好きになった人は、死人でした〜幽霊物件対策班の怪奇事件ファイル〜

 マンションの最上階の廊下に突然現れたソレは、人影のように見えた。でも、どうにも輪郭がおぼろげだ。人の形をしているのに、目を凝らしてもはっきりとした輪郭がつかめない。
 廊下の照明の下をふらふらと頼りない足取りでこっちに向かって歩いてきたかと思うと、途中で向きを変えて今度は背中を向けて後戻っていく。そうやって、廊下を行ったり来たりしていた。
 千夏はスマホのSNSで晴高に霊が出たことを報告する。晴高からは、「わかった」と一言だけ返ってきた。相変わらず、必要最小限の言葉しか返ってこないが、既読スルーされなかっただけマシだと思ってしまうあたり、だいぶ晴高の人となりにも慣れてきたのかもしれない。
「元気、どうする? 近づいてみる?」
「どうするもなにも……あ、ほら」
 どう接触しようか迷っていたところ、霊らしき人影は1401号室の前で動きを止めた。そして廊下の落下防止柵にとりつく。なんだか、下を覗きこんでいるようにも見えた。
 千夏と元気は互いに目を合わせて頷き合うと、静かに人影の方へと近寄った。
「……そこで、何をしてるんですか?」
 思い切って、声をかけてみる。でも、人影は柵にくっついたまま動かなかった。
 遠目に見たときはおぼろげな輪郭だと思ったけれど、この距離まで近づいてようやくどんな外見をしているのかが千夏にも判別できる。
 ソレは男性の霊のようだった。歳のころは千夏と同じか、もっと若いくらいだろう。灰色のスーツを着ていて、胸にビジネスカバンを抱きしめていた。
 彼は、柵から頭を突き出してジッと下を覗き込んでいる。
 こちらのことは目にも入っていないようだ。
 その姿は、飛び降りるのを迷って葛藤しているようにも見えた。
 死ぬ前も、彼はそうやってここでジッと下を眺めていたんだろうか。
 長い間葛藤して、迷って。それでも、飛び降りてしまったんだろうか。
 そして死んだあとも、彼はそれを何度も繰り返している。もしかしたら、彼は自分が死んだことに気づいていないのかもしれない。同じ苦しみを味わい続け、同じ死の瞬間を迎え続ける。
 そんなことを思うと千夏には彼が気の毒に思えてきて、もう一歩近づくと再度声をかけた。
「……あの……」
 そのとき、うつむいて動かなかった霊がのっそりと顔を上げた。ゆっくりとこちらを振り向く。
(……ひっ…………!!!!)
 その顔を見て、千夏は凍り付く。
 こちら側に見えていなかった顔の半分はぐちゃぐちゃに潰れていた。割れた頭蓋が皮膚の間から見え、その中にあったであろう中身と血が肩や髪にこびりついていた。

 ……ア゛ア゛ア゛……

 ヒューヒューと空気が漏れるような音が混ざる、うめき声。男の霊は、千夏に手を伸ばしてきた。
 驚きのあまり逃げることもできず、千夏はその霊の姿から目を離すことすらできない。霊の指が千夏の顔にあと少しで触れそうというところで、千夏の後ろにいた元気が霊の腕を掴んだ。
「汚い指で、触るなって」
 驚いたのか霊は手を引っ込めようとしたが、元気が手首をシッカリつかんでいるので離れない。霊は戸惑っているようだった。それもそうだ。まさか他の霊に腕を掴まれるとは思ってもみなかったのだろう。

 ヤダ……モウ……イヤダ……モウ、イキタクナイ

 霊は何度もそう繰り返す。
「いきなり邪魔してごめんなさい。だけど、教えてほしいの。なぜ、アナタは何度も飛び降りようとするの?」
 千夏も霊に問いかける。元気がいてくれるおかげで、凄惨な顔をした霊が相手でも怖い気持ちはかなり小さくなっていた。しかし霊は千夏の声は聞こえていないかのように、ぶつぶつと同じことを繰り返すばかり。
 そのときふと、松原涼子の霊と接したときのことが頭に浮かんだ。あのとき、涼子を掴む元気に触れたら、彼女の記憶のようなものが頭の中に流れ込んできた。もしかしたら、同じ状況になればまた同じことが起こるんじゃないだろうか。
「ごめんなさい。ちょっと、試させて……」
 そう断りながら、千夏は元気の腕に触れた。目には触れたように見えても、手には何の感触もない。
 それでもバチンと、頭の中で何かがスパークした。大きな静電気が起こったような衝撃。
 …………。
 一瞬、視界がホワイトアウトする。
 視界を覆った白い光はすぐに消えるが、目の前の景色にもう一枚、別の景色が重なって見えた。
 そこは、どこかのオフィスのようだった。
 目の前には、窓を背にして鬼のような形相をした壮年のサラリーマンが立っている。男は書類の束を乱雑に掴んでいた。何か激しい口調で執拗に叱責される。そのうち、男が手に持った書類の束を顔に投げつけてきた。
『申し訳ありません』
 そう何度も繰り返した。何度も頭を下げた。
 足元に散らばる資料が、滲んで見えた。

 急に視界が変わる。
 どこかの路上に立っているようだ。自分の周りを次々と人が通り過ぎて、目の前にあるオフィスビルに飲み込まれていった。
『行かなきゃ』
 そう呟くものの、足が動かない。
 胃を突き上げるような激しい吐き気が襲ってくる。
『だめだ、行かなきゃ。僕が行かないと、みんなに迷惑が』
 視界が滲んだ。
『……行きたくない』
 …………。
 バチン、と再び頭の中に静電気が走るような衝撃があって、千夏は我に返った。その途端、足の力が抜けて床へ崩れ落ちそうになる。
 その寸前、誰かに後ろから身体を支えられた。
「大丈夫か?」
 聞こえてきた落ち着いた声。晴高だった。いつの間に十四階まであがってきたんだろう。彼の息は少しあがっていた。
「……はい。いっきに流れ込んできて」
 そのままゆっくりと座らされ、ようやく、ほうと息を吐いた。
 元気に掴まれていた男の霊は驚いたのか、今日は飛び降りることなくそのままスーッと消えてしまった。
 消えた後をじっと見つめながら、ぽつりと元気が言う。
「……パワハラが原因の自殺だったんだろうな」
 その言葉に千夏も頷く。やはり今回も、元気にも千夏と同じものが見えていたようだ。
「うん。会社に行きたくない。行くのが辛いって……。この霊が出没するのが日曜から月曜にかけての深夜っていうのも、そういう理由だったんだろうね」
「月曜は、自殺者も一番多いらしいからな。ほら、立てるか?」
 晴高に腕をひっぱりあげられて、千夏は立ち上がった。
 月曜の朝には、千夏だって仕事に行きたくない気分になることはある。今の職場はなんだかんだで気に入っているのでそうでもないが、前の職場で上司から虐められていた時は日曜の夜になると具合が悪くなるくらい出社が辛くなるときもあった。
 千夏は、いつの間にか自分の胸元をぎゅっと掴んでいた。あのときの、辛さがよみがえってくる。それでも仕事は面白かったし、支えてくれる同僚がいたから何とかやってこれた。
