ミーコは後ろ脚のケガと骨折それに酷い脱水症状があったものの、入院してからはみるみる回復していった。
そして、退院の日。そのまま、ミーコは松原涼子の両親に引き取られることになった。動物病院には、涼子の両親だけでなく彼女の弟と妹らしき合わせて四人が迎えにきている。
彼らは入院中も頻繁にミーコを見舞いに来ていたようで、すっかり動物病院のスタッフとも親しくなっていた。
一応、引き渡されるところを見届けに来た千夏と晴高に、涼子の両親は深く頭を下げる。
「ミーコをみつけてくださって、本当にありがとうございます。これで涼子も安心して眠れると思います」
彼らの持つペットゲージの中で、ミーコは安心した様子で丸まっている。
「いえ。ミーコちゃん。元気になって、本当によかったです」
両親には、ミーコがアパートに自分で戻ってきたところを千夏たちが見つけたという風に説明してあった。まさか、涼子の霊が教えてくれただなんて言えるわけがない。
そして、動物病院の前で彼らと別れる。駅へと向かう彼らの後姿を見送っていると、涼子の妹さんが突然立ち止まった。彼女はこちらをパッと振り向くともう一度深く頭を下げる。両親と弟さんはそれに構わず、どんどん歩いていってしまう。彼女が立ち止まったことに気づいていないようだった。
「え?」
淡い水色のワンピースの彼女。顔を上げたその顔には、穏やかな笑顔が浮かんでいた。
『ありがとう…………』
そう、頭の中に声が響く。
「あれ、松原涼子さんだな」
と、元気が言う。
「ミーコが元気になった姿を見届けたかったんだろうな」
と、これは晴高。
「え、ええええっ!?」
元気と晴高の二人には、とっくにわかっていたらしい。
てっきり妹さんだとばかり思っていた人は、涼子本人だった。つまりミーコのお迎えに来ていたのはご両親と弟さんだけで、そこに涼子が混じっていたのだ。
涼子はあのアパートの部屋で見た恐ろしい姿とはまるで別人のように、穏やかに微笑んでいた。こちらが本来の彼女の姿なのだろう。もう怖いと思う気持ちはまったくなかった。むしろ、彼女を見ているとなぜかあたたかな気持ちになってくる。春風のようなあたたかさ。
千夏は彼女に向って手を振る。
「こちらこそ、ありがとう。ミーコちゃんを救ったのは、あなただよ!」
もう一度、涼子は嬉しそうに微笑むと、光の粒子が空に昇っていくようにふわりと見えなくなった。
「……逝っちまったな」
ぽつりと晴高が呟く。
「そっか。ミーコの無事が確認できて未練がなくなったんですね」
千夏はしばらく彼女が昇って行った空を眺める。よく晴れた雲一つない良い天気。隣で晴高がズボンのポケットから煙草を取り出すと、口に咥えて火をつけた。
「禁煙、してたんじゃないのかよ?」
元気に指摘されるものの、晴高は紫煙を細く口から吐きながらしれっと言う。
「送り火だ。……それにしても、まさか成仏《じょうぶつ》させるとはな」
紫煙はゆったりと空へと登って行く。
「成仏って、除霊とは違うんですか?」
「似てるようで、全然違う。除霊は言ってみれば、あの世への強制送還だ。本人の意思とは無関係に、無理やりこの世からはぎとってあの世へ送りつける。未練を残したままだと、当然霊の方も抵抗してくる」
たしかに、さきほどの涼子の姿は、最初アパートで晴高に除霊されそうになったときとではまるで様子が違っていた。
「一方、成仏っていうのは、霊本人がこの世への未練をなくし、納得して自分であの世へ旅立つことをいう」
「じゃあ、成仏の方がいいんですね」
千夏の言葉に、晴高は煙草を手に苦笑した。
「そりゃ、そうするに越したことはないが、そうそう全部にかかわってもいられないし、そもそも未練に凝り固まって話すら通じないやつも少なくないからな。悪霊化してしまってたりしたらなおさらだ。彼女だって、もしあのままミーコが命尽きてたら、どうなってたかわからん」
「そう、なんですね……」
あんな風に穏やかに彼岸に逝けるのならば、そちらの方がいいに決まっている。なんとか間に合ったことに、心からホッと胸をなでおろしす。
そして、隣の幽霊男のことを見上げた。
「元気は、なんの未練があってここに残ってんの? いつか成仏すんの?」
千夏に聞かれて、元気は小首をかしげた。
「さぁ。自分でもよくわかんないんだよな」
そこに晴高が、
「除霊するか」
なんて口を挟むものだから、元気は晴高からすすっと数歩離れた。
なにはともあれ、こうして千夏が抱えた初事案は無事解決したのだった。
職場に戻って今回の案件の報告書を書いていたら、いつの間にかオフィスに残っているのは千夏だけになっていた。隣の席に元気が座っているので寂しさはないけれど、彼はいま、千夏から借りたタブレットを熱心に眺めている。今見ているのはニュースページのようだ。
「そろそろ帰ろうかと思うんだけど」
「ああ、うん。じゃあ、このタブレット返すよ。貸してくれてありがとう」
そう言って、元気は柔らかく笑う。
晴高から聞いたところによると、元気は千夏が配属されてくるまではその席に座って、俯いたまま始終ぼんやりしていることが多かったようだ。ときどき場所を変えることはあるものの、大半の幽霊と同じでただ虚ろに佇んでいたという。
でも、話しかければ意思の疎通ができる相手にずっと隣の席でぼんやり俯かれているのはなんだか落ち着かない。そこでタブレットを彼に貸してあげたところ、とても喜んでくれた。三年も幽霊をやってきて、知的刺激に飢えていたのかもしれない。
「それじゃあ、また明日」
「ああ、気を付けてね」
千夏はトートバッグにタブレットを仕舞うと、肩にかける。
オフィスの出入り口まで歩いていくと、壁際にある照明のスイッチをオフにした。パッと室内の照明が消えて、光源は非常出口のおぼろげな緑の明かりだけになる。
オフィスを出るとき一度振り返ると、ひっそりと席に座わっている彼の後ろ姿が見えた。真っ暗な広いオフィスにぽつんと一人残され、静かに俯き加減で座るその姿はまるで幽霊のように見える。幽霊だけど。
ころころとよく表情を変え、よく笑い、よく喋る彼と、精巧に作られたオブジェのように微動だにしない俯いた彼。まるでスイッチがオンオフするかのようだ。
千夏はオフィスを出てエレベーターへと向かったものの、さっき見た元気の姿が脳裏にこびりついて離れないでいた。
彼も生きていたころは、仕事が上がれば自宅に帰ったり飲みに行ったり、友人や彼女と会ったり、そうやって普通に暮らしていたのだろう。でも、今の彼にはほかに帰るべき場所もなければ、休めなくてはいけない肉体もない。いまの彼はああやって毎晩、ただ夜が過ぎるのを待っているんだろう。眠ることもなく、一人っきりで。
エレベーターが昇ってきた。一階から二階へと表示があがってくるのを見上げながら、ふとこんな思いが頭をよぎる。
(別に、この場所でなくてもいいんじゃない? 元々特に思い入れがあるわけでもなさそうだったし)
