千夏は、廊下の奥でカバンを抱いてうずくまっている、その霊のそばへと歩いて行った。彼はカバンを挟むようにして足を抱き、小刻みに肩を揺らしていた。
『……ッ……ヒッ……』
大量に集まってきた悪霊に驚いたのか、それとも死ぬ直前のことを思い出して今日もまた苦しんでいるのか。泣いているようだった。
「杉山、さん……?」
千夏が腰をかがめてそっと声をかけると、杉山の肩がビクッと大きく揺れる。嗚咽が止まり、彼は顔をあげた。泣きはらしてはいたが、今日はあの半分つぶれた顔ではなく彼本来の顔をしていた。年齢はたしか、享年二十六歳。もう少し若く見える童顔の彼は、腫れぼったい目で千夏を見上げる。その目は、確かに千夏を捉えていた。今日は話が通じそうだ。
「アナタとお話をしにきました」
『ボクト……?』
こくんと、千夏は頷く。
「アナタは毎週のように、そこから飛び降りています。そのことで住民から苦情が来たため、私たちが調べに来ました」
『ソウダ。ボクハ……イカナキャ……イカナキャ』
杉山は虚空の一点を見つめ、両手で自分の髪の毛を掴むように掻きむしった。
「どこへ、行くんですか?」
静かな声で千夏は尋ねる。
『カイシャ……イヤ……イキタクナイ……イケナイ……イカナキャ……ソレナラ……』
ふらりと杉山は立ち上がる。カバンを胸に抱いたまま、ふらふらと落下防止柵のほうへと歩いていった。
その彼の前に、元気が通せんぼするように立ちふさがった。
杉山はよろける様に元気を避けて、なおも柵の方へ行こうとする。
その彼の腕を元気が掴んだ。
「そっちに行ったって、道なんてないよ」
『ハナシテクダサイ……ボクハ……』
晴高は三人とは少し離れて、こちらを注意深く見ている。右手にはあの水晶の数珠。もし、杉山が再び悪霊を呼び寄せるようなことがあれば、すぐさま除霊できるようにだ。
「杉山さん。アナタはもう、会社に行かなくていいんですよ」
杉山の背中に千夏が言う。
『デモ、ユウキュウナンテツカエ……』
その言葉に千夏は強くはっきりとした口調で言葉をかぶせた。
「アナタの会社は倒産しました。もう、あそこにあの会社はありません」
杉山は動きを止める。その背中にさらに千夏はつづけた。
「六年前。アナタはそこから飛び降りて死にました。アナタの両親はアナタのために会社と戦って、アナタの自殺をパワハラと過労による自殺と認めさせました。その後、何があったのかまではわかりませんが、あの会社は倒産し、今は跡形もなくなっています」
千夏は自分のトートバッグの中から、一枚の白い紙を取り出した。
それは杉山が務めていた会社の法人登記簿謄本だった。そこには『破産』の文字。
ゆっくりと杉山がこちらを振り向く。その目は驚きに見開かれていた。
千夏はその登記簿謄本を杉山に差し出す。
「アナタを苦しませる会社は、もう、どこにもないんです。だからもう、何から逃げる必要もないの。それよりも、アナタの苦しみを癒してあげてください」
杉山はカバンをぎゅっと握ったまま登記簿謄本を手に取るが、まだ信じられないような目で『ウソダ……』とつぶやいていた。
「じゃあさ。あとで夜が明けてから、一緒に会社があった現地を見に行こうぜ?」
と、元気が提案する。
『エ……?』
「うん。それがいいよ。私たちも一緒にいくから。……どうですか?」
杉山は、カバンと登記簿謄本を握ったまま困惑した目で千夏たちを見ていた。
その後、朝まで車で時間をつぶしてから、杉山を乗せて西新宿へと向かった。マンションから杉山の勤務先があった場所までは、車だとほんの十分ほどの距離だった。近くのコインパーキングで車を止めると、彼の働いていたオフィスビルへと向かう。
杉山は相変わらずカバンを胸に抱きしめてビクビクした様子だった。それでも目的のビルが見える場所まで来ると、彼自身も気になったようで歩く足が速くなる。
そして、ビルのエントランスの前で杉山は立ち止まった。
杉山の記憶の中で見た、あのエントランスと同じ光景が目の前にあった。
「行きますか?」
千夏が尋ねると、杉山はしばらく迷ったあと、こくんと大きく頷く。
エレベーターで五階まであがる。杉山はずっとカバンを抱きしめたまま、その肩はわずかに震えていた。事前に連絡しておいたため、現在五階に入っているテナントのスタッフは快く千夏たちをフロアに通してくれた。
現在はそこは、フィットネスクラブになっている。
杉山の記憶で見た、上司に酷く叱責されていたあの場所。
そこはいまは、窓から明るい光が差し込むフローリングスタジオになっていた。
ただ、窓の形は、あの記憶の中にあったものと同じだ。向かいの雑居ビルと、その向こうに西新宿の高層ビルが見えている。
『ソウカ……ソウナンダ……』
杉山は窓の前で立ち尽くした。
『ソウなんだ……』
彼の腕から、それまでずっと握りしめていたカバンがするりと落ちた。
その肩が小刻みに震えている。
千夏たちは、ただ見守るしかできなかった。彼がいま何を思っているのか、それは千夏にはわからない。でも、彼の中の時間はようやく動き出したようだった。
『……僕はこれから、どこに行けばいいんだろう……』
会社がなくなった事実を目の当たりにし、呆然と呟く杉山。
その声に応えたのは、晴高だった。
「お前にはもう、どこへ行くべきか見えてるんじゃないのか?」
彼は晴高の方を向くと、うつむく。
『でも……僕は、自分で命を絶ってしまった。そんな人間は天国なんていけないんでしょ?』
「その償いなら、もうとっくにしたんじゃないか?」
それは諭すでもなく、彼らしく淡々と事実を伝えるだけのような口調だった。
『え?』
杉山は怪訝そうに、晴高を見る。
「あんだけ何度も飛び降りて毎回死ぬ苦しみを受けてれば、自分の命に対する責任なんてもう十分だろう」
『で、でも。急に死んだから、きっとたくさんの人に迷惑を……』
「たしかに迷惑ではあっただろうが、悪いことではない。どうせ人間は大概みんな、急に死ぬもんだ。それに」
はっきりと晴高は断言する。
「そんだけ苦しんだ奴が救われないわけがないんだ。ほら、お前の身体を見てみろ」
『え?』
晴高の指摘どおり、杉山の身体はいつのまにか輪郭がキラキラと金色の光を帯び始めていた。
「お迎えだ」
杉山は驚いた目で自分の身体の光を見ていたが、ぶわっと双眸に涙をため、顔を両手で覆った。
『僕、死にたくなかった……死にたくなかったんだ。ただ、逃げたかっただけなんだ。辛くて、辛くて……仕事からも……人生からも。でも、逃げる方法を間違えたのかな……』
今度は、それまで黙って杉山と晴高のやりとりを見ていた元気が口を開く。
「死にたくなる前に仕事辞められたら、もっと違う人生があったのかも……って思いたくなるよな。でも、死んだ後に後悔しても、もう身体は戻らないんだよな」