 あの霊は、自分が感じた苦痛よりも遥かに辛い苦しさの中にいたのだろう。一人で抱えて、追い詰められて。結局、死を選ばざるを得なかった。それしか逃げ道がないところまで追い詰められた。それはもしかしたら、自分にもありえた未来だったのかもしれない。
「ほんとに、大丈夫?」
「え?」
 気が付くと、目の前に元気の顔があった。高い背をかがめて、千夏の顔を覗き込む心配そうな彼。
「どっか、体調悪いのか?」
 ううん、と千夏はゆっくり首を振る。
「大丈夫。ありがとう。ただ……今も飛び降り続けている彼を、なんとかしてあげたいな、って思って」
「そうだな……」
 彼に死んでいることを気づかせるためには、どうしたらいいんだろう。もう死んでいるんだから、会社に行く必要も、嫌な上司と顔を合わせる必要もないのに。
 そんなことを考えていたら、鋭い声が飛んできた。
「おい」
 びくっとして顔を上げる。晴高が、いつもの仏頂面よりもさらに険しい目つきで千夏を睨むように見ていた。
「……は、はい」
「あんまり霊に感情移入するな。……初めてお前が霊と同調してるのを見たが、その方法はあまりに危険だ。下手すると同調したまま戻ってこれなくなるぞ」
「え……、そうなん、ですか……?」
 戸惑う千夏に、
「もう、その方法はやめろ。やっぱり俺が全部除霊する」
 晴高はきっぱりとした口調で言い捨てる。
「で、でも。こうすると、霊の未練とか掴みやすくて」
「だからって、危険を犯してまでお前がそれをする必要はないだろ!」
 つい声を荒げてしまってから、晴高はここが深夜のマンションだということを思い出したのかハッと口をつぐむ。そして、千夏に睨むような視線を向けると、その腕を掴んで大股でエレベーターホールの方へと歩き出した。
「わ、ちょ、ちょっと……待ってください!」
 そう千夏は抗議の声をあげるが、晴高は止まらない。そのままエレベーターホールまで来ると、十四階で止まったままになっていたエレベーターに引っ張りこむようにして乗り込み、叩くように一階のボタンを押した。
 千夏は晴高の様子に驚いて、もはや声すらでない。
「おい。お前どうしたんだよ」
 元気が晴高に怪訝そうに声をかけるも、晴高は元気をもキッと睨みつけた。
「なんでお前はそんなにのんきにしてられるんだ。ああ……そうだよな、お前は幽霊だが、幽霊自体については素人だもんな。いいか、よく聞けよ、お前ら。霊は、人間と同じで良い奴ばかりじゃない。いや、死んだときの思いに固執しやすいから悪質なのも少なくない。いままでお前らが同調してきた奴らが、たまたま善良な魂だったから良かったものの。そんな悪質なのとシンクロしてみろ、あっち側に引っ張られたまま戻ってこれなくなるぞ」
「それは死ぬかもしれない、ってこと、ですか……」
 晴高が言わんとしていることが、千夏にも段々と理解できてきた。
 千夏の質問に、晴高は小さく首を横に振る。
「いや、もっとたちが悪い。成仏することもできず、悪霊として永遠にこの世をさまよい続けることになる。生きてる人間たちを呪いながらな」
 チンという軽い音を立てて、エレベーターが一階についた。エレベーターから出るとき、
「その幽霊男だって、いつ悪霊化するかわからんぞ」
 晴高が千夏たちにぼそりと呟くのが聞こえた。
 先にエレベーターを出た晴高の背中に言い返そうと口を開きかけたが、それよりも早く元気が声をあげた。
「晴高!」
 名前を呼ばれて、晴高は足を止めて振り返る。元気は千夏の横を通り過ぎて、晴高の前に立った。
「晴高。今の俺は、悪霊になりそうなきざしってあるか?」
 元気にそう尋ねられ、晴高は怪訝そうに眉を寄せた。そして、元気を上から下までじっくり眺めてから、
「いや。今のところはない。だが、人間の感情は移ろいやすい。いつ負の感情に偏るか」
「だったら!」
 晴高の話を遮るように元気は言う。
「もしそうなったら。もし、そうなるきざしが少しでも出たら。……そんときは、お前の手で俺を除霊してくれないか」
 元気が言い出したことに、千夏は驚いた。何を言うのだろう。以前、晴高に除霊されかけたときの彼の苦しそうな様子が脳裏をかすめる。
 こんな明るくて朗らかな元気が、悪霊になるなんて考えたこともなかった。
「俺だって。本当は俺みたいな成仏もできない霊が千夏のそばにいていいはずがないのはわかってるんだ。何度も、千夏の家を出なきゃって思った」
 元気の言葉にさらに驚く千夏。そんなこと考えていただなんて、まったく知らなかった。もしかすると、元気は何も言わず出て行こうとしていたのだろうか。
 千夏は元気の元へ駆け寄ると彼の腕を掴もうと手を伸ばした。しかし、当然のように千夏の手は彼の身体をすり抜ける。最近は忘れがちになっていたが、こういうときは実感せざるをえない。彼は、幽霊なのだ。空を切った手を見ると悲しさが湧いてくる。それでもその手で拳を握って元気の顔を見上げた。目が合うと、彼は申し訳なさそうに弱く苦笑した。
「でも、千夏と一緒にいるのが、心地よくて。迷惑かけてるのわかってたのに。つい、好意に甘えて今までずるずるときてしまったんだ」
 千夏はぶんぶんと首を横に振る。
「迷惑なんかじゃない。一緒にいてほしいって思ってたのは、私も同じ。だから、勝手に出て行ったりしないで」
 そう伝えると、こわばっていた彼の表情にホッと笑顔が広がった。
「……ごめん。そうするよ」
 その返答に、千夏の顔にも自然と笑みが戻る。
 そこに、はぁと大きなため息が聞こえてきた。晴高だ。
「……どうでもいいから、ここでいちゃつくな」
「な!?」
「いちゃついてなんか……!?」
 二人で抗議の声をあげたが、それすら煩わしそうに晴高は手で制すると、
「……とにかく、だ。除霊してほしかったら、除霊代くらいよこせ。業務外だろ。あと、これから霊と同調するときは事前に俺が安全な霊かどうか確かめてからにする、いいな」
「は、はいっ」
 千夏はこくこくと頷いた。それを見ると、晴高は千夏たちからふいっと視線を外して駐車場の方へとすたすた歩いて行ってしまった。
 後について歩きながら、いまの晴高の仕草が少し心に引っかかる。彼は、向きを変える直前、右手の薬指にしているリングを左手で触っていた。無意識にした仕草だったようだったけど、あのリングのことは前から気にはなっていたのだ。
 右手の薬指にされた、シンプルなデザインのシルバー色のリング。
 あれは間違いなく、恋人か奥さんとのペアリングだと千夏は思う。
 でも、彼からは恋人や妻がいるという話はおろかそんな気配すら感じたことがない。だから余計に不思議だった。
 駐車場に止めてあった社用車に乗り込んだあと、車を出す前に晴高が千夏と元気に先ほど撮ったというスマホの写真を見せてくれた。
 「これが撮れたから、まずいと思って急いで十四階に行ったんだ」
