雨は本降りになり、結局その日の夜の調査は延期となった。
会社を定時で上がって自宅に帰った千夏がキッチンで夕ご飯の準備をしていると、ピンポーンとインターホンが鳴る。
「はーい」
キッチン横の廊下にあるインターホンの子機には、宅配業者の制服を着た配達員の姿が映っていた。
「山崎さんですか。お届け物です」
「あ、はい。いま開けます」
オートロックの開閉ボタンを押して玄関に向かいながら、はてと千夏は疑問に思う。最近、何かネット注文したものなんてあったっけ?
「元気ー。なんかネットで買ったー?」
リビングにいる同居人に声をかけると、
「ああ、うん」
という歯切れの悪い返答が返ってくる。
小首を傾げながらドアを開けると、宅配の男性が小さな小包を手渡してくれた。ちなみに、送り先は『山崎様方 高村元気様』になっている。
(やっぱり、元気の荷物だ)
最近、株で少しずつ利益がでてきているようで、彼は昨日もタブレットを買っていた。直接店舗で購入できない元気にとっては、ネット通販は唯一の購入手段なのだろう。
「元気ー。荷物来てたよ」
リビングに持っていくと、ソファに座って自分のタブレットで電子書籍を読んでいた元気が「ああ、ありがとう」と顔を上げた。
「開けてあげようか?」
元気は幽霊なので基本的には物に触れることはできないが、実はやろうと思えば触れることもできると知ったのは数ヶ月前。しかし、それをするとあとでどっと疲れたりするらしいので、あまり頻繁にはできないのだそうだ。
そのため、タブレットの電源オンオフや椅子を引いたりなど日常のことはほとんど千夏がやってあげていた。なので今回もそのつもりでそう尋ねると、元気は少し迷ったような表情をしたが躊躇いがちに頷いた。
小包を開けると、中にはオシャレな紙箱が入っている。
(あれ? これって)
このロゴには見覚えがあった。たしか有名なアクセサリーブランドだ。
さらに紙箱を開けると、濃紺のビロードで覆われた小さなケースが出て来た。リングケースというやつだ。
「元気、アクセとかつけるの?」
「開けてみてよ」
「うん」
リングケースをパカッと開けると、中には二つのリングが綺麗に収まっていた。
同じデザインだが、一つは少し大きめのシルバーリング。もう一つは、少し小さめのピンクゴールド。ピンクゴールドの方には真ん中に小さなダイヤモンドが嵌っていた。
「え? これって」
驚いて元気を見ると、
「本当は、タブレットよりもこっちを先に買ってたんだけど、届くのが後になっちゃったね。俺、自分でお金貯めたら真っ先にこれを買おうって思ってたんだ」
そう言って千夏の手からリングケースを受け取ると、手の平に載せて彼ははにかんだように笑う。
「シルバーの方は俺がつけるために買ったんだけど。ピンクの方、君につけて欲しくて。…………もらって、くれるかな?」
笑みを湛えているけれど、元気の目にはどこか不安の色が滲んでいた。断られたらどうしよう、とドキドキしているのが彼の目を見ていると手に取るようにわかる。
なんて、この人はこんなに感情が顔に出やすいのだろう。そして、なんでこんなに真っ直ぐなんだろう。その真っ直ぐさに、何度心を温められたかわからない。
「馬鹿……」
そう強がって言ったけれど、千夏の声は震えていた。瞳に涙が滲んできてしまうのがわかる。それを見られるのがなんだか恥ずかしくて、千夏は俯いた。酷い顔をしてそうな気がして顔をあげられない。
「千夏?」
心配そうな元気の声がすぐ間近で聞こえた。
心配させちゃだめだと思うけど、顔を上げられない。なんでこういうときに限って、空元気が出てこないのよって思うけれど、思うようにならない。
「なんで自分のもの買わないのよ。買いたい物、いっぱいあったでしょ?」
ふりしぼった声は、掠れていた。
三年ぶりに手にした自分のお金。欲しいものなんて、いっぱいあったはずなのだ。
なのに、なんで真っ先に買ったのがペアリングなのよ。
「だって。俺が一番買いたかったのは、コレだったんだ」
丁寧で穏やかな、元気の声。
「千夏。もらってくれる?」
もう声なんて掠れてしまって喉から出てこなくて、千夏はただコクンとうなずいた。
元気はリングケースから二つのペアリングを取り出すと、優しく千夏の手をとってその左薬指にピンクゴールドの方をスッと嵌めた。サイズはピッタリ。
千夏も元気の手にあるシルバーのリングを受け取ると、彼の太く長い左薬指に嵌める。二人の指にある、二つの指輪。おそろいの形。もうずっと前から指に嵌っていたかのように、二つの指輪はしっくりと馴染んでいた。
見上げると彼は、
「ああ。やっと、渡せた」
そうふわりと幸せそうに笑った。
もうその笑顔を見たら限界だった。千夏の視界が歪む。もっと、その笑顔を見ていたかったのに、次から次へと涙があふれてきて彼が見えなくなってしまう。
彼のいう『やっと』には、一体どれくらいの想いと時間が詰まっていたんだろう。ふと思いだす。彼はプロポーズの指輪を持ったまま死んだのだと。
「私で、いいの?」
だからつい、そんなことを聞いてしまった。
しかし元気は、ポンポンと千夏の頭をそっと撫でる。
「千夏以外に、誰がいるのさ。俺が好きなのは君だから」
それを聞くと堪らず、千夏は元気の身体に抱きついた。涙に濡れた顔をその胸に埋める。
「……ありがとう。大事にする」
なんとかそう言葉にする。彼は千夏の背に手を回して抱きしめてくれた。
「うん。俺も」
こんなにお互いを近くに感じたのは初めてだった。
秋の長雨が止んだ三日後の夜。
ようやく千夏たちは神田の物件の現場調査に来ることができた。晴高が南京錠を外して蛇腹状の鉄柵を開ける。
「行くよ? 元気」
「あ、ああ、うん」
ボンヤリと防音シートに覆われた現場を眺めていた元気を促す。いつも賑やかな彼が、今日はやけに口数が少ないように思う。
「どうしたの? 大丈夫?」
元気の顔を覗き込むと、彼は苦笑を浮かべた。
「ああ。大丈夫。ちょっと考え事してて……」
「考え事?」
「うん。何度思い返してみても、俺がこの物件を担当してた頃はさ。そんな幽霊の噂なんて全く聞いた記憶がないんだよね。ってことは、いつの間に幽霊が住み着いたのかなって」
これには晴高が応じる。
「最初の怪奇現象らしきものが現れたのは、前の建物の解体工事が始まったくらいかららしいな。元々家に憑いてた霊が上物《うわもの》の解体を嫌がって抵抗しだしたんじゃないのか?」
「そうだよなぁ。……まぁ、いいや。俺から入ればいいんだろ?」
「ああ、頼む」
一番霊を感知しやすい元気が先に現場に入って安全を確認してから千夏たちが後に続くのが、最近の定番パターンになっていた。
晴高がめくった防音シートの隙間から、元気が中に入る。十数秒後、中から彼の元気な声が聞こえてきた。
「今のところ、昼間とあまり変わりはないかな。見られてる気配はするけど、相変わらず隠れてる」
それを聞いて、晴高と千夏も敷地の中へと入る。
中は防音シートに囲まれてるせいであまり街灯の光も届かず、真っ暗だ。懐中電灯を向けたところだけ、闇が切り取られたように明るい。
そのまましばらく待ってみたのだが、何も起こらなかった。
「これじゃ、ラチがあかんな。重機持ってきて掘る真似でもすりゃ出てくるか?」
「お前、重機の免許なんて持ってんの?」
「持ってるわけないだろ。本店の下請けから運転手付きで借りてくんだよ」
なんて晴高が言ったときだった。
ズンと空気が重くなる。急に身体の周りに粘着性の見えない何かがまとわりついたかのように、身体が動かない。