彼も自分の死に対しては思うことはたくさんあるのだろう。その一言一言は、杉山に言っているようでもあり、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
「だからさ、もし生まれ変わったら。今度は命捨てる前に、もっと捨てていいもん捨てて軽くなろうぜ。その方が、絶対生きやすいからさ」
杉山は顔をあげて、こくんと頷き返した。その顔にもう涙はなかった。
『うん。そうするよ。……ああ、もう、逝かなきゃ……』
「いってらっしゃい。お元気で」
千夏は杉山にそう声をかけた。こういうとき、お別れにどういう言葉をかければいいのかいつもわからない。でも、なんとなく前向きな言葉がいいような気がするのだ。その先に待つ新しい未来に向けて彼らは旅立つのだから。
『ありがとう……』
杉山は小さくはにかむように微笑んだ。途端に、彼の身体を覆う光が強くなると、ふわりと光の粒子が空気に溶け込むように彼の姿は見えなくなった。
「……逝ったな」
ぽつりと晴高が言ったあと、ハァと疲れを吐き出すように嘆息した。
「……なんとかなったな。今回はヒヤヒヤしっぱなしだったが」
「あれ? 今回は送り火だっていってタバコ吸わねぇの?」
と元気に言われると、ギロッと彼を睨む。
「ここで吸ったら怒られんだろ」
たしかに、フィットネスクラブの入口のところに全館禁煙ってプレートが貼ってあった。
「ああ、そうか」
「……あとで、吸う」
結局、吸うらしい。
フィットネスクラブの職員に礼を言って、オフィスビルを出ると直ぐに晴高はタバコを咥えて火をつけていた。
「さてと、どうします? このあと」
コインパーキングへ向かって歩きながら尋ねると、彼は紫煙を燻らせる。
「お前は代休申請しとくから、今日は家に帰っていい。俺は、後始末しにいく」
「後始末ですか?」
「もう一回、あのマンションの除霊だ。面倒くさいけど念のためにな」
晴高は、タバコを指に挟んだまま頭を掻いた。
自宅マンションに戻ってきた千夏と元気。
元気は玄関で靴を脱ぐと、部屋に上がった。別にそのまま入っても実体のない彼が部屋を汚すことはないのに、相変わらず脱がないと気持ちが悪いようだ。千夏も、彼の後をついてリビングへいく。
あのあとずっと、気になっていたことがあった。気になっていたけど、聞けないでいた。マンションで悪霊に落とされそうになった、あのとき。
(助けてくれたとき。元気は、確かに私の身体を掴んでいたよね……?)
そのあと、千夏の無事を喜んで抱きしめてくれたときもそうだった。今もあのときの感触を身体が覚えている。幽霊である元気には触ることはできないはずなのに、あのとき確かにお互い触れあっていたのだ。
もしかして夢か幻覚を見ていたのかもしれない。それとも、そうだったらいいなと願うあまりそう見えてしまっただけだったのだろうか。
それとも元気は生きている人間にも触ることができるんだろうか。でもそれをずっと隠していたの? なぜ? なんのために?
ずっとそんな疑問が頭の中を渦巻いていた。
意を決して、千夏は元気の背中に問いかける。
「……ねぇ、元気。さっきさ。私のこと触ったよね。私も、触れたよね。……気のせいじゃ、ないよね……?」
元気は足を止めた。少しの沈黙。彼はこちらを振り返らず、背中を向けたまま言いにくそうに口を開いた。
「……ああ。本当は、やろうと思えば触れるよ」
「……!」
千夏は胸でぎゅっと両手を握る。なんで、いままで教えてくれなかったんだろう。ずっと、元気のことは触れることができないのだと思っていた。幽霊だから、彼に触れようとしても手がすり抜けてしまうことは、当たり前で仕方のないことだと思っていた。 千夏の戸惑いをよそに、元気はぽつりぽつりと話を続ける。
「前にさ。松原涼子さんの霊が、千夏の足を掴んだことがあっただろ?」
こちらに背を向けたままの元気には見えていないことはわかっていながらも、千夏はこくこくと頷く。あの時は、涼子に冷たい手で足を掴まれて、気を失いそうになった。
「基本的には触れないのがデフォルトなんだけど、俺たち幽霊は生きている人にも触ろうと意識すれば触れるんだ。こっちが触れるんだから、そっちも触れるんだろうな。さっき、千夏のことをつい抱きしめちゃって、それに気づいた」
「なんで……教えてくれなかったの?」
元気はこちらを振り向くと、困ったような泣きそうな顔で千夏を見た。
「触ってしまったら、もっと触れたくなるから。もっと……君の元から離れたくなくなってしまうから。でも、そんなのダメだろ。だって、俺は死んだ人間で。君はまだいっぱい人生が残っている生きている人間だ。いくら君との生活が楽しくても。いくら君と一緒にいたくても。君が君の人生を生きる邪魔をするわけにはいかない。それだけは、絶対に。だから、もうこれ以上君に……」
泣きそうな顔のまま、彼は笑った。
「君に惹かれていくのを、止めなくちゃいけないんだ。触れてしまったら、もう」
そこまで聞いて、千夏はもう自分の中から湧き上がってくる気持ちを止められなかった。元気の言うことはわかる。元気が自分のことを考えて、そう言ってくれているのもわかる。それでも。
元気の方へ踏み出すと、千夏は彼に抱き着いた。
今度は、千夏の腕は彼の身体をすり抜けることはなかった。
しっかりと、彼の大きな胸に顔を埋めて抱きしめる。彼の身体はじんわりとほんの少し温かくて、そしてやっぱり心臓の鼓動の音は聞こえてはこないのだ。それでも、彼がそこにいるのが、触れているところを通して全身で感じられた。
それが、心の底から嬉しくて、ポロポロと涙がこぼれてくる。
「私も、ずっと元気に触りたかったの。こうやって、抱きしめたかったの」
「千夏……」
「だから、元気に触れるのがこんなにうれしい。すごく、嬉しいの。嬉しくて、たまらない」
「……いいの? 俺が、千夏に触れても」
躊躇いがちな元気の言葉に、千夏は力いっぱい頷く。笑顔に涙が伝った。
「私は、元気にそばにいてほしい。元気が好き。本当はそんなこと願っちゃいけない相手だってのはわかってるけど。でも、アナタがこの世から消えるときまで一緒にいたい。それが明日なのか、十年後なのか、私の寿命が尽きるまでなのかわからないけど。その瞬間まで、元気と一緒にいたいの」
彼と一緒に過ごす時間が長くなればなるほど、心の中に少しずつ降り積もってきた想い。それが、どんどん口をついて出てくる。迷うように躊躇いながら千夏の背に触れていた元気の腕が、千夏を抱きしめた。
「俺も千夏と一緒にいたい」
「うん。一緒に生きよう。ああ……そうか、元気は死んでるんだった。ううん。それでも、一緒にいよう。これからも」