 彼が見せてくれた写真は一階から千夏たちがいた十四階を映したものだった。かろうじて廊下に立つ一人の女性の姿が見える。おそらくそれは千夏だろう。元気やあの霊の姿は映ってはいない。でもほかに映り込んでいるものがあった。
 「え……これ……なんですか?」
 その異様な写真に息をのむ。そこには、画面一面を覆いつくそうとするほどに無数の白い球のようなものが映り込んでいた。
「これは、オーブとかよばれるものだ。霊が出没する場所に映り込むことが多いが、これだけたくさん映ったものは珍しい」
「って、どういうこと?」
 と、元気は尋ねる。晴高はしばらくその写真を見た後、スマホをポケットにしまって車のエンジンを入れた。
「どうやら、あそこにいるのはあの霊だけじゃないようだ。霊が集まってきつつあるように見えた。あの霊が消えたらほかの霊たちの気配も消えてしまったが……あの現場は用心した方がいい」
 霊が集まってきている。その言葉に、千夏はぶわっと腕の毛が逆立つような恐怖を感じた。
 翌日の午前中は代休を取って午後に出社すると、千夏はすぐにノートパソコンを開いた。あのあと自宅に帰ってからずっと考えていたのだ。あのマンションから飛び降り続けるサラリーマンの霊。彼はどこの会社に勤めていたんだろう。そして、その会社はいまどうなっているんだろう、って。
(手掛かりは、あの霊の思い出の中にあった景色くらいしかないんだけどね)
 あの霊の記憶は、どれも会社でのものだった。オフィスの中から見たものと、オフィスビルの入り口を見たもの。
 彼が上司に怒られていたあの記憶。あのとき、上司の背後に見えていた窓からの景色ははっきりと覚えていた。窓から見えたモノは道路の向かいに建つ雑居ビルと、そのさらに奥に見えていた特徴的な形の大きなビル。あれだけ大きく見えたということは普通のビルではない。おそらく、かなりの高さのある高層ビルだ。
 そして彼が飛び降りたマンションが建っているのは、大久保。新宿からは目と鼻の先にある。彼があのマンションの住民だったのかどうかは結局調べても分からずじまいだったけど、あそこはファミリー向けの分譲マンションだ。なんとなく、まだ二十代に見えた彼は住人ではなかったような気がしていた。彼は、会社に出社するために最寄り駅まで来たものの、会社に行けずにさ迷い歩いているうちに背の高いあのマンションを見つけて入り込み、飛び降りたんじゃないだろうか。
 彼の勤め先があったのは、高層ビルが立ち並ぶ西新宿の周辺のどこかだと目星をつけていた。
 パソコンの地図アプリで、西新宿周辺をくまなく調べる。
 昨日、記憶の新しいうちに、窓から見えた景色とビルの入り口の簡単なデッサンを描き取っておいた。それと照らし合わせながら、衛星写真を元に作られた地図アプリの画像を見比べていく。
 一人では探しきれないため、同じ記憶を覗いた元気にも手伝ってもらうことにした。彼は、デスクの上に置かれたタブレットで同じ地図アプリを起動して、千夏が探している場所とは違うブロックを調べてくれている。
 傍から見るとデスクに置かれたタブレットの画面が勝手に動いているように見えるだろうけれど、最近は職場の人たちも慣れたのか気にしなくなったうえに、時々職員に配るお菓子を元気のデスクにも置いて行ってくれる人まで現れるようになっていた。
「お前、すっかりうちの職員と化してるな」
 と、これは晴高の言だが、
「時間なら、いっぱいあるからね」
 元気は地図アプリを見ながら、すいすいと画面を指で操作していく。
 実際のところ、元気と作業を分担できるのは助かることこの上ない。
 そうやって手分けして探していたところ、
「あ、これ。それっぽくない?」
 大久保寄りの地域を調べていた元気が、声を弾ませた。
「え? どれどれ?」
 千夏は覗き込むと、画像を指で引き延ばしてみた。
 そこには千夏が書いたラフ絵とそっくりなエントランスが映っていた。
「これだよ!」
 試しにタブレットに映っていた画像を方向転換させてみる。エントランスが映しだされていた画像がぐるっと百八十度向きを変えて、今度は向かいのビルとその先にある西新宿の高層ビル群を映し出していた。この場所で間違いない。
 早速、千夏と元気は現場確認に出かける。
 新宿駅の大ガードから中野へと延びる幹線道路。かなりの車が行き来している。その歩道をスマホアプリ片手にぶつぶつ言いながら歩いていると、ほどなくして目当てのオフィスビルを見つけた。
「あ、あった!!!」
 すぐそばまで行って見上げた。うん。間違いない。このアングルからの景色もあの霊の記憶にあったものとほとんど一緒だ。

 次の月曜日の深夜。
 千夏たち三人はあのマンションを訪れていた。
 千夏が持っているトートバッグには、この一週間で調べ上げた、あの霊を説得するための資料が入っている。
 この時間はもう管理人はいないため、管理用のマスターキーでオートロックを開けるとエレベーターホールへ向かう。上のボタンを押してカゴが下りてくるのを待っていると、「あ」と晴高が声をあげた。
 慌てた様子でパタパタとズボンやジャケットのポケットを触る。
「まずい、スマホを車に忘れてきた」
 そのとき、チンという音をたててエレベーターが一階につくと、扉が開いた。
「ちょっと取りに行ってくる」
「わかりました。私たち、先に上、行ってますね」
「ああ」
 そんな短いやりとりを交わして、千夏たちが乗り込んだエレベーターの扉が閉じた。
 まだ、あの霊がでる時刻まであと小一時間ある。先に千夏たちだけ上に行かせても問題ないはずだ。晴高はそう考えていた。
 マンションのエントランスを出たところで、手がジャケットのポケットに触れた。
(あれ……?)
 ポケットに手を入れると、そこに探していたスマホがある。
(……おかしいな)
 さっきはなぜ、スマホがないと思ったのだろう。不思議に思いながらも晴高はエレベーターホールに戻った。
 千夏たちは既に十四階に着いたようだ。上のボタンを押すと、ほどなくしてカゴが下りてきたのですぐに乗り込む。
 14のボタンを押すとすぐに上昇をはじめた。
 扉の上に並んだ数字の明滅が1から順に右に移っていくのをぼんやりながめていて、晴高は妙なことに気づいた。
 数字が8と9の間で行ったり来たりして進まなくなっている。
 しかし未だエレベーターは上昇を続けていた。
(なんだ、これ……)
 そもそも、さっきスマホを忘れたと思ったところからおかしかったのだ。ちゃんといつも通りポケットに入っていたのに、それに気づかないなんてことがあるだろうか。
 ぞわと、嫌な冷たさが背筋を這い上ってくる。
 おかしい。明らかに異常だ。
 晴高は叩くように『開』ボタンを押した。しかし、何の反応もない。いまだ、エレベーターは動き続けている。どれだけ上昇しているのか。緊急ボタンを押しても何の反応がない。いま何階にいる? いや、そもそもマンションの中なのか?
