手をがむしゃらにばたつかせるけれど、女の幽霊を通り抜けてしまってどれだけ押しのけようとしても雲をつかむようだった。女はなおも千夏の身体を上ってこようとする。
「くっそ、なんでこんなに力が強いんだ……!」
元気も女の幽霊を引きはがそうとしてくれているのだけど、うまくいかないようだった。霊の世界では思いの強さが力の強さに影響するのだろうか。物理法則の世界とはまた別の論理で動いているのかもしれない。ふとそんなことを思ってしまうけれど、その間にも女の霊はどんどん上ってくる。
「いやっ、いや!」
もう腰のあたりまで上ってきている女の幽霊を追い払おうとがむしゃらに動かした千夏の手が、幽霊の身体をつかんでいた元気の手に当たる。
その瞬間、バチンと、頭の中が何かがスパークした。大きな静電気が眉間のあたりで起こったような衝撃。
え? ナニコレ? と思っている間もなく、千夏の視界は一瞬にして真っ白になった。
…………。
すぐに視界を覆った白い光は消える。目の前には元気の姿もあの霊の姿も見えていた。アパートの情景も目に映っている。
しかしそれとは別にさらにもう一枚、別の動画が重なるように目の前に他の景色が映っている。
(え? どういうこと?……)
目に映るもう一つは、どうやら昼間の景色のようだった。窓から、穏やかな日差しが差し込んでいる。ああ、あれはこのアパートだ。このアパートの、この部屋だ。
しかし、床にはラグマットが敷かれ、壁際にはタンスに本棚。壁の端にはキャットタワーというのだろうか、猫が遊ぶ三段のタワーのようなものがある。
あまり物がなくシンプルな室内だったが、丁寧に暮らしてる様子が窺えた。
(ああ……これは、かつてのこの部屋の情景……)
千夏は誰かの目を借りて部屋の中を見ているようだった。自由に首を動かせるわけではなく、ただ誰かの身体に乗り移って見ているだけのような感覚。
『ミーコ、どこー?』
若い女性の声だった。器に入れたペットフードを手にして、彼女は部屋で何かを探している。そのときふと、その視線が掃き出し窓の端を捉えた。窓は十センチほど開いていた。
『ミーコ!?』
彼女は慌てた様子で窓に取りつくと、窓を大きく開けて外を見る。このアパートの庭とその向こうに見える隣の敷地や道路を、きょろきょろと焦った様子で見ながら何かを探していた。
『ミーコ! どこいったの!? ミーコ!』
彼女の声は、涙声になっていた。
それから、さらに景色が切り替わる。
今度はどこかの街の中のようだった。
『ミーコ! どこにいるの。お願い、返事して。ミーコ!』
彼女は駐車場に止められている車の下や路地裏などを探して回っていた。壁の上から庭を覗いてみたり、空き地の草むらを見てみたり。そうしているうちに、どこかの神社にたどり着く。辺りは雨が降りしきっていた。
『ミーコ! いたら、お願い。返事して!』
そのとき、
どこかから『ニャーン』というか細い声が聞こえた。
『ミーコ!?』
その声に彼女ははじかれたように反応した。そしてか細い声を頼りに辺りを必死に探して、ようやく神社の本殿の床下で一匹の猫をみつけた。青みがかった灰色の体毛に、緑の目をした猫。しかしその猫は後ろ脚にひどいケガを負っているようで床下にぺとっと横になっていた。
『ミーコ! ミーコ! いま、助けてあげるからね! タスケテ、アゲルカラネ……』
…………。
バチンと再び頭の中に静電気が走るような衝撃があって、千夏は我に返った。
あの神社の景色はすっかり消え、目に映るのは元の暗い室内のみ。
目の前で、元気が目を丸くして千夏のことを凝視していた。
「なんだ……いまの……。猫……?」
そのひと言で、元気も同じ物を視ていたのだとわかる。
千夏は大きく頷いた。
「うん。たぶん、この部屋で飼われていた猫だと思うの」
あれはかつてのこの部屋と、どこかの街の景色。そして、あの光景を見ていたのは、目の前にいるこの女の幽霊。あれは彼女の生前の記憶。そう思えてならなかった。千夏は、元気の腕に押さえつけられて今は大人しくすすり泣くばかりの女の霊に声をかける。
「アナタはあの猫のことが未練のあまり、霊としてさまよっていたんですね……松原涼子さん」
名前を呼ばれえて、彼女は両手で顔を隠すようにしてワッと泣きだす。
……タスケテ……ミーコ……タスケテ……
そして彼女は徐々に姿が薄く透明になっていき、スーッと空気に溶け込むように消えてしまった。
いつのまにか、重苦しかった部屋の空気がすっかり正常になっている。窓の外にも、街灯の光や向かいの建物の明かりが戻っていた。
パチパチっという音とともに、室内の照明も全て元通りに点く。
「…………もど、った……」
安堵した途端、千夏は足から床に崩れ落ちた。
「お、おい……、千夏!」
咄嗟に元気が千夏を支えようと手を伸ばすが、彼の手をするっとすり抜けてペタンと床に座り込む。足に力が入らない。
「あ、はははは…………なんか、今頃になって急に怖さがぶりかえして。足が笑っちゃって……」
なにはともあれ、手がかりは掴めた。あとは、調べてみるだけだ。
それにしても、先ほど見えたあの光景はなんだったんだろう。まるで、霊の記憶を覗いたかのようだった。
「おつかれさま」
「うん。元気も、ありがとう」
一人だったら、きっと途中で気絶していただろう。元気がいてくれたから、乗り越えられた。少し休んでいると足に力が戻ってきたため、千夏は壁に手をつくと、よいしょと立ちあがる。
「このままここにいると床の上で眠り込んじゃいそうだから。今日はもう帰るね」
「ああ、それがいいと思うよ」
出勤初日にしては、どう考えたって働き過ぎだ。ぶつぶつと文句をいいながら玄関へ向かい、パンプスを履く。履きながら、ふと気になった。
「元気は、このあとどうするの? どっかに帰るの?」
そう尋ねると、彼は曖昧な苦笑を浮べて小首を傾げた。
「別にいくところもないから、あのオフィスに戻るよ」
「そっか……じゃあ、また明日だね」
照明を消して外の共用廊下に出ると、晴高から借りたマスターキーでドアを施錠する。スマホをつけてみると、もう朝の五時近くだった。段々と空が白みはじめている。電車はもう動いているだろうか。
アパートの階段を降りると、道路の脇にシルバーのセダンが一台止まっているのが目に付いた。これ、自分がここまで乗ってきた社用車と似てる車だなぁなんて思いながらその横を通り過ぎようとしたとき、運転席を見て千夏はギョッとして足を止める。
運転席に座っていたのは、見覚えのある目つきのきついイケメン。晴高だったからだ。どおりで見た事ある車だと思った。
「なんで……」
運転席のパワーウィンドウが下がって、晴高がクイッと顎で後部座席を示した。
「乗れ。家まで送っていくから」
「…………なんで、晴高さん。こんなところにいるんですか」
千夏の疑問に、晴高は露骨に大きなため息をついた。
「初心者の部下を、一人で現場においておくわけないだろ。俺はそこまで無責任じゃない」
(いるなら、いると一言言ってくれれば! どんだけ怖かったと思ってんだ、この男は……!!!!)
