そのとき、ぶるりと悪寒が這い上がった私は、くしゃみをひとつした。
「ほら。風邪を引いてしまうから、早く熱いシャワーを浴びるんだ」
「はい、お借りします」
課長に急き立てられるように背を押され、リビングを出てバスルームに入る。
「俺はちょっと作業があるからこちらの部屋にいるけど、何かあったら呼んで」
「了解しました」
職場でのやり取りと全く変わらないので、なんだか仕事の延長のようだ。
課長は用があるらしく、すぐに廊下の向こうへ消えていった。メールチェックなどをするのかもしれない。
バスルームの引き戸を閉めて、脱衣場を見回す。清潔な脱衣場には籐籠が置かれていたので、それに脱いだ衣服をまとめて重ねた。自分の鞄は脇に置き、借りた新品のバスローブを籐籠の隅にのせる。
濡れた衣服をすべて脱ぐと、とても身軽になった。
ほっとしてバスルームに入り、熱いシャワーを浴びる。
「ふう……きもちいい……」
しばらく温かな心地に陶然としていると、からりと脱衣場の引き戸が開く音がした。
「星野さん。バスタオルを渡すの忘れてた。ここに置くから」
「はい。すみません」
一瞬ぎくりとしたけれど、平静な課長の声に、弾んだ鼓動はすぐに落ち着く。
引き戸のすぐ傍にある籐籠がごそりとする気配がしたが、まもなく消えた。
私は再び熱いシャワーに意識を戻して、ぬくもりを堪能する。
ほかほかになってバスルームを出ると、籐籠を目にした私は濡れた睫毛を瞬かせた。
「あれ? 私の服は?」
そこにはバスローブとバスタオルのみが残されていた。下着すらない。床下に置いた鞄はそのままなのに。
どうやら、バスタオルを置いた課長が回収したらしい。濡れた衣服を放置するのはいけないだとか説いていたから、もしかして干してくれたのだろうか。
「すごいマメなんだ……」
鬼山課長は家事能力に長けているのかもしれない。そういえば部屋も、とても綺麗に片付いており、ごみひとつなかった。
下着は間違って混入したのだろうけれど、即刻返してもらわなければ。
バスタオルで体と髪を拭きながらそんなことを考え、バスローブの袖を通した私は鞄を抱えて脱衣場を出た。
リビングに戻ると、そこは無人。
足音に気づいたのか、課長は隣室から顔を覗かせる。
「ああ、星野さん。きみの服は洗濯したから」
「えっ? 干したんじゃなくて、洗濯しちゃったんですか?」
「そうだよ。濡れた衣服を放置することは雑菌が繁殖する温床になる、と俺は先程伝えたよね」
慌てて首を巡らせると、廊下の向こうから洗濯機の重低音がかすかに響いていた。
つまり、あの台詞が洗濯をするという宣言だったらしい。
「……下着もですか?」
「もちろん。きみは服だけ洗って、下着は洗わないのかい?」
「洗いますね」
「そうだろう」
平然とした課長と話していると、こちらの感覚がおかしいのかと思ってしまう。
課長は女物の下着に触れても、何とも思わないのだろうか。
私としては、上司に下着を洗濯されてしまったという事実に目眩を起こしそうだ。
しかも下着も服も洗濯されてしまったら、私はここから出られない。今夜はこの部屋にお泊まりするしかなくなる。ハンカチの件が済んで、タオルを借りたらすぐに帰ろうと思っていたのに。
それとも、バスローブのままタクシーに乗って帰れと命じられるとか。
鬼山課長なら充分ありうる。
私はおそるおそる課長に問いかけた。
「あの……課長」
「俺もシャワーを浴びてきてもいいかな? 寒くて風邪を引きそうだから」
「あ、そうですよね」
夜道で握った鬼山課長の手はとても冷たかった。
とりあえず話は課長が温まってからにしよう。
「ペットボトルの水で悪いが、そこのテーブルに置いてあるから、水分補給して」
「はい」
指示を出した課長は自分のバスタオルとバスローブを抱え、長いリーチを生かして瞬く間に浴室に入っていった。
リビングの床に鞄を置いた私は、ソファに腰を下ろす。ぽつんとテーブルに置かれているペットボトルのキャップを開けた。
ひとくち水を飲んで、窓の外に目を向ける。
幾筋もの雨粒が涙のように、硝子の窓を伝い落ちている。
「雨……やまないなぁ」
明日は会社が休みでよかった。
ぼんやりと窓辺を眺めていると、引き戸が開く音が耳に届く。
そちらに目を向ければ一瞬、誰かと思う男がバスローブを纏い、佇んでいた。