(くそっ、閉じ込められた!!!)
 心の中に焦りが湧き上がってくる。嫌な予感がどんどん増してきた。
 そこで、ふとあることに気づいて晴高はスマホを取り出した。ここに来る前に見た、ある新聞記事のスクリーンショットを選び出す。それは数年前の、親族が勝ち取った過労死自殺の労災記事だった。千夏の調査であの霊の勤め先名が判明し、そこから芋づる式に出てきたニュースだ。当時、二十六歳だった杉山という職員が、過労とパワハラを理由に自殺している。
 そのスクショを引き延ばして見てみた。彼の亡くなった日までは記載されていなかったが、彼が亡くなった年月はそこに載っていた。それを確認して、思わず晴高はエレベーターの壁を力いっぱい殴る。
(やっぱりだ……しまった。そこに気づかなかったなんて……)
 それは、今からちょうど六年前の今月だった。だとすると、彼の七回忌にあたる命日があるのは今月。もしかすると命日が今日だった可能性すらある。
 自分だけ引き離された理由はなんだ?と考えるも、すぐに結論はでた。除霊の力を持った晴高が邪魔だったからだ。
(頼む……無事でいてくれ。頼む……。もう、誰も失いたくないんだ!)
 晴高は心の中で叫ぶように祈った。
 十四階に着いた千夏たち。腕時計を見ると、あの霊が出没する時刻までにはまだ少し時間があった。しばらくここで待つことになるだろう。どうやって時間をつぶそうかな、そんなことを思いながらふと廊下を見ると、ふらりと人影のようなものが一つ見えた。
「あれ?」
 あのサラリーマンの霊だ、と千夏は思った。新聞記事で見た彼の本名は、たしか杉山大輔。
 千夏は彼のあとを追った。廊下に出てみると、おぼつかない足取りで廊下の奥へと歩いていくスーツ姿の背中が見える。
「杉山さん」
 千夏は彼の名を呼ぶ。しかし、その人影は千夏の声を気に留めた様子はなく、奥へと進んでいく。
「また彼が飛び降りる前に追いかけなきゃ、元気。……あ、あれ? 元気?」
 さっきまで傍にいたはずの元気の姿が見えない。そういえば、エレベーターを降りたあたりから姿を見ていない気もする。
「どこ行ったんだろう。元気?」
 何かがおかしいような、ちくりとした違和感を覚えた。しかし、廊下を行く人影の背中がどんどん遠くなっていく。早くしないと彼が飛び降りてしまう。
 今日こそは彼を止めようと考えていた千夏は、彼を追って走りだした。
「待って! 杉山さん!」
 前を行く人影はふらふらとした足取りの歩き方。こちらは走っているのだから、すぐに追いつくはずだった。しかし、いくら走っても彼の背中が近づかない。走っても走っても、距離がまったく縮まらない。
(あれ? ここの廊下、こんなに長かったっけ?)
 廊下の端から端まで走ってもそれほど距離はないはずなのに、今日はどれだけ走っても端が近づいてこないように思えた。まるで千夏が走れば走るほど、廊下が伸びているような不思議な感覚。
 それでも必死に走っていると、ようやく杉山の背中が近づいてきた。一分とかからない距離のはずなのに、十分以上走っていたような疲労を覚える。それでも息を弾ませて彼の元に辿りついた。
「杉山、さん!」
 肩で大きく息をしながら、落下防止の柵に手をついて今にも乗り越えようとしている彼に声をかける。
「アナタは、もう死んでるんです。アナタの会社はもうないの。何年も前に倒産しているんです」
 必死に彼を説得しようとする。
 そのときだった。
 遠くから、聞きなれた声が聞こえた。必死に叫ぶような声。
「千夏! 離れろ! そいつは、杉山じゃない!」
「え?」
 元気の声だ。彼の声がした方を振り向こうとした。しかしそれより早く、杉山だと思っていた霊の身体がブワンと大きく揺れた。
 いつのまにか彼の胸より上が黒く大きなモヤに包まれている。黒く小さな羽虫がたくさん集まっているように輪郭の定まらないモヤの塊は、グンといっきに膨れ上がった。そして人の背丈ほどに伸び上がると、パックリと大きな口を開けるように二つに避けて、千夏に襲いかかる。
「きゃあ!!!」
 咄嗟に逃げようとしたが、間に合わなかった。その真っ黒いモヤのような塊が千夏の頭からかぶりつくようにすっぽりと絡みついてくる。
 千夏の視界が真っ黒く閉ざされた。そしてそのまま、全身を強い力で引っ張られる。
(な、なに!? なんなの!?)
 黒いモヤを引きはがそうと両手をバタつかせるものの感触は弱い。代わりに、その手に何か細いものが大量に絡みついた。目の前は真っ暗く閉ざされて何も見えないのに、なぜか手に絡みつくそれが何なのか千夏にはわかっていた。
 これは、髪だ。長い、大量の髪。絡みつく髪を身体からはぎとってもはぎとっても、新たな髪が絡みついてくる。そうしているうち、千夏の身体は落下防止柵に押し付けられ、さらにそれを乗り越えさせようとするかのように柵の向こう側へと強い力で引っ張られた。
 千夏は引っ張られまいと柵を掴んで抵抗する。腹に柵があたって痛い。それでもずるすると引っ張られ、ついに上半身が柵の向こう側へと乗り出してしまった。両足が宙に浮く。そのとき顔の周りにまとわりついていた髪がするりと剥がれ、合間から下が見えた。
(……!!!)
 視界いっぱいに、マンションの下の地面が広がる。
 上半身が完全に柵を乗り越えてしまっていた。
(落ちる……!?)
 必死に両手で柵を掴むが、無数の手が虚空から千夏の身体を掴んで柵の外へ引っ張り込もうとしていた。
 落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ
 たくさんの声。若い声、老いた声。男も女も子どもも。
 たくさんの声が、訴えかけてくる。
 落ちろ。一緒に行こう。一緒に落ちよう、と。
 ここは十四階だ。落ちれば命はない。
 落とされまいと、千夏は柵にしがみついた。
 しかし、身体のあちこちを掴まれて引っ張られ、ついに千夏の手が柵から離れてしまう。
「あ……!!」
 するりと柵を乗り越えて落下しそうになった。千夏は無我夢中で柵に手を伸ばすが届かない。
(もう、ダメ……!)