それに、なぜか千夏自身が彼をこんなところに一人で置いておきたくなかった。
そう思ったらもう、足が勝手に動き出していた。
背後でチンとエレベーターが三階についた音がする。
けれど、千夏の足はオフィスへと踵を返していた。オフィスのドアを開けると、うつむいて座る彼の背中に声をかける。
「ねぇ! 元気!」
突然響いた千夏の声に、彼が驚いたようにこちらを振り向いた。
「びっくりしたぁ。どうしたの、忘れ物?」
「そう。忘れ物なの」
すたすたと元気の元へ歩いていくと、彼はまだ戸惑った様子で千夏を見上げる。手を伸ばして彼の腕をつかもうとするけれど、その手はスカッと空を切った。
(そうだ。つかめないんだったっけ)
あははと笑って腕を引っ込めると、元気の目を見る。
「あのさ。アナタ、夜はいっつもそこでじっとしてるんでしょ?」
「ああ、うん。そうだけど……」
千夏は、「じゃあさ」と笑いかけた。
「うちに来ない?」
元気の目が大きく見開かれるのがわかった。
「……え?」
「だからさ。ずっとそこに座っててもつまんないでしょ? うちに帰ればタブレットもまだ貸してあげられるし、パソコンとかテレビもあるから、アナタも楽しめるんじゃないかなって思って。……それとも、ここにいなきゃいけない理由とかあるの?」
元気は困ったような焦ったような顔で千夏から視線を逸らすと、口元に手を当てて考えるしぐさをする。
「別にここにいなきゃいけない理由もない、けど……」
戸惑いがちに零れ落ちた言葉に、千夏はパッと笑って。
「じゃあ、いいじゃない。うちにおいでよ。缶ビールくらいなら、おごるわよ」
まだしばらく元気はどこか照れ臭そうに迷っていたが、ビールにつられたのかコクンと頭を縦に振った。
「それなら……お邪魔させてもらおうかな」
「ええ。是非どうぞ」
そう言うと二人の視線が絡み、どちらともなく笑みがこぼれた。
千夏の家は、大田区京急線沿いの住宅街にある賃貸の1LDKマンションだ。
家の鍵を開けてパンプスを玄関で脱ぎ、家に入るとキッチンの横を通ってリビングへ向かった。部屋干ししていた洗濯物をかたずけて隣の洋室に放り込むと、後ろからついてきていた元気に声をかける。
「ちらかってるけど、どうぞー」
「……お邪魔します。結構いいとこ住んでんね。家賃高くない?」
「んー。築年数結構たってるしね。駅からちょっと歩くから、そうでもないよ。そっちの個室は、私の部屋だから入らないでね」
幽霊とはいえ、一応相手は同年代の男性なのでそう念を押すと、元気は苦笑した。
「入らないよ」
「こっちのリビングで過ごす分には、好きに過ごしてくれればいいから。さて。とりあえずお腹すいたから、ごはん作っちゃうね」
帰る途中に寄ったスーパーで買ってきたものをキッチンカウンターに置く。そして、一旦洋室に入るとスーツを脱いで、いつも部屋着にしているスウェット上下を手にとりふと考えた。ちょっと、よれよれすぎる。
幽霊に気を遣うのもどうかと思うが、あまりヨレッとしたところ見せるのもなぁとしばし考えて、買い置きしてあった新しいロングTシャツとスウェットのズボンをクローゼットから取り出した。
「よし。とっとと作っちゃお」
着替えてキッチンへ行くと、カウンター越しに元気の姿が見えた。彼は、レースがかかった窓の外を眺めている。
また、あの幽霊然とした俯き加減のぼんやりスタイルになっていたらどうしようかと思ったけど、いまのところそんな様子はなさそうだ。
「テレビ、つけようか?」
「ああ、うん。ありがとう。……あ、俺、別に飯とかいらないから」
確かに幽霊は食事を必要とはしないだろう。でも、初めて元気と会った日、彼はサブレーを食べて「うまい」と涙を流していた。ということは、味はわかるんだと思うんだ。
「ちょっと味見くらいしてってよ」
そういうと千夏はパタパタとキッチンへ戻った。
さて。今日は帰るのが遅かったから、すっかりお腹ぺこぺこ。いつもならこんな日はコンビニでお弁当を買って済ませてしまうことも多いのだが、二人となると何か作ろうかなという気になってスーパーに寄ってきたのだ。
買ってきたのは、半額になっていたお刺身。それに、みょうがとシソと春キャベツ。洗った米を炊飯器で早炊きモードで炊きながら、鍋に水を張ってだしパックを一袋投入すると火にかけた。次に春キャベツを洗ってまな板の上で食べやすいように切る。春キャベツは普通のキャベツにくらべて、さくさくと柔らかい。
切り終わったころには鍋の水が煮立ってきたので、だしパックを菜箸で取り出して、代わりに切ったキャベツを入れた。キャベツが煮立ったら、味噌を溶かし入れて春キャベツのみそ汁はできあがり。
みょうがとシソを刻んでいると、ごはんが炊けた。
食器棚からどんぶりを二つ取り出して、はたと考える。
元気の分は、どれくらいの量にすればいいんだろう。祖父母の家ではお仏壇にご飯を供えるとき、小さな専用のお皿でお供えしていたっけ。あのくらいの量でもいいんだろうか。
それに元気はモノを食べるといっても、食べたものの実体はそのまま残るのだ。
サブレーを食べていたときも、元気が食べていたのはサブレーの幽体ともいうべき半透明なサブレーで、実体そのものはデスクの上に残ったままだった。
ということは、元気に夕飯を出しても、それはそのまま残ってしまうのだろう。
(ま、あとで私が食べればいいか)
そう考えて、どんぶりにいつもの半分ずつご飯をよそった。そして、ちぎった海苔の上にお刺身を乗せ、さらに刻んだみょうがとシソ、それにゴマを散らす。
「はい。簡単海鮮丼のできあがり、と」
早速ダイニングテーブルに運ぶと、ソファに座ってテレビを見ていた元気を呼ぶ。
「うわぁ、すげぇ。……これ、俺の分?」
「そう。残ったものは私が食べちゃうから、遠慮しないで」
千夏の座る向かいの席にセットされた、丼と味噌汁を見て元気は目を丸くした。コップに麦茶をそそいで差し出す。
「ほら、座って。あ、そっか。私が椅子を引いてあげなきゃだめか」
一度立ち上がって元気の側の椅子を引いてあげると、再び自分の席に戻って千夏は手を合わせた。
「じゃあ、いただきまーす」
席についた元気も手を合わせる。
「いただきます」
元気は初めは戸惑っていたようだったけど、箸を手に取るとパッと顔を輝かせた。きっと、生前は食べることが好きだったんだろう。千夏もまずお味噌汁を手に取って口をつける。
「うん。おいしい」
しゃきしゃきとした春キャベツの甘みが、みそ汁の塩気と混ざり合って優しい味になっている。丼も、お刺身が新鮮で醤油のかかったごはんともよく合う。どんどん箸が進んだ。ふと、向かいの席の元気に目をやると、ぱくぱくと大きな口で海鮮丼を掻き込んでいた。
「お口にあったかな?」
「うん、めちゃめちゃ美味し……っ、げほっげほっ」
突然咳き込み始めた元気。とんとんと拳で胸をたたきだした。急いでかきこんで、喉に詰まったようだ。