ふつふつと晴高に対する怒りが沸いてくる。しかしそれが精いっぱいで、いまは疲労のあまり言い合いをする気力も残っていなかった。
千夏は幾分乱暴に後部座席のドアを開けると、どかっと座席に腰を落とした。すぐに車は発進する。晴高に聞かれて家の場所を伝えると、ほんの数分と持たず眠りに落ちてしまっていた。
晴高に自宅まで送ってもらった際、「明日は代休にしとくから、休め」と彼が言うのでお言葉に甘えて一日ゆっくりと休ませてもらった。そしてその次の日に出社すると、百瀬課長が千夏の姿を見るや否や駆け寄ってくる。
「いきなり晴高くんが無理させたんだって? 彼には私からもよく言っておくから」
と心配する百瀬課長に、
「い、いえ。大丈夫ですから」
何度も大丈夫です、と笑みを重ねた。
親会社にいた時は、仕事の締め切りが迫ってくると会社に泊り込むことも少なくなかった。それに比べれば一晩の徹夜なんてたいしたことない……はずだったのだけど、霊に触れたせいか、昨日は酷い疲労感と眠気とだるさにやられて一日中寝ていたのだ。代休にしてもらえて助かった。
おかげで、今日はすっかり回復。
自分のデスクへ行くと、晴高は黙々とノートパソコンで作業をしていたし、元気は相変わらず空席になっている千夏の隣の席に座っている。
ただひとつ違うのは、元気は一昨日のような青い顔をして俯いてなどおらず、千夏の姿を見つけると元気そうに笑いながら手を振ってきたことだ。
まったくもって、幽霊ぽくなくなってしまった。
(元々こういう性格なんだよね、きっと)
千夏が席について「おはようございます」と挨拶すると、晴高は視線すらあげずに「おう」と呟くだけだし、元気は明るく元気に「おはよう」と返してくる。
うん。出社、実質二日目だけど。これがこれから自分が毎朝みる光景なのだろうなと思うと、存外悪くない。そう思ってから自分で自分の気持ちに、少し驚いた。ほんの数日前まで、子会社へ勤務することがあんなに惨めで気が重かったのに。いつの間にか、この癖の強い同僚たちと仕事するのも悪くはないかな、なんて思い始めていた。
さて、今日は調べ物しなきゃ。まず千夏はあの日あのアパートで経験したことを晴高に報告する。彼はキーボードを打つ手を止めもせずに話を聞いていた。
ちゃんと聞いているのか?と心配になるも、一通り千夏が話し終わると彼は「へぇ……」と感心したように感想を口にした。
「そんな現象、初めて聞いた……」
「え? 何がです?」
「いや、だからその。霊の記憶が覗けたって話」
そこに食いついてくるあたり、ちゃんと千夏の話には耳を傾けていたようだ。千夏はデスクに身を乗り出すと、はす向かいの席に座る晴高に食い気味に尋ねる。
「やっぱり、珍しい現象なんですね」
「……そうだな。身内に坊さんや、霊能力あるやつは多いけど。そんな話聞いたことがない」
「俺も、初めてだったよ。いままでも他の霊に触ったことはあったけど、あんな風になったことなんてなかった。でも、千夏が俺の手に触れようとした途端、起きながら夢をみているみたいに別の映像が見えたんだ。がーって頭の中に映像の激流が流れ込んできた感じだった」
そう語る元気は、のんきに湯飲みから熱いお茶をすすっている。ちなみに、そのお茶を淹れたのは千夏だ。自分のものを淹れてくるついでに淹れてきた。晴高にもいるかどうか聞いてみたけど、こちらは「いらない」とすげなく断られてしまった。
「あのとき見えたものが本当に涼子さんの記憶なのかどうか、確証はないんですけど。とりあえず、いろいろ調べてみたいことがあるので、涼子さんのご両親に連絡を取ってみてもいいですか?」
「ああ、それは構わんが。ソレも連れていくのか?」
晴高は彼の前の席で、のんきにお茶を飲んでいる元気を目で示す。
「それは彼の好きにすればいいかなと思ってますが、また霊の出る現場に行くときはぜひ連れていきたいな、なんて思ってはいます……」
そう晴高の様子をうかがいながら躊躇いがちに言う千夏に、はぁと彼は露骨に大きくため息をついた。
「もう一回、忠告しとくけど。霊障とか何かよからぬことがあれば、すぐにそいつから離れろ。直ちに除霊するから」
『除霊』という言葉に、元気がぴくりと肩を動かした。
それに構わず晴高は話を続ける。
「それと。人前でそいつと会話してると完全に危ない奴だぞ、お前」
「……!!!!」
たしかにそうだ。千夏の目には元気のことははっきり視えているけれど、他の大部分の人には彼の姿は視えない。その人たちからすると、千夏が一人で虚空に向かって会話をしているように見えることだろう。それはまずい。明らかにまずい。
「……気をつけます」
しゅんと肩を落とすと、元気も「俺も気を付けるよ」と晴高に言う。
「これからは、人前で話しかけてこないでよね」
「それ、お互いさまだから」
なんてついうっかり元気と話していたら、
「だから、ソレをやめろっていってんだろ」
と晴高に呆れられてしまった。
危ない危ない。ハッと周りを見わたすと、同僚の皆さんが気持ち悪そうな顔をしてこちらを見ていた。すぐに目をそらされる。もう手遅れかもしれない。
千夏は晴高に断って会議室を借りると、そこに置かれているパイプ椅子の一つに腰を掛けた。元気も一緒に会議室に入る。わざわざこの部屋を借りたのは、元気と話しているところを他の人に見られて不審がられないようにするためだった。
「さてと。まずは松原さんのご両親に電話してみましょう。本当に松原涼子さんがミーコっていう猫ちゃんを飼っていた事実があるのか、もしそうだとするとその猫ちゃんがいまどこにいるのかを確認してみないとね」
そう言うと涼子は会議室にある電話を手に取った。
千夏はメモしてきた電話番号を打ち込むと、受話器を耳に当てる。隣にいる元気に聞こえるようにハンズフリー通話にした。
しばらく呼び出しが続いて、留守なのかと電話を切ろうとしたときだった。
「はい」
穏やかな女性の声が聞こえた。
電話の主は松原涼子の母親だった。はじめは怪訝そうな声だったが、お嬢さんはお部屋で猫を飼ってらっしゃいましたか?と尋ねると、彼女の声のトーンが変わった。
「ミーコが戻ってきたんですかっ!?」
「やはり、お嬢様は猫をお飼いだったんですね」
あの物件はペット可物件だったので、それ自体は何ら問題はない。ただ、賃貸契約を結んだ当時はまだ何も飼っていなかったためか、ペットに関しての記録は賃貸契約書類の中には含まれていなかったから、いままで本当に飼っていたのかどうかは判然としなかったのだ。でも、これではっきりした。やはり松原涼子はミーコという猫を飼っていた。