「来たな……」
晴高の呟きが聞こえた。
三人とも、示し合わせたわけでもないのに同じ一点を見つめる。そこだけ闇が一際濃いように感じた。
どこからともなく、妙な音が聞こえてきた。
ザクッ………ザザッ、ザクッ…………ザッ、ザザッ…………
耳障りな音が三人を取り巻いていた。
(なに……? なんなのこの音……)
足音とは違う。もっと重く、不規則な音だ。どこかで聞いた覚えもある。
ザクッ………ザザザッ…ザッ、ザクッ…………ザッザッ…………
すぐ耳のそばまで音は迫る。しかし、それが何なのかはわからない。ただ音だけが聞こえるのだ。
「何か掘ってるみたいな音だな」
ぽつりと晴高が言った言葉で、千夏もようやく何の音なのかイメージが沸いた。
スコップを深く地面につきつけ、足で体重をかけて地面に押し込み、土をすくってそばに捨てているような、そんな情景が頭の中に浮かんでくる。
次いでボソボソと何かが聞こえてきた。チャンネルのあっていないラジオの音声のように、男声だということはわかるのに何を喋っているのかはまったく聞き取れない。
しかも、音と声だけで霊の姿は見えない。これでは、触れて霊から情報を引き出すこともできそうにない。千夏は注意深くあたりに目を配る。
そのとき。
「う、うわっ!」
元気が大きな声をあげて、ぐらっと態勢を崩した。
え? 何が起こったの!? と隣に立っていた元気に目を向けた瞬間、千夏は思わず叫びだしそうになった。慌てて口を自分の手で押さえて悲鳴を飲み込む。
晴高の持つ懐中電灯に照らされた、元気の足元。そこに、いつの間に現れたのか、男の上半身が生えていた。
頭も腕も身体も、泥と土にまみれていて人相はまったくわからない。しかし、土人形のような顔に浮かぶ、充血した目。開けた口からは白い歯と、赤い舌が覗いていた。ずっと聞こえていた声らしきものが、段々何を喋っているのか明瞭になってくる。
……ダマサレタ……ミヌケナカッタ……モウシワケナイ……
その声と血走った眼に宿っていたのは、執念。もしくは怨念というべきものだったのだろうか。誰かに対するすさまじい恨みのようなものが一見して見て取れた。
「なんだこいつっ!?」
地面にしりもちをついた元気の足に、男の霊は抱きついていた。
元気は足で払いのけようとするが、男の霊は両腕でがっちりしがみついて離れない。そのうえ、ズルッズルッと元気の足が土の中へ引っ張り込まれそうになる。
「やばっ……こいつすげぇ力強い……」
助けを求めて手を伸ばした元気。
「元気っ!?」
その手を掴もうとした千夏を、晴高の声が制した。
「馬鹿っ! 今のソイツに触れるな!」
そうだ。いま元気に触れれば、その元気に触れている霊の心と同調してしまう。それに気づいて慌てて手を引っ込めなきゃと思うが、もう遅かった。わずかに指が触れてしまっていた。千夏の頭の中でバチンと何かがスパークする。
…………。
暗かった千夏の視界が一面、真っ白になった。千夏はあまりの眩しさに目をすがめる。 白い光が収まると、目の前の景色に別の景色が重なっていた。
そこはどこかの事務所のようだった。
目の前では、五十代と思しき男女が険しい顔をしてこちらを見ている。
二人に対して、千夏が目を借りているこの人物は声を荒げた。太い男性の声だった。
『話が違うじゃないか! 俺が、いつここを売るって言ったんだ!』
それに対して、目の前の男がへらへらと笑いながら言う。
『兄さんは古いんだよ。ここが幾らになると思ってんだ? ここを売れば、もっと店を増やせる。本店なら別に移しゃいい。青山にいい物件みつけたんだ。なぁ、咲江』
隣で腕組をしている化粧の濃い五十代の女にそう言うと、咲江と呼ばれたその女はうなずいた。
『ええ。お兄さん。地価があがっている、いまのうちに売ったほうがいいんですよ』
しかし、この人物は拳で目の前の机を強く叩く。
『ここは先祖から受け継いできた土地だ。なんでいまさら、他に移さなきゃならない。父さんの遺言を忘れたのか? 俺ら兄弟でここを守って、店を盛りあげてくことをあんなに望んでただろうが!』
場面が移る。
広い厨房のような場所にいた。そこで、料理の下ごしらえをしているようだった。
その耳に、複数の声が聞こえてくる。厨房の外にある裏庭を、三人の人物が話しながら歩いているようだった。
あの弟と咲江という女。それにもう一人若い男性の声が聞こえてきた。
それを聞きながら、この人物の心の中は怒りで煮えくり返りそうになっていた。
若い男の声が「今日は、お忙しい中、ご協力いただきありがとうございました。またご連絡します」というのが聞こえる。彼の足音はそのままどこかへ去っていった。
彼がいなくなったのを確認してから厨房を出ると、池の前で鯉に餌をやっている咲江の姿が目に入った。今日は、しとやかな和服姿だ。
彼女に何か激しく言葉を浴びせながら迫る。咲江は怯えた目をしていた。
そのとき、突然、後頭部に激しい痛みを感じて蹲った。痛みに耐えながら振り向くと、花瓶を手に持った無表情の弟がいた。弟はその花瓶をもう一度振り上げ、そこで視界が真っ暗になる。
弟の声が聞こえる。冷たい響きだった。
「じたばたすんな。山にでも、うめときゃバレやしないさ」
ところが、その弟が急に焦った声をだした。
「……やばい。見られた。アイツだ」
バタバタという足音が、暗闇の中で遠ざかる。そこで意識は途切れた。
…………。
バチン、と再び頭の中に静電気が走るような衝撃があって、千夏は我に返った。
気が付くと元気の足に絡みついていた、あの霊はいなくなっていた。
はぁっと千夏は安堵の息を漏らす。
「大丈夫か?」
晴高が気遣う声をかけてくる。千夏は、自分の手のひらを閉じたり握ったりしたあと、こくんと頷いた。
「なんとも、ないみたいです」
「……ったく。容易に同調すんなって言っただろう。命、もってかれたいのか?」
若干怒気をはらみながら、晴高が言い吐く。
「すみません。つい、うっかりしていました」
まだ同調するつもりは全然なかったのだが、こちらにそういう意思はなくても、幽霊に触れている元気に触わると自動的に同調が始まってしまうようだ。気をつけなきゃ。
「あの霊は、まだ完全に悪霊になりきっちゃいなかったが、いつなってもおかしくないくらい怨念をため込んでいるようだった。今回、なんともなかったのは単に運が良かったからだ。アレとは絶対に同調するなよ」
「……はい。ということは、やっぱ除霊ですか……?」
「そうせざるをえんだろうな」
そこで、ここまで元気が全然会話に混ざってこないことに気づく。心配になって、晴高から懐中電灯を借りると元気を照らした。
「……元気?」
元気は霊に足を絡みつかれたのがショックだったのか、いまだ地面に座り込んだまま茫然としていた。
「元気。どうしたの?」
彼の目の前で手をひらひらさせてみると、彼はハッと我に返って千夏に目を向ける。しかし、その瞳はなんだかとても落ち着かなさそうだった。
「いや、なんでもない……。あ、そういえば。あの霊は?」
差し出した千夏の手を支えに立ち上がると、元気はキョロキョロとあたりを見回した。
そのときゴソゴソッという音が聞こえた。三人の視線がその音を追う。
音がしたのは、この敷地の角だった。千夏がそちらに懐中電灯を向ける。
懐中電灯の光に浮かび上がったのは、一本の腕。
土と泥に塗れた肘から上の部分が、地面から生えていた。
その腕は人差し指をたて、地面の一点を指さしている。三人がそれを見た瞬間、すーっと闇夜に溶け込むように消えてしまった。