 恐怖に思わず目を閉じた、そのとき。
「千夏!!」
 すぐそばで元気の声が聞こえた。と同時に、腰のあたりをぐっと強く掴まれる。落下する寸前、背中から彼の両腕でしっかりと抱き抱えられていた。
「元気!?」
 今にも柵の向こうに落下しそうになっていた千夏の身体を、元気が抱きかかえるようにして両腕でしっかりと掴んでいた。
 黒いモヤは、なおも強い力で千夏の身体を柵の外へと引っ張ろうとするが、そこに凛とした声が飛んでくる。晴高の声だ。いつもよりも幾分強い早い調子で経を読む声。
 彼の読経に合わせて、千夏を引っ張ろうとしていた力がすうっと弱まっていき、纏わりついていたモノはすべて空気に溶け込むように消えてしまった。
 柵の向こうへ引っ張られていた力がなくなり、反動で千夏と元気は廊下側に倒れこむ。千夏は腕をついて上半身を起こすものの、足に力が入らず、廊下の床にぺたんと座るのが精いっぱいだった。足だけではない。全身に力が入らない。頭の中が真っ白になっていた。
「間に合って良かった。やつらに閉じ込められて、抜け出すのに時間かかってしまって」
 晴高が言う。
「……俺も。気が付いたら、千夏に近づけなくなってて。ほんと、焦った」
 元気は、千夏の隣で座ったままだ。
 あと少し二人が駆けつけるのが遅れていたら、千夏は助からなかっただろう。今頃、あの杉山の霊と同じように頭から血を流して、遥か下の地面に横たわっていたかもしれない。
 今頃になって急に恐怖がよみがえってきて、千夏の身体が小刻みに震えだす。自分の腕で身体を抱くが震えは止まらない。歯の根が合わない。怖くてパニックになりそうだった。そんな千夏の身体を、ふわっと温かいものが包み込む。
「え……?」
 ワンテンポ遅れて、元気に抱きしめられているのだと気づく。
「良かった。ほんとに、良かった」
 彼は、千夏を抱きしめたまま、噛みしめるように何度も呟いた。元気のふわふわとした明るい髪色の頭がすぐそばにあった。
「元気」
 千夏はしがみつくように彼の身体に腕を回して抱き着いた。その温かく確かな感触に、心が落ち着きを取り戻してくる。千夏の震えは彼の温かさに溶かされるように、いつの間にか止まっていた。
 でも、心が落ち着いてくると今度は疑問が湧いてくる。なぜ、元気は自分の身体に触れているのだろう。なぜ自分は元気に触れているのだろう。彼は幽霊のはずなのに。これは夢なんだろうか。
 千夏が少し身体を動かすと、彼はパッと身体を離した。
「あ、ごめん。つい。痛かった!?」
 心配そうな元気に千夏は首を横に振ると、彼を安心させたくて口元に笑みを作った。
「ううん。大丈夫。助けてくれて、ありがとう」
 そう言うと元気もようやく安心したのか、「よかった」と言ってほっと表情が緩んだ。
「ケガはないか?」
 晴高にもそう聞かれたが、千夏はゆるゆると首を横に振る。
 柵に押し付けられたお腹のあたりがまだ少し痛むが、そのうち痛みも治まるだろう。
「いえ、大丈夫そうです」
 その返答に、晴高は、はぁと大きく息を吐いた。嘆息というよりは、安堵のため息のよう。次いで、端正な彼の顔が歪む。
「……すまない。俺のミスだ。資料に目を通していたはずだったのに、見逃した」
「……え?」
 きょとんとする千夏に、晴高は彼のスマホを見せてくれた。そこには見覚えのある新聞記事が表示されている。
「おそらく、今日は杉山の6回目の命日だったんだろう。つまり、七回忌だ。七回忌には、霊の力が最も強まる。ましてここは、繁華街が近い場所柄だ。人が多い場所には人の悪意や悪霊も多く渦巻いている。強まったアイツの負の感情に引き寄せられて、悪霊たちが集まっていたんだろうな。一時的に、ここは悪霊の巣窟となっていた」
 千夏をマンションの十四階から落そうとしたのは、そうやって集まった悪霊たちだったのだろうと晴高は教えてくれた。
「といっても、もうさっきあらかた散らしたから、当分は大丈夫だろう。あとでもう一回ちゃんと除霊しとく。……本当に、すまなかった」
 そういって、晴高は千夏に頭を下げた。
「いや。そんな。大丈夫ですよ。晴高さんも元気も助けにきてくれたじゃないですか。ありがとうございます。おかげで私、いまも、ちゃんとこうやって生きてますし」
 千夏は自分の胸をぽんぽんと手の平で叩いた。
「そうか。……良かった、ほんとに」
 そう言うと、晴高は安堵からか僅かに笑みをこぼした。
(お……)
 この人が笑った顔を初めて見た。
「心配、してくれてたんですね」
 千夏の言葉に、晴高は急にムッとしたような顔つきになる。
「……当たり前だろ。霊相手の仕事は、いつどう転ぶかわからない。自分のことなら大抵はどうにかなるし、どうにかならなくても諦めもつくが。お前らに何かあったらと思うと、胃が痛くて夜も眠れなくなる」
 『お前ら』と言っているあたり、彼の心配の中には元気も入っているようだった。普段、除霊するだのなんだの言っている割には、実はちゃんと彼のことを同僚と認めている様子なのが千夏にはちょっと嬉しかった。
 そんなことを考えていたら、傍にいた元気がスッと腕を上げて廊下の奥を指さした。
「なあ、ところでさ。アレ、どうする?」
 廊下の奥に人影がひとつ見えた。うずくまっているようだ。顔は見えないが、ビジネスカバンらしき四角いものを抱いて座り込んでいる。どうやらあれは本物の杉山の霊のようだ。
「さっきまで、あんなとこにアイツの姿なんか見えなかった。たぶん、俺と同じように悪霊たちに邪魔されて隠されてたんだろうな」
 と、元気は言う。そこでようやく思い出した。今日ここにきた目的は彼を説得することだったんだ。晴高に視線を向けると、彼もこちらを見て頷く。今日の仕事の本当の目的は、まだこれからだ。
 千夏は、廊下の奥でカバンを抱いてうずくまっている、その霊のそばへと歩いて行った。彼はカバンを挟むようにして足を抱き、小刻みに肩を揺らしていた。
『……ッ……ヒッ……』
 大量に集まってきた悪霊に驚いたのか、それとも死ぬ直前のことを思い出して今日もまた苦しんでいるのか。泣いているようだった。
「杉山、さん……?」
 千夏が腰をかがめてそっと声をかけると、杉山の肩がビクッと大きく揺れる。嗚咽が止まり、彼は顔をあげた。泣きはらしてはいたが、今日はあの半分つぶれた顔ではなく彼本来の顔をしていた。年齢はたしか、享年二十六歳。もう少し若く見える童顔の彼は、腫れぼったい目で千夏を見上げる。その目は、確かに千夏を捉えていた。今日は話が通じそうだ。
「アナタとお話をしにきました」
『ボクト……?』
 こくんと、千夏は頷く。
「アナタは毎週のように、そこから飛び降りています。そのことで住民から苦情が来たため、私たちが調べに来ました」
『ソウダ。ボクハ……イカナキャ……イカナキャ』
 杉山は虚空の一点を見つめ、両手で自分の髪の毛を掴むように掻きむしった。
「どこへ、行くんですか?」
 静かな声で千夏は尋ねる。
『カイシャ……イヤ……イキタクナイ……イケナイ……イカナキャ……ソレナラ……』
 ふらりと杉山は立ち上がる。カバンを胸に抱いたまま、ふらふらと落下防止柵のほうへと歩いていった。
 その彼の前に、元気が通せんぼするように立ちふさがった。
 杉山はよろける様に元気を避けて、なおも柵の方へ行こうとする。
 その彼の腕を元気が掴んだ。
「そっちに行ったって、道なんてないよ」
『ハナシテクダサイ……ボクハ……』
 晴高は三人とは少し離れて、こちらを注意深く見ている。右手にはあの水晶の数珠。もし、杉山が再び悪霊を呼び寄せるようなことがあれば、すぐさま除霊できるようにだ。