長めの漆黒の前髪が落ちかかり、その隙間から覗く鋭い双眸が私を見据えている。髪が濡れているためか、艶めいた雰囲気を彼は纏わせていた。
当然だけれどシャワーを浴びるときには眼鏡を外すわけなので、この鋭い目つきの男は鬼山課長だった。私の知る限り、彼は職場で一度たりとも眼鏡を外したことがない。
私は魅入られたように、彼の瞳に視線が吸い寄せられた。
「課長……目が……」
その瞳の色が、赤く見えたのは光の悪戯だろうか。
たとえば写真で、目の色が赤く写ってしまうような感じだ。
私の呟きに、課長は目元を掌で覆い隠した。
「電気を消していいかな。ちょっと眩しく感じてね」
「あ、はい」
もしかして、生まれつき目が弱いだとか、そういうことかもしれない。
私はつい、目について指摘してしまったことを恥じた。自分が五体満足の健常者だからといって、それと違うことを指摘するのは恥ずべき行いだ。
課長がリモコンを操作すると、リビングの照明は消え、暗闇に包まれる。
隣室から仄かな明かりが零れているので、課長の体が浮かび上がった。彼は私に手招きをする。
「こちらへ」
「はい」
導かれて隣室に足を運ぶと、そこは寝室だった。
室内にはダブルベッドが鎮座しており、サイドテーブルから漏れているライトの明かりは柔らかい。
なぜ独身で恋人がいないのにダブルベッドなのだろうと思うが、課長の体躯が立派なので、ダブルベッドでないと狭いからだと思い直した。
「あの……課長……」
ということはまさか、今夜はこのダブルベッドで一緒に寝るなんてことに……ならないよね?
鬼のような課長のことだ。『俺はベッドで寝るから、きみは床で寝たまえ』だとか、平気で言い出しそうである。私は身構えた。
彼はベッドに視線を注ぎつつ腕組みをして、神妙に語り出す。
「さて、星野さん。見てのとおり、ここにはベッドがひとつしかない」
「……そうですね」
「俺はこのベッドじゃないと眠れない体質なんだ。うちのソファは俺の体には小さくて、寝そべると足がはみ出てしまう」
「……そうでしょうね。私は床で寝てもよろしいでしょうか?」
その発言に眉を跳ね上げた鬼山課長は、信じられないものを見るような目つきをこちらに向けた。
「ほら。風邪を引いてしまうから、早く熱いシャワーを浴びるんだ」
「はい、お借りします」
課長に急き立てられるように背を押され、リビングを出てバスルームに入る。
「俺はちょっと作業があるからこちらの部屋にいるけど、何かあったら呼んで」
「了解しました」
職場でのやり取りと全く変わらないので、なんだか仕事の延長のようだ。
課長は用があるらしく、すぐに廊下の向こうへ消えていった。メールチェックなどをするのかもしれない。
バスルームの引き戸を閉めて、脱衣場を見回す。清潔な脱衣場には籐籠が置かれていたので、それに脱いだ衣服をまとめて重ねた。自分の鞄は脇に置き、借りた新品のバスローブを籐籠の隅にのせる。
濡れた衣服をすべて脱ぐと、とても身軽になった。
ほっとしてバスルームに入り、熱いシャワーを浴びる。
「ふう……きもちいい……」
しばらく温かな心地に陶然としていると、からりと脱衣場の引き戸が開く音がした。
「星野さん。バスタオルを渡すの忘れてた。ここに置くから」
「はい。すみません」
一瞬ぎくりとしたけれど、平静な課長の声に、弾んだ鼓動はすぐに落ち着く。
引き戸のすぐ傍にある籐籠がごそりとする気配がしたが、まもなく消えた。
私は再び熱いシャワーに意識を戻して、ぬくもりを堪能する。
ほかほかになってバスルームを出ると、籐籠を目にした私は濡れた睫毛を瞬かせた。
「あれ? 私の服は?」
そこにはバスローブとバスタオルのみが残されていた。下着すらない。床下に置いた鞄はそのままなのに。
どうやら、バスタオルを置いた課長が回収したらしい。濡れた衣服を放置するのはいけないだとか説いていたから、もしかして干してくれたのだろうか。
「すごいマメなんだ……」
鬼山課長は家事能力に長けているのかもしれない。そういえば部屋も、とても綺麗に片付いており、ごみひとつなかった。
下着は間違って混入したのだろうけれど、即刻返してもらわなければ。
バスタオルで体と髪を拭きながらそんなことを考え、バスローブの袖を通した私は鞄を抱えて脱衣場を出た。
リビングに戻ると、そこは無人。
