夜叉の鬼神と身籠り政略結婚~花嫁は鬼の子を宿して~

 その血を指先で吹き飛ばした柊夜さんは、倒れた薜茘多を見下ろした。口端から血を垂らした餓鬼の頭領は、怨嗟の言葉を吐く。
「くそ……夜叉め……愚劣な人間の犬め……」
「ここで転がっていろ。帝釈天に媚びへつらって、牢獄から出してもらうんだな」
 勝負は決した。
 柊夜さんは、薜茘多との戦いに勝ったのだ。
 安堵の息を零したそのとき。
 柊夜さんの背後に忍び寄る足音が耳に届く。
 ひたひたひた……。
 あの音は、まさか。
「柊夜さん、後ろ!」
 私が叫ぶのと、薜茘多がにやりと笑うのは同時だった。
 素早く振り向いた柊夜さんに襲いかかろうとしているのは、殺身だ。
 その刹那。
 ぶわりと大量の蝶が出現し、視界を覆う。
「うわぁ……っ」
 黄金の鱗粉に巻かれた殺身は目つぶしを食らい、ぐらりとその身を傾いだ。
 無数の青い蝶は柊夜さんを守るかのように、周囲を飛び回っている。そうして上空へと飛び立っていった。
「行こう、あかり! 永劫の牢獄から脱出するんだ」
 手を差し伸べる柊夜さんに駆け寄り、しっかりとその手を取る。
 彼の腕に抱かれたとき、ふわりと浮遊感があった。
 飛び上がった柊夜さんとともに、牢獄の出口へ舞い上がる。青い蝶たちが、私たちを先導してくれた。
 ふっと、眩い光に包まれる。
 瞬いたときには、すでに帝釈天の屋敷の前にいた。
 永劫の牢獄から、出られたのだ。
 胸を撫で下ろして周りに目を向けると、驚いた顔をした那伽とヤシャネコがそこにいた。
「おっと、戻ってきたな! ……ってことは、薜茘多に勝ったんだな!」
「夜叉さま、あかりん! 心配してたにゃああん」
 泣き崩れるヤシャネコを抱き上げて、もふもふの毛を撫でる。
 その手触りに、ようやくみんなと再会できたことを実感した。
「心配かけてごめんね、ヤシャネコ。那伽も、無事に脱出できたのね」
「あれくらい、どうってことねえよ。紙人形の身代わりは早々に薜茘多に見破られちまったけどな」
 ひと息ついた柊夜さんは、目に垂れる血を乱暴に手の甲で拭う。
「那伽には世話になったようだな。青い蝶は、広目天の眷属か?」
「えっ? 知らねえよ。帝釈天の使いだと思ってたけど?」
 目を瞠った柊夜さんは、私が腕に巻いたハンカチに目を落とす。
 青い蝶が描かれていたはずの布は、無地の白いハンカチと化していた。
 蝶はすべて、飛び立ってしまったのだ。
「なるほど……そういうことだったか」
 もしかして柊夜さんが青い蝶に命を吹き込み、遣わしたのかとも思ったけれど、そういうわけではなかったらしい。
 とすると……。
 首を捻る私の耳に、威厳に満ちた声が届いた。
「夜叉よ」
 はっとして振り向くと、そこには大勢の兵士を従えた帝釈天が、長い裾を垂らしつつ泰然と佇んでいた。
 柊夜さんと那伽は帝釈天を前にして、さっと片膝を突く。
 勝手に脱獄したことを咎められるのだろうか。
 私は彼に礼を尽くす気にはなれない。なんとしても柊夜さんを連れて帰るつもりだ。
 足に力を込めて、小柄な少年ほどの帝釈天と対峙した。
「我は永劫の牢獄でのことを、すべてこの眼で見ていた。人間に与するそなたも、人間の花嫁の無鉄砲な勇ましさも気に食わぬが、こたびは許そう。青い蝶の神気に免じてな」
「帝釈天……ありがとうございます」
「よい。我は眠りにつく。敗れた薜茘多と殺身は我が覚醒するまで、そなたの代わりに永劫の牢獄でさまよわせよう」
 ひらりと白布を翻した帝釈天は、きらきらと舞い散った金色の鱗粉を、鬱陶しそうに片手で払った。
 青い蝶の神気が、帝釈天の心を動かしたのだろうか。
 もとは私のハンカチだったので、あやかしが宿っていたとは思えないのだけれど。
 とにかく、柊夜さんを取り戻すことができたのだ。
 謎の青い蝶に感謝の念を抱きながら、微笑を浮かべる。
「柊夜さん、戻って怪我の手当をしましょう」
「ああ……そうだな。俺の居城に行こう」
 ほっとして、みんなが帰途につこうとしたそのとき。
 つきりと、私のお腹に痛みが走る。
「……う」
「どうした、あかり?」
「うう……柊夜さん……」
 立っていられず、その場に座り込んでしまった。
 痛みは次第に大きくなっていく。
 どうしたんだろう。私の赤ちゃん、大丈夫なの……?
「まさか、陣痛か⁉ 産まれるのか⁉」
 大騒ぎになり、柊夜さんに腕を取られて抱かれるように移動する。
 私の意識は朦朧となり、やがてどこかに寝かせられて、ふつりと途切れた。