あの腕は、おそらく元気にしがみついてきたあの霊のものだろう。
指さすようにして、わざわざ教えてくれた敷地内の場所。そこに行ってみるが、特段他と違う様子はなかった。
「特に何もないですね」
そういう千夏に、元気がうーんと唸る。
「もしかして、ここを掘れとか言ってるんじゃないかな。何か掘れるようなものって持ってたっけ?」
「スコップみたいなもの、どっかで買ってくる?」
そう提案してみたが、晴高は首を横に振った。
「ここは整地済の土地だ。もし何らかのものが埋まっているとしたら、相当深いはずなんだ。それこそ重機が必要かもしれないな。霊自身が掘れって言ってるんだから、邪魔されることもないだろう。ちょっと借りてみるか」
一旦この日の調査はおしまいにして、後日、昼間に重機を持ってきてみることになった。その日は、家に帰った後も元気は口数が少なかった。何か考え込んでいるようなそんな素振りをするのだが、千夏が聞いても彼はただ笑って、なんでもないと言うだけだった。
数日後。
晴高が小型のショベルカーを借りてきた。もちろん、作業してくれる人も付き。日の高いうちに現場へ行き、霊の腕が教えてくれた場所を掘ることになった。
雨が降ったばかりだったので土壌は柔らかく、簡単に土が掻き出されていく。やはり今回は霊による妨害はまったくなかった。
ショベルカーは一回土を掻くごとに、穴の横に掻きとった土をあけた。その小山になった土を、千夏と晴高とでスコップを使って慎重に再度掘る。
中に何か埋まっていないかを確かめるためだ。埋まっているものが壊れやすいものである可能性もあるため、慎重に土を掻いた。
そして、穴が一メートルほどになったときだった。
晴高が調べていた土の山の中から、何か四角い金属の板のようなものが出てきた。
土を払ってみると、それは一台の黒いスマホ。
画面は大きく割れ、フレームは歪んでいる。完全に壊れていそうだ。
慎重に作業をしていたし掘るところも確認していたが、ショベルカーでついた傷ではないと思われた。おそらく、ここに埋まる以前に強く踏まれたか叩かれたかしたようだった。
もちろん電源は入るはずもない。裏をひっくり返すと、文字が印字されたシールが二枚張られている。一枚には、銀行名が書かれていた。
(あれ? これって)
それは、千夏たちの働く八坂不動産管理水道橋支店が入っているテナントビルの下の階にある銀行名だったのだ。そして、元気が生前勤めていた銀行でもあった。もう一枚のシールは、『No.19』と番号が振られている。
「銀行の、社用スマホか? これ、確かお前がいた銀行だろ?」
晴高が元気にスマホを見せる。しかし、元気の様子を見て晴高は怪訝そうに眉を寄せた。元気が、大きく目を見開いたまま、そのスマホを見つめていたからだ。
そして、呟く。
「なんで、こんなとこに……。これ……俺の使ってたスマホだ」
その後もショベルカーで掘ってみたが、他には何も見つからなかった。
ということは、あの霊が教えたかったのはこのスマホのことだったのだろう。
明らかに、激しく壊された痕跡のあるスマホ。
しかも、それは元気が生前に仕事で使っていた社用のスマホなのだという。
明らかに動揺している様子の元気。しかし、千夏も晴高も事情がさっぱりわからない。なぜ、マンション建設予定地に三年前に死んだ高村元気の社用スマホが埋まっているのか。なぜ、あの霊はそれを知っていたのか。あの霊は何者で、何を訴えかけようとしていたのか。
わからないことだらけだったが、とりあえず元気から事情を聞かないと埒があかない。しかし、元気はあまりにショックが大きかったのか、茫然として心ここにあらずの状態だった。
事情も気になるが、それ以上に千夏には元気の状態が心配だった。
「元気。一回、職場に戻ろう?」
千夏がそう尋ねるが、彼は思いつめた顔で小さく頷くのがやっとのようだった。
千夏は元気の手を取るとぎゅっとにぎる。握り返してくる彼の力は弱かったけれど、手を放してしまうと彼がどこかに行ってしまうんじゃないかと思って怖かった。
晴高は使い終わったショベルカーの搬出作業と作業員への対応をてきぱきと終え、その後呼んでくれたタクシーに乗って、三人は職場へと帰ってきた。
幸運にも会議室が空いていたので、晴高はすぐに借りる手続きを済ませ、三人は会議室に入る。
空いている席に元気を座らせると、千夏もその横に座った。ここまでずっと元気と手をつないだまま。元気は椅子に座ると千夏から手を放し、テーブルに両肘をついて頭を抱えた。
晴高が、職場のコーヒーメーカーで淹れたコーヒーのカップを三つ手にして戻ってくる。香ばしい良い香りが漂ってきた。それを千夏と元気の前に置くと、晴高はその向かいに椅子を持ってきて座る。
「とりあえず。それでも飲んで落ち着け」
「ありがとうございます」
千夏は礼をいうとカップを手に取る。湯気のたつコーヒーを口に含むと、苦みが頭を少しクリアにしてくれるような気がした。たぶん、元気の様子に千夏自身も動揺していたのだろうと今になると思う。
元気はいまだに、コーヒーに手を付けることもなくテーブルの上で頭を抱えていた。それに構わず、晴高は足を組んで悠然とコーヒーを飲む。ゆっくり時間をかけて一杯飲み終わってから、ようやく元気に声をかけた。
「元気。俺たちには、さっぱり事情が見えてこない。でも、知ってることを全部話せとは言わない。お前の負担にならない範囲で、話せるだけでいいから。何か話せることがあったら、教えてもらえないか」
そう尋ねる晴高の声は、淡々とはしていたがどこか優しい響きがあった。
あのスマホは、ビニール袋に入れて晴高が持って帰ってきている。
それをカバンから取り出すと、テーブルにコトリと置いた。
その音に、元気がようやく頭を上げてビニール袋に入ったスマホを見つめる。
「……晴高。それ、裏返してもらえないか」
元気に言われたとおりにする。裏面に張られたあの銀行名とナンバーの印字されたシールが見えた。元気はそのシールにそっと指で触れる。
「やっぱり……間違いない。これ、俺が使ってたスマホだ。……でも、どこかで無くしてしまったんだ。俺はそれで、始末書を書かされた」
「なくしたのは、いつだ? どこでなくしたか覚えているか?」
晴高の質問に、元気はしばらくジッとスマホを見ていたが小さく首を横に振った。
「どこでなくしたかは、覚えていない。というか、あの時も始末書に紛失場所は不明って書いた覚えがあるんだ。いつも仕事で外に行くときはカバンに入れて持って出てた。でも、そんなに電話ってかかってこないし俺も外からコレで電話することってあんまりなかったからさ。ほとんど、現場記録用のカメラとして使ってたんだ」
スマホに視線を落とした元気の目は、どこか遠くを見ているようだった。
「なくしたのは……たぶん、俺が死ぬちょっと前。一週間くらい前、だったかな。新しいスマホを職場から借りるはずだったんだけど、予備がなくって。総務から一週間くらい待ってるように言われたけど、結局……」
新しい社用スマホを受け取る前に、元気は事故死してしまったのだという。
「でも、なんでそのスマホがあの敷地に埋められてたんでしょう」
千夏がそう言うと、晴高も元気も黙ってしまった。しばらくの沈黙のあと、口を開いたのは晴高だった。
「可能性として考えられるのは、元気が生前仕事であの物件に行ったときに落としたか……もしくは、盗まれて埋められたか、だ」