幽霊と生きている人間。ともに暮らして人生を共にするのは、とても奇妙なことなのだろう。きっと、生きている人間同士のつきあいにはない不便さや不自由さも、これからもたくさんあるだろう。それでも、一緒に生きていきたいと共に願った。
「でも、成仏しそうになったら、ちゃんと成仏してね? 私が元気の未練になって元気が成仏できなくなるとか嫌だからね?」
元気がクスリと笑みをこぼす。
「ああ。わかってる。そのときがきたら、ちゃんと成仏するよ」
だから、いまは。この奇跡ともいうべき巡り合わせを大切にしたかった。
ともに過ごせるときを、大事にしたかった。
千夏が八坂不動産管理に異動になってから半年ほどたったある日。
その日もいつものように、千夏が仕事をするデスクの隣で、元気はタブレットを眺めていた。最近は株のデイトレーディングでも少しずつ儲けが出てきているようだ。
「晴高、見て見て」
元気は嬉しそうに、向かいの席に座る晴高に声をかける。
「何だ? お前の間抜けなツラしか見えないんだが」
晴高も相変わらず、自分のノートパソコンから視線をあげることもなく不愛想に応えた。
「お前、見てねぇだろ。ほら、このタブレット。やっと自分の金で、自分のやつ買ったんだ」
そこまで言われて、晴高はようやく目線をあげると元気の手元に目を向けた。
「……お前、ついに経済活動までできるようになったのか」
「デイトレードでさ、ようやく利益が出るようになってきたんだよね」
そこに、課長席から晴高へ声がかかる。
「はい」
晴高は課長に呼ばれて席を立つと、そちらへ行ってしまった。
彼がいなくなってから、千夏はこそこそっと元気に話しかける。
「私のタブレット借りなくて済むようになったから、私に気にせずなんでも見れるようになったね」
「千夏に見られたら困るようなものなんて見てないからね!?」
心外だとでもいうように元気はむくれた顔をして、指でタブレットの画面を操作する。そんな元気の相変わらずくるくるとよく変わる表情に、千夏はクスリと笑みを漏らした。
「でもよかったじゃない。記念になるよね。幽霊になってから、初めて自分で買ったものなんでしょ?」
昨日宅配便で届いたばかりだけど、梱包をといたときの元気の目は、いままで見たことがないほど輝いていて嬉しそうだったな。なんて、そのときの情景を思い出してほんわかした気持ちになっていたら、元気はタブレットを操作しながらぽつりと言った。
「初めて買ったものなら、ほかにあるんだけどね。そっちはまだ届かないんだ」
「え? 何を買ったの?」
「ないしょ。届いてからのお楽しみ」
そこに、晴高が課長席から戻ってきた。自分の席につくなり、千夏と元気に話を切り出してくる。
「いま、課長から新しい案件がきたんだが。……今度の案件は、ちょっと厄介そうなんだ」
普段から険しい晴高の表情が、さらに険しさを増している。
「どういう案件なんですか?」
千夏が尋ねると、晴高はぱらぱらとめくっていた資料ファイルをデスク越しに渡してくる。
「八坂不動産からの直接の依頼だ。あるマンション建設予定地でおかしなことばかり起こって工事が進まないから、俺たちに見てほしいってよ」
「八坂不動産からの?」
千夏はファイルを受け取り、ぱらぱらとめくる。八坂不動産は、千夏たちが勤める八坂不動産管理の親会社であり、千夏が半年前まで勤めていた会社でもある。
隣から元気も、ひょいっとファイルを覗いてきた。
「まぁ、どうせ建物が建ってしまえばうちの会社が管理を請け負うんだろうし、そうなると遅かれ早かれ俺たちに回ってくる仕事だろうがな。だから、受けることにした」
と、晴高。
その物件とは、神田駅近くにある高級マンション建設予定地だった。
早速、その日の午後に現場を見に行くことにする。
そのあたりは古くからの商業地区だった。大小さまざまなビルが立ち並ぶ中に、歯抜けのように工事中のその物件はあった。道路に面して『防音』と書かれたシートが敷地の周りをぐるっと取り巻くように貼られている。しかし、その防音シートは貼られてからそれなりに月日が経つのか、どこか色あせていた。敷地自体は都心にあるにしては広い角地で、約千平米、坪に直すと三百坪はある土地だった。
入り口付近に設置されている白い工事掲示板に書かれたマジックの文字は消えかけている。目を凝らしてよく見ると、工事終了予定はいまよりも一年前だ。
「ずいぶん長い間、工事が進まないみたいですね」
千夏は道路から見た現場写真をスマホで撮りつつそんな感想をもらした。ふと隣を見ると、元気がその工事現場をぼんやりと眺めている。
「元気、どうしたの?」
千夏が声をかけると、元気は我に返ったように目の焦点を千夏に合わせて小さく笑む。
「いや、なんか既視感あるなと思ったら、この現場、前に来たことあるや」
「え?」
「俺、生きてた頃は銀行で不動産融資担当やってたんだ。この物件、俺が死ぬ直前まで担当してた案件の一つだよ。そっか、売れたんだな」
そう言って、元気は懐かしそうに目を細めて物件を眺める。
「ここの売買に、お前がかかわってたのか?」
と、これは晴高。
こくんと、元気は頷く。
「直接売買にかかわったというより、買い手さんがうちの銀行の不動産ローンを使う予定になってたから、その査定とかやってたんだ。前は、ここは立派な生垣のある広い一軒家でさ。たしか、料亭があったんだよ。中に小さな池があって、錦鯉が泳いでたっけな」
そう、かつての光景を思い出しながら元気は話してくれた。
敷地の入口には、ジャバラになった金属製の簡易門が設置されており、南京錠がかかっている。八坂不動産から預かったというキーで南京錠を開けると、晴高は門を開けて中に入った。防音シートに目隠しされた内部には、現在は一台の重機も置かれておらず、まっさらな土地があるだけだった。
「なんだ。まだ基礎すらできてないのか」
晴高に続いて、千夏も敷地の中に足を踏み入れる。建物が撤去されているからだろうか、がらんとしていてとても広く感じた。ここに地上五階、地下駐車場完備の高級マンションが建つ予定なのだという。
晴高が八坂不動産から渡された報告ファイルによると、基礎を建てようと重機を持ち込んだところ、重機が動かなくなったり、逆にありえない誤作動をしたり、さらには工事関係者が怪我や病気になるなどして一向に工事が進まなかったのだという。
もちろんお祓いもしたらしいのだが効果はなく、逆に怪異現象は悪化の一途を辿り、人影が夜な夜な這い回るのを見かけるまでになった。
その霊は昼間に現れることすらあり、気味悪がった工事業者はここの工事を辞退。
他の業者をあたったもののこんな厄介な工事を請け負う業者は現れず、工事は宙に浮いたままとなっていた。