「杉山さん。アナタはもう、会社に行かなくていいんですよ」
 杉山の背中に千夏が言う。
『デモ、ユウキュウナンテツカエ……』
 その言葉に千夏は強くはっきりとした口調で言葉をかぶせた。
「アナタの会社は倒産しました。もう、あそこにあの会社はありません」
 杉山は動きを止める。その背中にさらに千夏はつづけた。
「六年前。アナタはそこから飛び降りて死にました。アナタの両親はアナタのために会社と戦って、アナタの自殺をパワハラと過労による自殺と認めさせました。その後、何があったのかまではわかりませんが、あの会社は倒産し、今は跡形もなくなっています」
 千夏は自分のトートバッグの中から、一枚の白い紙を取り出した。
 それは杉山が務めていた会社の法人登記簿謄本だった。そこには『破産』の文字。
 ゆっくりと杉山がこちらを振り向く。その目は驚きに見開かれていた。
 千夏はその登記簿謄本を杉山に差し出す。
「アナタを苦しませる会社は、もう、どこにもないんです。だからもう、何から逃げる必要もないの。それよりも、アナタの苦しみを癒してあげてください」
 杉山はカバンをぎゅっと握ったまま登記簿謄本を手に取るが、まだ信じられないような目で『ウソダ……』とつぶやいていた。
「じゃあさ。あとで夜が明けてから、一緒に会社があった現地を見に行こうぜ?」
 と、元気が提案する。
『エ……?』
「うん。それがいいよ。私たちも一緒にいくから。……どうですか?」
 杉山は、カバンと登記簿謄本を握ったまま困惑した目で千夏たちを見ていた。
 その後、朝まで車で時間をつぶしてから、杉山を乗せて西新宿へと向かった。マンションから杉山の勤務先があった場所までは、車だとほんの十分ほどの距離だった。近くのコインパーキングで車を止めると、彼の働いていたオフィスビルへと向かう。
 杉山は相変わらずカバンを胸に抱きしめてビクビクした様子だった。それでも目的のビルが見える場所まで来ると、彼自身も気になったようで歩く足が速くなる。
 そして、ビルのエントランスの前で杉山は立ち止まった。
 杉山の記憶の中で見た、あのエントランスと同じ光景が目の前にあった。
「行きますか?」
 千夏が尋ねると、杉山はしばらく迷ったあと、こくんと大きく頷く。
 エレベーターで五階まであがる。杉山はずっとカバンを抱きしめたまま、その肩はわずかに震えていた。事前に連絡しておいたため、現在五階に入っているテナントのスタッフは快く千夏たちをフロアに通してくれた。
 現在はそこは、フィットネスクラブになっている。
 杉山の記憶で見た、上司に酷く叱責されていたあの場所。
 そこはいまは、窓から明るい光が差し込むフローリングスタジオになっていた。
 ただ、窓の形は、あの記憶の中にあったものと同じだ。向かいの雑居ビルと、その向こうに西新宿の高層ビルが見えている。
『ソウカ……ソウナンダ……』
 杉山は窓の前で立ち尽くした。
『ソウなんだ……』
 彼の腕から、それまでずっと握りしめていたカバンがするりと落ちた。
 その肩が小刻みに震えている。
 千夏たちは、ただ見守るしかできなかった。彼がいま何を思っているのか、それは千夏にはわからない。でも、彼の中の時間はようやく動き出したようだった。
『……僕はこれから、どこに行けばいいんだろう……』
 会社がなくなった事実を目の当たりにし、呆然と呟く杉山。
 その声に応えたのは、晴高だった。
「お前にはもう、どこへ行くべきか見えてるんじゃないのか?」
 彼は晴高の方を向くと、うつむく。
『でも……僕は、自分で命を絶ってしまった。そんな人間は天国なんていけないんでしょ?』
「その償いなら、もうとっくにしたんじゃないか?」
 それは諭すでもなく、彼らしく淡々と事実を伝えるだけのような口調だった。
『え?』
 杉山は怪訝そうに、晴高を見る。
「あんだけ何度も飛び降りて毎回死ぬ苦しみを受けてれば、自分の命に対する責任なんてもう十分だろう」
『で、でも。急に死んだから、きっとたくさんの人に迷惑を……』
「たしかに迷惑ではあっただろうが、悪いことではない。どうせ人間は大概みんな、急に死ぬもんだ。それに」
 はっきりと晴高は断言する。
「そんだけ苦しんだ奴が救われないわけがないんだ。ほら、お前の身体を見てみろ」
『え?』
 晴高の指摘どおり、杉山の身体はいつのまにか輪郭がキラキラと金色の光を帯び始めていた。
「お迎えだ」
 杉山は驚いた目で自分の身体の光を見ていたが、ぶわっと双眸に涙をため、顔を両手で覆った。
『僕、死にたくなかった……死にたくなかったんだ。ただ、逃げたかっただけなんだ。辛くて、辛くて……仕事からも……人生からも。でも、逃げる方法を間違えたのかな……』
 今度は、それまで黙って杉山と晴高のやりとりを見ていた元気が口を開く。
「死にたくなる前に仕事辞められたら、もっと違う人生があったのかも……って思いたくなるよな。でも、死んだ後に後悔しても、もう身体は戻らないんだよな」
 彼も自分の死に対しては思うことはたくさんあるのだろう。その一言一言は、杉山に言っているようでもあり、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
「だからさ、もし生まれ変わったら。今度は命捨てる前に、もっと捨てていいもん捨てて軽くなろうぜ。その方が、絶対生きやすいからさ」
 杉山は顔をあげて、こくんと頷き返した。その顔にもう涙はなかった。
『うん。そうするよ。……ああ、もう、逝かなきゃ……』
「いってらっしゃい。お元気で」
 千夏は杉山にそう声をかけた。こういうとき、お別れにどういう言葉をかければいいのかいつもわからない。でも、なんとなく前向きな言葉がいいような気がするのだ。その先に待つ新しい未来に向けて彼らは旅立つのだから。
『ありがとう……』
 杉山は小さくはにかむように微笑んだ。途端に、彼の身体を覆う光が強くなると、ふわりと光の粒子が空気に溶け込むように彼の姿は見えなくなった。
「……逝ったな」
 ぽつりと晴高が言ったあと、ハァと疲れを吐き出すように嘆息した。
「……なんとかなったな。今回はヒヤヒヤしっぱなしだったが」
「あれ? 今回は送り火だっていってタバコ吸わねぇの?」
 と元気に言われると、ギロッと彼を睨む。
「ここで吸ったら怒られんだろ」
 たしかに、フィットネスクラブの入口のところに全館禁煙ってプレートが貼ってあった。
「ああ、そうか」
「……あとで、吸う」
 結局、吸うらしい。
 フィットネスクラブの職員に礼を言って、オフィスビルを出ると直ぐに晴高はタバコを咥えて火をつけていた。
「さてと、どうします? このあと」
 コインパーキングへ向かって歩きながら尋ねると、彼は紫煙を燻らせる。
「お前は代休申請しとくから、今日は家に帰っていい。俺は、後始末しにいく」
「後始末ですか?」
「もう一回、あのマンションの除霊だ。面倒くさいけど念のためにな」
 晴高は、タバコを指に挟んだまま頭を掻いた。
 自宅マンションに戻ってきた千夏と元気。
 元気は玄関で靴を脱ぐと、部屋に上がった。別にそのまま入っても実体のない彼が部屋を汚すことはないのに、相変わらず脱がないと気持ちが悪いようだ。千夏も、彼の後をついてリビングへいく。
 あのあとずっと、気になっていたことがあった。気になっていたけど、聞けないでいた。マンションで悪霊に落とされそうになった、あのとき。
(助けてくれたとき。元気は、確かに私の身体を掴んでいたよね……?)
