「ペット可の物件に引っ越すにしても、資金がね……。中絶費用のこともあるしなぁ」
頭を悩ませていると、フードを食べ尽くした黒猫は身を翻した。この子のねぐらがどこにあるのか知らないが、帰るらしい。
もし飼い猫だとしたら、勝手に保護してはまずいので、ねぐらを確認しようか。
腰を上げた私は黒猫に続いて階段を下りようとした。
すると、黒猫はつと振り向く。
「ねてるにゃ」
「えっ?」
「まもる、ねてるにゃ」
そう言い残した黒猫はゆらゆらと尻尾を揺らしながら階段を下り、茂みの向こうに消えていった。
明けて月曜日、私は憂鬱な心中を隠して出社した。
「おはようございまぁす」
元気に挨拶すると、隣席の本田さんが笑みを向けてくる。
「おはよう、星野さん。何かいいことあったの? ついに彼氏ができたとか?」
仮面に貼りつけた笑みが引きつる。
他人の心ないひとことが、これほど心臓を抉るとは。
彼氏どころか、子どもができましたよ、とは言えず、私は笑って誤魔化す。
「いえいえ、近所に黒猫がいるんですけど、その子を飼おうかなと迷ってるんです」
自分で口にしたとき、私はふと気がついた。
私は自分のお腹に宿る子を、殺そうとしている。
それなのに、猫とは一緒に暮らすためにあれこれ考えているなんて、傲慢ではないだろうか。
中絶したら、私は、殺人者だ。
子どもを殺してから何食わぬ顔をして、猫を飼って、いずれ誰かと結婚して次の子は無事に産むなんて、そんな未来がイメージできない。
ごくりと息を呑む。
物のように考えていたけれど、お腹の子は、生きている人間なのだ。私はその事実から目を逸らそうとしていた。
慄然としながら、実家の猫について語る本田さんの話を聞き流した。
そのとき、ダークスーツを颯爽と着こなした鬼山課長が登場する。
フロアにいた社員は課長に挨拶した。
「おはようございます、鬼山課長」
「おはよう」
苦悩の根源が平静な顔をしていることに、私はひっそりと落ち込んだ。
課長は何とも思っていなさそうだ。
あの夜のことは成り行きとでも考えているのだろう。
やはり、中絶の許可を得るべきだろうか。それともひとりで産んで育てる……?
シングルマザーはどうなのだろう。妊娠と出産、そして別れを経たシングルマザーと、経験ゼロのおひとりさまでは天地ほども経験値に差がある。接点がないので実態を知らず、大変そうだなという漠然とした感想しか抱けない。
しかし、あまり悩んでいる時間もなかった。中絶できる期日は妊娠二十一週までと、法律により定められている。最終月経日の始まりをゼロ日として妊娠週数を計算するそうなので、現在の私はすでに妊娠七週くらいのはずだ。
残されたリミットは、十四週。三ヶ月ほどしかない。
切羽詰まってから決断するとなると、赤ちゃんも相当成長しているだろう。妊娠十二週を過ぎてからの中絶手術のあとは、死産届の提出が必要という。ネットで調べたその項目を目にした私は手を震わせた。
赤ちゃんを、死なせたくない……。
黙って堕胎しようと決めたはずなのに、私の心はぐらぐらと揺れ動いた。
こんなに思い悩んでいては仕事でミスをしてしまう。
とにかく仕事中は、プライベートなことは脇に追いやらないと。
気を取り直してパソコンを立ち上げ、メールチェックを行う。
すると、ふと目の端に黒いものがよぎった。
何だろうと思い、窓の外に目を向ける。このフロアはビルの十二階だ。
「え……?」
黒い布のようなものが、窓を覆い尽くしている。
それは風で飛んできた布などではなく、質量を伴う物体だ。
うねり、ぐるぐると巻かれる姿は長い黒蛇のよう。
「ひっ……」
細い悲鳴が私の口から零れたが、窓の外の黒い蛇を見ているのは私ひとり。
ほかの人たちはまるで黒蛇が見えていないかのように、平然と仕事をしていた。
ぬるりと窓を通り抜けて、その黒蛇は室内に侵入する。
度重なる常識外のできごとに、固まった私は声すら出ない。
ぎろりとこちらを見たその蛇には、六つの目がついていた。
「ギギギ……見つけたぞ……。赤子、喰わせろ……」
「ひ……きゃああああああ!」
黒蛇が発した『赤子』という言葉に触発されて、私の喉から悲鳴が迸る。
居合わせた社員は驚いた顔をして、一斉にこちらに目を向けた。