「勿体ないですね。こんな一等地にある、広い物件なのに」
これだけの立地と場所だ。平米あたり五百万はいくだろう。近年、都心の地価は都心回帰のあおりをうけて上がり続けている。この広さだと、ざっと計算しても五十億はくだらないんじゃないだろうか。
「元気。何か視えるか?」
「晴高は、なんか視えてる?」
逆に元気に尋ねられ、ゆるゆると晴高は首を横に振る。
「何かいるのは感じる。さっきから、うろうろしてるな」
それを聞いて、千夏はヒュッと肩を縮めた。
「……やっぱ何かいるんですね」
千夏自身も、何かいるのは感じていた。でも、拒絶されているというよりは、むしろあちらからじろじろ視られているような、そんな視線のようなものを感じるのだ。
それでさっきから視線を感じるたびに後ろを振り返ったりするのだが、変わらず更地があるだけ。遮蔽物すらないここには、誰かが潜む場所すらない。
「元気には何が視えているの?」
千夏に聞かれ、元気はぐるっと土地を見回したあと、小首をかしげた。
「なんかじっとこっち見てるのは感じる。さっき一瞬見えたけど、たぶん男性の霊かな。五十代くらいだと思う。だけど、こっちが視線を向けるとスッと消えちゃうんだ。なのに視線を逸らせるとまたあっちから視てるのを感じる。相当、慎重なタイプなんじゃないかな」
「その割には派手に重機を故障させたりしたみたいだけどな」
と、晴高。
引っ込み思案なのか、大胆なのか、よくわからない霊だ。
そのとき。千夏の肩にポツリと大粒の雫があたった。
「あ、雨」
上向いた顔にもポツッポツッと大粒の雫が落ちてくる。
「必要な写真撮ったら、一旦会社に戻るぞ。雨があがったら、夜にでももう一度来るしかないだろうな」
晴高の提案に千夏と元気もうなずいた。
じろじろとこちらを見定めるかのような視線は、ずっと感じたままだった。
雨は本降りになり、結局その日の夜の調査は延期となった。
会社を定時で上がって自宅に帰った千夏がキッチンで夕ご飯の準備をしていると、ピンポーンとインターホンが鳴る。
「はーい」
キッチン横の廊下にあるインターホンの子機には、宅配業者の制服を着た配達員の姿が映っていた。
「山崎さんですか。お届け物です」
「あ、はい。いま開けます」
オートロックの開閉ボタンを押して玄関に向かいながら、はてと千夏は疑問に思う。最近、何かネット注文したものなんてあったっけ?
「元気ー。なんかネットで買ったー?」
リビングにいる同居人に声をかけると、
「ああ、うん」
という歯切れの悪い返答が返ってくる。
小首を傾げながらドアを開けると、宅配の男性が小さな小包を手渡してくれた。ちなみに、送り先は『山崎様方 高村元気様』になっている。
(やっぱり、元気の荷物だ)
最近、株で少しずつ利益がでてきているようで、彼は昨日もタブレットを買っていた。直接店舗で購入できない元気にとっては、ネット通販は唯一の購入手段なのだろう。
「元気ー。荷物来てたよ」
リビングに持っていくと、ソファに座って自分のタブレットで電子書籍を読んでいた元気が「ああ、ありがとう」と顔を上げた。
「開けてあげようか?」
元気は幽霊なので基本的には物に触れることはできないが、実はやろうと思えば触れることもできると知ったのは数ヶ月前。しかし、それをするとあとでどっと疲れたりするらしいので、あまり頻繁にはできないのだそうだ。
そのため、タブレットの電源オンオフや椅子を引いたりなど日常のことはほとんど千夏がやってあげていた。なので今回もそのつもりでそう尋ねると、元気は少し迷ったような表情をしたが躊躇いがちに頷いた。
小包を開けると、中にはオシャレな紙箱が入っている。
(あれ? これって)
このロゴには見覚えがあった。たしか有名なアクセサリーブランドだ。
さらに紙箱を開けると、濃紺のビロードで覆われた小さなケースが出て来た。リングケースというやつだ。
「元気、アクセとかつけるの?」
「開けてみてよ」
「うん」
リングケースをパカッと開けると、中には二つのリングが綺麗に収まっていた。
同じデザインだが、一つは少し大きめのシルバーリング。もう一つは、少し小さめのピンクゴールド。ピンクゴールドの方には真ん中に小さなダイヤモンドが嵌っていた。
「え? これって」
驚いて元気を見ると、
「本当は、タブレットよりもこっちを先に買ってたんだけど、届くのが後になっちゃったね。俺、自分でお金貯めたら真っ先にこれを買おうって思ってたんだ」
そう言って千夏の手からリングケースを受け取ると、手の平に載せて彼ははにかんだように笑う。
「シルバーの方は俺がつけるために買ったんだけど。ピンクの方、君につけて欲しくて。…………もらって、くれるかな?」
笑みを湛えているけれど、元気の目にはどこか不安の色が滲んでいた。断られたらどうしよう、とドキドキしているのが彼の目を見ていると手に取るようにわかる。
なんて、この人はこんなに感情が顔に出やすいのだろう。そして、なんでこんなに真っ直ぐなんだろう。その真っ直ぐさに、何度心を温められたかわからない。
「馬鹿……」
そう強がって言ったけれど、千夏の声は震えていた。瞳に涙が滲んできてしまうのがわかる。それを見られるのがなんだか恥ずかしくて、千夏は俯いた。酷い顔をしてそうな気がして顔をあげられない。
「千夏?」
心配そうな元気の声がすぐ間近で聞こえた。
心配させちゃだめだと思うけど、顔を上げられない。なんでこういうときに限って、空元気が出てこないのよって思うけれど、思うようにならない。
「なんで自分のもの買わないのよ。買いたい物、いっぱいあったでしょ?」
ふりしぼった声は、掠れていた。
三年ぶりに手にした自分のお金。欲しいものなんて、いっぱいあったはずなのだ。
なのに、なんで真っ先に買ったのがペアリングなのよ。
「だって。俺が一番買いたかったのは、コレだったんだ」
丁寧で穏やかな、元気の声。
「千夏。もらってくれる?」
もう声なんて掠れてしまって喉から出てこなくて、千夏はただコクンとうなずいた。
元気はリングケースから二つのペアリングを取り出すと、優しく千夏の手をとってその左薬指にピンクゴールドの方をスッと嵌めた。サイズはピッタリ。
千夏も元気の手にあるシルバーのリングを受け取ると、彼の太く長い左薬指に嵌める。二人の指にある、二つの指輪。おそろいの形。もうずっと前から指に嵌っていたかのように、二つの指輪はしっくりと馴染んでいた。
見上げると彼は、
「ああ。やっと、渡せた」
そうふわりと幸せそうに笑った。
もうその笑顔を見たら限界だった。千夏の視界が歪む。もっと、その笑顔を見ていたかったのに、次から次へと涙があふれてきて彼が見えなくなってしまう。