「ええ。二年前、だったかしら。お友達から譲ってもらったとかで。ロシアンブルーのとてもきれいな猫だったんですよ。とても可愛がっていたんです。でも少し前に、うっかり逃がしてしまったようで……娘はひどく気落ちして、悔やんでいました。自分がうっかり窓を閉め忘れたせいだ、って」
そして、ミーコがいなくなって以降。彼女は時間を作っては、あちこちにミーコを探しに行っていたのだという。そこまでは、千夏が予想したとおりの展開だった。でも一つ気になっていることがある。それは、母親の第一声のこと。
「すみません。ちょっとお伺いしたいのですが、……ミーコちゃんはまだ涼子さんのもとに戻ってはいなかったんですか?」
そう尋ねると、電話の向こう側で母親は声に涙を滲ませた。
「ええ……あれだけミーコに会いたがっていたのに。結局、見つける前に涼子はあんなことに……。こちらに連絡くださったのは、ミーコがあのアパートに戻ってきたのかと思ったんですが、そうではないんですね」
「はい……申し訳ありません。私たちもできる限りそのミーコちゃんを探してみます。また何か進展がありましたらご連絡いたしますね」
そして、丁重に礼を述べると、そっと電話を切った。
傍らでずっと電話の内容を聞いていた元気を見上げる。
「ミーコ、まだ見つかってないんだって。どういうことなんだろう?」
元気も首を傾げた。
「俺たち、あの涼子さんの記憶らしきもので見たよな? 猫が逃げ出した直後に涼子さんが探してる景色と……どこかの神社みたいなとこで、ミーコらしき猫を見つけたところ」
こくんと千夏はうなずく。そうなのだ。千夏たちは、涼子がミーコを見つけた光景を見ている。電話で涼子の母親もミーコはロシアンブルーだと言っていた。それも霊の記憶を通して見た特徴と一致する。
「涼子さんは、必死にミーコちゃんを探していて、そしてあの神社の床下でようやくみつけた。でもケガをしていたからどこかの動物病院に預けたけれど、そのあとご本人が急逝してしまった……ということなのかな」
それが一番妥当な線のように思えた。せっかく見つけたのに家に連れ帰る前に不幸にも涼子は急逝してしまい、猫の所在を家族に伝えることもできなかった……という筋書き。
しかし、元気はまだ納得がいかないといった様子で腕を組んで首を傾げている。
「でも、そうだとしてもだよ? あんな霊になって彷徨うほどのことかな。動物病院の人がカルテを見て携帯に電話すれば、家族とも連絡つくだろ?」
たしかに、何かがひっかかる。亡くなった娘のスマホをそんなに早く解約するとも思えないから、きっといまは両親の手元にあるはず。連絡がつかないとは考えづらい。
でも、涼子の霊はしきりに『ミーコ』『タスケテ』『シンジャウ』と言っていた。動物病院にいるのなら、なぜそんなことを周囲の人に訴える必要があったのだろう。
「なあ。俺もさっき気づいたことがあるんだけどさ。涼子さんのものらしき記憶を見たときに、街の中をひたすら探し回ってるの視ただろ?」
「うん。視たわね。必死に探してる想いがひしひしと伝わってきた。本当に、ミーコちゃんのことを大事に思っていたんだろうね」
「あの中にさ、民家の塀をひょいっと飛び越えて内側を覗いてるときがあったの覚えてる?」
「え?」
言われてみれば、そんな景色を見た記憶がある。自動車の下を覗いたり、路地を覗いたりしていて、その次に、ひょいっと塀の上から民家の庭を……。
「あれ、千夏、自分でやろうと思ってできる?」
塀は明らかに目線よりもずっと高かった。おそらく涼子が平均的な女性の伸長だったとすると、二メートルくらいだろうか。それをあの景色を見ていた人物は、助走もつけずにひょいっと覗いて……そして、その場に数秒停止していた。
その事実の意味するところを理解して、千夏の腕にぞわっと鳥肌がたつ。
「……できるはずがない」
「だよな。生きてる人間には無理な動きだと思う。でも、俺にはできるよ? あまり人間っぽくない動きはしたくないから普段はしないけど、やろうと思えばできる。ほら」
元気は軽くとんっとその場でジャンプする。生きている人ではありえないくらいの高さまで飛び上がると、その場から静止して千夏を見下ろした。そして、再びストンと床まで下りてくる。
「……じゃあ、ということは……」
「そう。あの街でミーコを探して、そして見つけたのはたぶんだけど。死んだあとの涼子さんだ」
「だとすると、涼子さんは死んだあともミーコを探し続けていて、そしてついに見つけた……ってこと?」
千夏が言うと、元気が頷いて言葉をつなげる。
「しかも、そのときミーコはケガをして衰弱していた。でも、霊になった涼子さんにはミーコを抱き上げて動物病院に連れていくことはできない。だから……」
「夜な夜な徘徊して、助けを求めていた!」
うまくハマらなかったピースがぴたりと合った気がした。それなら、彼女が霊になってまで必死に訴えていたことも、『シンジャウ』『タスケテ』もすべて辻褄が合う。
「ということは……ミーコを早く助けなきゃ!」
ミーコはケガをしているはず。一刻の猶予もなかった。
すぐに会議室を出ると晴高の元へ行って、事情を説明する。すると、晴高はすぐに社用車を出してくれることになった。
でも、駐車場で車に乗り込んだとき運転席の晴高から、
「それで。場所の目星はついているんだろうな?」
そう言われて助手席の千夏はウッと言葉に詰まる。手掛かりといえば、あの霊の記憶を通して視た神社の外観ぐらいしかない。だけど、都内だけでも神社は数えきれないほどある。そのひとつひとつを見ていたら時間がかかって仕方ないだろう。どうすれば場所を特定できるのか頭を悩ませていたら、後部座席に座る元気が助け舟を出してくれた。
「神社の住所はわかんないけど、その少し前に涼子さんがミーコを探していた街の景色なら覚えてるよ。そのとき電信柱に住所が書いてあった。たぶん、そこからそう遠く離れてはいないと思う」
元気が伝えた住所を晴高はナビに入れると、すぐに車を出す。道は渋滞もなく、スムーズに進んで言った。車は都内のビルの間を抜けていき、そのうち周りの景色は低層の住宅や建物ばかりに変わっていく。前に自宅に送ってもらった時にも思ったのだけど、晴高の運転は思いのほか丁寧だ。