その可能性を千夏も考えないではなかったが、なぜそんなことをするのか全く理由が見当つかなかった。
「お前は、生前あそこの物件の融資を担当してたんだろ? ってことは、あの物件にも行ったことがあるんだよな?」
晴高の質問に、今度は元気はしっかり頷く。
「何度か行ったことがある。融資の可否を決めるのに、不動産登記簿と現状が合ってるかどうかとか、建物の状況だとか近隣の様子だとか、そういうのを確認しにいくんだ」
「ということは、それを確認しに行ったときに落としたとも考えられるんだよな?」
もう一度、元気は頷く。晴高は、自分の考えを整理するようにゆっくりと話した。
「でも、もしそうなら建物を撤去したときのガラと一緒に、処分されると考えた方が自然だ。なのにこのスマホは深い土の中から見つかった。ということはだ」
一旦言葉を区切ると、晴高は元気を見ながら言った。
「お前のスマホは実は紛失したんじゃなくて、誰かに盗まれたんじゃないのか? そして、壊されて地中深くに埋められた。あの霊に触れたときに見えた記憶からすると、あの霊はどこかで殺されたものだと思われる。その霊が、お前のスマホのありかを教えた。それが意味するものって……」
「あ、あの霊の記憶だけど」
晴高が結論を言う前に、元気が言葉を遮るように口を開く。
「あの霊の記憶に映っていた男女。あの人たちに覚えがあるんだ。あれは、あの物件の前の所有者。俺も何度か顔を合わせたことがある。たしか、阿賀沢さんって言ったかな。阿賀沢さんは先代から相続して兄弟で共有してあの不動産を持っていた。殺されたのは、おそらくお兄さんの方だ。俺は、お兄さんとは一度も会ったことがないけど」
元気はそこまで一気に話すと、大きく息を吐きだしてコーヒーのカップを手に取りごくりと飲んだ。千夏と晴高は先を促すこともなく、黙って元気が再び話し出すのを待つ。コーヒーを飲みほすと少し落ち着いたのか、元気は再びぽつりぽつりと話し始めた。
「お兄さんが殺された場所。あれは間違いなく、あの物件の敷地だよ。あそこは以前は池があった。俺も現場調査で見に行ったことがある。そう……俺、あそこに行ったことがあるんだよ」
元気の顔が、くしゃりと歪んだ。ひどい苦痛を耐えているようにも、泣きそうなのをこらえているようにもみえる表情。
「あの霊の記憶の中で、阿賀沢さん夫婦とお兄さん以外に、もう一人男の声が聞こえてただろ」
そういえば、阿賀沢兄が殺される直前。あの物件を訪れていた誰かの声が聞こえていた。その姿は見えなかったが、若い男性のような声だった。
「あれ……俺の声だ。俺、あの日、あの場所にいたんだ」
「じゃ、じゃあ……元気は、阿賀沢さんのお兄さんが殺されたことは知っていたの?」
千夏が率直にそう口にすると、彼はぶんぶんと大きく首を横に振った。
「そんなの知ってるわけないじゃないか。俺、そもそもお兄さんとは面識なかったし。会ったことあるのは弟さんと彼の奥さんだけだった。でも、お兄さんも売買には同意してるけど仕事が忙しいから来れないって言われて」
嫌な予感がした。心臓が不協和音を奏でているような、嫌な動悸がする。たぶんそれは、千夏だけでなく晴高も、そして元気自身も感じていたのだろう。
でも、誰もそれを口にはできなかった。そのことに気づきたくなかった。
「とりあえず、だ。その日のことをもう一回思い出して整理してみろ」
晴高の言葉に、ごくりと元気が生唾を飲み込む。
「どうだったっけな……。普段は客先に行くときは上司と二人で行くことが多かったんだ。銀行内の決まりで、そうなってた。でも、あそこに行ったときは、一人だったような気がするんだよな……たぶん、一緒に行く予定だった上司にたまたま急な用事が入ったとかで一人で行くことになったんじゃないかな。あの頃まだ、阿賀沢さんたちはあそこで料亭をやってたから、時間や日程はずらせなかったんだと思う。それで、俺は一人で行って。阿賀沢さんの弟さんとその奥さんが応対してくれて、一緒に建物や庭を見たのは覚えているんだ。そんで、一通り見た後、あの霊の記憶にもあったけど、たぶん礼を言って職場に戻ったんだと思う」
それは通常の業務の一部であり、なんの問題もないはずだった。だからこそ、元気自身もあまりはっきりとは覚えていないようだった。
「まっすぐ職場に戻ったのか? どこかに寄ったりせず?」
晴高の問いかけに、元気はこくんと頷いたが。
「あれ? ちょっと待って……。俺、大体、現況調査行ったときは、建物とか周りの様子とかを写真に撮らせてもらうんだ。あの日はどうしたんだっけ……」
そこまで呟くように言ってから、言葉が止まる。
しばらく何かを考えたあと、元気は「あ」と言って顔を上げた。
「そうだ。写真だ」
「……写真?」
おうむ返しに聞く千夏に、元気は堰を切ったように話し出す。
「そう。阿賀沢さんたちと別れて一旦帰りかけたときに、写真を撮ってなかったことを思い出したんだ。でも、話してるときにあとで写真撮らせてくださいねって聞いてOKもらってたから、とくに気にせずそのまま道路からあの料亭の写真をこのスマホで何枚も取ったんだ。あの当時はぐるっと庭全体を覆うように背の高い垣根があって。その周りから何枚も」
そこまで早口で言ってから、元気の声のトーンが落ちる。
「でもそしたら突然、阿賀沢さんが出てきて。ほんのちょっと前に別れたときの親し気な様子から豹変して、すごく怒ってたんだ。勝手に撮るなって言って。でも俺、一応許可はとってあったし。なんでそんな怒られるのかわからなくて、とりあえずひたすら謝って職場に戻った。……すごく驚いたし怖かったから。あのときの阿賀沢さんの顔。いま、はっきり思い出した」
三人の視線が、自然とスマホに集まった。
このスマホで元気が撮った写真。
そして、阿賀沢兄と思しき霊の記憶の中で見た情景をつなぎ合わせてみると、元気が写真を撮った時間帯とその垣根の向こうで殺人が行われていた時間帯がちょうど重なる。
その後、阿賀沢弟が写真を撮るなと激高していたことからしても、彼らもそのことを知っていたはず。
「このスマホの中の写真って、取り出せないんでしょうか」
その写真に何が映っていたのかは予想がついた。でも、確認してみたかった。
「これだけ派手に壊れてると、データを取り出すのは難しいかもしれないな」
そう晴高は唸ったが、元気は「そうだ、ちょっとスマホ使ってもいい?」と言ってテーブルに置いてあった千夏のスマホで何かを探し始める。
「現況調査行くとすぐに写真でスマホがいっぱいになるから、俺、データは自分のクラウドに保存してあったんだ。まだ生きてるかな……ここ、無料だったからまだ登録は……」
元気は慣れた手つきでクラウドのアプリを探し出すと、千夏がそれをダウンロードする。「えっと、あのころ使ってたメアド、なんだっけ……」とかブツブツ言いながらも元気がメールアドレスとパスワードを入力すると、保管されていた写真フォルダが出てきた。
そこにはいくつかのフォルダがあったが、元気は『仕事用』と書かれたフォルダを開く。途端にディスプレイいっぱいに写真画像が現れた。撮影した日付の新しいもの順に並んでいる。
「あった。このあたりだ」
それは、十数枚の写真だった。背の高い垣根と、さらにその隙間から奥にある日本家屋がわずかに見える。現在は取り壊されて残っていないその建物や垣根に千夏は見覚えはなかったが、一緒に映り込んでいる道路の感じや隣家の形からそこがあのマンション建設現場と同じ場所だというのはわかる。
その中に、その写真はあった。