隣の本田さんは呆気にとられ、私の腕に手をかける。
「ちょっと、星野さん? どうしたの、急に」
「み、みなさんには見えてないんですか⁉ あの黒い蛇が……窓をすり抜けてきましたよ!」
指差した黒蛇は窺うように、私の周りをぐるぐると回っている。
一部の社員の間から失笑が零れた。本田さんは怪訝な顔をして首を捻っている。
ほかの人たちには、この黒蛇が見えていないんだ。
でも、どうして。
そのとき、動揺する私に冷静な言葉がかけられた。
「星野さん。少し休憩してきたらどうかな。幻覚を見てしまうくらい、疲れているようだから」
鬼山課長は眺めていた書類からちらりと顔を上げて、アドバイスする。その指摘に、はっとして我に返った。
そうだ、幻覚だ。課長がそう言うのだから、幻覚なのだ。
それにしては随分とリアルな幻覚と幻聴なのだけれど……。
とにかくこれ以上、黒蛇のことで騒いでいたら、みんなに変に思われてしまう。
「は、はい。ちょっと、休憩してきます」
私は震える声を絞り出すと、慌ててフロアを退出した。
逃げる私にぎろりと目を向けた黒蛇は唸り声を上げ、しゅるりと身を翻す。不気味に地を這いながら、私のあとを追ってきた。
「お、追いかけてくる⁉」
空を飛べて地を這う黒蛇は丸太ほどの大きさだ。それがすごい速度で私の背に向かってくる。
「ギギ……腹を裂かせろ……赤子、喰う……」
ぞっと戦慄が這い上る。
あの黒蛇は、私のお腹に赤ちゃんがいることを知っている。
本当に、私の懊悩が見せる幻なのだろうか。
あんなものに襲われてお腹を裂かれたら、死んでしまう。私も、赤ちゃんも。
黒蛇から逃れようと、私は必死に廊下を駆けた。
動悸が高鳴り、息が切れる。
黒蛇はすぐそこまで迫っている。
頭をもたげて、真っ赤な口が、カッと開かれた。
「ひっ……!」
鋭い牙から垂れる唾液。血のように赤い舌がちろちろと突き出される。
猛烈に襲い来る死の恐怖に、私はこれが現実であることを認識した。
同時に、両手でお腹を抱える。
この子を殺すなんて、そんなことさせない。
ぎゅっと腕に力を込めたそのとき。
眼前に躍り出た人影が一閃を繰り出す。
頭を悩ませていると、フードを食べ尽くした黒猫は身を翻した。この子のねぐらがどこにあるのか知らないが、帰るらしい。
もし飼い猫だとしたら、勝手に保護してはまずいので、ねぐらを確認しようか。
腰を上げた私は黒猫に続いて階段を下りようとした。
すると、黒猫はつと振り向く。
「ねてるにゃ」
「えっ?」
「まもる、ねてるにゃ」
そう言い残した黒猫はゆらゆらと尻尾を揺らしながら階段を下り、茂みの向こうに消えていった。
明けて月曜日、私は憂鬱な心中を隠して出社した。
「おはようございまぁす」
元気に挨拶すると、隣席の本田さんが笑みを向けてくる。
「おはよう、星野さん。何かいいことあったの? ついに彼氏ができたとか?」
仮面に貼りつけた笑みが引きつる。
他人の心ないひとことが、これほど心臓を抉るとは。
彼氏どころか、子どもができましたよ、とは言えず、私は笑って誤魔化す。
「いえいえ、近所に黒猫がいるんですけど、その子を飼おうかなと迷ってるんです」
自分で口にしたとき、私はふと気がついた。
私は自分のお腹に宿る子を、殺そうとしている。
それなのに、猫とは一緒に暮らすためにあれこれ考えているなんて、傲慢ではないだろうか。
中絶したら、私は、殺人者だ。
子どもを殺してから何食わぬ顔をして、猫を飼って、いずれ誰かと結婚して次の子は無事に産むなんて、そんな未来がイメージできない。
ごくりと息を呑む。
物のように考えていたけれど、お腹の子は、生きている人間なのだ。私はその事実から目を逸らそうとしていた。
慄然としながら、実家の猫について語る本田さんの話を聞き流した。
そのとき、ダークスーツを颯爽と着こなした鬼山課長が登場する。
フロアにいた社員は課長に挨拶した。
「おはようございます、鬼山課長」
「おはよう」
苦悩の根源が平静な顔をしていることに、私はひっそりと落ち込んだ。
課長は何とも思っていなさそうだ。
あの夜のことは成り行きとでも考えているのだろう。
やはり、中絶の許可を得るべきだろうか。それともひとりで産んで育てる……?