それにしても、何の会話もなく車内はシーンと静まり返っていてなんとなく気まずい。晴高に何か話しかけようかとも思ったけれど、運転中に話しかけられるのを嫌うタイプだったら怒られるかもしれないし。どうしようか迷っていると、そんな千夏の迷いを知ってか知らずか、後部座席の元気がひょいと前に身を乗り出して話しかけてきた。
「なぁ、晴高。こないだ除霊してたじゃん? 般若心経みたいなの唱えてさ。そういうのって、どこで習うの?」
まるで友達のような気やすい元気の口調に、
「話しかけるな、幽霊」
ぴしゃりと冷たく晴高は返す。
しかし、元気はめげる様子もない。むしろ呆れた顔で、なおも晴高に話しかけた。
「お前、さっきから何度も欠伸《あくび》噛み殺してんだろ。バックミラーに映ってんぞ」
え?そうなの?と千夏は晴高を見る。まっすぐ進行方向を見ている彼の顔は、バツが悪そうにますますムスッとしていた。単調な直進道路。ずっと黙ってたのは、どうやら眠くなっていたせいらしい。
「話でもしてりゃ、眠気も覚めんだろ」
元気にそう言われて、晴高も渋々と言った様子で話し出す。
「……前にも言ったけど、俺の身内は家系的に霊感強い奴が多いんだ。それで、ちょっと除霊しなきゃいけない事情があって、遠縁の寺の住職に頼んで教えてもらった」
「へえ。修行とかしたの?」
元気は興味津々で聞いてくる。千夏も黙って耳を傾けていた。
「一応な。もともと霊感は強かったから、あとは正しい方法に導いてもらえさえすれば、習得するのはそんなに難しくなかった。……寺の生活には辟易したけどな」
「寺の生活って、朝早そうだよな」
「早いというか、夜に起きるのに近い」
彼が過ごしたお寺はかなり有名で大きなところだったらしく、修行しているお坊さんも沢山いたそうだ。
淡々と晴高が語る寺での生活は、早朝からの清掃や長時間の座禅、読経、精進料理などなかなか過酷そうだった。そんな場所にクールで人嫌いな印象の強い晴高がいたかと思うと、ミスマッチすぎてなんだかおかしい。
タバコ吸いたくて我慢できず、こっそり隠れて吸っていたら見つかって怒られたなんていう不良中学生のようなエピソードも、相変わらずの抑揚の薄い声で淡々と語るので、千夏は笑いをこらえるのに必死だった。元気は遠慮なく元気に笑っていたけど。
とっつきにくく始終機嫌悪そうで無愛想な晴高。彼と一緒に仕事をすることにはじめは不安を感じていたけど、間に元気が入って場を和ませてくれるので、なんだかんだで会話が広がる。これなら、これからもやっていけそうな気がしてきた。
でも、ふと疑問も沸く。
(そんな大変な思いをしてまで、除霊の方法を習得しなきゃならなかった事情ってなんだろう……)
気にはなったものの、さすがに数日前に知り合ったばかりだし、そのうえ一応上司でもある晴高に突っ込んだことは聞きづらい。
それに元気のテンションに呑まれたのか、いつもより口数が多くなっている晴高だったけど、もし機嫌を損ねればまたすぐ剣呑な空気を纏ってしまうかもしれない。それを思うと、千夏はぼんやり浮かんだ小さな泡のような疑問を有耶無耶にしてしまった。
そうこうしているうちに、ナビが目的地についたことを知らせてくる。
(ミーコちゃん。どうか生きていて。すぐに見つけてあげるから)
それが果たせなかった飼い主のために。千夏は心の中で、早く見つけられますようにと切に願った。
ここまでの移動中に、千夏はタブレットでその街の近隣にある神社をピックアップしていた。それを近い順に一つ一つ車で回ってみることにする。
涼子の記憶にあった神社は、鳥居の先の奥まったところに本殿のある神社だった。道路から見える近さに本殿があれば地図アプリのストリートビューで確認できるのだが、奥まったところにあると地図アプリだけでは確認できない。
それで怪しそうなところを一つずつあたってみることにしたのだ。
神社のそばに車を止めて晴高が車内で待ち、千夏と元気の二人で境内の奥まで行き、本殿の形を確認するという作業を繰り返した。
中にはかなり長い階段を上っていかなくてはならない神社もあって、段々疲労がたまっていく。
そろそろ階段を見るとうんざりするようになってきていた、八つ目の神社でのこと。階段を上って鳥居をくぐると、その先に見えたのは。
「元気、ここって……!」
「ああ。俺も見覚えがある。この神社だ」
間違いない。涼子の霊の記憶で視たあの神社がいま目の前にあった。ということは、この近くにミーコはいるのかもしれない。
しかし、耳を澄ませてみても、猫の鳴き声らしきものは何も聞こえなかった。境内には人影もまったくない。千夏は本殿でお参りを済ませると、その床下をのぞき込んだ。懐中電灯でくまなく見てみたが、ミーコどころか猫一匹みつからなかった。
「ミーコ! ミーコちゃん!」
千夏は両手を口元にあてて、名前を呼ぶ。けれど、応えるものはない。
「ねぇ。涼子さんがミーコちゃんを見つけたのはいつごろなんだろうね。ずいぶん前だったら、もしかしてもう……」
不安が重くのしかかってくる。ミーコはケガをして衰弱しているように見えた。その状態で治療も受けられずにいたら……。最悪の事態が頭をよぎる。
しかしその不安を、元気はきっぱりと打ち消した。
「さあ。詳しくはわからないけど、もしミーコが死んでいたら涼子さんは助けを求めになんかこないんじゃないかな」
「うん。そうだよね」
しかし、二人でくまなく境内を探してみたけれど、一向にミーコの姿は見つからなかった。
(どこか別の場所に移ったのかもしれない。この神社の近隣を探してみようか……)
そう元気に持ち掛けようと彼に目を向けると、元気はジッと耳を澄ますようにどこかを見ていた。
「どうしたの?」
元気に尋ねると、彼は神社の裏を指さした。
「あっちで、誰かが呼んでるような声が聞こえた……」
「え? 誰かって……」
そこで、ハッとする。誰が千夏たちを呼ぶというのだろう。そんなの決まってるじゃないか。ミーコのことを誰よりも心配して、助けたくて、霊になってまで探していた人。
千夏は元気が指さした方向に走った。
その先には隣家の垣根がある。長年手入れされていないようでぼさぼさになった垣根の間から向こう側を覗いて見ると、雑草が覆い茂った庭があった。その片隅にボロボロな物置がある。どうやら、扉が壊れて半開きになっているようだった。
「向こうから回ってみよう」
元気に言われて、千夏も頷く。鳥居のほうへと走って階段を駆け下り、神社の外に出た。脇に止めてあった晴高の乗る社用車の横を走り抜ける。すぐにドアを開けて晴高がこちらに声をかけてきた。