 そのあと、千夏の無事を喜んで抱きしめてくれたときもそうだった。今もあのときの感触を身体が覚えている。幽霊である元気には触ることはできないはずなのに、あのとき確かにお互い触れあっていたのだ。
 もしかして夢か幻覚を見ていたのかもしれない。それとも、そうだったらいいなと願うあまりそう見えてしまっただけだったのだろうか。
 それとも元気は生きている人間にも触ることができるんだろうか。でもそれをずっと隠していたの? なぜ? なんのために?
 ずっとそんな疑問が頭の中を渦巻いていた。
 意を決して、千夏は元気の背中に問いかける。
「……ねぇ、元気。さっきさ。私のこと触ったよね。私も、触れたよね。……気のせいじゃ、ないよね……?」
 元気は足を止めた。少しの沈黙。彼はこちらを振り返らず、背中を向けたまま言いにくそうに口を開いた。
「……ああ。本当は、やろうと思えば触れるよ」
「……!」
 千夏は胸でぎゅっと両手を握る。なんで、いままで教えてくれなかったんだろう。ずっと、元気のことは触れることができないのだと思っていた。幽霊だから、彼に触れようとしても手がすり抜けてしまうことは、当たり前で仕方のないことだと思っていた。 千夏の戸惑いをよそに、元気はぽつりぽつりと話を続ける。
「前にさ。松原涼子さんの霊が、千夏の足を掴んだことがあっただろ?」
 こちらに背を向けたままの元気には見えていないことはわかっていながらも、千夏はこくこくと頷く。あの時は、涼子に冷たい手で足を掴まれて、気を失いそうになった。
「基本的には触れないのがデフォルトなんだけど、俺たち幽霊は生きている人にも触ろうと意識すれば触れるんだ。こっちが触れるんだから、そっちも触れるんだろうな。さっき、千夏のことをつい抱きしめちゃって、それに気づいた」
「なんで……教えてくれなかったの?」
 元気はこちらを振り向くと、困ったような泣きそうな顔で千夏を見た。
「触ってしまったら、もっと触れたくなるから。もっと……君の元から離れたくなくなってしまうから。でも、そんなのダメだろ。だって、俺は死んだ人間で。君はまだいっぱい人生が残っている生きている人間だ。いくら君との生活が楽しくても。いくら君と一緒にいたくても。君が君の人生を生きる邪魔をするわけにはいかない。それだけは、絶対に。だから、もうこれ以上君に……」
 泣きそうな顔のまま、彼は笑った。
「君に惹かれていくのを、止めなくちゃいけないんだ。触れてしまったら、もう」
 そこまで聞いて、千夏はもう自分の中から湧き上がってくる気持ちを止められなかった。元気の言うことはわかる。元気が自分のことを考えて、そう言ってくれているのもわかる。それでも。
 元気の方へ踏み出すと、千夏は彼に抱き着いた。
 今度は、千夏の腕は彼の身体をすり抜けることはなかった。
 しっかりと、彼の大きな胸に顔を埋めて抱きしめる。彼の身体はじんわりとほんの少し温かくて、そしてやっぱり心臓の鼓動の音は聞こえてはこないのだ。それでも、彼がそこにいるのが、触れているところを通して全身で感じられた。
 それが、心の底から嬉しくて、ポロポロと涙がこぼれてくる。
「私も、ずっと元気に触りたかったの。こうやって、抱きしめたかったの」
「千夏……」
「だから、元気に触れるのがこんなにうれしい。すごく、嬉しいの。嬉しくて、たまらない」
「……いいの? 俺が、千夏に触れても」
 躊躇いがちな元気の言葉に、千夏は力いっぱい頷く。笑顔に涙が伝った。
「私は、元気にそばにいてほしい。元気が好き。本当はそんなこと願っちゃいけない相手だってのはわかってるけど。でも、アナタがこの世から消えるときまで一緒にいたい。それが明日なのか、十年後なのか、私の寿命が尽きるまでなのかわからないけど。その瞬間まで、元気と一緒にいたいの」
 彼と一緒に過ごす時間が長くなればなるほど、心の中に少しずつ降り積もってきた想い。それが、どんどん口をついて出てくる。迷うように躊躇いながら千夏の背に触れていた元気の腕が、千夏を抱きしめた。
「俺も千夏と一緒にいたい」
「うん。一緒に生きよう。ああ……そうか、元気は死んでるんだった。ううん。それでも、一緒にいよう。これからも」
 幽霊と生きている人間。ともに暮らして人生を共にするのは、とても奇妙なことなのだろう。きっと、生きている人間同士のつきあいにはない不便さや不自由さも、これからもたくさんあるだろう。それでも、一緒に生きていきたいと共に願った。
「でも、成仏しそうになったら、ちゃんと成仏してね? 私が元気の未練になって元気が成仏できなくなるとか嫌だからね?」
 元気がクスリと笑みをこぼす。
「ああ。わかってる。そのときがきたら、ちゃんと成仏するよ」
 だから、いまは。この奇跡ともいうべき巡り合わせを大切にしたかった。
 ともに過ごせるときを、大事にしたかった。
 千夏が八坂不動産管理に異動になってから半年ほどたったある日。
 その日もいつものように、千夏が仕事をするデスクの隣で、元気はタブレットを眺めていた。最近は株のデイトレーディングでも少しずつ儲けが出てきているようだ。
「晴高、見て見て」
 元気は嬉しそうに、向かいの席に座る晴高に声をかける。
「何だ? お前の間抜けなツラしか見えないんだが」
 晴高も相変わらず、自分のノートパソコンから視線をあげることもなく不愛想に応えた。
「お前、見てねぇだろ。ほら、このタブレット。やっと自分の金で、自分のやつ買ったんだ」
 そこまで言われて、晴高はようやく目線をあげると元気の手元に目を向けた。
「……お前、ついに経済活動までできるようになったのか」
「デイトレードでさ、ようやく利益が出るようになってきたんだよね」
 そこに、課長席から晴高へ声がかかる。
「はい」
 晴高は課長に呼ばれて席を立つと、そちらへ行ってしまった。
 彼がいなくなってから、千夏はこそこそっと元気に話しかける。
「私のタブレット借りなくて済むようになったから、私に気にせずなんでも見れるようになったね」
「千夏に見られたら困るようなものなんて見てないからね!?」
 心外だとでもいうように元気はむくれた顔をして、指でタブレットの画面を操作する。そんな元気の相変わらずくるくるとよく変わる表情に、千夏はクスリと笑みを漏らした。
「でもよかったじゃない。記念になるよね。幽霊になってから、初めて自分で買ったものなんでしょ?」