彼のいう『やっと』には、一体どれくらいの想いと時間が詰まっていたんだろう。ふと思いだす。彼はプロポーズの指輪を持ったまま死んだのだと。
「私で、いいの?」
だからつい、そんなことを聞いてしまった。
しかし元気は、ポンポンと千夏の頭をそっと撫でる。
「千夏以外に、誰がいるのさ。俺が好きなのは君だから」
それを聞くと堪らず、千夏は元気の身体に抱きついた。涙に濡れた顔をその胸に埋める。
「……ありがとう。大事にする」
なんとかそう言葉にする。彼は千夏の背に手を回して抱きしめてくれた。
「うん。俺も」
こんなにお互いを近くに感じたのは初めてだった。
秋の長雨が止んだ三日後の夜。
ようやく千夏たちは神田の物件の現場調査に来ることができた。晴高が南京錠を外して蛇腹状の鉄柵を開ける。
「行くよ? 元気」
「あ、ああ、うん」
ボンヤリと防音シートに覆われた現場を眺めていた元気を促す。いつも賑やかな彼が、今日はやけに口数が少ないように思う。
「どうしたの? 大丈夫?」
元気の顔を覗き込むと、彼は苦笑を浮かべた。
「ああ。大丈夫。ちょっと考え事してて……」
「考え事?」
「うん。何度思い返してみても、俺がこの物件を担当してた頃はさ。そんな幽霊の噂なんて全く聞いた記憶がないんだよね。ってことは、いつの間に幽霊が住み着いたのかなって」
これには晴高が応じる。
「最初の怪奇現象らしきものが現れたのは、前の建物の解体工事が始まったくらいかららしいな。元々家に憑いてた霊が上物《うわもの》の解体を嫌がって抵抗しだしたんじゃないのか?」
「そうだよなぁ。……まぁ、いいや。俺から入ればいいんだろ?」
「ああ、頼む」
一番霊を感知しやすい元気が先に現場に入って安全を確認してから千夏たちが後に続くのが、最近の定番パターンになっていた。
晴高がめくった防音シートの隙間から、元気が中に入る。十数秒後、中から彼の元気な声が聞こえてきた。
「今のところ、昼間とあまり変わりはないかな。見られてる気配はするけど、相変わらず隠れてる」
それを聞いて、晴高と千夏も敷地の中へと入る。
中は防音シートに囲まれてるせいであまり街灯の光も届かず、真っ暗だ。懐中電灯を向けたところだけ、闇が切り取られたように明るい。
そのまましばらく待ってみたのだが、何も起こらなかった。
「これじゃ、ラチがあかんな。重機持ってきて掘る真似でもすりゃ出てくるか?」
「お前、重機の免許なんて持ってんの?」
「持ってるわけないだろ。本店の下請けから運転手付きで借りてくんだよ」
なんて晴高が言ったときだった。
ズンと空気が重くなる。急に身体の周りに粘着性の見えない何かがまとわりついたかのように、身体が動かない。
「来たな……」
晴高の呟きが聞こえた。
三人とも、示し合わせたわけでもないのに同じ一点を見つめる。そこだけ闇が一際濃いように感じた。
どこからともなく、妙な音が聞こえてきた。
ザクッ………ザザッ、ザクッ…………ザッ、ザザッ…………
耳障りな音が三人を取り巻いていた。
(なに……? なんなのこの音……)
足音とは違う。もっと重く、不規則な音だ。どこかで聞いた覚えもある。
ザクッ………ザザザッ…ザッ、ザクッ…………ザッザッ…………
すぐ耳のそばまで音は迫る。しかし、それが何なのかはわからない。ただ音だけが聞こえるのだ。
「何か掘ってるみたいな音だな」
ぽつりと晴高が言った言葉で、千夏もようやく何の音なのかイメージが沸いた。
スコップを深く地面につきつけ、足で体重をかけて地面に押し込み、土をすくってそばに捨てているような、そんな情景が頭の中に浮かんでくる。
次いでボソボソと何かが聞こえてきた。チャンネルのあっていないラジオの音声のように、男声だということはわかるのに何を喋っているのかはまったく聞き取れない。
しかも、音と声だけで霊の姿は見えない。これでは、触れて霊から情報を引き出すこともできそうにない。千夏は注意深くあたりに目を配る。
そのとき。
「う、うわっ!」
元気が大きな声をあげて、ぐらっと態勢を崩した。
え? 何が起こったの!? と隣に立っていた元気に目を向けた瞬間、千夏は思わず叫びだしそうになった。慌てて口を自分の手で押さえて悲鳴を飲み込む。
晴高の持つ懐中電灯に照らされた、元気の足元。そこに、いつの間に現れたのか、男の上半身が生えていた。
頭も腕も身体も、泥と土にまみれていて人相はまったくわからない。しかし、土人形のような顔に浮かぶ、充血した目。開けた口からは白い歯と、赤い舌が覗いていた。ずっと聞こえていた声らしきものが、段々何を喋っているのか明瞭になってくる。
……ダマサレタ……ミヌケナカッタ……モウシワケナイ……
その声と血走った眼に宿っていたのは、執念。もしくは怨念というべきものだったのだろうか。誰かに対するすさまじい恨みのようなものが一見して見て取れた。
「なんだこいつっ!?」
地面にしりもちをついた元気の足に、男の霊は抱きついていた。
元気は足で払いのけようとするが、男の霊は両腕でがっちりしがみついて離れない。そのうえ、ズルッズルッと元気の足が土の中へ引っ張り込まれそうになる。
「やばっ……こいつすげぇ力強い……」
助けを求めて手を伸ばした元気。
「元気っ!?」
その手を掴もうとした千夏を、晴高の声が制した。
「馬鹿っ! 今のソイツに触れるな!」
そうだ。いま元気に触れれば、その元気に触れている霊の心と同調してしまう。それに気づいて慌てて手を引っ込めなきゃと思うが、もう遅かった。わずかに指が触れてしまっていた。千夏の頭の中でバチンと何かがスパークする。
…………。
暗かった千夏の視界が一面、真っ白になった。千夏はあまりの眩しさに目をすがめる。 白い光が収まると、目の前の景色に別の景色が重なっていた。
そこはどこかの事務所のようだった。
目の前では、五十代と思しき男女が険しい顔をしてこちらを見ている。
二人に対して、千夏が目を借りているこの人物は声を荒げた。太い男性の声だった。
『話が違うじゃないか! 俺が、いつここを売るって言ったんだ!』
それに対して、目の前の男がへらへらと笑いながら言う。
『兄さんは古いんだよ。ここが幾らになると思ってんだ? ここを売れば、もっと店を増やせる。本店なら別に移しゃいい。青山にいい物件みつけたんだ。なぁ、咲江』
隣で腕組をしている化粧の濃い五十代の女にそう言うと、咲江と呼ばれたその女はうなずいた。
『ええ。お兄さん。地価があがっている、いまのうちに売ったほうがいいんですよ』
しかし、この人物は拳で目の前の机を強く叩く。
『ここは先祖から受け継いできた土地だ。なんでいまさら、他に移さなきゃならない。父さんの遺言を忘れたのか? 俺ら兄弟でここを守って、店を盛りあげてくことをあんなに望んでただろうが!』