「おい! どこに行くんだ!」
千夏は立ち止まって振り返ると、晴高に声をあげて答える。
「元気が、あっちから声がしたって!」
そして晴高の反応も待たずにすぐにあの神社の裏手へ向かって走り出した。元気もすぐ横をついてくる。あの垣根の家はすぐに見つかった。人が住まなくなって長い年月放置されている廃墟のような家のようだった。
一応、インターホンを押してみるものの、電源が入っている様子がなかった。どうしようか一瞬迷ったものの、ここの所有者を探して連絡を取っていたら手遅れになってしまうかもしれない。意を決して、千夏は声をかける。
「失礼します」
赤さびの浮いた門扉には鎖がかけられ南京錠で施錠がされていたけれど、垣根として植えられている低木の数本が枯れて枝だけになっていたので、その間を抜けて庭に入った。思いっきり不法侵入なので手早く済ませたい。
千夏は先ほど神社の裏から見えた物置へと駆け寄る。その半開きになった扉から中を覗くと……。
「……いたっ! いたよ、元気!」
物置の奥に、青みがかった灰色の毛色をした猫が一匹横たわっていた。じっと動かないその様子に一瞬最悪の事態を想像してしまうものの、その猫はのっそりと首をもたげるとうっすらと目を開けて千夏たちを見た。
「よく頑張ったな、お前。いま病院につれてってやるからな」
と、元気。
「うん。本当によく頑張ったね。君の飼い主さんが、教えてくれたんだ」
じんわりと胸が熱くなって、千夏は目頭を拭う。
千夏たちがここにたどり着けたのは、涼子が教えてくれたおかげだ。
「いま、お水とかとってくるからね」
そう言って車に戻ろうと走りかけると、道路から垣根の間を抜けて晴高がこちらにやってくるところだった。彼の手には、この街に来る途中でペットショップで買ったペットゲージと水などが入った紙袋が握られている。
すぐに紙袋からエサ入れと水入れを取り出すと、キャットフードと動物用のミネラルウォーターをそれぞれ入れてミーコの前に差し出した。
ミーコは千夏たちを警戒している様子だったので、千夏たちは一旦物置から離れたところで隠れて待つ。するとしばらくして、ミーコはのっそりと起き上がるとペチャペチャと水を飲み始めた。
ほっと千夏は胸をなでおろす。元気だけでなく、晴高までもが安どした様子だった。そのあとミーコは逃げることもなく大人しく千夏の手に捕まって、ペットゲージの中に納まってくれた。そしてそのまま車で、急いで近隣の動物病院まで連れて行ったのだった。
その日を境に、あのアパートの怪奇現象はぴたりと止んだ。
ミーコは後ろ脚のケガと骨折それに酷い脱水症状があったものの、入院してからはみるみる回復していった。
そして、退院の日。そのまま、ミーコは松原涼子の両親に引き取られることになった。動物病院には、涼子の両親だけでなく彼女の弟と妹らしき合わせて四人が迎えにきている。
彼らは入院中も頻繁にミーコを見舞いに来ていたようで、すっかり動物病院のスタッフとも親しくなっていた。
一応、引き渡されるところを見届けに来た千夏と晴高に、涼子の両親は深く頭を下げる。
「ミーコをみつけてくださって、本当にありがとうございます。これで涼子も安心して眠れると思います」
彼らの持つペットゲージの中で、ミーコは安心した様子で丸まっている。
「いえ。ミーコちゃん。元気になって、本当によかったです」
両親には、ミーコがアパートに自分で戻ってきたところを千夏たちが見つけたという風に説明してあった。まさか、涼子の霊が教えてくれただなんて言えるわけがない。
そして、動物病院の前で彼らと別れる。駅へと向かう彼らの後姿を見送っていると、涼子の妹さんが突然立ち止まった。彼女はこちらをパッと振り向くともう一度深く頭を下げる。両親と弟さんはそれに構わず、どんどん歩いていってしまう。彼女が立ち止まったことに気づいていないようだった。
「え?」
淡い水色のワンピースの彼女。顔を上げたその顔には、穏やかな笑顔が浮かんでいた。
『ありがとう…………』
そう、頭の中に声が響く。
「あれ、松原涼子さんだな」
と、元気が言う。
「ミーコが元気になった姿を見届けたかったんだろうな」
と、これは晴高。
「え、ええええっ!?」
元気と晴高の二人には、とっくにわかっていたらしい。
てっきり妹さんだとばかり思っていた人は、涼子本人だった。つまりミーコのお迎えに来ていたのはご両親と弟さんだけで、そこに涼子が混じっていたのだ。
涼子はあのアパートの部屋で見た恐ろしい姿とはまるで別人のように、穏やかに微笑んでいた。こちらが本来の彼女の姿なのだろう。もう怖いと思う気持ちはまったくなかった。むしろ、彼女を見ているとなぜかあたたかな気持ちになってくる。春風のようなあたたかさ。
千夏は彼女に向って手を振る。
「こちらこそ、ありがとう。ミーコちゃんを救ったのは、あなただよ!」
もう一度、涼子は嬉しそうに微笑むと、光の粒子が空に昇っていくようにふわりと見えなくなった。
「……逝っちまったな」
ぽつりと晴高が呟く。
「そっか。ミーコの無事が確認できて未練がなくなったんですね」
千夏はしばらく彼女が昇って行った空を眺める。よく晴れた雲一つない良い天気。隣で晴高がズボンのポケットから煙草を取り出すと、口に咥えて火をつけた。
「禁煙、してたんじゃないのかよ?」
元気に指摘されるものの、晴高は紫煙を細く口から吐きながらしれっと言う。
「送り火だ。……それにしても、まさか成仏《じょうぶつ》させるとはな」
紫煙はゆったりと空へと登って行く。
「成仏って、除霊とは違うんですか?」
「似てるようで、全然違う。除霊は言ってみれば、あの世への強制送還だ。本人の意思とは無関係に、無理やりこの世からはぎとってあの世へ送りつける。未練を残したままだと、当然霊の方も抵抗してくる」
たしかに、さきほどの涼子の姿は、最初アパートで晴高に除霊されそうになったときとではまるで様子が違っていた。
「一方、成仏っていうのは、霊本人がこの世への未練をなくし、納得して自分であの世へ旅立つことをいう」
「じゃあ、成仏の方がいいんですね」
千夏の言葉に、晴高は煙草を手に苦笑した。
「そりゃ、そうするに越したことはないが、そうそう全部にかかわってもいられないし、そもそも未練に凝り固まって話すら通じないやつも少なくないからな。悪霊化してしまってたりしたらなおさらだ。彼女だって、もしあのままミーコが命尽きてたら、どうなってたかわからん」
「そう、なんですね……」
