部屋が薄暗いのでよく見えないけれど、眼光の鋭さは相当なものだ。
「床で? そういうわけにはいかない」
「じゃあ……あの、せめてバスローブをお借りしてもいいでしょうか。タクシーを呼んで、家に到着するまで車内にいれば、なんとかバスローブ姿で帰れるかなと思うのですが……」
裸で放り出されるのだけは勘弁してほしい。私は八方塞がりになったこの状況を穏便に打開すべく、考え得る案を提案した。
幾度か長い睫毛を瞬いた課長は腕組みを解いて、私に向き直る。
「星野さんは思い違いをしているようだ。俺がこの状況下で、きみを放り出すような男に見えるかい?」
「見えます」
即答すると、課長は額に手を当てる。
ショックを受けてしまったらしい。正直に言いすぎたかな……。
「それも俺の普段の行いからくるイメージだろうから、自業自得ということにしておこう。だけど、星野さんは職場以外での俺のことを何も知らない。そうじゃないかな?」
「そうですね」
言われたとおりである。
けれど、課長の自宅に入ってわかったことは、綺麗好きでマメで、ともすれば潔癖症ということくらい。職場での印象とさほど変わらない。今もまるで企画書についてのやり取りのような会話の応酬である。
課長は人差し指で、くいと眉間を押した。
そこに眼鏡はありませんが。
「ふふっ」
ちょっと笑ってしまった。癖になってるんだろうな。意外と鬼山課長は可愛いところもあると発見した。
じろりと鋭い眼光が降ってきたので、慌てて笑みを引っ込める。
「結論から言おう。きみは今夜、帰れない。その恰好で外に出たり、床で寝ることは俺が許さない。きみはこのベッドで、俺と一緒に寝るんだ」
「はい」
条件反射で返事をしてしまったけれど、私は課長からの命令をゆっくりと反芻した。
要するに、今夜は課長と同じベッドで寝るしかないらしい。ほかに選択肢は与えられない。
一応は男女なのでひとつの寝具を共用するのはどうなのかなと思うけれど、何かが起こるなんて予想するのも自意識過剰だろう。
私は数年前のできごとを思い出した。
同級生の集まりに呼ばれて飲み会に参加し、そのまま主催者のアパートの一室で雑魚寝をしたことがある。数名いた同級生の中には男性もいたので、これって……と胸に淡い期待のようなものが芽吹いたけれど、もちろん何も起こらず朝を迎えて解散した。
私の経験した性的な体験は、それくらいである。
体験ですらない。何も起こっていない。
世の中には好きだの嫌いだのが溢れているようだけれど、そういった世界線とは違ったところに私は存在しているのだなと、何となく気づいていた。出不精だから出会いがないということではない。つまり私には何の魅力もないから、誰にも見向きもされないということなのだろう。恋するスイッチとやらがどこにあるのか皆目見当がつかないので、私から誰かに恋をするということもない。哀しい現実だけど、事実なので仕方ない。
しかも今、同じベッドに入ろうとしている相手は、あの鬼山課長。
頑として誰とも付き合おうとしない課長のことだから、まさか私に手を出すなんてあるはずがない。たとえ天地がひっくり返ろうとも。
即答で了承した私の表情をしばらくじっくりと眺めていた課長は、ややあって安堵したように肩の力を抜いた。
「俺は紳士だから、安心して」
「はい。知ってます」
もちろん、手は出さないから安心して、という意味だろう。
仮に手を出したいのなら、告白してきた綺麗な女子社員たちの中から、とっくに誰かを選んでいるはずだ。
軽く背を押されて、私は課長に誘導されるままにベッドに入った。
布団を捲って体を潜り込ませると、反対側から課長が同じようにベッドに入る。
ベッドが広いためか、それとも課長が遠慮して端に身を寄せてくれているのか、互いの肩が触れるということはなかった。
仰向けになり、ぼんやりと薄闇の中の天井を見つめる。
目を瞑ったとき、ふいに隣から低い声音が囁かれた。
「ハンカチだけど」
「はい……」
まだハンカチにこだわってる……。結局、あれは何だったのかな……。
うつらうつらしながら、私は課長の声を拾い上げた。
「あれはね、きみをベッドに誘うためのアイテムだ。実は、きみのハンカチはデスクに置き忘れていたので、俺が回収しておいたんだよ。のちほど洗って返そう」
「ふぁ……?」
意識がたゆたい、説明がよくわからない。思考は霞がかったように朧に溶ける。
すると、ふいに温かいものが瞼に押し当てられた。柔らかくて温かくて、すごく気持ちいい。
「んっ……?」
触れたときと同じ優しさで離れた温かいものは何だろう。
ゆっくり瞼を押し上げると、そこには仄かな明かりを背にした鬼山課長が、真摯な双眸で私を見つめていた。
「今夜は、寝かさないよ」
低く耳元に囁かれたその台詞は艶めいた響きを帯びていた。普段は隠されていた雄の猛々しさを感じ取る。
え、どういうこと……?