シングルマザーはどうなのだろう。妊娠と出産、そして別れを経たシングルマザーと、経験ゼロのおひとりさまでは天地ほども経験値に差がある。接点がないので実態を知らず、大変そうだなという漠然とした感想しか抱けない。
しかし、あまり悩んでいる時間もなかった。中絶できる期日は妊娠二十一週までと、法律により定められている。最終月経日の始まりをゼロ日として妊娠週数を計算するそうなので、現在の私はすでに妊娠七週くらいのはずだ。
残されたリミットは、十四週。三ヶ月ほどしかない。
切羽詰まってから決断するとなると、赤ちゃんも相当成長しているだろう。妊娠十二週を過ぎてからの中絶手術のあとは、死産届の提出が必要という。ネットで調べたその項目を目にした私は手を震わせた。
赤ちゃんを、死なせたくない……。
黙って堕胎しようと決めたはずなのに、私の心はぐらぐらと揺れ動いた。
こんなに思い悩んでいては仕事でミスをしてしまう。
とにかく仕事中は、プライベートなことは脇に追いやらないと。
気を取り直してパソコンを立ち上げ、メールチェックを行う。
すると、ふと目の端に黒いものがよぎった。
何だろうと思い、窓の外に目を向ける。このフロアはビルの十二階だ。
「え……?」
黒い布のようなものが、窓を覆い尽くしている。
それは風で飛んできた布などではなく、質量を伴う物体だ。
うねり、ぐるぐると巻かれる姿は長い黒蛇のよう。
「ひっ……」
細い悲鳴が私の口から零れたが、窓の外の黒い蛇を見ているのは私ひとり。
ほかの人たちはまるで黒蛇が見えていないかのように、平然と仕事をしていた。
ぬるりと窓を通り抜けて、その黒蛇は室内に侵入する。
度重なる常識外のできごとに、固まった私は声すら出ない。
ぎろりとこちらを見たその蛇には、六つの目がついていた。
「ギギギ……見つけたぞ……。赤子、喰わせろ……」
「ひ……きゃああああああ!」
黒蛇が発した『赤子』という言葉に触発されて、私の喉から悲鳴が迸る。
居合わせた社員は驚いた顔をして、一斉にこちらに目を向けた。
隣の本田さんは呆気にとられ、私の腕に手をかける。
「ちょっと、星野さん? どうしたの、急に」
「み、みなさんには見えてないんですか⁉ あの黒い蛇が……窓をすり抜けてきましたよ!」
指差した黒蛇は窺うように、私の周りをぐるぐると回っている。
一部の社員の間から失笑が零れた。本田さんは怪訝な顔をして首を捻っている。
ほかの人たちには、この黒蛇が見えていないんだ。
でも、どうして。
そのとき、動揺する私に冷静な言葉がかけられた。
「星野さん。少し休憩してきたらどうかな。幻覚を見てしまうくらい、疲れているようだから」
鬼山課長は眺めていた書類からちらりと顔を上げて、アドバイスする。その指摘に、はっとして我に返った。
そうだ、幻覚だ。課長がそう言うのだから、幻覚なのだ。
それにしては随分とリアルな幻覚と幻聴なのだけれど……。
とにかくこれ以上、黒蛇のことで騒いでいたら、みんなに変に思われてしまう。
「は、はい。ちょっと、休憩してきます」
私は震える声を絞り出すと、慌ててフロアを退出した。
逃げる私にぎろりと目を向けた黒蛇は唸り声を上げ、しゅるりと身を翻す。不気味に地を這いながら、私のあとを追ってきた。
「お、追いかけてくる⁉」
空を飛べて地を這う黒蛇は丸太ほどの大きさだ。それがすごい速度で私の背に向かってくる。
「ギギ……腹を裂かせろ……赤子、喰う……」
ぞっと戦慄が這い上る。
あの黒蛇は、私のお腹に赤ちゃんがいることを知っている。
本当に、私の懊悩が見せる幻なのだろうか。
あんなものに襲われてお腹を裂かれたら、死んでしまう。私も、赤ちゃんも。
黒蛇から逃れようと、私は必死に廊下を駆けた。
動悸が高鳴り、息が切れる。
黒蛇はすぐそこまで迫っている。
頭をもたげて、真っ赤な口が、カッと開かれた。
「ひっ……!」
鋭い牙から垂れる唾液。血のように赤い舌がちろちろと突き出される。
猛烈に襲い来る死の恐怖に、私はこれが現実であることを認識した。
同時に、両手でお腹を抱える。
この子を殺すなんて、そんなことさせない。
ぎゅっと腕に力を込めたそのとき。
眼前に躍り出た人影が一閃を繰り出す。