あんな風に穏やかに彼岸に逝けるのならば、そちらの方がいいに決まっている。なんとか間に合ったことに、心からホッと胸をなでおろしす。
そして、隣の幽霊男のことを見上げた。
「元気は、なんの未練があってここに残ってんの? いつか成仏すんの?」
千夏に聞かれて、元気は小首をかしげた。
「さぁ。自分でもよくわかんないんだよな」
そこに晴高が、
「除霊するか」
なんて口を挟むものだから、元気は晴高からすすっと数歩離れた。
なにはともあれ、こうして千夏が抱えた初事案は無事解決したのだった。
職場に戻って今回の案件の報告書を書いていたら、いつの間にかオフィスに残っているのは千夏だけになっていた。隣の席に元気が座っているので寂しさはないけれど、彼はいま、千夏から借りたタブレットを熱心に眺めている。今見ているのはニュースページのようだ。
「そろそろ帰ろうかと思うんだけど」
「ああ、うん。じゃあ、このタブレット返すよ。貸してくれてありがとう」
そう言って、元気は柔らかく笑う。
晴高から聞いたところによると、元気は千夏が配属されてくるまではその席に座って、俯いたまま始終ぼんやりしていることが多かったようだ。ときどき場所を変えることはあるものの、大半の幽霊と同じでただ虚ろに佇んでいたという。
でも、話しかければ意思の疎通ができる相手にずっと隣の席でぼんやり俯かれているのはなんだか落ち着かない。そこでタブレットを彼に貸してあげたところ、とても喜んでくれた。三年も幽霊をやってきて、知的刺激に飢えていたのかもしれない。
「それじゃあ、また明日」
「ああ、気を付けてね」
千夏はトートバッグにタブレットを仕舞うと、肩にかける。
オフィスの出入り口まで歩いていくと、壁際にある照明のスイッチをオフにした。パッと室内の照明が消えて、光源は非常出口のおぼろげな緑の明かりだけになる。
オフィスを出るとき一度振り返ると、ひっそりと席に座わっている彼の後ろ姿が見えた。真っ暗な広いオフィスにぽつんと一人残され、静かに俯き加減で座るその姿はまるで幽霊のように見える。幽霊だけど。
ころころとよく表情を変え、よく笑い、よく喋る彼と、精巧に作られたオブジェのように微動だにしない俯いた彼。まるでスイッチがオンオフするかのようだ。
千夏はオフィスを出てエレベーターへと向かったものの、さっき見た元気の姿が脳裏にこびりついて離れないでいた。
彼も生きていたころは、仕事が上がれば自宅に帰ったり飲みに行ったり、友人や彼女と会ったり、そうやって普通に暮らしていたのだろう。でも、今の彼にはほかに帰るべき場所もなければ、休めなくてはいけない肉体もない。いまの彼はああやって毎晩、ただ夜が過ぎるのを待っているんだろう。眠ることもなく、一人っきりで。
エレベーターが昇ってきた。一階から二階へと表示があがってくるのを見上げながら、ふとこんな思いが頭をよぎる。
(別に、この場所でなくてもいいんじゃない? 元々特に思い入れがあるわけでもなさそうだったし)
それに、なぜか千夏自身が彼をこんなところに一人で置いておきたくなかった。
そう思ったらもう、足が勝手に動き出していた。
背後でチンとエレベーターが三階についた音がする。
けれど、千夏の足はオフィスへと踵を返していた。オフィスのドアを開けると、うつむいて座る彼の背中に声をかける。
「ねぇ! 元気!」
突然響いた千夏の声に、彼が驚いたようにこちらを振り向いた。
「びっくりしたぁ。どうしたの、忘れ物?」
「そう。忘れ物なの」
すたすたと元気の元へ歩いていくと、彼はまだ戸惑った様子で千夏を見上げる。手を伸ばして彼の腕をつかもうとするけれど、その手はスカッと空を切った。
(そうだ。つかめないんだったっけ)
あははと笑って腕を引っ込めると、元気の目を見る。
「あのさ。アナタ、夜はいっつもそこでじっとしてるんでしょ?」
「ああ、うん。そうだけど……」
千夏は、「じゃあさ」と笑いかけた。
「うちに来ない?」
元気の目が大きく見開かれるのがわかった。
「……え?」
「だからさ。ずっとそこに座っててもつまんないでしょ? うちに帰ればタブレットもまだ貸してあげられるし、パソコンとかテレビもあるから、アナタも楽しめるんじゃないかなって思って。……それとも、ここにいなきゃいけない理由とかあるの?」
元気は困ったような焦ったような顔で千夏から視線を逸らすと、口元に手を当てて考えるしぐさをする。
「別にここにいなきゃいけない理由もない、けど……」
戸惑いがちに零れ落ちた言葉に、千夏はパッと笑って。
「じゃあ、いいじゃない。うちにおいでよ。缶ビールくらいなら、おごるわよ」
まだしばらく元気はどこか照れ臭そうに迷っていたが、ビールにつられたのかコクンと頭を縦に振った。
「それなら……お邪魔させてもらおうかな」
「ええ。是非どうぞ」
そう言うと二人の視線が絡み、どちらともなく笑みがこぼれた。
千夏の家は、大田区京急線沿いの住宅街にある賃貸の1LDKマンションだ。
家の鍵を開けてパンプスを玄関で脱ぎ、家に入るとキッチンの横を通ってリビングへ向かった。部屋干ししていた洗濯物をかたずけて隣の洋室に放り込むと、後ろからついてきていた元気に声をかける。
「ちらかってるけど、どうぞー」
「……お邪魔します。結構いいとこ住んでんね。家賃高くない?」
「んー。築年数結構たってるしね。駅からちょっと歩くから、そうでもないよ。そっちの個室は、私の部屋だから入らないでね」
幽霊とはいえ、一応相手は同年代の男性なのでそう念を押すと、元気は苦笑した。
「入らないよ」
「こっちのリビングで過ごす分には、好きに過ごしてくれればいいから。さて。とりあえずお腹すいたから、ごはん作っちゃうね」
帰る途中に寄ったスーパーで買ってきたものをキッチンカウンターに置く。そして、一旦洋室に入るとスーツを脱いで、いつも部屋着にしているスウェット上下を手にとりふと考えた。ちょっと、よれよれすぎる。
幽霊に気を遣うのもどうかと思うが、あまりヨレッとしたところ見せるのもなぁとしばし考えて、買い置きしてあった新しいロングTシャツとスウェットのズボンをクローゼットから取り出した。
「よし。とっとと作っちゃお」
着替えてキッチンへ行くと、カウンター越しに元気の姿が見えた。彼は、レースがかかった窓の外を眺めている。
また、あの幽霊然とした俯き加減のぼんやりスタイルになっていたらどうしようかと思ったけど、いまのところそんな様子はなさそうだ。
