二章 2ヶ月 妊娠発覚と鬼上司の正体

 自宅のトイレで、私は白い棒を手にして青ざめる。
「陽性……」
 妊娠検査薬の小さな窓部分には、くっきりと青いラインが刻まれていた。
 この青いラインが出ると陽性で、妊娠しているということになる。逆にラインが出ず、判定窓部分が白いままなら陰性だ。
 尿をスティックにかけて行う妊娠検査薬は、尿中に含まれるhCGというホルモンの濃度により判定を行う。hCGは妊娠中の女性特有のホルモンで、着床後に分泌が始まり、妊娠四週頃から尿中に多く検出され始める……。
 私は検査スティックを右手に持ち、左手にした説明書を読んで震えた。
 判定の正確性は九十五パーセント。
 もしかしたら判定が間違っているかも、という一縷の望みは打ち砕かれた。どのように明かりにかざしても、くっきりはっきり浮き出ている青いラインは見間違いと言えない。
 私は、妊娠している……。
 先日まで処女だったのに。経験ゼロだったのに。
 独身で彼氏もいないのに、妊娠してしまった。
 絶望に打ちひしがれながら、トイレから出る。
 一応、陽性判定の検査薬は、箱に戻しておいた。尿をかけた部分にはカバーを嵌められるので、このまま保存できますね……。
 パジャマのままベッドに腰かけ、両手で顔を覆う。
 もちろん、身に覚えはある。
 飲み会の帰りに鬼山課長のマンションへ行き、ベッドをともにした、あのときだ。
 翌朝、私が起きたときには課長は何事もなかったかのようにいつもと同じ態度で朝食を勧めてきたので、ふたりで食卓を囲み、それから私は乾いた自分の服を着て自宅へ帰った。
 以来、職場で課長と顔を合わせるといつもと変わらず挨拶をして、仕事の話をする。
 鬼山課長は相変わらず冷徹な仕事の鬼で、私に対しても一切の変化はない。普段どおりだ。
 課長の部屋に泊まったのは、もう一か月ほど前のことになる。
 時間が経つにつれて、抱かれたと思ったのは私の妄想だったのかな……と思うようになった。それほど課長の態度が変わらなかったからだ。
 別に寝たからといって恋人にしてくださいなんて迫るつもりはない。
 あれは、夢だったということにしよう。
 と、自分の中で決めていたはずが、妊娠が発覚してそうもいかなくなった。
 がばりと立ち上がった私は仕舞ったばかりの検査薬に飛びつき、もう一度確認した。
 何度見ても、青いラインは明確に刻まれている。あの夜が夢ではないと証明している。
 一向に生理がこないので、まさかとは思った。
 世の中にはこの青いラインが現れて喜ぶ女性がたくさんいるのではないかと思われるが、私の場合は立場が違う。
 結婚もしていないのに、恋人もいないのに、一夜の過ちで上司の子を妊娠した。どう見てもふしだらで、救いようのない哀れな女である。
「避妊とか、全然頭になかった……」
 知識として避妊については知っていたが、セックスの実践では何がどうなっているのかまるでわからなかった。
 ただ課長のセックスが気持ちよすぎて、身を委ねていただけである。
 もちろんこうなった責任は私にある。課長のせいなんて言うつもりはない。流されてしまった私が悪い。
「中絶……かな……」
 うららかな土曜の昼下がり、ついに検査薬を試した私は不穏な単語を口にした。
 結婚していないのだから、堕胎するしかないだろう。
 そこでひとつの選択肢が生じる。
 鬼山課長に妊娠のことを伝えるべきか、それとも黙って中絶するべきか。
「どうしよう……言いたくないなぁ。あなたの子よ、なんてドラマみたいな台詞を言うわけ……? 中絶の費用を要求してるみたいだし、あさましいと思われそう。でも、あとから中絶がバレたら、課長は怒りそうだよね。とりあえず何事も報告したまえって常日頃から言ってるもんね。でも、仕事とは違うし……」
 延々と独りごちていると、ふいにどこからか声がした。
「言うにゃ」
「……えっ?」
 首を巡らせるが、ひとり暮らしの部屋にはもちろん誰もいない。玄関扉の外から、「なーご」と猫の鳴き声がした。
「ああ、あの子か」
 どうやら猫の鳴き声を人語と聞き間違えたらしい。
 近頃、小さな黒猫がこの周辺にいるのを頻繁に見かけるようになった。一度牛乳をあげたら懐いてしまい、玄関前で寝転んでいることが度々あるので、キャットフードを購入して餌をあげている。
 器にフードを盛って、玄関を開けた。
 するとそこには、揚々と尻尾を揺らして待ち構えている黒猫がお座りしている。
「はい、どうぞ」
 器を置くと、黒猫はがぶがぶと食べ始めた。
 この子は野良猫なのか、それともどこかの家の飼い猫なのかは知らない。首輪はついていなかったが、人懐こいので、もとは飼い猫だったのかもしれない。
 漆黒の毛並みは艶々だ。口元まわりと手足の先だけが白いので、靴下を履いているように見えるのが可愛い。
 飼ってあげられればよいのだけれど、このアパートはペット禁止だった。野良猫に餌をやっていると近所の人に知られたら、トラブルになるかもしれない。今のところは、大家さんと近所の住民から何も言われてないけれど。
「鬼山課長のマンションは分譲だよね……。この子を飼ってあげられないかな」
 呟いた独り言はもちろん、ただの儚い希望だ。
 課長にはもっと深刻な問題を話さなければならないのに。
 否、何も話さなくていいかもしれない。
 子どもも猫も、そんなことは知らないと冷徹に言われたらきっと、私はあの人を軽蔑する。二度と顔を見たくないと思うかもしれないし、同じ職場にすらいたくないと転職を決意するかもしれない。課長に幻滅するくらいなら、何も告げずに、自分だけで処理したほうがいい。
 そう考えたとき、ふいに黒猫が顔を上げた。
 金色の瞳を爛々と煌めかせ、階段下の茂みに向かって威嚇の声を上げる。
「フギャー!」
 ざざっと茂みが揺れた。
 黒い影がぬるりと茂みを割り、逃げるように遠くへ行く。
「え……なに、今の……」
 動物にしては妙な形だった。まるで大きな長い蛇のような形状だ。
 近頃こうして、得体の知れないものを度々見かけるようになった。
 それは一か月ほど前、この黒猫を見かけたときから始まったような気がする……。
 思い返してみると、この子に初めて会ったのは課長のマンションに泊まった翌日のことだ。帰宅したときすでに、玄関の扉の前でお座りをして待っていたのだ。まるで私が飼い主だとでも言うように。
 なぜか、ほかの部屋の住人にこの子が餌をねだっている様子はない。
 正体不明の黒い影を追い払った黒猫は私に向き直り、得意気にヒゲを揺らす。
 まるで、『追い払ってやったぞ』とでも言いたげだ。
 くすりと微笑んだ私は、黒猫の背を撫でる。
「ありがとう。私を守ってくれたの?」
「うん」
 返事をされたので、瞠目する。
 黒猫もびっくりしたように目を見開いていた。
「偶然……だよね。猫は『ごはん』って喋るらしいし」
「うん。ごはん」
「……」
 唖然としていると、黒猫は気まずそうに目を逸らした。
 意思の疎通ができている気がする。すごく頭のよい子なのかもしれない。
 不思議なところがあるけれど、この子を放っておけない。どうにかして飼ってあげられないだろうか。