不思議なネズミはもういなくなったのに、なぜか課長はつないだ私の手を離そうとしない。
 そのままふたりは、ゆるりと川沿いの道を歩いていった。
 等間隔に佇む街路の灯火が、音もなく静かな世界を照らしている。
 その中で私は、ただつながれた手から課長の体温を感じ取っていた。
 課長の手……冷たくて気持ちいいなぁ……。
 私の手が熱いから、そう感じるのかもしれない。
 それきり課長は何も言わなくなった。
 私も黙って手を引かれながら、静寂に包まれた夜道を進んでいく。
 車の通りはなく、私たちのほかに誰もいない。まるでこのまま異世界に迷い込んでしまいそうだ。
 そんなわけはないけれど、酔った私は笑いながら口にした。
「このまま違う世界に連れて行かれそう。鬼に連れ去られて」
 鬼山だけに、なんてね。
 そう言葉を綴ろうとした私は、ぎゅっと強い力で手を握られて、つと呑み込む。
 課長を見上げると、街灯に照らされた彼の横顔は濃い陰影を刻んでいた。眼鏡が灯りを反射していて、眼差しは判然としない。
 彼は何も言わないので、きっと私の冗談がつまらなかったのだろう。
 力が込められたと思った手はすでに緩められ、柔らかく私の掌を包み込んでいた。
 そうして歩いていると、やがてぽつぽつと雨が降ってきた。
「あ……雨が……」
「もう少しで着くよ。このまま歩こう」
 ようやく課長が喋ってくれたので、ほっとする。
 でも、着くって、どこへ向かっていたのだろう?
 そういえば、ハンカチを返すかどうかで、最善の方策があるだとか言われたから、こうして課長と歩いていたのだった。
 それは場所を変えないと話せないような内容なのだろうか。この辺りにはバーや喫茶店などの店舗は一切見当たらない。川沿いの道端にはマンションが、ぽつりぽつりと佇んでいるのみ。そのマンションから漏れる明かりも雨に煙っている。
 それから十分ほどが経過しただろうか。
 次第に雨脚は強まってきた。
 傘を購入しようにもコンビニすらない。
 私の髪から雨の雫が滴り、ジャケットはずぶ濡れになった。それは課長も同様だが、彼は全く歩を緩めない。
 雨をしのぐ店もなく、タクシーの一台も通らないのだから、このまま課長についていくしかなかった。
 ようやく鬼山課長は一棟のマンションの前で足を止めた。
「着いたよ」
「……え、ここは?」
 勝手知ったる様子で自動ドアをくぐり、彼はエントランスへ入る。広くて真新しいエントランスホールには応接用のソファが設置されていた。
 ここは分譲マンションらしい。豪華な内装のホールには二基のエレベーターがあり、課長は慣れた仕草でボタンを押す。
 それを見た私は眉をひそめた。
 もしかしてこのマンションは、鬼山課長の自宅ではないだろうか。
 まさか何の断りもなく家へ連れて来られるとは思わなかったので、一気に酔いが醒める。
 エレベーターの飴色の扉が開いた。
 躊躇するけれど、つながれた手を引かれて、箱の中に乗り込んでしまう。
「あの……」
「ここは私の自宅マンションだ。雨に濡れてしまったことだし、風邪を引かないためにも、一刻も早く着替えたほうがいい。私は妻や恋人などいないので、星野さんが私の部屋に入ったとしても何の問題もない」
 私が戸惑っているのを見透かしたように、鬼山課長は淡々と説明した。
 だけど、独身だからこそ、ひとり暮らしの男性の部屋に入るのは問題があるのではないだろうかという考えが頭を掠める。
「ですが……」
「それに、ハンカチの件もあるよね」
「あ……そうでしたね」
 指摘され、私は返していないハンカチについて思い出した。
 翌日に洗って返されるのは困るからということで、ここまでついてきてしまったけれど、結局どうすればよいのだろう。
 考えているうちに、エレベーターは最上階に到着した。
 フロアのひとつにある扉をカードキーで解錠した課長は、重厚な扉を開く。
「どうぞ」
 ドアノブを掴んだ鬼山課長は、私の入室を促す。
 その目の色は眼鏡に遮られており、判然としない。
「……お邪魔します」
 おそるおそる玄関に入ると、そこは鬼の国なんかではなく、至ってふつうのマンションの景色だった。
 落ち着いた焦茶色の廊下の向こうにはリビングがあり、広い窓には明かりの灯る夜景が映っている。
 ここへ辿り着くまでの間、どこか遠いところへ連れ去られてしまいそうという錯覚がよぎったけれど、あれはあくまでも不思議な夜の気配のためだったようだ。
 電気を点けた課長が靴を脱いで、「やれやれ、ひどい雨だった」とぼやく台詞を耳にした私は、日常を感じて安堵の息を零す。
 私もパンプスを脱いだが、雨のおかげでストッキングが濡れていた。課長に借りたハンカチで足回りを拭く。あとで洗って返すので……。
 そうしているうちに課長は先にリビングへ入っていった。
 課長のあとに続き、明るくなったリビングに顔を出す。
 すると、そこにはすでに課長の姿はなかった。身代わりのごとく、黒の鞄と濡れたコートが床に置かれている。私のジャケットや鞄もずぶ濡れだ。とりあえず、ジャケットだけ脱いでおこう。
「わあ……ブラウスまで濡れてる……」
 透けているブラウスを見下ろしていると、ふと照明の明かりが遮られた。
 顔を上げると、無表情の課長が眼前に佇んでいる。
 驚いて一歩引くと、鬼山課長は、ずいと綺麗に畳まれた衣服を差し出した。
「これ、バスローブね。俺のだからサイズは大きいだろうけれど、新品なので未使用だよ。星野さんは随分濡れたようだから、風邪を引くといけない。すぐにシャワーを浴びてこれに着替えたまえ」
 まるで仕事の指示のように淡々と紡がれて、私は思わず首肯する。
「了解しました」
「濡れた衣服を放置することは雑菌が繁殖する温床になる」
「……? そうですね」
「ハンカチを返したまえ」
「はい」
 言われたとおり、私は居酒屋で借りたハンカチを鞄から取り出し、掌を広げている課長に手渡した。
「大切なハンカチなのに、お借りしてすみませんでした。さっき、足まで拭いちゃいましたけど……洗わなくていいんですか?」
 翌日に洗って返されては困るので、自宅で手渡してほしかったということだろうか。
 それなら居酒屋の軒先で渡せば済むのではと思うが、お互いお酒が入っていたので、あのときは課長も気づかなかったのかもしれない。
 ところが課長は、謎めいた言葉を告げる。
「洗うけどね。大切なハンカチというわけではないよ。ただ、星野さんに貸したことによって、この品は重要な役目を果たした大切なハンカチに変貌したと言える」
「……はあ」
 何を言ってるんだろう。
 全く顔色が変わってないけど、課長は酔ってるのかな?