「テレビ、つけようか?」
「ああ、うん。ありがとう。……あ、俺、別に飯とかいらないから」
確かに幽霊は食事を必要とはしないだろう。でも、初めて元気と会った日、彼はサブレーを食べて「うまい」と涙を流していた。ということは、味はわかるんだと思うんだ。
「ちょっと味見くらいしてってよ」
そういうと千夏はパタパタとキッチンへ戻った。
さて。今日は帰るのが遅かったから、すっかりお腹ぺこぺこ。いつもならこんな日はコンビニでお弁当を買って済ませてしまうことも多いのだが、二人となると何か作ろうかなという気になってスーパーに寄ってきたのだ。
買ってきたのは、半額になっていたお刺身。それに、みょうがとシソと春キャベツ。洗った米を炊飯器で早炊きモードで炊きながら、鍋に水を張ってだしパックを一袋投入すると火にかけた。次に春キャベツを洗ってまな板の上で食べやすいように切る。春キャベツは普通のキャベツにくらべて、さくさくと柔らかい。
切り終わったころには鍋の水が煮立ってきたので、だしパックを菜箸で取り出して、代わりに切ったキャベツを入れた。キャベツが煮立ったら、味噌を溶かし入れて春キャベツのみそ汁はできあがり。
みょうがとシソを刻んでいると、ごはんが炊けた。
食器棚からどんぶりを二つ取り出して、はたと考える。
元気の分は、どれくらいの量にすればいいんだろう。祖父母の家ではお仏壇にご飯を供えるとき、小さな専用のお皿でお供えしていたっけ。あのくらいの量でもいいんだろうか。
それに元気はモノを食べるといっても、食べたものの実体はそのまま残るのだ。
サブレーを食べていたときも、元気が食べていたのはサブレーの幽体ともいうべき半透明なサブレーで、実体そのものはデスクの上に残ったままだった。
ということは、元気に夕飯を出しても、それはそのまま残ってしまうのだろう。
(ま、あとで私が食べればいいか)
そう考えて、どんぶりにいつもの半分ずつご飯をよそった。そして、ちぎった海苔の上にお刺身を乗せ、さらに刻んだみょうがとシソ、それにゴマを散らす。
「はい。簡単海鮮丼のできあがり、と」
早速ダイニングテーブルに運ぶと、ソファに座ってテレビを見ていた元気を呼ぶ。
「うわぁ、すげぇ。……これ、俺の分?」
「そう。残ったものは私が食べちゃうから、遠慮しないで」
千夏の座る向かいの席にセットされた、丼と味噌汁を見て元気は目を丸くした。コップに麦茶をそそいで差し出す。
「ほら、座って。あ、そっか。私が椅子を引いてあげなきゃだめか」
一度立ち上がって元気の側の椅子を引いてあげると、再び自分の席に戻って千夏は手を合わせた。
「じゃあ、いただきまーす」
席についた元気も手を合わせる。
「いただきます」
元気は初めは戸惑っていたようだったけど、箸を手に取るとパッと顔を輝かせた。きっと、生前は食べることが好きだったんだろう。千夏もまずお味噌汁を手に取って口をつける。
「うん。おいしい」
しゃきしゃきとした春キャベツの甘みが、みそ汁の塩気と混ざり合って優しい味になっている。丼も、お刺身が新鮮で醤油のかかったごはんともよく合う。どんどん箸が進んだ。ふと、向かいの席の元気に目をやると、ぱくぱくと大きな口で海鮮丼を掻き込んでいた。
「お口にあったかな?」
「うん、めちゃめちゃ美味し……っ、げほっげほっ」
突然咳き込み始めた元気。とんとんと拳で胸をたたきだした。急いでかきこんで、喉に詰まったようだ。
「ほら、お茶飲んで。お茶」
麦茶のコップを渡してやると、元気はそれを手に取ってごくりと飲み干した。
「……ああ、死ぬかと思った」
「ご飯なんかで何度も死なないで」
「あはは。そうだね……なんか俺、泣きそう。この味噌汁もめちゃめちゃ美味い」
箸を止めると、元気はしんみりと目の前にある料理を眺める。
目にうっすらと光るものが見えるのは、きっとご飯が喉につまって咳き込みすぎたせいだけではないだろう。その姿を見ていると、千夏の胸にもグッと迫るものがあった。なぜだろう。この人が嬉しそうにしていると、私も同じように嬉しくなる。
「何度でもつくってあげるってば。これから毎日でも」
つい『毎日』という言葉をつけてしまって、自分で、え?毎日ってどういうこと?と内心焦った。確かに元気と一緒に帰ってきて、買い物して、ご飯を食べるのはなんだかとても新鮮で、心浮き立つのを隠すのが大変なくらいだった。毎日でもできたらいいな、って思ったのは本当だけど。
「え……それは、さすがに悪いし……」
元気も目を泳がせ、戸惑うように言う。でも、もう後には引けなかった。引きたくなかった。
「ど、どうせ! 私は食べないと生きていけないんだから」
今考えた取ってつけの理由だったけど、元気は納得したように、
「そっか……」
と呟き返す。
食事が終わった後、引き挙げた食器に残っていた元気の分。食べてみると、少し乾燥していた。しばらく食卓に置いておいただけにしては乾燥が進みすぎている気がする。おそらく、幽霊が食べるというのはそういうことなのだろう。思えば祖父母の家の仏壇に供えていたご飯も、ガビガビのガチガチになっていたっけ。
食器の片付けが済むと、千夏はシャワーを浴びた。元気にもシャワーか風呂を使うか聞いてみたが、いらないといわれる。パジャマに着替えてバスタオルで髪を拭きながら千夏は自室に戻ると、クローゼットから薄手の毛布を一枚ひっぱりだしてきた。それをリビングのソファの上に置く。
「はい、毛布。ベッドは一つしかないから、寝るならソファを使って。あとはあっちの部屋に入ってこさえしなければ、タブレットも自由に使って良いわよ」
「ああ、ありがとう」
元気は毛布を手にした。やっぱり元気が手にできるのは毛布の幽体だけで、実体はソファの上に置かれたままだ。
「それじゃ、おやすみ」
「おやすみ。あ、あのさ」
就寝の挨拶を交して、自室に戻ろうとした千夏を元気が呼び止めた。
振り向くと、彼は毛布を片手に頭を掻く。
「今日は、ありがとう……でも、俺、幽霊だから。そんな、気、使ってくれなくていいからな?」
元気はそんなことを言うが、夕飯を出したときも、お風呂はどうか聞いたときも、そして毛布を渡したときも、いつも彼は嬉しそうな顔をするのだ。本人は無自覚なのかもしれないけど、何か人間扱いされると彼はいつも顔に出るほど嬉しそうにする。
そんな彼を見るのは、嫌じゃない。
「いいの。私が好きでしてるだけだから。じゃあ、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