垣根の間から、何か白いものを振り上げている男性が映り込んでいる写真。さらにその男性の足元に誰かが倒れているのも映っていた。おそらくそれは、弟に後頭部を殴られて倒れた阿賀沢兄なのだろう。
「これか……この写真をとったから阿賀沢さんはあんなに怒っていたのか……」
そして激高しただけにとどまらず、元気からそのスマホを何らかの方法で盗んで壊して埋めたのだ。すべては殺人の証拠を消すために。
元気はスマホを、もうこれ以上見たくないというように手でおしのけると再び頭を抱えた。
「元気。もう一回確認させてくれ。お前が事故死したのって、それからどれくらいあとのことなんだ」
一つ一つ言葉を置いていくように、慎重に言葉を並べて尋ねる晴高。
元気は頭を抱えたまましばらく黙っていたが、やがてボソボソと答えだす。
「そのすぐあとにスマホをなくして。それから一週間も経ってないから……」
「そうだよな。それくらいだって言ってたよな。……なあ。お前もうすうす気づいてるよな」
静かな晴高の声。元気はうつむいたまま、何の反応もしない。いや、できないのかもしれない。千夏にも晴高が言おうとしていることは、わかっていた。でも、それを口にはできなかった。その可能性を考えたくもなかった。
しかし、相手は既に殺人を起こしている殺人犯なのだ。そんな相手に倫理や法律が何の妨げになるだろう。
もしかしたら、元気は……。
「お前が死んだ自動車事故。それって、……本当に事故だったのか?」
晴高の言葉に、わずかにびくりと元気の肩が動くのが千夏にもわかる。
胸が苦しい。でも、元気はいま、千夏とは比べ物にならない遥かに残酷な苦しみの中にいるのだろう。
「お前は」
殺人の証拠隠滅のためにあの人たちに……。
「殺されたんじゃないのか」
晴高の言葉が、ワンワンと頭の中にコダマする。
何か元気に声をかけたいと思うのに、どんな声をかければいいのかもわからない。何も浮かばない。どんな言葉を並べたところで、元気がいま抱えている絶望の大きさに比べれば稚拙なものに思えてしまう。
ただ、悲しかった。なんで元気がそんな目にあわなきゃならないんだろう。そんな他人の身勝手なことで、すべてを奪われなければならなかったんだろう。
何も悪いことなんてしていない。普通に仕事をして普通に暮らしていただけの元気は、そのあと迎えるはずだった楽しいことも、嬉しいことも、その人生のすべてを奪われたのだ。
それなのに彼を殺したかもしれない人たちは、いまものうのうと暮らしている。
もしかすると、あの物件を売ったお金で人生を謳歌しているかもしれない。
そんな理不尽なことなんて、あっていいのだろうか。
悔しい。悲しくて、とてつもなく悔しい。千夏は何も言えないまま、ただ唇を噛んでいた。
テーブルの上で頭を抱えたままだった元気が、ぽつぽつとしゃべる言葉が聞こえてくる。
「俺。あのときから、違和感を覚えてたんだ」
「違和感?」
頭の中を渦巻く沢山の感情に押しつぶされそうになって声すら出せない千夏とは違い、晴高は淡々と聞き返していた。
「……俺、俺を轢いた運転手の裁判も傍聴しにいったんだ。その人は、疲労で居眠りしてたせいで赤信号を見過ごして、横断歩道を渡っていた俺を轢いたってことになってた」
感情をこらえたように抑えぎみの、いつもより低い声を絞り出すように元気は続ける。
「でもさ、俺。轢かれる直前に、あの人のこと見てるんだ。絶対にあっちも俺のことを見てたんだよ。目が合った気がしたんだ。こっちにすごいスピードで走ってくるとき、ハンドル握りながらあの人は確かに俺のことを見てた」
「じゃあ、居眠りじゃなかったと」
「……絶対に居眠りなんかしてなかった。ブレーキ痕もなかったんだ。あの人は俺を見ながらブレーキを踏むこともなく俺を轢いたんだ」
そして顔を上げると、一呼吸挟んでから、いっきに吐き出す。
「いま、わかった。俺、だから幽霊になってずっとここに残ってたんだ。それが未練だったんだ。自覚してなかったけど、たぶん気づいてたんだよ。あれが事故じゃないってこと。殺されたんだってことも!」
そう叫ぶように言うと、元気は晴高と千夏の顔を交互に見比べて目を伏せた。
「だから……俺、もうここにはいられない」
「元気?」
千夏の背筋に、ぞくりと寒気が走った。ここにはいられないって、どういうこと? 心臓の音が嫌に大きく聞こえる。その音は不安が大きくなるのに合わせて、どんどん大きくなるようだった。ダメ。いま、ここで元気を行かせたらダメだ。もう二度と会えなくなるかもしれない。そんな直感に息ができなくなりそうだった。
「自覚してしまったらもう、見て見ぬふりなんてできない」
元気はこちらを見ずに、そう呟くように言う。
「元気。お前、あいつらに復讐しようとか考えてるんじゃないよな」
晴高の問いかけに、元気は言葉を濁す。
「わかんない……わかんないけど」
曖昧なままはっきりとは言わないが、元気が復讐を意識していることは痛いほどわかった。千夏自身だって、彼と同じ目に合えば同じことを考えるだろう。晴高は、
「恨みのままに行動すれば、いずれあの工事現場にいる阿賀沢の霊みたいになって、やがて悪霊になるぞ」
元気を射るような視線で見ながら、そう強い口調ではっきり口にした。
元気は晴高と目を合わせるものの、引くことも、反発することもなく、ただ悲しそうにその視線を受け止める。彼自身も悪霊云々のことはわかっているのだろう。
しかし、だからといって逃げることもできないにちがいない。彼がこの世に幽霊として残っているのは、未練を抱いているのはまさにそのためなのだから。
元気は、目元を和らげて穏やかな口調で言った。
「……晴高と千夏はこの件からは手を引いてほしい。これは俺の問題だし。相手は二人も殺してるんだ。危険すぎる」
そして千夏を見ると、微笑んだ。
「それと、千夏。いままでありがとう。俺、すごく楽しかった。いっぱい、良くしてくれてありがとう」
「元気!?」
元気がどこかに行ってしまう。自分の手の届かない遠くに行ってしまう。
千夏は思わず元気の腕をつかもうとした。しかしその手は空を切るだけで何も触れることはなかった。その手に千夏はぎゅっと拳をつくる。
もう元気は千夏に触れさせてくれるつもりがないんだ。彼の身体にも、彼の心にも。元気は、弱く笑う。泣きそうな笑みだった。
「ごめん。俺のことも、この事件のことも忘れて……」
「いやっ」
反射的に言葉が口をついて出てきた。
「……千夏」
「嫌だ。いやだいやだいやだ! そんなの絶対に嫌!」
千夏はいやいやをするように大きく首を横に振ると、テーブルの上に置いてあった元気の壊れたスマホを手に取った。
それをトートバックに入れて肩にかけると、元気の横を通り過ぎ、会議室の出口に向かって足早に歩きだす。
「おい! お前も、どこに行くんだよ!」
晴高の声に千夏は立ち止まってくるっと振り返ると彼に言った。
「警察に行ってきます」
「なんのために」
「決まってるじゃないですか! あの物件の敷地から、元気のスマホが出てきたことを教えてもう一度捜査をやりなおしてもらうんです!」
「ただ敷地からスマホが出てきたってだけじゃ、殺人の証拠になんかなりえるわけないだろ。俺たちはあの霊の記憶から教えてもらったからあの人が誰に殺されたのかもわかってるが、たぶん表向きは失踪したことになっているはずだ。遺体すらみつかってないのに、どうやって警察に動いてもらえるっていうんだ。まして元気の死亡は事故ってことで片付いてるんだぞ」