 昨日宅配便で届いたばかりだけど、梱包をといたときの元気の目は、いままで見たことがないほど輝いていて嬉しそうだったな。なんて、そのときの情景を思い出してほんわかした気持ちになっていたら、元気はタブレットを操作しながらぽつりと言った。
「初めて買ったものなら、ほかにあるんだけどね。そっちはまだ届かないんだ」
「え? 何を買ったの?」
「ないしょ。届いてからのお楽しみ」
 そこに、晴高が課長席から戻ってきた。自分の席につくなり、千夏と元気に話を切り出してくる。
「いま、課長から新しい案件がきたんだが。……今度の案件は、ちょっと厄介そうなんだ」
 普段から険しい晴高の表情が、さらに険しさを増している。
「どういう案件なんですか?」
 千夏が尋ねると、晴高はぱらぱらとめくっていた資料ファイルをデスク越しに渡してくる。
「八坂不動産からの直接の依頼だ。あるマンション建設予定地でおかしなことばかり起こって工事が進まないから、俺たちに見てほしいってよ」
「八坂不動産からの?」
 千夏はファイルを受け取り、ぱらぱらとめくる。八坂不動産は、千夏たちが勤める八坂不動産管理の親会社であり、千夏が半年前まで勤めていた会社でもある。
 隣から元気も、ひょいっとファイルを覗いてきた。
「まぁ、どうせ建物が建ってしまえばうちの会社が管理を請け負うんだろうし、そうなると遅かれ早かれ俺たちに回ってくる仕事だろうがな。だから、受けることにした」
 と、晴高。
 その物件とは、神田駅近くにある高級マンション建設予定地だった。
 早速、その日の午後に現場を見に行くことにする。
 そのあたりは古くからの商業地区だった。大小さまざまなビルが立ち並ぶ中に、歯抜けのように工事中のその物件はあった。道路に面して『防音』と書かれたシートが敷地の周りをぐるっと取り巻くように貼られている。しかし、その防音シートは貼られてからそれなりに月日が経つのか、どこか色あせていた。敷地自体は都心にあるにしては広い角地で、約千平米、坪に直すと三百坪はある土地だった。
 入り口付近に設置されている白い工事掲示板に書かれたマジックの文字は消えかけている。目を凝らしてよく見ると、工事終了予定はいまよりも一年前だ。
「ずいぶん長い間、工事が進まないみたいですね」
 千夏は道路から見た現場写真をスマホで撮りつつそんな感想をもらした。ふと隣を見ると、元気がその工事現場をぼんやりと眺めている。
「元気、どうしたの?」
 千夏が声をかけると、元気は我に返ったように目の焦点を千夏に合わせて小さく笑む。
「いや、なんか既視感あるなと思ったら、この現場、前に来たことあるや」
「え?」
「俺、生きてた頃は銀行で不動産融資担当やってたんだ。この物件、俺が死ぬ直前まで担当してた案件の一つだよ。そっか、売れたんだな」
 そう言って、元気は懐かしそうに目を細めて物件を眺める。
「ここの売買に、お前がかかわってたのか?」
 と、これは晴高。
 こくんと、元気は頷く。
「直接売買にかかわったというより、買い手さんがうちの銀行の不動産ローンを使う予定になってたから、その査定とかやってたんだ。前は、ここは立派な生垣のある広い一軒家でさ。たしか、料亭があったんだよ。中に小さな池があって、錦鯉が泳いでたっけな」
 そう、かつての光景を思い出しながら元気は話してくれた。
 敷地の入口には、ジャバラになった金属製の簡易門が設置されており、南京錠がかかっている。八坂不動産から預かったというキーで南京錠を開けると、晴高は門を開けて中に入った。防音シートに目隠しされた内部には、現在は一台の重機も置かれておらず、まっさらな土地があるだけだった。
「なんだ。まだ基礎すらできてないのか」
 晴高に続いて、千夏も敷地の中に足を踏み入れる。建物が撤去されているからだろうか、がらんとしていてとても広く感じた。ここに地上五階、地下駐車場完備の高級マンションが建つ予定なのだという。
 晴高が八坂不動産から渡された報告ファイルによると、基礎を建てようと重機を持ち込んだところ、重機が動かなくなったり、逆にありえない誤作動をしたり、さらには工事関係者が怪我や病気になるなどして一向に工事が進まなかったのだという。
 もちろんお祓いもしたらしいのだが効果はなく、逆に怪異現象は悪化の一途を辿り、人影が夜な夜な這い回るのを見かけるまでになった。
 その霊は昼間に現れることすらあり、気味悪がった工事業者はここの工事を辞退。
 他の業者をあたったもののこんな厄介な工事を請け負う業者は現れず、工事は宙に浮いたままとなっていた。
「勿体ないですね。こんな一等地にある、広い物件なのに」
 これだけの立地と場所だ。平米あたり五百万はいくだろう。近年、都心の地価は都心回帰のあおりをうけて上がり続けている。この広さだと、ざっと計算しても五十億はくだらないんじゃないだろうか。
「元気。何か視えるか?」
「晴高は、なんか視えてる?」
 逆に元気に尋ねられ、ゆるゆると晴高は首を横に振る。
「何かいるのは感じる。さっきから、うろうろしてるな」
 それを聞いて、千夏はヒュッと肩を縮めた。
「……やっぱ何かいるんですね」
 千夏自身も、何かいるのは感じていた。でも、拒絶されているというよりは、むしろあちらからじろじろ視られているような、そんな視線のようなものを感じるのだ。
 それでさっきから視線を感じるたびに後ろを振り返ったりするのだが、変わらず更地があるだけ。遮蔽物すらないここには、誰かが潜む場所すらない。
「元気には何が視えているの?」
 千夏に聞かれ、元気はぐるっと土地を見回したあと、小首をかしげた。
「なんかじっとこっち見てるのは感じる。さっき一瞬見えたけど、たぶん男性の霊かな。五十代くらいだと思う。だけど、こっちが視線を向けるとスッと消えちゃうんだ。なのに視線を逸らせるとまたあっちから視てるのを感じる。相当、慎重なタイプなんじゃないかな」
「その割には派手に重機を故障させたりしたみたいだけどな」
 と、晴高。
 引っ込み思案なのか、大胆なのか、よくわからない霊だ。
 そのとき。千夏の肩にポツリと大粒の雫があたった。
「あ、雨」
 上向いた顔にもポツッポツッと大粒の雫が落ちてくる。
「必要な写真撮ったら、一旦会社に戻るぞ。雨があがったら、夜にでももう一度来るしかないだろうな」
 晴高の提案に千夏と元気もうなずいた。
 じろじろとこちらを見定めるかのような視線は、ずっと感じたままだった。