パタンと自室のドアを閉めると、そのドアにもたれて千夏は小さく息を吐いた。
(何やってるんだろう、私……)
そう思いながらもその反面、気持ちはいつになく軽く晴れやかだった。
「あ、そうだ」
缶ビール、出してあげるのを忘れてた。冷蔵庫で冷やしっぱなしだ。まあ、明日の夜に出してあげればいいやと思い直して千夏はベッドにもぐりこんだ。
「ふぁ……」
ベッドの上でアクビをすると、千夏は床に転がっているスリッパに足を突っ込んでカーテンを開けた。
うん。いい天気。これなら、洗濯物をベランダに干しても大丈夫そう。
上機嫌でパジャマから部屋着に着替えると、リビングへ続くドアを開けた。
「おはよー、元気」
夜間はいつもリビングにいる同居人に声をかける。
彼は、今朝はダイニングテーブルのところにいた。椅子に座ってテーブルに置いたタブレットを見ていた元気が顔を上げる。
「……あ、おはよう」
この幽霊男を職場から毎日連れ帰るようになってから、もう一ヶ月が経とうとしていた。これもある意味、ルームシェアと言うのだろうか。
彼は眠らないので、夜はリビングで好きに過ごしている。とはいえ、本人がイヤホンを装着できないため、テレビや動画など音が出るものは夜中はあまり使わないようにしているようだ。別にそのくらいの音、うるさいとも思わないのに。そのあたり、妙に千夏に気を使っているらしい。
ちなみに彼は死んだときにスーツを着ていたらしく、ずっとその姿のままだった。でも休日までその格好でいられると千夏が落ち着かないので、彼と同居するようになった週末にショッピングセンターに行って男性物の私服やルームウェアを何枚かずつ買ってきた。
そんなわけで、いま彼が着ているのはTシャツとハーフパンツだ。
「何、見てたの?」
ひょいっとのぞき込んでみると、タブレットの画面には折れ線グラフやら数字やらが沢山表示されていた。
元気は、タブレットのタッチパネルなら一応自分で操作することができる。
晴高いわく、タブレットのタッチパネルは人間の発する微弱な電流を利用して操作するものなので、幽霊もなんらかの電気を帯びていることが考えられるから特に不思議なことでもないらしい。
「なにこれ。証券会社のサイト?」
「うん。昔、株とかやってたから。懐かしくて」
「へぇ……」
前から思ってたけど、元気は案外ハイスペックだと思う。死んでいる、という最大のウィークポイントを除けば、だけど。
背も高いし、顔もそこそこ整っている。晴高みたいなキレイ系のイケメンではないけれど、人懐っこくて笑うと案外可愛い。
そのうえ、元・都市銀の銀行マンだけあって経歴も申し分なかった。前に大学時代の話になったついでに出身大学を聞いてみたら、日本人なら大抵の人が知っている私大の経済学部出身だった。
生きているうちに出会えてたらなぁなんて思わなくもないが、その頃、元気には既に結婚を考えるような彼女がいたんだっけ。
千夏はキッチンへ行って朝ごはんの支度をしながら、カウンター越しに元気に話しかけた。
「今日、パンでいい?」
「ああ、うん。ありがとう。なんか、悪いね、いつも」
そんなハイスペックな彼だからこそ、いま千夏の家に居候状態で過ごしていて家事の一つも手伝えないことに、どうやら本人は後ろめたさを感じているみたい。言葉の端々に、そんな感情が時折滲むのがわかる。
「だから、別にいいって言ってんでしょ。アナタ、幽霊なんだから」
「そうなんだけどさー。……あああ、せめて俺の昔の口座が使えればなぁ」
「え? 口座?」
パンをオーブントースターに入れて、卵とベーコンをフライパンで焼きながら千夏は聞き返した。
「そう。大して趣味とかもなかったから、それなりに貯金があったはずなんだ。でも、死んだから口座は凍結されて、とっくに両親のところに行ってるんだろうな。相続人って、両親ぐらいしかいないし」
焼きあがったパンとベーコンエッグを半分にして、二枚の皿に分けた。それとコーヒーを二カップ。時間がないのでインスタント。それが今日の朝ごはんだ。
元気が使っていたタブレットをかたずけると、朝ごはんをダイニングテーブルに並べた。
「そっか。亡くなった人の銀行口座は使えなくなるっていうもんね。どこの銀行の口座持ってたの?」
「俺の勤めてた銀行」
ああ、そうか。銀行員なら自分とこの銀行に口座作るよね、普通。
「でも、今更お金なんてどうするの?」
当然だが、幽霊が幽霊として存在する分にはお金なんか使わない。
朝食を並べ終わって席につくと、二人で手を合わせて「いただきます」をする。パンにはバターを塗って、その上にさらにいちごジャムを重ねた。カロリー高いけど、朝だからいいことにしよう。
「そしたら、ずっと千夏にタブレット借りなくても自分の金で買えるのになぁって。それに、服買ってもらったり、いろいろと出費あるでしょ?」
千夏はカリッと食パンをかじりながら、「うーん」と唸る。
「別に、私が好きでしてることだから気にしなくていいってば。どうせ、元気が食べてるソレだって、私があとで食べるんだし。ああでも、元気が株とかしたいっていうんなら、私の名義でしてもいいよ? はじめの原資くらい貸してあげれるし」
「え……ほんと!?」
元気の目が輝く。まるで欲しかった玩具を買ってもらえた少年のような顔だ。
なんだか、ますます人間っぽくなってきたなぁなんて元気の笑顔を見ていると不思議に感じた。いや、もともと人間ではあるのだけど、以前はもっと他の幽霊と同じように幽霊っぽかったのに。最近ではついうっかり、彼が幽霊だということを忘れそうになる。ほかの人もいる場では、話しかけないように気をつけなきゃ。
朝ごはんのあと、いつものように一緒に電車を乗り継いで水道橋にある職場まで向かった。
「おはようございまーす」
いつものように出社すると、これまたいつものように晴高は既に出社していて仕事を始めていた。彼は満員電車が嫌で、朝早くの電車に乗ってくるらしい。
千夏が自分のデスクにカバンを置くと、早速、晴高がデスク越しに一束の資料を渡してくる。
「それ、あとで現場見に行くから、午前中のうちに目を通しておいてくれ」
「はーい」
ファイルを手に取ってパラパラとめくる。
晴高と千夏の担当は特殊物件対策班、通称・幽霊物件対策班。だから、この案件もやはり幽霊物件だった。
千夏はまず、怪奇現象の報告ページに目を通す。
今度の案件は、『飛び降りる霊』が出るというマンションのようだった。