晴高の言うとおりだった。いまはまだ警察は、阿賀沢兄の件も元気の件も、殺人事件とすら認識していない。
「それは、そうですが……」
千夏は唇をかむ。理不尽に元気を殺しておきながら、まったく罪にすら問われていないだなんて。
「千夏、ありがとう。そうやって俺のために怒ってくれるだけでも、俺には充分だから」
穏やかな元気の声。ああ、そうだ。あなたはそうやって、たくさんの理不尽を飲み込んできたんだ。それがもう、悲しくて仕方がなかった。
「だって……許せないよ。元気には、もっとたくさんの未来があったはずなのに。楽しいことも、嬉しいことも、悲しいことも、つらいことも。人としての人生の出来事がいっぱい残されてたはずなのに。それを全部、理不尽に奪ったやつらを許せない」
「でも、俺はそのおかげで君に出会えた」
はっきりと元気はそう口にする。それだけが、ただ唯一の真実なのだと。それだけが唯一の望みだとでもいうように。
千夏の瞳が滲む。
それでも。
「私と出会ってなくても、元気は生きていれば幸せになってたはずでしょ! 死んだことで見てきたたくさんの悲しい思いや、やりきれない思いをしなくて済んだでしょ!? それに……このまま元気を一人で行かせたら、元気が元気のままではいられないような気がしてすごく怖い」
晴高が言っていた、悪霊になるというものがどういうものなのかはよくわからない。でもそれはきっと、幸せとは真逆にあるものなのだろう。延々と終わらない怨嗟と苦しみの中にいることになるのだろう。
絶対に元気を一人で行かせてはいけない。それだけは、絶対に譲れなかった。
じっと睨むように元気を見つめる。元気も、こちらから目を離さず見ていた。
どれだけそうやって、お互い無言で膠着していたのだろう。その沈黙をやぶったのは、晴高の嘆息だった。
「どっちの希望も聞くわけにはいかないな。元気、自ら悪霊になろうとしているお前を俺が見逃すとでも思うのか? いますぐここで除霊するぞ。千夏、相手は二人も殺してる殺人犯だ。下手に動けば、お前の命だって危ない。……だから、まぁ結局、現状維持だ。三人で何とかするしかない。ただ目標は変える。あの霊を除霊か成仏させるっていうのは第二目標にして、第一目標は」
晴高は千夏と元気の顔を交互に見ると、二人の前に手を差し出した。
「殺人犯どもの検挙だ」
千夏と元気は目を見合わせると頷いた。そして、晴高の手の上に手を重ねる。
「幽霊物件対策班、再始動。だな」
警察に殺人事件として動いてもらうためには、阿賀沢兄か高村元気の死亡に殺人の疑いがあるという証拠をつきつける必要があった。
元気の方はスマホが出てきただけでは証拠として弱すぎる。もうとっくに遺体も火葬されてしまっているし、両親や元婚約者もあれが事故ではなく殺人だったとは全く考えていないのだという。事故車両もとっくに廃車になっているだろう。立件の可能性があるとしたら、元気を轢いた相手が自白することぐらいだろうか。
一方、阿賀沢兄の方については彼らが経営していた料亭のサイトを探してみたところ、会社紹介の役員の欄には現在も兄の名前が載っていた。阿賀沢浩司という名のようだ。
もし彼の遺体を発見できれば、一気に殺人として警察が動いてくれる可能性は高くなる。阿賀沢浩司が殺されたとわかれば、同じ敷地内に埋められていた元気のスマホと、元気のクラウドに残っていた写真を証拠に出すことで、こちらも殺人事件として捜査してもらえる可能性があった。
「というわけで、まずは阿賀沢浩司の遺体をみつけるのが先決だろうな」
晴高がハンバーガーを齧りながら、そう結論づけた。
ここは先ほどの会議室。とはいえ、もう勤務時間を過ぎていたので近くのファーストフード店で早めの夕食を買ってきたのだ。
千夏もオレンジジュースを紙コップからストローで吸う。体中に染み渡る心地がした。元気のスマホが見つかってからというもの、感情の変化が忙しくて空腹すら忘れてしまっていた。考えてみたら、朝から何も食べていなかった。ナゲットも美味しい。
「でもさ。どうやって、探すんだよ」
元気がフィッシュバーガーをもぐもぐ食べながら言うのに、晴高が返す。
「あの建物を解体したときに遺体が出てきたなんて話は聞いたことがない。さっきちょっと職場のデータベースで調べてみたが、やっぱそんな情報はなかった。ということは、解体される前にどこかに運び出したんだろうな」
「ということは、……車、ですかね」
千夏が尋ねると、晴高は食べ終わったハンバーガーの包みをクシャっと潰した。
「だろうな。お前ら、聞いたんだろ?」
晴高の問いかけに、千夏と元気は頷く。
阿賀沢浩司の霊の記憶を見たときに、弟が言うのが聞こえたのだ。
『じたばたすんな。山にでも、うめときゃバレやしないさ』
それだけで本当に山に埋めたかどうかは確証は持てないが、東京のど真ん中で成人男性の遺体を隠せる場所などそう選択肢はない。
東京都心からだって、車で数時間走ればあっという間に山の中だ。
「……あの霊と同調すれば、もっと詳しいことわかるんでしょうか」
ぽつりと千夏は思いついたことを口にする。
しかしそれには晴高が良い顔をしなかった。
「……確かに本人に聞くのが一番早いんだろうが。アレはもう相当恨みに凝り固まっているように見えた。お前らの目にはどう見えていたのか知らんが、俺にはほとんど真っ黒に視えたんだよ。危険すぎるだろ」
そうは言うものの阿賀沢浩司が一番確実なことを知っているのは確かなのだ。
ちょうど夜も更けてきたこともあり、千夏たちはもう一度あのマンション建設現場へ行ってみることにした。社用車で現場につくと、防音シートにおおわれた更地に足を踏み入れる。
しかし一歩踏み込んだ瞬間、千夏は先日とは空気が変わっていることに気づいた。
「あ、あれ?」
いままでは昼に来た時も、夜に訪れた時も、ずっとどこからか視られているような視線を感じていた。あれは今になって思えば、阿賀沢浩司が隠れて千夏たちを観察し
ていたのだとわかるが、今日はその視線を感じないのだ。
「……やっぱ、そうか」
晴高が軽く嘆息する。
「え? どういうことなんですか?」
「阿賀沢浩司の未練は、ある程度解消されてしまったってことだよ。まだ多少気配は感じるから成仏したわけじゃないんだろうが、前回よりもはるかに薄い」
晴高はスタスタと敷地の角へと歩いていく。そこは元気のスマホが見つかった場所だ。今はもう穴は埋め戻してあるが、晴高は目を閉じて手を合わせると、短く経を唱えてから顔を上げた。
「あの人は、自分の殺害そのものよりも、不動産を弟に騙されて取られたことよりも。無関係の銀行マンを巻き込んでしまったことを悔やんでいたんだろうな」
「……」
元気の目が揺らぐ。彼はじっと、スマホが埋まっていた場所を見つめていた。
「マンション建設を妨害していたのだって、おそらくだが、ここに埋められていた元気のスマホを守るためだったんだろう。それを本人の手に戻せて殺害の事実を伝えられたんだから……思い残すことが少なくなって、霊としての存在感が薄れたんだろうな」
「……なんで、いい人ばかりがひどい目に合うんでしょうね」
千夏の心の中に、さらに悔しさが募る。
「いい人、だからなのかもな……」
晴高の呟きに、千夏はキッと睨むように彼を見た。彼にあたっても仕方ないことなのだけど、胸に沸くムカムカするほどの憤りをどこかにぶつけたかった。
「おかしいですよね! おかしいですよ!」
「おかしいな。まぁ、報いは受けてもらおう。因果応報って言葉もあるしな」