わけがわからず目を瞬かせていると、今度は唇を塞がれる。
押し当てられた唇の柔らかさに呆然とした。
私はこれが、ファーストキスである。
我に返ってもがくと、すでに強靱な男の腕の中に囚われていた。
「あ、あの、課長……!」
大きな掌がバスローブを解いていく感触が伝わり、にわかに慌てる。
逞しい課長の体が、ぴたりと密着していた。
「大丈夫。優しくする」
甘く鼓膜に響く声音が、体の奥底まで浸透していく。
課長の声、安心する……。
私は抵抗をやめた。ずっと、この声、聞いていたいな……。
「あの、課長……私、初めてなんですが……」
「そうか。大切に抱くから」
「呆れませんか?」
「何にだい」
「処女だから……」
課長は私の体を優しく開いていった。丁寧に愛撫して、丹念に濡らし、とろとろに蕩けるまで。
「呆れたりしない。ずっと、好きだったんだよ」
「はあ……」
「その顔は信じてないな」
妖艶に微笑んだ男の中心が、私の胎内に侵入する。
獰猛なものを包み込んだ体は軋んだ。それから私の唇からは、喘ぎ声しか零れなくなった。その唇を、課長は何度も塞ぎ、優しく啄んだ。
「床で? そういうわけにはいかない」
「じゃあ……あの、せめてバスローブをお借りしてもいいでしょうか。タクシーを呼んで、家に到着するまで車内にいれば、なんとかバスローブ姿で帰れるかなと思うのですが……」
裸で放り出されるのだけは勘弁してほしい。私は八方塞がりになったこの状況を穏便に打開すべく、考え得る案を提案した。
幾度か長い睫毛を瞬いた課長は腕組みを解いて、私に向き直る。
「星野さんは思い違いをしているようだ。俺がこの状況下で、きみを放り出すような男に見えるかい?」
「見えます」
即答すると、課長は額に手を当てる。
ショックを受けてしまったらしい。正直に言いすぎたかな……。
「それも俺の普段の行いからくるイメージだろうから、自業自得ということにしておこう。だけど、星野さんは職場以外での俺のことを何も知らない。そうじゃないかな?」
「そうですね」
言われたとおりである。
けれど、課長の自宅に入ってわかったことは、綺麗好きでマメで、ともすれば潔癖症ということくらい。職場での印象とさほど変わらない。今もまるで企画書についてのやり取りのような会話の応酬である。
課長は人差し指で、くいと眉間を押した。
そこに眼鏡はありませんが。
「ふふっ」
ちょっと笑ってしまった。癖になってるんだろうな。意外と鬼山課長は可愛いところもあると発見した。
じろりと鋭い眼光が降ってきたので、慌てて笑みを引っ込める。
「結論から言おう。きみは今夜、帰れない。その恰好で外に出たり、床で寝ることは俺が許さない。きみはこのベッドで、俺と一緒に寝るんだ」
「はい」
条件反射で返事をしてしまったけれど、私は課長からの命令をゆっくりと反芻した。
要するに、今夜は課長と同じベッドで寝るしかないらしい。ほかに選択肢は与えられない。
一応は男女なのでひとつの寝具を共用するのはどうなのかなと思うけれど、何かが起こるなんて予想するのも自意識過剰だろう。
私は数年前のできごとを思い出した。
同級生の集まりに呼ばれて飲み会に参加し、そのまま主催者のアパートの一室で雑魚寝をしたことがある。数名いた同級生の中には男性もいたので、これって……と胸に淡い期待のようなものが芽吹いたけれど、もちろん何も起こらず朝を迎えて解散した。
私の経験した性的な体験は、それくらいである。
体験ですらない。何も起こっていない。