「ほら、お茶飲んで。お茶」
麦茶のコップを渡してやると、元気はそれを手に取ってごくりと飲み干した。
「……ああ、死ぬかと思った」
「ご飯なんかで何度も死なないで」
「あはは。そうだね……なんか俺、泣きそう。この味噌汁もめちゃめちゃ美味い」
箸を止めると、元気はしんみりと目の前にある料理を眺める。
目にうっすらと光るものが見えるのは、きっとご飯が喉につまって咳き込みすぎたせいだけではないだろう。その姿を見ていると、千夏の胸にもグッと迫るものがあった。なぜだろう。この人が嬉しそうにしていると、私も同じように嬉しくなる。
「何度でもつくってあげるってば。これから毎日でも」
つい『毎日』という言葉をつけてしまって、自分で、え?毎日ってどういうこと?と内心焦った。確かに元気と一緒に帰ってきて、買い物して、ご飯を食べるのはなんだかとても新鮮で、心浮き立つのを隠すのが大変なくらいだった。毎日でもできたらいいな、って思ったのは本当だけど。
「え……それは、さすがに悪いし……」
元気も目を泳がせ、戸惑うように言う。でも、もう後には引けなかった。引きたくなかった。
「ど、どうせ! 私は食べないと生きていけないんだから」
今考えた取ってつけの理由だったけど、元気は納得したように、
「そっか……」
と呟き返す。
食事が終わった後、引き挙げた食器に残っていた元気の分。食べてみると、少し乾燥していた。しばらく食卓に置いておいただけにしては乾燥が進みすぎている気がする。おそらく、幽霊が食べるというのはそういうことなのだろう。思えば祖父母の家の仏壇に供えていたご飯も、ガビガビのガチガチになっていたっけ。
食器の片付けが済むと、千夏はシャワーを浴びた。元気にもシャワーか風呂を使うか聞いてみたが、いらないといわれる。パジャマに着替えてバスタオルで髪を拭きながら千夏は自室に戻ると、クローゼットから薄手の毛布を一枚ひっぱりだしてきた。それをリビングのソファの上に置く。
「はい、毛布。ベッドは一つしかないから、寝るならソファを使って。あとはあっちの部屋に入ってこさえしなければ、タブレットも自由に使って良いわよ」
「ああ、ありがとう」
元気は毛布を手にした。やっぱり元気が手にできるのは毛布の幽体だけで、実体はソファの上に置かれたままだ。
「それじゃ、おやすみ」
「おやすみ。あ、あのさ」
就寝の挨拶を交して、自室に戻ろうとした千夏を元気が呼び止めた。
振り向くと、彼は毛布を片手に頭を掻く。
「今日は、ありがとう……でも、俺、幽霊だから。そんな、気、使ってくれなくていいからな?」
元気はそんなことを言うが、夕飯を出したときも、お風呂はどうか聞いたときも、そして毛布を渡したときも、いつも彼は嬉しそうな顔をするのだ。本人は無自覚なのかもしれないけど、何か人間扱いされると彼はいつも顔に出るほど嬉しそうにする。
そんな彼を見るのは、嫌じゃない。
「いいの。私が好きでしてるだけだから。じゃあ、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
パタンと自室のドアを閉めると、そのドアにもたれて千夏は小さく息を吐いた。
(何やってるんだろう、私……)
そう思いながらもその反面、気持ちはいつになく軽く晴れやかだった。
「あ、そうだ」
缶ビール、出してあげるのを忘れてた。冷蔵庫で冷やしっぱなしだ。まあ、明日の夜に出してあげればいいやと思い直して千夏はベッドにもぐりこんだ。
「ふぁ……」
ベッドの上でアクビをすると、千夏は床に転がっているスリッパに足を突っ込んでカーテンを開けた。
うん。いい天気。これなら、洗濯物をベランダに干しても大丈夫そう。
上機嫌でパジャマから部屋着に着替えると、リビングへ続くドアを開けた。
「おはよー、元気」
夜間はいつもリビングにいる同居人に声をかける。
彼は、今朝はダイニングテーブルのところにいた。椅子に座ってテーブルに置いたタブレットを見ていた元気が顔を上げる。
「……あ、おはよう」
この幽霊男を職場から毎日連れ帰るようになってから、もう一ヶ月が経とうとしていた。これもある意味、ルームシェアと言うのだろうか。
彼は眠らないので、夜はリビングで好きに過ごしている。とはいえ、本人がイヤホンを装着できないため、テレビや動画など音が出るものは夜中はあまり使わないようにしているようだ。別にそのくらいの音、うるさいとも思わないのに。そのあたり、妙に千夏に気を使っているらしい。
ちなみに彼は死んだときにスーツを着ていたらしく、ずっとその姿のままだった。でも休日までその格好でいられると千夏が落ち着かないので、彼と同居するようになった週末にショッピングセンターに行って男性物の私服やルームウェアを何枚かずつ買ってきた。
そんなわけで、いま彼が着ているのはTシャツとハーフパンツだ。
「何、見てたの?」
ひょいっとのぞき込んでみると、タブレットの画面には折れ線グラフやら数字やらが沢山表示されていた。
元気は、タブレットのタッチパネルなら一応自分で操作することができる。
晴高いわく、タブレットのタッチパネルは人間の発する微弱な電流を利用して操作するものなので、幽霊もなんらかの電気を帯びていることが考えられるから特に不思議なことでもないらしい。
「なにこれ。証券会社のサイト?」
「うん。昔、株とかやってたから。懐かしくて」
「へぇ……」
前から思ってたけど、元気は案外ハイスペックだと思う。死んでいる、という最大のウィークポイントを除けば、だけど。
背も高いし、顔もそこそこ整っている。晴高みたいなキレイ系のイケメンではないけれど、人懐っこくて笑うと案外可愛い。
そのうえ、元・都市銀の銀行マンだけあって経歴も申し分なかった。前に大学時代の話になったついでに出身大学を聞いてみたら、日本人なら大抵の人が知っている私大の経済学部出身だった。
生きているうちに出会えてたらなぁなんて思わなくもないが、その頃、元気には既に結婚を考えるような彼女がいたんだっけ。
千夏はキッチンへ行って朝ごはんの支度をしながら、カウンター越しに元気に話しかけた。
「今日、パンでいい?」
「ああ、うん。ありがとう。なんか、悪いね、いつも」
そんなハイスペックな彼だからこそ、いま千夏の家に居候状態で過ごしていて家事の一つも手伝えないことに、どうやら本人は後ろめたさを感じているみたい。言葉の端々に、そんな感情が時折滲むのがわかる。
「だから、別にいいって言ってんでしょ。アナタ、幽霊なんだから」
「そうなんだけどさー。……あああ、せめて俺の昔の口座が使えればなぁ」
「え? 口座?」
パンをオーブントースターに入れて、卵とベーコンをフライパンで焼きながら千夏は聞き返した。
「そう。大して趣味とかもなかったから、それなりに貯金があったはずなんだ。でも、死んだから口座は凍結されて、とっくに両親のところに行ってるんだろうな。相続人って、両親ぐらいしかいないし」