「でも、お兄さんの方がダメとなると……」
「あとはもう一人の当事者に尋ねるしかないだろう。ただ……危険は伴う。俺たちが殺人に気付いていることは極力察せられないようにしなきゃな」
もう一人の当事者。つまり、加害者である阿賀沢弟夫妻だ。
千夏は、元気とその視線の先にあるスマホが埋められていた現場に目をやった。なんとかして、彼らの罪をあばきたい。その表の顔の裏にあるものを引きづり出したい。元気のためにも。お兄さんのためにも。
「……実は、ちょっと思いついたことがあるんです。極力私たちに危険が及ばなくて、彼らに自分から行動してもらえる方法なんですけど……」
千夏は、ここにくるまでにずっと考えていた作戦を晴高に伝えた。それは自分たちにしかできない作戦だった。
翌日。
あのマンション工事物件の不動産登記簿謄本から前所有者である阿賀沢弟夫妻の連絡先を調べ、晴高が彼らに連絡をとった。
連絡の内容は、『物件を調査していたところ、前所有者のものと思しき持ち物がでてきたので確認したい』にした。その持ち物が『壊れたスマホ』で、『銀行の名前があったので、その銀行に引き渡してもよいか』とも伝えてあった。
すると、すぐに会いたいという連絡が返ってくる。
彼らにとっても、わざわざ壊して埋めたはずのスマホが今頃になって出てくるのはマズイと感じたのだろう。
会う場所は八坂不動産管理の会議室。
約束の日時に現れたのは、五十代半ばと思しき短く刈り込んだゴマ塩頭の男性と、同年代の厚化粧の女性だった。女性が通った場所は、つんと強い香水の匂いが残った。
彼らを会議室へ案内するのは晴高。千夏は一番最後について歩きながら、隣にいる元気の手を握る。じんわりとした温かさが伝わってきた。
「……大丈夫?」
そう問いかけると、元気はこくんと頷いて小さく笑った。
「ああ。大丈夫」
元気にとって、彼らは生前自分が担当した仕事の相手でもあり、加害者でもある。元気の顔はこわばってはいたが、ぎゅっと千夏の手を握り返してきた。
長テーブルを二つくっつけた席の奥へ阿賀沢夫婦を座らせ、手前に晴高と千夏の二人が座った。元気もその隣にいるのだが、彼らには視えてはいないようだ。
男性は交換した名刺から阿賀沢弟、本名・阿賀沢良二であることは確認できた。女性の方は良二の妻、咲江だ。
二人とも浩司の記憶の中で見た人物と同じだった。
お互いに当たり障りのない挨拶を交わした後、まず晴高が話を切り出す。
「本日お呼び立てしたのは、先日お電話でもお伝えしましたが、このスマホの件です」
晴高は透明なビニール袋に入ったあのスマホをテーブルの上に置いた。
一瞬だけだが、阿賀沢夫妻の表情が険しくなったのを千夏は見逃さなかった。
良二がスマホへ手を伸ばすが、彼の手が触れる寸前で晴高はそれをヒョイっと取り上げる。良二は怪訝そうに晴高を見たが、晴高は相変わらずの無表情のままスマホの裏に貼られた銀行のシールを見せながら言った。
「このスマホに見覚えはございますでしょうか?」
「あ、それは……」
良二の視線がさまよう。どう答えれば怪しまれないか考えを巡らせているのだろう。
「そ、それは。うちに来てた銀行マンがうちで落としてったものなんだよ。いつか返さなきゃいけないなと思ってたんだが、まさかそんなところにあったなんて」
銀行マンとは、高村元気のことだろう。
次は千夏が口を開く。
「その方の連絡先はご存知でしょうか? なんでしたら私どもの方でお返ししておきますが」
良二は弱ったように半笑いを浮かべて、首に手を当て小首を傾げた。
「いやぁ、覚えてねぇな。もう随分前のことだしな。途中で担当者も変わったんで。そこの銀行とはうちもまだ取引あっから、あとでうちの方から返しておきますよ」
良二がそのスマホを晴高の手から取ろうとした。口調の柔らかさとは裏腹に、その手は素早い。しかし、それより早く晴高がスマホをテーブルの下へと仕舞ってしまったので、良二の手は空を切った。
良二は、忌々しげに晴高を睨むが、晴高は涼しい顔のまま。
「申し訳ありませんが、これは今すぐにはお渡しできません」
「なんだって?」
良二の声に怒気が滲む。
それまでヘラヘラと薄っぺらい笑顔を浮かべていたのが一転、凄むように晴高を睨んできた。
「このスマホは元々あなた方の土地だったところから発見されたものですから、念のため確認する必要があっただけです。ただここに書かれている名前は銀行の名前ですので、そちらにも確認は取らせていただきます。それまでこちらで一時保管いたします」
淡々と告げる晴高。
「なんだって!? それを渡すために呼び出したんじゃねぇのかよ!!」
良二は声を荒げ、晴高の胸倉を掴む。千夏は、晴高と良二のやりとりをはらはらしながら見ていた。
「あ、あんたっ」
咲江も慌てた様子で良二の腕を掴んで止めようとする。良二はまだ晴高のことを睨みつけたままだったが、しぶしぶといった様子で手を離すとどかっと椅子に腰を下ろした……はずだったのだが、彼が腰を下ろしたところに椅子はなかった。いつの間にか椅子は後ろにずれていたのだ。
千夏の目には、良二が立ち上がったときに彼の後ろにまわった元気が椅子を引いたのが視えていた。これも千夏が考えた作戦通り。
後ろに倒れて腰を打ち付けた良二は尻をさすりながら、目を白黒させていた。
晴高は眼鏡を直しながら、冷静な口調で彼に言う。
「本日お越しいただいたのはスマホの件だけではありません。私たちは、あの神田の土地の調査を行っております。あの土地では怪奇現象が頻発して、マンション建設工事がもう一年以上止まっていることはご存じですか」
「か、怪奇現象だって……何言ってんだ。馬鹿にしてんのか!?」
「いいえ。馬鹿にしてなんかいません。私たちは特殊物件対策班と申します。別名、幽霊物件対策班。弊社や関連会社が抱えている問題物件のうち、幽霊が関与している物件を調査し問題解決をするのが仕事です。ちなみに、私は僧籍も持っています」
そんな浮世離れした話を、晴高はニコリともせず無表情のまま語る。
「ば、馬鹿らしいっ! おら、帰るぞ!」
良二は咲江の腕を掴むと、立ち上がって会議室の外へと大股で歩いていこうとした。しかし、会議室のドアの手前で彼は躓いて床に倒れこむ。これも、元気が良二の足に自分の足をひっかけたのだ。
「あの物件は霊現象が頻発しています。工事車両の原因不明の故障、工事担当者の急病。そして、なぜか敷地内に落ちていたこのスマホ。霊障はアナタがたにも起きているのではありませんか? このままにしておけば、もっと大きな不幸が降りかかるかもしれませんよ」
と、晴高は畳みかけるように胡散臭いことを言う。
そのとき、誰も座っていないパイプ椅子が数脚、ガタガタとひとりでに動き出した。大きく動いた後、そのまま後ろにぱたんと倒れる。
誰も触っていないのに勝手に動く椅子を見た良二は顔を青ざめさせた。千夏から見てもわかるほどの、青ざめよう。
彼らの背後には、元気が微妙な苦笑を浮かべて立っている。霊障には違いない。全部、幽霊である元気がやっているのだから。彼らだって二人も殺しているのだ。恨みを買う自覚なら充分すぎるほどあるだろう。彼らを怖がらせることができれば、下準備は終了だ。今度は千夏が話の主導権を引き継ぐ。
とはいえ、殺人のことを千夏たちが知っていることは気付かせないようにするために、彼らに聞かせる話は少し加工することにした。