足音に気づいたのか、課長は隣室から顔を覗かせる。
「ああ、星野さん。きみの服は洗濯したから」
「えっ? 干したんじゃなくて、洗濯しちゃったんですか?」
「そうだよ。濡れた衣服を放置することは雑菌が繁殖する温床になる、と俺は先程伝えたよね」
慌てて首を巡らせると、廊下の向こうから洗濯機の重低音がかすかに響いていた。
つまり、あの台詞が洗濯をするという宣言だったらしい。
「……下着もですか?」
「もちろん。きみは服だけ洗って、下着は洗わないのかい?」
「洗いますね」
「そうだろう」
平然とした課長と話していると、こちらの感覚がおかしいのかと思ってしまう。
課長は女物の下着に触れても、何とも思わないのだろうか。
私としては、上司に下着を洗濯されてしまったという事実に目眩を起こしそうだ。
しかも下着も服も洗濯されてしまったら、私はここから出られない。今夜はこの部屋にお泊まりするしかなくなる。ハンカチの件が済んで、タオルを借りたらすぐに帰ろうと思っていたのに。
それとも、バスローブのままタクシーに乗って帰れと命じられるとか。
鬼山課長なら充分ありうる。
私はおそるおそる課長に問いかけた。
「あの……課長」
「俺もシャワーを浴びてきてもいいかな? 寒くて風邪を引きそうだから」
「あ、そうですよね」
夜道で握った鬼山課長の手はとても冷たかった。
とりあえず話は課長が温まってからにしよう。
「ペットボトルの水で悪いが、そこのテーブルに置いてあるから、水分補給して」
「はい」
指示を出した課長は自分のバスタオルとバスローブを抱え、長いリーチを生かして瞬く間に浴室に入っていった。
リビングの床に鞄を置いた私は、ソファに腰を下ろす。ぽつんとテーブルに置かれているペットボトルのキャップを開けた。
ひとくち水を飲んで、窓の外に目を向ける。
幾筋もの雨粒が涙のように、硝子の窓を伝い落ちている。
「雨……やまないなぁ」
明日は会社が休みでよかった。
ぼんやりと窓辺を眺めていると、引き戸が開く音が耳に届く。
そちらに目を向ければ一瞬、誰かと思う男がバスローブを纏い、佇んでいた。
長めの漆黒の前髪が落ちかかり、その隙間から覗く鋭い双眸が私を見据えている。髪が濡れているためか、艶めいた雰囲気を彼は纏わせていた。
当然だけれどシャワーを浴びるときには眼鏡を外すわけなので、この鋭い目つきの男は鬼山課長だった。私の知る限り、彼は職場で一度たりとも眼鏡を外したことがない。
私は魅入られたように、彼の瞳に視線が吸い寄せられた。
「課長……目が……」
その瞳の色が、赤く見えたのは光の悪戯だろうか。
たとえば写真で、目の色が赤く写ってしまうような感じだ。
私の呟きに、課長は目元を掌で覆い隠した。
「電気を消していいかな。ちょっと眩しく感じてね」
「あ、はい」
もしかして、生まれつき目が弱いだとか、そういうことかもしれない。
私はつい、目について指摘してしまったことを恥じた。自分が五体満足の健常者だからといって、それと違うことを指摘するのは恥ずべき行いだ。
課長がリモコンを操作すると、リビングの照明は消え、暗闇に包まれる。
隣室から仄かな明かりが零れているので、課長の体が浮かび上がった。彼は私に手招きをする。
「こちらへ」
「はい」
導かれて隣室に足を運ぶと、そこは寝室だった。
室内にはダブルベッドが鎮座しており、サイドテーブルから漏れているライトの明かりは柔らかい。
なぜ独身で恋人がいないのにダブルベッドなのだろうと思うが、課長の体躯が立派なので、ダブルベッドでないと狭いからだと思い直した。
「あの……課長……」
ということはまさか、今夜はこのダブルベッドで一緒に寝るなんてことに……ならないよね?
鬼のような課長のことだ。『俺はベッドで寝るから、きみは床で寝たまえ』だとか、平気で言い出しそうである。私は身構えた。
彼はベッドに視線を注ぎつつ腕組みをして、神妙に語り出す。
「さて、星野さん。見てのとおり、ここにはベッドがひとつしかない」
「……そうですね」
「俺はこのベッドじゃないと眠れない体質なんだ。うちのソファは俺の体には小さくて、寝そべると足がはみ出てしまう」
「……そうでしょうね。私は床で寝てもよろしいでしょうか?」
その発言に眉を跳ね上げた鬼山課長は、信じられないものを見るような目つきをこちらに向けた。