場面が移る。
広い厨房のような場所にいた。そこで、料理の下ごしらえをしているようだった。
その耳に、複数の声が聞こえてくる。厨房の外にある裏庭を、三人の人物が話しながら歩いているようだった。
あの弟と咲江という女。それにもう一人若い男性の声が聞こえてきた。
それを聞きながら、この人物の心の中は怒りで煮えくり返りそうになっていた。
若い男の声が「今日は、お忙しい中、ご協力いただきありがとうございました。またご連絡します」というのが聞こえる。彼の足音はそのままどこかへ去っていった。
彼がいなくなったのを確認してから厨房を出ると、池の前で鯉に餌をやっている咲江の姿が目に入った。今日は、しとやかな和服姿だ。
彼女に何か激しく言葉を浴びせながら迫る。咲江は怯えた目をしていた。
そのとき、突然、後頭部に激しい痛みを感じて蹲った。痛みに耐えながら振り向くと、花瓶を手に持った無表情の弟がいた。弟はその花瓶をもう一度振り上げ、そこで視界が真っ暗になる。
弟の声が聞こえる。冷たい響きだった。
「じたばたすんな。山にでも、うめときゃバレやしないさ」
ところが、その弟が急に焦った声をだした。
「……やばい。見られた。アイツだ」
バタバタという足音が、暗闇の中で遠ざかる。そこで意識は途切れた。
…………。
バチン、と再び頭の中に静電気が走るような衝撃があって、千夏は我に返った。
気が付くと元気の足に絡みついていた、あの霊はいなくなっていた。
はぁっと千夏は安堵の息を漏らす。
「大丈夫か?」
晴高が気遣う声をかけてくる。千夏は、自分の手のひらを閉じたり握ったりしたあと、こくんと頷いた。
「なんとも、ないみたいです」
「……ったく。容易に同調すんなって言っただろう。命、もってかれたいのか?」
若干怒気をはらみながら、晴高が言い吐く。
「すみません。つい、うっかりしていました」
まだ同調するつもりは全然なかったのだが、こちらにそういう意思はなくても、幽霊に触れている元気に触わると自動的に同調が始まってしまうようだ。気をつけなきゃ。
「あの霊は、まだ完全に悪霊になりきっちゃいなかったが、いつなってもおかしくないくらい怨念をため込んでいるようだった。今回、なんともなかったのは単に運が良かったからだ。アレとは絶対に同調するなよ」
「……はい。ということは、やっぱ除霊ですか……?」
「そうせざるをえんだろうな」
そこで、ここまで元気が全然会話に混ざってこないことに気づく。心配になって、晴高から懐中電灯を借りると元気を照らした。
「……元気?」
元気は霊に足を絡みつかれたのがショックだったのか、いまだ地面に座り込んだまま茫然としていた。
「元気。どうしたの?」
彼の目の前で手をひらひらさせてみると、彼はハッと我に返って千夏に目を向ける。しかし、その瞳はなんだかとても落ち着かなさそうだった。
「いや、なんでもない……。あ、そういえば。あの霊は?」
差し出した千夏の手を支えに立ち上がると、元気はキョロキョロとあたりを見回した。
そのときゴソゴソッという音が聞こえた。三人の視線がその音を追う。
音がしたのは、この敷地の角だった。千夏がそちらに懐中電灯を向ける。
懐中電灯の光に浮かび上がったのは、一本の腕。
土と泥に塗れた肘から上の部分が、地面から生えていた。
その腕は人差し指をたて、地面の一点を指さしている。三人がそれを見た瞬間、すーっと闇夜に溶け込むように消えてしまった。
あの腕は、おそらく元気にしがみついてきたあの霊のものだろう。
指さすようにして、わざわざ教えてくれた敷地内の場所。そこに行ってみるが、特段他と違う様子はなかった。
「特に何もないですね」
そういう千夏に、元気がうーんと唸る。
「もしかして、ここを掘れとか言ってるんじゃないかな。何か掘れるようなものって持ってたっけ?」
「スコップみたいなもの、どっかで買ってくる?」
そう提案してみたが、晴高は首を横に振った。
「ここは整地済の土地だ。もし何らかのものが埋まっているとしたら、相当深いはずなんだ。それこそ重機が必要かもしれないな。霊自身が掘れって言ってるんだから、邪魔されることもないだろう。ちょっと借りてみるか」
一旦この日の調査はおしまいにして、後日、昼間に重機を持ってきてみることになった。その日は、家に帰った後も元気は口数が少なかった。何か考え込んでいるようなそんな素振りをするのだが、千夏が聞いても彼はただ笑って、なんでもないと言うだけだった。
数日後。
晴高が小型のショベルカーを借りてきた。もちろん、作業してくれる人も付き。日の高いうちに現場へ行き、霊の腕が教えてくれた場所を掘ることになった。
雨が降ったばかりだったので土壌は柔らかく、簡単に土が掻き出されていく。やはり今回は霊による妨害はまったくなかった。
ショベルカーは一回土を掻くごとに、穴の横に掻きとった土をあけた。その小山になった土を、千夏と晴高とでスコップを使って慎重に再度掘る。
中に何か埋まっていないかを確かめるためだ。埋まっているものが壊れやすいものである可能性もあるため、慎重に土を掻いた。
そして、穴が一メートルほどになったときだった。
晴高が調べていた土の山の中から、何か四角い金属の板のようなものが出てきた。
土を払ってみると、それは一台の黒いスマホ。
画面は大きく割れ、フレームは歪んでいる。完全に壊れていそうだ。
慎重に作業をしていたし掘るところも確認していたが、ショベルカーでついた傷ではないと思われた。おそらく、ここに埋まる以前に強く踏まれたか叩かれたかしたようだった。
もちろん電源は入るはずもない。裏をひっくり返すと、文字が印字されたシールが二枚張られている。一枚には、銀行名が書かれていた。
(あれ? これって)
それは、千夏たちの働く八坂不動産管理水道橋支店が入っているテナントビルの下の階にある銀行名だったのだ。そして、元気が生前勤めていた銀行でもあった。もう一枚のシールは、『No.19』と番号が振られている。
「銀行の、社用スマホか? これ、確かお前がいた銀行だろ?」
晴高が元気にスマホを見せる。しかし、元気の様子を見て晴高は怪訝そうに眉を寄せた。元気が、大きく目を見開いたまま、そのスマホを見つめていたからだ。
そして、呟く。
「なんで、こんなとこに……。これ……俺の使ってたスマホだ」
その後もショベルカーで掘ってみたが、他には何も見つからなかった。
ということは、あの霊が教えたかったのはこのスマホのことだったのだろう。
明らかに、激しく壊された痕跡のあるスマホ。
しかも、それは元気が生前に仕事で使っていた社用のスマホなのだという。