焼きあがったパンとベーコンエッグを半分にして、二枚の皿に分けた。それとコーヒーを二カップ。時間がないのでインスタント。それが今日の朝ごはんだ。
元気が使っていたタブレットをかたずけると、朝ごはんをダイニングテーブルに並べた。
「そっか。亡くなった人の銀行口座は使えなくなるっていうもんね。どこの銀行の口座持ってたの?」
「俺の勤めてた銀行」
ああ、そうか。銀行員なら自分とこの銀行に口座作るよね、普通。
「でも、今更お金なんてどうするの?」
当然だが、幽霊が幽霊として存在する分にはお金なんか使わない。
朝食を並べ終わって席につくと、二人で手を合わせて「いただきます」をする。パンにはバターを塗って、その上にさらにいちごジャムを重ねた。カロリー高いけど、朝だからいいことにしよう。
「そしたら、ずっと千夏にタブレット借りなくても自分の金で買えるのになぁって。それに、服買ってもらったり、いろいろと出費あるでしょ?」
千夏はカリッと食パンをかじりながら、「うーん」と唸る。
「別に、私が好きでしてることだから気にしなくていいってば。どうせ、元気が食べてるソレだって、私があとで食べるんだし。ああでも、元気が株とかしたいっていうんなら、私の名義でしてもいいよ? はじめの原資くらい貸してあげれるし」
「え……ほんと!?」
元気の目が輝く。まるで欲しかった玩具を買ってもらえた少年のような顔だ。
なんだか、ますます人間っぽくなってきたなぁなんて元気の笑顔を見ていると不思議に感じた。いや、もともと人間ではあるのだけど、以前はもっと他の幽霊と同じように幽霊っぽかったのに。最近ではついうっかり、彼が幽霊だということを忘れそうになる。ほかの人もいる場では、話しかけないように気をつけなきゃ。
朝ごはんのあと、いつものように一緒に電車を乗り継いで水道橋にある職場まで向かった。
「おはようございまーす」
いつものように出社すると、これまたいつものように晴高は既に出社していて仕事を始めていた。彼は満員電車が嫌で、朝早くの電車に乗ってくるらしい。
千夏が自分のデスクにカバンを置くと、早速、晴高がデスク越しに一束の資料を渡してくる。
「それ、あとで現場見に行くから、午前中のうちに目を通しておいてくれ」
「はーい」
ファイルを手に取ってパラパラとめくる。
晴高と千夏の担当は特殊物件対策班、通称・幽霊物件対策班。だから、この案件もやはり幽霊物件だった。
千夏はまず、怪奇現象の報告ページに目を通す。
今度の案件は、『飛び降りる霊』が出るというマンションのようだった。
「資料、読んだか?」
社用車の中で、運転席しながら晴高が聞いてくる。助手席に座る千夏はコクンと頷いた。元気も、いつものごとく後部座席に乗っている。彼は勝手についてくるので、なんだかすっかり一緒に現場に行くのが常になってしまっていた。
車は今回の現場である新宿区大久保のマンションに向かう。八坂不動産管理が管理業務を請け負っている分譲マンションで、管理組合からの心霊現象をなんとかしてほしいとの要請だった。
なんでも、深夜にマンションの上階から飛び降りる人影を見たという人が何人もいるらしい。自殺か?事件か?と驚いて、人が落ちたと思しき場所に行ってみても、そこには誰もいない。そんな事がたびたび起きているのだそうだ。
「それって、そのマンションで過去に飛び降り自殺した人の霊とか、そういうのなんですかね」
「その可能性は高いな。ただ、いかんせん、築年数の古いマンションなんでな。うちが管理を請け負い出した二年前以降の記録ならすぐに見れるが、それ以前の他社に管理を依頼してた時代のものはさっぱりわからん。一応新聞やネットを調べてみたが、何も引っかからなかった。飛び降り自殺なんて珍しくも無くて、いまどきニュースにもならないんだろう」
昨今は個人情報保護の関係もあって、警察に尋ねても過去の事件のことなど教えてもらえないので、情報収集は困難がつきまとうことも多い。
着いたのは、都心へのアクセスも良い閑静な住宅街だった。そこに建つ十四階建てのファミリー向けマンション。その敷地で晴高は車を止めた。
築年数二十年ほどで、戸数150程のそこそこ大規模なマンションだ。
飛び降りる霊は、目撃される場所も目撃されたときの状況も毎回だいたい同じ。いつも、日曜日から日付が変わったあとの月曜日の夜2時前後に目撃されている。
霊がよく出没する地点は、最上階である14階の共用廊下。その一番奥の辺りだった。
廊下には千夏の胸元ぐらいの高さの落下防止柵はあるものの、柵の向こうに頭を出して下を覗き込むとかなりの高さだった。目がくらみそうになる。
「うわぁ……こっから落ちたら一たまりもないですね」
地面が遠い。それでも落ちるときは一瞬なんだろうな。
「こういう現場で、そういうことするなよ。悪意のある霊に引っ張り込まれるぞ」
冗談とも本気ともつかない淡々とした晴高の言葉に、千夏はヒエッと身体を引っ込めた。こんなところから引っ張り落とされたら一巻の終わりだ。
「幽霊男、何か見えるか?」
晴高に尋ねられ、元気は「うーん」と小首を傾げる。
「気配は若干感じる。でも、かなり薄いかな。隠れてるというよりは、もともとそんなに強くない」
「まあ、落ちるだけで他に何か悪さするような霊じゃないみたいだしな。気にしなきゃいいんだろうが」
いやいやいやいや。晴高はその程度のことなら気にしないかもしれないけど、時々上から人が落ちてくる影が見えるってだけでも、住んでる人にとっては大問題なんじゃないだろうか。生きている人間にとって、自殺する瞬間を見せられるのは薄気味悪いどころの話ではないもの、と千夏は心の中で突っ込んでおく。
「とにかく、その霊本人を実際に見て視ないことには始まらないな」
というわけで、翌週の日曜深夜にマンションの張り込みをすることになった。
現場調査当日。
夜中になるのを待って、千夏たちはマンションにやってきた。千夏と元気は十四階、晴高は一階の落下地点で待機することにする。
このマンションは『く』の字のような形をしていて、その真ん中にエレベーターが設置されていた。いつも霊が出るのはその廊下の端にある『1401号室』の前あたり。出没地点にあまり近づきすぎると霊が出てきてくれないかもしれないので、千夏たちはエレベーターホールに隠れるようにして廊下の端を観察していた。
深夜に霊が出る場所にいるのは正直いって気持ち悪いけど、元気がそばにいてくれるので安心できた。
「出てきてくれるかな」
壁に隠れるように頭だけ出して、廊下の先を見つめながら千夏は呟く。
「さあ。出てきてくれるといいよね」
深夜だけあって、マンションには人通りもほとんどない。
腕時計を見ると、夜の1時45分を過ぎたころだった。霊がよく目撃される時間帯は夜中の2時頃。そろそろかな、そう思ったときだった。
