十四階に着いた千夏たち。腕時計を見ると、あの霊が出没する時刻までにはまだ少し時間があった。しばらくここで待つことになるだろう。どうやって時間をつぶそうかな、そんなことを思いながらふと廊下を見ると、ふらりと人影のようなものが一つ見えた。
「あれ?」
 あのサラリーマンの霊だ、と千夏は思った。新聞記事で見た彼の本名は、たしか杉山大輔。
 千夏は彼のあとを追った。廊下に出てみると、おぼつかない足取りで廊下の奥へと歩いていくスーツ姿の背中が見える。
「杉山さん」
 千夏は彼の名を呼ぶ。しかし、その人影は千夏の声を気に留めた様子はなく、奥へと進んでいく。
「また彼が飛び降りる前に追いかけなきゃ、元気。……あ、あれ? 元気?」
 さっきまで傍にいたはずの元気の姿が見えない。そういえば、エレベーターを降りたあたりから姿を見ていない気もする。
「どこ行ったんだろう。元気?」
 何かがおかしいような、ちくりとした違和感を覚えた。しかし、廊下を行く人影の背中がどんどん遠くなっていく。早くしないと彼が飛び降りてしまう。
 今日こそは彼を止めようと考えていた千夏は、彼を追って走りだした。
「待って! 杉山さん!」
 前を行く人影はふらふらとした足取りの歩き方。こちらは走っているのだから、すぐに追いつくはずだった。しかし、いくら走っても彼の背中が近づかない。走っても走っても、距離がまったく縮まらない。
(あれ? ここの廊下、こんなに長かったっけ?)
 廊下の端から端まで走ってもそれほど距離はないはずなのに、今日はどれだけ走っても端が近づいてこないように思えた。まるで千夏が走れば走るほど、廊下が伸びているような不思議な感覚。
 それでも必死に走っていると、ようやく杉山の背中が近づいてきた。一分とかからない距離のはずなのに、十分以上走っていたような疲労を覚える。それでも息を弾ませて彼の元に辿りついた。
「杉山、さん!」
 肩で大きく息をしながら、落下防止の柵に手をついて今にも乗り越えようとしている彼に声をかける。
「アナタは、もう死んでるんです。アナタの会社はもうないの。何年も前に倒産しているんです」
 必死に彼を説得しようとする。
 そのときだった。
 遠くから、聞きなれた声が聞こえた。必死に叫ぶような声。
「千夏! 離れろ! そいつは、杉山じゃない!」
「え?」
 元気の声だ。彼の声がした方を振り向こうとした。しかしそれより早く、杉山だと思っていた霊の身体がブワンと大きく揺れた。
 いつのまにか彼の胸より上が黒く大きなモヤに包まれている。黒く小さな羽虫がたくさん集まっているように輪郭の定まらないモヤの塊は、グンといっきに膨れ上がった。そして人の背丈ほどに伸び上がると、パックリと大きな口を開けるように二つに避けて、千夏に襲いかかる。
「きゃあ!!!」
 咄嗟に逃げようとしたが、間に合わなかった。その真っ黒いモヤのような塊が千夏の頭からかぶりつくようにすっぽりと絡みついてくる。
 千夏の視界が真っ黒く閉ざされた。そしてそのまま、全身を強い力で引っ張られる。
(な、なに!? なんなの!?)
 黒いモヤを引きはがそうと両手をバタつかせるものの感触は弱い。代わりに、その手に何か細いものが大量に絡みついた。目の前は真っ暗く閉ざされて何も見えないのに、なぜか手に絡みつくそれが何なのか千夏にはわかっていた。
 これは、髪だ。長い、大量の髪。絡みつく髪を身体からはぎとってもはぎとっても、新たな髪が絡みついてくる。そうしているうち、千夏の身体は落下防止柵に押し付けられ、さらにそれを乗り越えさせようとするかのように柵の向こう側へと強い力で引っ張られた。
 千夏は引っ張られまいと柵を掴んで抵抗する。腹に柵があたって痛い。それでもずるすると引っ張られ、ついに上半身が柵の向こう側へと乗り出してしまった。両足が宙に浮く。そのとき顔の周りにまとわりついていた髪がするりと剥がれ、合間から下が見えた。
(……!!!)
 視界いっぱいに、マンションの下の地面が広がる。
 上半身が完全に柵を乗り越えてしまっていた。
(落ちる……!?)
 必死に両手で柵を掴むが、無数の手が虚空から千夏の身体を掴んで柵の外へ引っ張り込もうとしていた。
 落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ
 たくさんの声。若い声、老いた声。男も女も子どもも。
 たくさんの声が、訴えかけてくる。
 落ちろ。一緒に行こう。一緒に落ちよう、と。
 ここは十四階だ。落ちれば命はない。
 落とされまいと、千夏は柵にしがみついた。
 しかし、身体のあちこちを掴まれて引っ張られ、ついに千夏の手が柵から離れてしまう。
「あ……!!」
 するりと柵を乗り越えて落下しそうになった。千夏は無我夢中で柵に手を伸ばすが届かない。
(もう、ダメ……!)
 恐怖に思わず目を閉じた、そのとき。
「千夏!!」
 すぐそばで元気の声が聞こえた。と同時に、腰のあたりをぐっと強く掴まれる。落下する寸前、背中から彼の両腕でしっかりと抱き抱えられていた。