明らかに動揺している様子の元気。しかし、千夏も晴高も事情がさっぱりわからない。なぜ、マンション建設予定地に三年前に死んだ高村元気の社用スマホが埋まっているのか。なぜ、あの霊はそれを知っていたのか。あの霊は何者で、何を訴えかけようとしていたのか。
わからないことだらけだったが、とりあえず元気から事情を聞かないと埒があかない。しかし、元気はあまりにショックが大きかったのか、茫然として心ここにあらずの状態だった。
事情も気になるが、それ以上に千夏には元気の状態が心配だった。
「元気。一回、職場に戻ろう?」
千夏がそう尋ねるが、彼は思いつめた顔で小さく頷くのがやっとのようだった。
千夏は元気の手を取るとぎゅっとにぎる。握り返してくる彼の力は弱かったけれど、手を放してしまうと彼がどこかに行ってしまうんじゃないかと思って怖かった。
晴高は使い終わったショベルカーの搬出作業と作業員への対応をてきぱきと終え、その後呼んでくれたタクシーに乗って、三人は職場へと帰ってきた。
幸運にも会議室が空いていたので、晴高はすぐに借りる手続きを済ませ、三人は会議室に入る。
空いている席に元気を座らせると、千夏もその横に座った。ここまでずっと元気と手をつないだまま。元気は椅子に座ると千夏から手を放し、テーブルに両肘をついて頭を抱えた。
晴高が、職場のコーヒーメーカーで淹れたコーヒーのカップを三つ手にして戻ってくる。香ばしい良い香りが漂ってきた。それを千夏と元気の前に置くと、晴高はその向かいに椅子を持ってきて座る。
「とりあえず。それでも飲んで落ち着け」
「ありがとうございます」
千夏は礼をいうとカップを手に取る。湯気のたつコーヒーを口に含むと、苦みが頭を少しクリアにしてくれるような気がした。たぶん、元気の様子に千夏自身も動揺していたのだろうと今になると思う。
元気はいまだに、コーヒーに手を付けることもなくテーブルの上で頭を抱えていた。それに構わず、晴高は足を組んで悠然とコーヒーを飲む。ゆっくり時間をかけて一杯飲み終わってから、ようやく元気に声をかけた。
「元気。俺たちには、さっぱり事情が見えてこない。でも、知ってることを全部話せとは言わない。お前の負担にならない範囲で、話せるだけでいいから。何か話せることがあったら、教えてもらえないか」
そう尋ねる晴高の声は、淡々とはしていたがどこか優しい響きがあった。
あのスマホは、ビニール袋に入れて晴高が持って帰ってきている。
それをカバンから取り出すと、テーブルにコトリと置いた。
その音に、元気がようやく頭を上げてビニール袋に入ったスマホを見つめる。
「……晴高。それ、裏返してもらえないか」
元気に言われたとおりにする。裏面に張られたあの銀行名とナンバーの印字されたシールが見えた。元気はそのシールにそっと指で触れる。
「やっぱり……間違いない。これ、俺が使ってたスマホだ。……でも、どこかで無くしてしまったんだ。俺はそれで、始末書を書かされた」
「なくしたのは、いつだ? どこでなくしたか覚えているか?」
晴高の質問に、元気はしばらくジッとスマホを見ていたが小さく首を横に振った。
「どこでなくしたかは、覚えていない。というか、あの時も始末書に紛失場所は不明って書いた覚えがあるんだ。いつも仕事で外に行くときはカバンに入れて持って出てた。でも、そんなに電話ってかかってこないし俺も外からコレで電話することってあんまりなかったからさ。ほとんど、現場記録用のカメラとして使ってたんだ」
スマホに視線を落とした元気の目は、どこか遠くを見ているようだった。
「なくしたのは……たぶん、俺が死ぬちょっと前。一週間くらい前、だったかな。新しいスマホを職場から借りるはずだったんだけど、予備がなくって。総務から一週間くらい待ってるように言われたけど、結局……」
新しい社用スマホを受け取る前に、元気は事故死してしまったのだという。
「でも、なんでそのスマホがあの敷地に埋められてたんでしょう」
千夏がそう言うと、晴高も元気も黙ってしまった。しばらくの沈黙のあと、口を開いたのは晴高だった。
「可能性として考えられるのは、元気が生前仕事であの物件に行ったときに落としたか……もしくは、盗まれて埋められたか、だ」
その可能性を千夏も考えないではなかったが、なぜそんなことをするのか全く理由が見当つかなかった。
「お前は、生前あそこの物件の融資を担当してたんだろ? ってことは、あの物件にも行ったことがあるんだよな?」
晴高の質問に、今度は元気はしっかり頷く。
「何度か行ったことがある。融資の可否を決めるのに、不動産登記簿と現状が合ってるかどうかとか、建物の状況だとか近隣の様子だとか、そういうのを確認しにいくんだ」
「ということは、それを確認しに行ったときに落としたとも考えられるんだよな?」
もう一度、元気は頷く。晴高は、自分の考えを整理するようにゆっくりと話した。
「でも、もしそうなら建物を撤去したときのガラと一緒に、処分されると考えた方が自然だ。なのにこのスマホは深い土の中から見つかった。ということはだ」
一旦言葉を区切ると、晴高は元気を見ながら言った。
「お前のスマホは実は紛失したんじゃなくて、誰かに盗まれたんじゃないのか? そして、壊されて地中深くに埋められた。あの霊に触れたときに見えた記憶からすると、あの霊はどこかで殺されたものだと思われる。その霊が、お前のスマホのありかを教えた。それが意味するものって……」
「あ、あの霊の記憶だけど」
晴高が結論を言う前に、元気が言葉を遮るように口を開く。
「あの霊の記憶に映っていた男女。あの人たちに覚えがあるんだ。あれは、あの物件の前の所有者。俺も何度か顔を合わせたことがある。たしか、阿賀沢さんって言ったかな。阿賀沢さんは先代から相続して兄弟で共有してあの不動産を持っていた。殺されたのは、おそらくお兄さんの方だ。俺は、お兄さんとは一度も会ったことがないけど」
元気はそこまで一気に話すと、大きく息を吐きだしてコーヒーのカップを手に取りごくりと飲んだ。千夏と晴高は先を促すこともなく、黙って元気が再び話し出すのを待つ。コーヒーを飲みほすと少し落ち着いたのか、元気は再びぽつりぽつりと話し始めた。
「お兄さんが殺された場所。あれは間違いなく、あの物件の敷地だよ。あそこは以前は池があった。俺も現場調査で見に行ったことがある。そう……俺、あそこに行ったことがあるんだよ」
元気の顔が、くしゃりと歪んだ。ひどい苦痛を耐えているようにも、泣きそうなのをこらえているようにもみえる表情。
「あの霊の記憶の中で、阿賀沢さん夫婦とお兄さん以外に、もう一人男の声が聞こえてただろ」
そういえば、阿賀沢兄が殺される直前。あの物件を訪れていた誰かの声が聞こえていた。その姿は見えなかったが、若い男性のような声だった。