元気が、耳元で小さくささやいた。
「あれ」
彼が指さした先。
いつの間に、そこに現れたのか。廊下の先に一つの人影が見えた。
しかしエレベーターを使った形跡はなかったし、どこかの部屋のドアが開く音もしなかった。
つまり、あの人影は音もなく突然そこに現れたことになる。
ぞわと千夏の腕に鳥肌が立った。あれは、人ならざるものだ。
マンションの最上階の廊下に突然現れたソレは、人影のように見えた。でも、どうにも輪郭がおぼろげだ。人の形をしているのに、目を凝らしてもはっきりとした輪郭がつかめない。
廊下の照明の下をふらふらと頼りない足取りでこっちに向かって歩いてきたかと思うと、途中で向きを変えて今度は背中を向けて後戻っていく。そうやって、廊下を行ったり来たりしていた。
千夏はスマホのSNSで晴高に霊が出たことを報告する。晴高からは、「わかった」と一言だけ返ってきた。相変わらず、必要最小限の言葉しか返ってこないが、既読スルーされなかっただけマシだと思ってしまうあたり、だいぶ晴高の人となりにも慣れてきたのかもしれない。
「元気、どうする? 近づいてみる?」
「どうするもなにも……あ、ほら」
どう接触しようか迷っていたところ、霊らしき人影は1401号室の前で動きを止めた。そして廊下の落下防止柵にとりつく。なんだか、下を覗きこんでいるようにも見えた。
千夏と元気は互いに目を合わせて頷き合うと、静かに人影の方へと近寄った。
「……そこで、何をしてるんですか?」
思い切って、声をかけてみる。でも、人影は柵にくっついたまま動かなかった。
遠目に見たときはおぼろげな輪郭だと思ったけれど、この距離まで近づいてようやくどんな外見をしているのかが千夏にも判別できる。
ソレは男性の霊のようだった。歳のころは千夏と同じか、もっと若いくらいだろう。灰色のスーツを着ていて、胸にビジネスカバンを抱きしめていた。
彼は、柵から頭を突き出してジッと下を覗き込んでいる。
こちらのことは目にも入っていないようだ。
その姿は、飛び降りるのを迷って葛藤しているようにも見えた。
死ぬ前も、彼はそうやってここでジッと下を眺めていたんだろうか。
長い間葛藤して、迷って。それでも、飛び降りてしまったんだろうか。
そして死んだあとも、彼はそれを何度も繰り返している。もしかしたら、彼は自分が死んだことに気づいていないのかもしれない。同じ苦しみを味わい続け、同じ死の瞬間を迎え続ける。
そんなことを思うと千夏には彼が気の毒に思えてきて、もう一歩近づくと再度声をかけた。
「……あの……」
そのとき、うつむいて動かなかった霊がのっそりと顔を上げた。ゆっくりとこちらを振り向く。
(……ひっ…………!!!!)
その顔を見て、千夏は凍り付く。
こちら側に見えていなかった顔の半分はぐちゃぐちゃに潰れていた。割れた頭蓋が皮膚の間から見え、その中にあったであろう中身と血が肩や髪にこびりついていた。
……ア゛ア゛ア゛……
ヒューヒューと空気が漏れるような音が混ざる、うめき声。男の霊は、千夏に手を伸ばしてきた。
驚きのあまり逃げることもできず、千夏はその霊の姿から目を離すことすらできない。霊の指が千夏の顔にあと少しで触れそうというところで、千夏の後ろにいた元気が霊の腕を掴んだ。
「汚い指で、触るなって」
驚いたのか霊は手を引っ込めようとしたが、元気が手首をシッカリつかんでいるので離れない。霊は戸惑っているようだった。それもそうだ。まさか他の霊に腕を掴まれるとは思ってもみなかったのだろう。
ヤダ……モウ……イヤダ……モウ、イキタクナイ
霊は何度もそう繰り返す。
「いきなり邪魔してごめんなさい。だけど、教えてほしいの。なぜ、アナタは何度も飛び降りようとするの?」
千夏も霊に問いかける。元気がいてくれるおかげで、凄惨な顔をした霊が相手でも怖い気持ちはかなり小さくなっていた。しかし霊は千夏の声は聞こえていないかのように、ぶつぶつと同じことを繰り返すばかり。
そのときふと、松原涼子の霊と接したときのことが頭に浮かんだ。あのとき、涼子を掴む元気に触れたら、彼女の記憶のようなものが頭の中に流れ込んできた。もしかしたら、同じ状況になればまた同じことが起こるんじゃないだろうか。
「ごめんなさい。ちょっと、試させて……」
そう断りながら、千夏は元気の腕に触れた。目には触れたように見えても、手には何の感触もない。
それでもバチンと、頭の中で何かがスパークした。大きな静電気が起こったような衝撃。
…………。
一瞬、視界がホワイトアウトする。
視界を覆った白い光はすぐに消えるが、目の前の景色にもう一枚、別の景色が重なって見えた。
そこは、どこかのオフィスのようだった。
目の前には、窓を背にして鬼のような形相をした壮年のサラリーマンが立っている。男は書類の束を乱雑に掴んでいた。何か激しい口調で執拗に叱責される。そのうち、男が手に持った書類の束を顔に投げつけてきた。
『申し訳ありません』
そう何度も繰り返した。何度も頭を下げた。
足元に散らばる資料が、滲んで見えた。
急に視界が変わる。
どこかの路上に立っているようだ。自分の周りを次々と人が通り過ぎて、目の前にあるオフィスビルに飲み込まれていった。
『行かなきゃ』
そう呟くものの、足が動かない。
胃を突き上げるような激しい吐き気が襲ってくる。
『だめだ、行かなきゃ。僕が行かないと、みんなに迷惑が』
視界が滲んだ。
『……行きたくない』
…………。
バチン、と再び頭の中に静電気が走るような衝撃があって、千夏は我に返った。その途端、足の力が抜けて床へ崩れ落ちそうになる。
その寸前、誰かに後ろから身体を支えられた。
「大丈夫か?」
聞こえてきた落ち着いた声。晴高だった。いつの間に十四階まであがってきたんだろう。彼の息は少しあがっていた。
「……はい。いっきに流れ込んできて」
そのままゆっくりと座らされ、ようやく、ほうと息を吐いた。
元気に掴まれていた男の霊は驚いたのか、今日は飛び降りることなくそのままスーッと消えてしまった。
消えた後をじっと見つめながら、ぽつりと元気が言う。
「……パワハラが原因の自殺だったんだろうな」
その言葉に千夏も頷く。やはり今回も、元気にも千夏と同じものが見えていたようだ。
「うん。会社に行きたくない。行くのが辛いって……。この霊が出没するのが日曜から月曜にかけての深夜っていうのも、そういう理由だったんだろうね」
「月曜は、自殺者も一番多いらしいからな。ほら、立てるか?」
晴高に腕をひっぱりあげられて、千夏は立ち上がった。
月曜の朝には、千夏だって仕事に行きたくない気分になることはある。今の職場はなんだかんだで気に入っているのでそうでもないが、前の職場で上司から虐められていた時は日曜の夜になると具合が悪くなるくらい出社が辛くなるときもあった。