世の中には好きだの嫌いだのが溢れているようだけれど、そういった世界線とは違ったところに私は存在しているのだなと、何となく気づいていた。出不精だから出会いがないということではない。つまり私には何の魅力もないから、誰にも見向きもされないということなのだろう。恋するスイッチとやらがどこにあるのか皆目見当がつかないので、私から誰かに恋をするということもない。哀しい現実だけど、事実なので仕方ない。
しかも今、同じベッドに入ろうとしている相手は、あの鬼山課長。
頑として誰とも付き合おうとしない課長のことだから、まさか私に手を出すなんてあるはずがない。たとえ天地がひっくり返ろうとも。
即答で了承した私の表情をしばらくじっくりと眺めていた課長は、ややあって安堵したように肩の力を抜いた。
「俺は紳士だから、安心して」
「はい。知ってます」
もちろん、手は出さないから安心して、という意味だろう。
仮に手を出したいのなら、告白してきた綺麗な女子社員たちの中から、とっくに誰かを選んでいるはずだ。
軽く背を押されて、私は課長に誘導されるままにベッドに入った。
布団を捲って体を潜り込ませると、反対側から課長が同じようにベッドに入る。
ベッドが広いためか、それとも課長が遠慮して端に身を寄せてくれているのか、互いの肩が触れるということはなかった。
仰向けになり、ぼんやりと薄闇の中の天井を見つめる。
目を瞑ったとき、ふいに隣から低い声音が囁かれた。
「ハンカチだけど」
「はい……」
まだハンカチにこだわってる……。結局、あれは何だったのかな……。
うつらうつらしながら、私は課長の声を拾い上げた。
「あれはね、きみをベッドに誘うためのアイテムだ。実は、きみのハンカチはデスクに置き忘れていたので、俺が回収しておいたんだよ。のちほど洗って返そう」
「ふぁ……?」
意識がたゆたい、説明がよくわからない。思考は霞がかったように朧に溶ける。
すると、ふいに温かいものが瞼に押し当てられた。柔らかくて温かくて、すごく気持ちいい。
「んっ……?」
触れたときと同じ優しさで離れた温かいものは何だろう。
ゆっくり瞼を押し上げると、そこには仄かな明かりを背にした鬼山課長が、真摯な双眸で私を見つめていた。
「今夜は、寝かさないよ」
低く耳元に囁かれたその台詞は艶めいた響きを帯びていた。普段は隠されていた雄の猛々しさを感じ取る。
え、どういうこと……?
わけがわからず目を瞬かせていると、今度は唇を塞がれる。
押し当てられた唇の柔らかさに呆然とした。
私はこれが、ファーストキスである。
我に返ってもがくと、すでに強靱な男の腕の中に囚われていた。
「あ、あの、課長……!」
大きな掌がバスローブを解いていく感触が伝わり、にわかに慌てる。
逞しい課長の体が、ぴたりと密着していた。
「大丈夫。優しくする」
甘く鼓膜に響く声音が、体の奥底まで浸透していく。
課長の声、安心する……。
私は抵抗をやめた。ずっと、この声、聞いていたいな……。
「あの、課長……私、初めてなんですが……」
「そうか。大切に抱くから」
「呆れませんか?」
「何にだい」
「処女だから……」
課長は私の体を優しく開いていった。丁寧に愛撫して、丹念に濡らし、とろとろに蕩けるまで。
「呆れたりしない。ずっと、好きだったんだよ」
「はあ……」
「その顔は信じてないな」
妖艶に微笑んだ男の中心が、私の胎内に侵入する。
獰猛なものを包み込んだ体は軋んだ。それから私の唇からは、喘ぎ声しか零れなくなった。その唇を、課長は何度も塞ぎ、優しく啄んだ。