「あれ……俺の声だ。俺、あの日、あの場所にいたんだ」
「じゃ、じゃあ……元気は、阿賀沢さんのお兄さんが殺されたことは知っていたの?」
千夏が率直にそう口にすると、彼はぶんぶんと大きく首を横に振った。
「そんなの知ってるわけないじゃないか。俺、そもそもお兄さんとは面識なかったし。会ったことあるのは弟さんと彼の奥さんだけだった。でも、お兄さんも売買には同意してるけど仕事が忙しいから来れないって言われて」
嫌な予感がした。心臓が不協和音を奏でているような、嫌な動悸がする。たぶんそれは、千夏だけでなく晴高も、そして元気自身も感じていたのだろう。
でも、誰もそれを口にはできなかった。そのことに気づきたくなかった。
「とりあえず、だ。その日のことをもう一回思い出して整理してみろ」
晴高の言葉に、ごくりと元気が生唾を飲み込む。
「どうだったっけな……。普段は客先に行くときは上司と二人で行くことが多かったんだ。銀行内の決まりで、そうなってた。でも、あそこに行ったときは、一人だったような気がするんだよな……たぶん、一緒に行く予定だった上司にたまたま急な用事が入ったとかで一人で行くことになったんじゃないかな。あの頃まだ、阿賀沢さんたちはあそこで料亭をやってたから、時間や日程はずらせなかったんだと思う。それで、俺は一人で行って。阿賀沢さんの弟さんとその奥さんが応対してくれて、一緒に建物や庭を見たのは覚えているんだ。そんで、一通り見た後、あの霊の記憶にもあったけど、たぶん礼を言って職場に戻ったんだと思う」
それは通常の業務の一部であり、なんの問題もないはずだった。だからこそ、元気自身もあまりはっきりとは覚えていないようだった。
「まっすぐ職場に戻ったのか? どこかに寄ったりせず?」
晴高の問いかけに、元気はこくんと頷いたが。
「あれ? ちょっと待って……。俺、大体、現況調査行ったときは、建物とか周りの様子とかを写真に撮らせてもらうんだ。あの日はどうしたんだっけ……」
そこまで呟くように言ってから、言葉が止まる。
しばらく何かを考えたあと、元気は「あ」と言って顔を上げた。
「そうだ。写真だ」
「……写真?」
おうむ返しに聞く千夏に、元気は堰を切ったように話し出す。
「そう。阿賀沢さんたちと別れて一旦帰りかけたときに、写真を撮ってなかったことを思い出したんだ。でも、話してるときにあとで写真撮らせてくださいねって聞いてOKもらってたから、とくに気にせずそのまま道路からあの料亭の写真をこのスマホで何枚も取ったんだ。あの当時はぐるっと庭全体を覆うように背の高い垣根があって。その周りから何枚も」
そこまで早口で言ってから、元気の声のトーンが落ちる。
「でもそしたら突然、阿賀沢さんが出てきて。ほんのちょっと前に別れたときの親し気な様子から豹変して、すごく怒ってたんだ。勝手に撮るなって言って。でも俺、一応許可はとってあったし。なんでそんな怒られるのかわからなくて、とりあえずひたすら謝って職場に戻った。……すごく驚いたし怖かったから。あのときの阿賀沢さんの顔。いま、はっきり思い出した」
三人の視線が、自然とスマホに集まった。
このスマホで元気が撮った写真。
そして、阿賀沢兄と思しき霊の記憶の中で見た情景をつなぎ合わせてみると、元気が写真を撮った時間帯とその垣根の向こうで殺人が行われていた時間帯がちょうど重なる。
その後、阿賀沢弟が写真を撮るなと激高していたことからしても、彼らもそのことを知っていたはず。
「このスマホの中の写真って、取り出せないんでしょうか」
その写真に何が映っていたのかは予想がついた。でも、確認してみたかった。
「これだけ派手に壊れてると、データを取り出すのは難しいかもしれないな」
そう晴高は唸ったが、元気は「そうだ、ちょっとスマホ使ってもいい?」と言ってテーブルに置いてあった千夏のスマホで何かを探し始める。
「現況調査行くとすぐに写真でスマホがいっぱいになるから、俺、データは自分のクラウドに保存してあったんだ。まだ生きてるかな……ここ、無料だったからまだ登録は……」
元気は慣れた手つきでクラウドのアプリを探し出すと、千夏がそれをダウンロードする。「えっと、あのころ使ってたメアド、なんだっけ……」とかブツブツ言いながらも元気がメールアドレスとパスワードを入力すると、保管されていた写真フォルダが出てきた。
そこにはいくつかのフォルダがあったが、元気は『仕事用』と書かれたフォルダを開く。途端にディスプレイいっぱいに写真画像が現れた。撮影した日付の新しいもの順に並んでいる。
「あった。このあたりだ」
それは、十数枚の写真だった。背の高い垣根と、さらにその隙間から奥にある日本家屋がわずかに見える。現在は取り壊されて残っていないその建物や垣根に千夏は見覚えはなかったが、一緒に映り込んでいる道路の感じや隣家の形からそこがあのマンション建設現場と同じ場所だというのはわかる。
その中に、その写真はあった。
垣根の間から、何か白いものを振り上げている男性が映り込んでいる写真。さらにその男性の足元に誰かが倒れているのも映っていた。おそらくそれは、弟に後頭部を殴られて倒れた阿賀沢兄なのだろう。
「これか……この写真をとったから阿賀沢さんはあんなに怒っていたのか……」
そして激高しただけにとどまらず、元気からそのスマホを何らかの方法で盗んで壊して埋めたのだ。すべては殺人の証拠を消すために。
元気はスマホを、もうこれ以上見たくないというように手でおしのけると再び頭を抱えた。
「元気。もう一回確認させてくれ。お前が事故死したのって、それからどれくらいあとのことなんだ」
一つ一つ言葉を置いていくように、慎重に言葉を並べて尋ねる晴高。
元気は頭を抱えたまましばらく黙っていたが、やがてボソボソと答えだす。
「そのすぐあとにスマホをなくして。それから一週間も経ってないから……」
「そうだよな。それくらいだって言ってたよな。……なあ。お前もうすうす気づいてるよな」
静かな晴高の声。元気はうつむいたまま、何の反応もしない。いや、できないのかもしれない。千夏にも晴高が言おうとしていることは、わかっていた。でも、それを口にはできなかった。その可能性を考えたくもなかった。
しかし、相手は既に殺人を起こしている殺人犯なのだ。そんな相手に倫理や法律が何の妨げになるだろう。
もしかしたら、元気は……。
「お前が死んだ自動車事故。それって、……本当に事故だったのか?」
晴高の言葉に、わずかにびくりと元気の肩が動くのが千夏にもわかる。
胸が苦しい。でも、元気はいま、千夏とは比べ物にならない遥かに残酷な苦しみの中にいるのだろう。
「お前は」
殺人の証拠隠滅のためにあの人たちに……。
「殺されたんじゃないのか」