千夏は、いつの間にか自分の胸元をぎゅっと掴んでいた。あのときの、辛さがよみがえってくる。それでも仕事は面白かったし、支えてくれる同僚がいたから何とかやってこれた。
あの霊は、自分が感じた苦痛よりも遥かに辛い苦しさの中にいたのだろう。一人で抱えて、追い詰められて。結局、死を選ばざるを得なかった。それしか逃げ道がないところまで追い詰められた。それはもしかしたら、自分にもありえた未来だったのかもしれない。
「ほんとに、大丈夫?」
「え?」
気が付くと、目の前に元気の顔があった。高い背をかがめて、千夏の顔を覗き込む心配そうな彼。
「どっか、体調悪いのか?」
ううん、と千夏はゆっくり首を振る。
「大丈夫。ありがとう。ただ……今も飛び降り続けている彼を、なんとかしてあげたいな、って思って」
「そうだな……」
彼に死んでいることを気づかせるためには、どうしたらいいんだろう。もう死んでいるんだから、会社に行く必要も、嫌な上司と顔を合わせる必要もないのに。
そんなことを考えていたら、鋭い声が飛んできた。
「おい」
びくっとして顔を上げる。晴高が、いつもの仏頂面よりもさらに険しい目つきで千夏を睨むように見ていた。
「……は、はい」
「あんまり霊に感情移入するな。……初めてお前が霊と同調してるのを見たが、その方法はあまりに危険だ。下手すると同調したまま戻ってこれなくなるぞ」
「え……、そうなん、ですか……?」
戸惑う千夏に、
「もう、その方法はやめろ。やっぱり俺が全部除霊する」
晴高はきっぱりとした口調で言い捨てる。
「で、でも。こうすると、霊の未練とか掴みやすくて」
「だからって、危険を犯してまでお前がそれをする必要はないだろ!」
つい声を荒げてしまってから、晴高はここが深夜のマンションだということを思い出したのかハッと口をつぐむ。そして、千夏に睨むような視線を向けると、その腕を掴んで大股でエレベーターホールの方へと歩き出した。
「わ、ちょ、ちょっと……待ってください!」
そう千夏は抗議の声をあげるが、晴高は止まらない。そのままエレベーターホールまで来ると、十四階で止まったままになっていたエレベーターに引っ張りこむようにして乗り込み、叩くように一階のボタンを押した。
千夏は晴高の様子に驚いて、もはや声すらでない。
「おい。お前どうしたんだよ」
元気が晴高に怪訝そうに声をかけるも、晴高は元気をもキッと睨みつけた。
「なんでお前はそんなにのんきにしてられるんだ。ああ……そうだよな、お前は幽霊だが、幽霊自体については素人だもんな。いいか、よく聞けよ、お前ら。霊は、人間と同じで良い奴ばかりじゃない。いや、死んだときの思いに固執しやすいから悪質なのも少なくない。いままでお前らが同調してきた奴らが、たまたま善良な魂だったから良かったものの。そんな悪質なのとシンクロしてみろ、あっち側に引っ張られたまま戻ってこれなくなるぞ」
「それは死ぬかもしれない、ってこと、ですか……」
晴高が言わんとしていることが、千夏にも段々と理解できてきた。
千夏の質問に、晴高は小さく首を横に振る。
「いや、もっとたちが悪い。成仏することもできず、悪霊として永遠にこの世をさまよい続けることになる。生きてる人間たちを呪いながらな」
チンという軽い音を立てて、エレベーターが一階についた。エレベーターから出るとき、
「その幽霊男だって、いつ悪霊化するかわからんぞ」
晴高が千夏たちにぼそりと呟くのが聞こえた。
先にエレベーターを出た晴高の背中に言い返そうと口を開きかけたが、それよりも早く元気が声をあげた。
「晴高!」
名前を呼ばれて、晴高は足を止めて振り返る。元気は千夏の横を通り過ぎて、晴高の前に立った。
「晴高。今の俺は、悪霊になりそうなきざしってあるか?」
元気にそう尋ねられ、晴高は怪訝そうに眉を寄せた。そして、元気を上から下までじっくり眺めてから、
「いや。今のところはない。だが、人間の感情は移ろいやすい。いつ負の感情に偏るか」
「だったら!」
晴高の話を遮るように元気は言う。
「もしそうなったら。もし、そうなるきざしが少しでも出たら。……そんときは、お前の手で俺を除霊してくれないか」
元気が言い出したことに、千夏は驚いた。何を言うのだろう。以前、晴高に除霊されかけたときの彼の苦しそうな様子が脳裏をかすめる。
こんな明るくて朗らかな元気が、悪霊になるなんて考えたこともなかった。
「俺だって。本当は俺みたいな成仏もできない霊が千夏のそばにいていいはずがないのはわかってるんだ。何度も、千夏の家を出なきゃって思った」
元気の言葉にさらに驚く千夏。そんなこと考えていただなんて、まったく知らなかった。もしかすると、元気は何も言わず出て行こうとしていたのだろうか。
千夏は元気の元へ駆け寄ると彼の腕を掴もうと手を伸ばした。しかし、当然のように千夏の手は彼の身体をすり抜ける。最近は忘れがちになっていたが、こういうときは実感せざるをえない。彼は、幽霊なのだ。空を切った手を見ると悲しさが湧いてくる。それでもその手で拳を握って元気の顔を見上げた。目が合うと、彼は申し訳なさそうに弱く苦笑した。
「でも、千夏と一緒にいるのが、心地よくて。迷惑かけてるのわかってたのに。つい、好意に甘えて今までずるずるときてしまったんだ」
千夏はぶんぶんと首を横に振る。
「迷惑なんかじゃない。一緒にいてほしいって思ってたのは、私も同じ。だから、勝手に出て行ったりしないで」
そう伝えると、こわばっていた彼の表情にホッと笑顔が広がった。
「……ごめん。そうするよ」
その返答に、千夏の顔にも自然と笑みが戻る。
そこに、はぁと大きなため息が聞こえてきた。晴高だ。
「……どうでもいいから、ここでいちゃつくな」
「な!?」
「いちゃついてなんか……!?」
二人で抗議の声をあげたが、それすら煩わしそうに晴高は手で制すると、
「……とにかく、だ。除霊してほしかったら、除霊代くらいよこせ。業務外だろ。あと、これから霊と同調するときは事前に俺が安全な霊かどうか確かめてからにする、いいな」
「は、はいっ」
千夏はこくこくと頷いた。それを見ると、晴高は千夏たちからふいっと視線を外して駐車場の方へとすたすた歩いて行ってしまった。
後について歩きながら、いまの晴高の仕草が少し心に引っかかる。彼は、向きを変える直前、右手の薬指にしているリングを左手で触っていた。無意識にした仕草だったようだったけど、あのリングのことは前から気にはなっていたのだ。
右手の薬指にされた、シンプルなデザインのシルバー色のリング。
あれは間違いなく、恋人か奥さんとのペアリングだと千夏は思う。
でも、彼からは恋人や妻がいるという話はおろかそんな気配すら感じたことがない。だから余計に不思議だった。
駐車場に止めてあった社用車に乗り込んだあと、車を出す前に晴高が千夏と元気に先ほど撮ったというスマホの写真を見せてくれた。
「これが撮れたから、まずいと思って急いで十四階に行ったんだ」
