマホを発見したことで今になってすべてを警察に打ち明けることにした……という筋書きにしたのだ。
 警察は筆跡鑑定の結果、その手紙を高村元気の直筆のものと認定。
 そこに書かれた証言をもとに都内の山中を捜索したところ、白骨化した遺体を発見した。DNA鑑定の結果、その遺体は阿賀沢浩司のものと断定された。
 すぐに逮捕状が発行され、阿賀沢良二とその妻・咲江は逮捕される。
 そのとき、彼らはひどく衰弱した様子で、あっさりと罪を認めたのだという。
 また、交通事故として処理されていた高村元気の件も捜査が開始された。
 高村元気を車で轢いた男も、阿賀沢夫妻が逮捕されるとすぐに、多重債務の肩代わりを条件に殺害を依頼されて引き受けたことを自白した。
 それにより、実行犯の男はもちろんのこと、阿賀沢夫妻も高村元気の殺人教唆で再逮捕されたのだった。