「失礼ですが、阿賀沢様。あの土地にいるのは、やはり阿賀沢様御由来の霊かと思います。おそらくご先祖様の霊なのではないでしょうか。私も多少霊感があるのですが、あの土地で霊障を起こしていた霊は『野犬が掘り起こしてくれた。あと少しで出られる。そうすれば戻れる』と仰っていました。何のことなのかは私にはわかりませんが、もしかしたら阿賀沢様は何か心当たりございませんでしょうか」
千夏に問われ、良二はさっきまでの威勢が嘘のように焦点の合わない目で虚空をぼんやり見ながら、ぶるぶると首を横に振った。咲江も小刻みに体を震わせている。
さらに千夏は畳みかけた。
「これだけの霊障ですから、一刻の猶予もないかと思われます。このままですと私共も物件のマンション建設が進みません。しかし、それ以上に阿賀沢様にとっても放置しておくのは大変危険かと思われますので、こうしてお伝えいたしました」
阿賀沢夫妻は「墓参りにでも行ってみます」と言うと、もう晴高の手にある元気のスマホには目もくれず、二人して青い顔をしたままそそくさと会議室を去っていった。
彼らが帰ったあと、先ほど倒した椅子を自分で片付けながら元気は、
「俺もあいつらについてって、もっと脅してこようか?」
と提案してきた。しかし晴高は頭を縦に振らなかった。
「いや。今はいいだろ。この程度の脅しでも動くかもしれん。それに、お前は極力、単独であの二人と接触しないほうがいい」
千夏も、それがいいと何度もうなずく。
元気があの二人と接触するのは、正直とても怖い。彼らは元気を殺した張本人かもしれないのだ。今は冷静を保っている元気であっても、いつ冷静さを失うかわからない。そうなると、彼らはともかくとして元気の身が心配だ。もう、今の元気には戻れなくなってしまうかもしれない。そう思うと、たまらなく怖かった。
「さてと。とはいえ、俺たちも行かなきゃな。あいつらが動き出すまで、見張るか」
と晴高。そう、種は蒔いた。あとは、彼らがどうでるか、だ。
千夏たちは晴高の車で、阿賀沢夫妻の自宅のそばまで来た。
そこは世田谷の高級住宅街にある大きな一軒家だった。ずいぶん、羽振りが良さそうだ。建物はまだ新しそうだったので、あの神田の不動産を売った金で建てたのだろう。
晴高は阿賀沢宅の玄関が見える少し離れた路上に車を止めた。
先ほど元気に確認しにいってもらったところ、彼らが八坂不動産管理の水道橋支店に来た時に乗っていた車が車庫の中にまだあるようだ。
塀は高いが、二階の部屋に明かりがついていることからも夫妻は自宅にいるに違いない。
「動きますかね、阿賀沢さんたち」
今回は元気と一緒に後部座席に座っている千夏が尋ねる。運転席の晴高は、
「さぁな。どうだかわからんが、あいつらが動かなければ……」
「俺がまた脅しにいきゃいいんだろ? 夜中に寝てるとこ脅してやろうかな。痛いよぉ~。痛いよぉ~。車に跳ね飛ばされて折れた手足と潰れた内臓が痛いよぉ~って」
元気が手をお化けのようにして、うつむき加減で怖い声を出したものだから、
「ヒッ……」
千夏はビクッと肩を縮めた。
さすが幽霊。演技が迫真すぎる。元気だとわかっていても、背筋がぞくっと寒くなるようだった。しかも、本当に痛い思いをして死んでいるので、その声には偽りのない恨みつらみが詰まっている気がした。
千夏が本気で怖がっていると、元気はパッといつもの彼に戻り「ごめん、つい」と朗らかに笑う。しかし、すぐにスッと真顔になると、
「ずっと毎晩、脅してやればいいよ」
元気は車の窓から阿賀沢宅を眺めながら、そう呟いた。
それから数時間後。ポツリポツリと降り出した雨が本降りになった頃。
阿賀沢宅の電動ガレージが開いた。中から車が出てくる。阿賀沢夫妻が水道橋支店に来た時に乗っていたのと同じ、高級外車のセダンだ。
晴高もすぐに車を出す。あまり近づきすぎても怪しまれるので、距離を保ちながらも離れすぎずついて行った。
阿賀沢夫婦の車は住宅街の中をしばらく走って、東京を東西に貫く甲州街道に出ると西の方向に向かって進んでいった。
「やっぱ、多摩の方に向かっているな」
しかし、雨で車が多いことに加え、事故を起こした車両があったらしく片側一車線しか通行できなくなっているようだ。道は酷く渋滞していた。
まだなんとか阿賀沢の車は見えてはいるが、横の道からどんどん車が入ってきて、阿賀沢の車との距離が離されていく。元気はじっと進行方向を見ていた。その顔に焦りの色が濃くなっていく。
「元気……」
千夏は元気の左手に触れた。彼の左薬指にシルバーのリングが見えた。千夏とペアのやつだ。
「大丈夫だよ、元気。今回見逃しても、またチャンスはあるよ」
元気は指を絡めるように千夏の指を握り返してくると、頷くように少し俯いた。そのまま何かを考えていたようだったが、
「……俺、あいつらの車に乗りこんどく。そうすれば見逃さないから」
そう早口に言うと千夏の指から手を離した。
「元気!?」
咄嗟に千夏は元気の腕を掴んで引き止めようとしたが、それよりも彼が車から出るのが早かった。
「おい! やめろって!」
晴高も焦った声を出すが、元気は、
「あいつらを逃すわけにはいかない。どっか着いたら公衆電話探して電話する」
そう言うと、雨の中、車の間を縫って前方へ走って行ってしまった。
すぐに、元気の背中が遠くなり見えなくなる。
「あの、馬鹿」
晴高は唸った。
「ど、どうしましょう」
阿賀沢の車に乗り込むということは、狭い車内で阿賀沢夫妻と元気の3人だけになるということだ。殺人の加害者と被害者。
彼らだけにしたら、何が起こるかわからない。元気が何をするかわからない。嫌な動悸が胸の中で高鳴る。不吉な予感が募る。
「とにかく、俺たちもこのままあの車を追うしかない。くそっ、見失わなきゃいいんだが」
しかし、晴高の懸念の通り。
渋滞のひどい場所を抜け、ようやく車がスムーズに走り始めた頃には前方に阿賀沢の車は見えなくなっていた。
ただ、道なりに西へと進んでいく。
「おそらく、どこかで道を逸れて山の方に行ったんだろうな……」
コクンと千夏は頷いた。自然と手を胸の前で組んで、目を閉じ心の中で願った。
(元気、お願い。なにもしないで、大人しくしていて)
そう強く祈る。
でも、いくら普段温厚な彼でも、自分を殺した相手を目の前にして冷静でいられるはずがないんじゃないか。それが、彼の感情を負の方へ偏らせ、悪霊にしてしまうんじゃないか。いやもっと物理的に、元気は彼らに手を下してしまうんじゃないかと、怖い想像がドンドン浮かんでくる。
しかし、反面。こうも思うのだ。
元気の未練の元凶である彼らにようやく会えたのだ。ようやく彼自身の手で未練を果たせるところまで来た。だから、元気は自分の思うままにするべきなんじゃないかって。だって、元気はいままで彼らのせいでたくさんの辛い思いをしてきたのだ。自ら悪霊化してでも復讐を願うなら、どうしてそれを止められるんだろう。
相反する想いが、千夏の中で交錯する。
もし元気が悪霊になってしまえば、晴高は彼を除霊するだろう。
いろんな考えや感情が、頭の中でぐるぐると渦巻いていた。頭がパンクしそうだ。
でも、そんな感情の渦の中から、千夏の一番素直な気持ちを掬い取ってみると、そこにあるのは純粋で強い想いだった。
(それでも、やっぱり私は、笑ったあなたに会いたい)
どれだけ車は走ったのだろうか。もう数時間は走り続けているはずだ。
気がつくと窓の外はほとんど民家もない郊外の景色が映り込んでいた。
その時、千夏のスマホが鳴る。
弾かれたようにスマホの画面を見ると、そこには見知らぬ番号からの着信が表示されていた。