彼が見せてくれた写真は一階から千夏たちがいた十四階を映したものだった。かろうじて廊下に立つ一人の女性の姿が見える。おそらくそれは千夏だろう。元気やあの霊の姿は映ってはいない。でもほかに映り込んでいるものがあった。
「え……これ……なんですか?」
その異様な写真に息をのむ。そこには、画面一面を覆いつくそうとするほどに無数の白い球のようなものが映り込んでいた。
「これは、オーブとかよばれるものだ。霊が出没する場所に映り込むことが多いが、これだけたくさん映ったものは珍しい」
「って、どういうこと?」
と、元気は尋ねる。晴高はしばらくその写真を見た後、スマホをポケットにしまって車のエンジンを入れた。
「どうやら、あそこにいるのはあの霊だけじゃないようだ。霊が集まってきつつあるように見えた。あの霊が消えたらほかの霊たちの気配も消えてしまったが……あの現場は用心した方がいい」
霊が集まってきている。その言葉に、千夏はぶわっと腕の毛が逆立つような恐怖を感じた。
翌日の午前中は代休を取って午後に出社すると、千夏はすぐにノートパソコンを開いた。あのあと自宅に帰ってからずっと考えていたのだ。あのマンションから飛び降り続けるサラリーマンの霊。彼はどこの会社に勤めていたんだろう。そして、その会社はいまどうなっているんだろう、って。
(手掛かりは、あの霊の思い出の中にあった景色くらいしかないんだけどね)
あの霊の記憶は、どれも会社でのものだった。オフィスの中から見たものと、オフィスビルの入り口を見たもの。
彼が上司に怒られていたあの記憶。あのとき、上司の背後に見えていた窓からの景色ははっきりと覚えていた。窓から見えたモノは道路の向かいに建つ雑居ビルと、そのさらに奥に見えていた特徴的な形の大きなビル。あれだけ大きく見えたということは普通のビルではない。おそらく、かなりの高さのある高層ビルだ。
そして彼が飛び降りたマンションが建っているのは、大久保。新宿からは目と鼻の先にある。彼があのマンションの住民だったのかどうかは結局調べても分からずじまいだったけど、あそこはファミリー向けの分譲マンションだ。なんとなく、まだ二十代に見えた彼は住人ではなかったような気がしていた。彼は、会社に出社するために最寄り駅まで来たものの、会社に行けずにさ迷い歩いているうちに背の高いあのマンションを見つけて入り込み、飛び降りたんじゃないだろうか。
彼の勤め先があったのは、高層ビルが立ち並ぶ西新宿の周辺のどこかだと目星をつけていた。
パソコンの地図アプリで、西新宿周辺をくまなく調べる。
昨日、記憶の新しいうちに、窓から見えた景色とビルの入り口の簡単なデッサンを描き取っておいた。それと照らし合わせながら、衛星写真を元に作られた地図アプリの画像を見比べていく。
一人では探しきれないため、同じ記憶を覗いた元気にも手伝ってもらうことにした。彼は、デスクの上に置かれたタブレットで同じ地図アプリを起動して、千夏が探している場所とは違うブロックを調べてくれている。
傍から見るとデスクに置かれたタブレットの画面が勝手に動いているように見えるだろうけれど、最近は職場の人たちも慣れたのか気にしなくなったうえに、時々職員に配るお菓子を元気のデスクにも置いて行ってくれる人まで現れるようになっていた。
「お前、すっかりうちの職員と化してるな」
と、これは晴高の言だが、
「時間なら、いっぱいあるからね」
元気は地図アプリを見ながら、すいすいと画面を指で操作していく。
実際のところ、元気と作業を分担できるのは助かることこの上ない。
そうやって手分けして探していたところ、
「あ、これ。それっぽくない?」
大久保寄りの地域を調べていた元気が、声を弾ませた。
「え? どれどれ?」
千夏は覗き込むと、画像を指で引き延ばしてみた。
そこには千夏が書いたラフ絵とそっくりなエントランスが映っていた。
「これだよ!」
試しにタブレットに映っていた画像を方向転換させてみる。エントランスが映しだされていた画像がぐるっと百八十度向きを変えて、今度は向かいのビルとその先にある西新宿の高層ビル群を映し出していた。この場所で間違いない。
早速、千夏と元気は現場確認に出かける。
新宿駅の大ガードから中野へと延びる幹線道路。かなりの車が行き来している。その歩道をスマホアプリ片手にぶつぶつ言いながら歩いていると、ほどなくして目当てのオフィスビルを見つけた。
「あ、あった!!!」
すぐそばまで行って見上げた。うん。間違いない。このアングルからの景色もあの霊の記憶にあったものとほとんど一緒だ。
次の月曜日の深夜。
千夏たち三人はあのマンションを訪れていた。
千夏が持っているトートバッグには、この一週間で調べ上げた、あの霊を説得するための資料が入っている。
この時間はもう管理人はいないため、管理用のマスターキーでオートロックを開けるとエレベーターホールへ向かう。上のボタンを押してカゴが下りてくるのを待っていると、「あ」と晴高が声をあげた。
慌てた様子でパタパタとズボンやジャケットのポケットを触る。
「まずい、スマホを車に忘れてきた」
そのとき、チンという音をたててエレベーターが一階につくと、扉が開いた。
「ちょっと取りに行ってくる」
「わかりました。私たち、先に上、行ってますね」
「ああ」
そんな短いやりとりを交わして、千夏たちが乗り込んだエレベーターの扉が閉じた。
まだ、あの霊がでる時刻まであと小一時間ある。先に千夏たちだけ上に行かせても問題ないはずだ。晴高はそう考えていた。
マンションのエントランスを出たところで、手がジャケットのポケットに触れた。
(あれ……?)
ポケットに手を入れると、そこに探していたスマホがある。
(……おかしいな)
さっきはなぜ、スマホがないと思ったのだろう。不思議に思いながらも晴高はエレベーターホールに戻った。
千夏たちは既に十四階に着いたようだ。上のボタンを押すと、ほどなくしてカゴが下りてきたのですぐに乗り込む。
14のボタンを押すとすぐに上昇をはじめた。
扉の上に並んだ数字の明滅が1から順に右に移っていくのをぼんやりながめていて、晴高は妙なことに気づいた。
数字が8と9の間で行ったり来たりして進まなくなっている。
しかし未だエレベーターは上昇を続けていた。
(なんだ、これ……)
そもそも、さっきスマホを忘れたと思ったところからおかしかったのだ。ちゃんといつも通りポケットに入っていたのに、それに気づかないなんてことがあるだろうか。
ぞわと、嫌な冷たさが背筋を這い上ってくる。
おかしい。明らかに異常だ。
晴高は叩くように『開』ボタンを押した。しかし、何の反応もない。いまだ、エレベーターは動き続けている。どれだけ上昇しているのか。緊急ボタンを押しても何の反応がない。いま何階にいる? いや、そもそもマンションの中なのか?
(くそっ、閉じ込められた!!!)
心の中に焦りが湧き上がってくる。嫌な予感がどんどん増してきた。
そこで、ふとあることに気づいて晴高はスマホを取り出した。ここに来る前に見た、ある新聞記事のスクリーンショットを選び出す。それは数年前の、親族が勝ち取った過労死自殺の労災記事だった。千夏の調査であの霊の勤め先名が判明し、そこから芋づる式に出てきたニュースだ。当時、二十六歳だった杉山という職員が、過労とパワハラを理由に自殺している。
そのスクショを引き延ばして見てみた。彼の亡くなった日までは記載されていなかったが、彼が亡くなった年月はそこに載っていた。それを確認して、思わず晴高はエレベーターの壁を力いっぱい殴る。
(やっぱりだ……しまった。そこに気づかなかったなんて……)
それは、今からちょうど六年前の今月だった。だとすると、彼の七回忌にあたる命日があるのは今月。もしかすると命日が今日だった可能性すらある。
自分だけ引き離された理由はなんだ?と考えるも、すぐに結論はでた。除霊の力を持った晴高が邪魔だったからだ。
(頼む……無事でいてくれ。頼む……。もう、誰も失いたくないんだ!)
晴高は心の中で叫ぶように祈った。
十四階に着いた千夏たち。腕時計を見ると、あの霊が出没する時刻までにはまだ少し時間があった。しばらくここで待つことになるだろう。どうやって時間をつぶそうかな、そんなことを思いながらふと廊下を見ると、ふらりと人影のようなものが一つ見えた。
「あれ?」
あのサラリーマンの霊だ、と千夏は思った。新聞記事で見た彼の本名は、たしか杉山大輔。
千夏は彼のあとを追った。廊下に出てみると、おぼつかない足取りで廊下の奥へと歩いていくスーツ姿の背中が見える。
「杉山さん」
千夏は彼の名を呼ぶ。しかし、その人影は千夏の声を気に留めた様子はなく、奥へと進んでいく。
「また彼が飛び降りる前に追いかけなきゃ、元気。……あ、あれ? 元気?」
さっきまで傍にいたはずの元気の姿が見えない。そういえば、エレベーターを降りたあたりから姿を見ていない気もする。
「どこ行ったんだろう。元気?」
何かがおかしいような、ちくりとした違和感を覚えた。しかし、廊下を行く人影の背中がどんどん遠くなっていく。早くしないと彼が飛び降りてしまう。
今日こそは彼を止めようと考えていた千夏は、彼を追って走りだした。
「待って! 杉山さん!」
前を行く人影はふらふらとした足取りの歩き方。こちらは走っているのだから、すぐに追いつくはずだった。しかし、いくら走っても彼の背中が近づかない。走っても走っても、距離がまったく縮まらない。
(あれ? ここの廊下、こんなに長かったっけ?)
廊下の端から端まで走ってもそれほど距離はないはずなのに、今日はどれだけ走っても端が近づいてこないように思えた。まるで千夏が走れば走るほど、廊下が伸びているような不思議な感覚。
それでも必死に走っていると、ようやく杉山の背中が近づいてきた。一分とかからない距離のはずなのに、十分以上走っていたような疲労を覚える。それでも息を弾ませて彼の元に辿りついた。
「杉山、さん!」
肩で大きく息をしながら、落下防止の柵に手をついて今にも乗り越えようとしている彼に声をかける。
「アナタは、もう死んでるんです。アナタの会社はもうないの。何年も前に倒産しているんです」
必死に彼を説得しようとする。
そのときだった。
遠くから、聞きなれた声が聞こえた。必死に叫ぶような声。
「千夏! 離れろ! そいつは、杉山じゃない!」
「え?」
元気の声だ。彼の声がした方を振り向こうとした。しかしそれより早く、杉山だと思っていた霊の身体がブワンと大きく揺れた。
いつのまにか彼の胸より上が黒く大きなモヤに包まれている。黒く小さな羽虫がたくさん集まっているように輪郭の定まらないモヤの塊は、グンといっきに膨れ上がった。そして人の背丈ほどに伸び上がると、パックリと大きな口を開けるように二つに避けて、千夏に襲いかかる。
「きゃあ!!!」
咄嗟に逃げようとしたが、間に合わなかった。その真っ黒いモヤのような塊が千夏の頭からかぶりつくようにすっぽりと絡みついてくる。
千夏の視界が真っ黒く閉ざされた。そしてそのまま、全身を強い力で引っ張られる。
(な、なに!? なんなの!?)
黒いモヤを引きはがそうと両手をバタつかせるものの感触は弱い。代わりに、その手に何か細いものが大量に絡みついた。目の前は真っ暗く閉ざされて何も見えないのに、なぜか手に絡みつくそれが何なのか千夏にはわかっていた。
これは、髪だ。長い、大量の髪。絡みつく髪を身体からはぎとってもはぎとっても、新たな髪が絡みついてくる。そうしているうち、千夏の身体は落下防止柵に押し付けられ、さらにそれを乗り越えさせようとするかのように柵の向こう側へと強い力で引っ張られた。
千夏は引っ張られまいと柵を掴んで抵抗する。腹に柵があたって痛い。それでもずるすると引っ張られ、ついに上半身が柵の向こう側へと乗り出してしまった。両足が宙に浮く。そのとき顔の周りにまとわりついていた髪がするりと剥がれ、合間から下が見えた。
(……!!!)
視界いっぱいに、マンションの下の地面が広がる。
上半身が完全に柵を乗り越えてしまっていた。
(落ちる……!?)
必死に両手で柵を掴むが、無数の手が虚空から千夏の身体を掴んで柵の外へ引っ張り込もうとしていた。
落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ落ちろ
たくさんの声。若い声、老いた声。男も女も子どもも。
たくさんの声が、訴えかけてくる。
落ちろ。一緒に行こう。一緒に落ちよう、と。
ここは十四階だ。落ちれば命はない。
落とされまいと、千夏は柵にしがみついた。
しかし、身体のあちこちを掴まれて引っ張られ、ついに千夏の手が柵から離れてしまう。
「あ……!!」
するりと柵を乗り越えて落下しそうになった。千夏は無我夢中で柵に手を伸ばすが届かない。
(もう、ダメ……!)
恐怖に思わず目を閉じた、そのとき。
「千夏!!」
すぐそばで元気の声が聞こえた。と同時に、腰のあたりをぐっと強く掴まれる。落下する寸前、背中から彼の両腕でしっかりと抱き抱えられていた。