夜叉の鬼神と身籠り政略結婚~花嫁は鬼の子を宿して~

 よく見ると、柊夜さんの体からは血が滲んでいた。薜茘多と戦ってなのか、それとも兵士に反抗して負傷したのだろうか。
「柊夜さん……怪我してる……」
「俺にかまうな。近づくんじゃない」
 彼が紡ぎ出すのは、拒絶でしかなかった。
 私はこれまで、柊夜さんと散々喧嘩をしてきた。
 半ば無理やり孕まされて、かりそめ夫婦になったことから始まり、エアコンをつけるかどうかから、お風呂のお湯の温度まで。
 好きで告白して付き合って……という順番どおりのふたりではなかったけれど、柊夜さんとともに過ごすうち、彼との絆は確実に育っていた。
 お腹の子のために、というわけじゃない。
 私が柊夜さんを好きだから、一緒にいたい。
 これからは三人で、家族としてみんなで暮らしたかった。
 こちらを見ようとしない柊夜さんにそっと近づいた私は、ポケットからハンカチを取り出して広げる。
 きっと私から目を背けているのは、鬼の面を見られたくないからではないだろうか。
 夜叉の素顔は、それは恐ろしい顔立ちなのだろう。
 柊夜さんの最後の秘密とは、己の真の姿だったのだなと、私は察した。
「怪我の手当をしないと」
 青い蝶が無数に描かれていたはずのそのハンカチは、ところどころ蝶が欠けていた。
 これまで私を導いてくれた青い蝶は、このハンカチだったのだ。
 血が滲んでいる腕の傷に巻く間、柊夜さんは抗うことなく、じっとしていた。
「……これは、懇親会の日に、あかりがデスクに忘れていったハンカチだな」
「そうですね。柊夜さん、どうして居酒屋ですぐに返してくれなかったの?」
 柊夜さんのハンカチを借りることがなければ、今頃こうしてはいなかったろう。お腹の赤ちゃんもきっと存在しなかった。
 けれど、それらのすべては偶然ではない気がした。
「あかりの物と、交換したかった……。俺は、きみがほしかったんだ。ずっと、好きだった」
 掠れた声音を絞り出した柊夜さんは、鋭い双眸をこちらに向ける。
 眼鏡をかけていない彼の真紅の瞳が、炯々と光っていた。薄闇の中で、鋭い鬼の牙が覗いている。
 これが、柊夜さんの素顔……。
 綺麗だと純粋に思った。
 幼い頃は目の色のせいでいじめの対象になったと語っていたけれど、もし、その当時に私が柊夜さんの傍にいられたなら、この瞳は誰よりも美しいと褒めるだろう。
 まるで燃えさかる炎のように、ひたむきな輝きだから。
 私は柊夜さんの告白を、感謝とともに受け止めた。
 けれど彼はその目を伏せる。
「ショックだろう。これが俺の本当の姿だ。鬼神の姿を、知られたくなかった……」
「柊夜さん……」
 彼は、ずっと怖かったんだ。
 私に嫌われることを恐れていた。
 紅い目を見て忌避した同級生たちと同じように、私もまた、柊夜さんを嫌い、存在を否定するのだと彼は思っている。
 私は手を伸ばし、柊夜さんの腕にそっと触れた。
 強靱な鬼神の腕が、びくりと幼子のように揺れる。
「柊夜さんってば、私を見くびらないでくださいね」
「……なに?」
「私は、夜叉の花嫁なんだから。たとえ柊夜さんが凶悪な鬼神だとしても、私はどこまでも追いかけていくから。実際に神世の底まで来ちゃったわけですしね」
 あはは、と大きな声で笑い飛ばした。
 哀しいこと、不安なことがあったときは、笑うのがもっともよい。
 笑い声を上げる私を唖然として見つめていた柊夜さんは、私に向き直る。
「きみは……初めから思っていたが、どうにも楽天的だな」
「鬼上司に鍛えられたからじゃないでしょうか?」
 ふっと笑った柊夜さんは、釣られたように笑い出す。
 しばらくふたりは、闇の中で笑い合った。
 心地好い笑い声が、常闇の中に広がっていく。
「俺には新たな役目ができたようだ。それは、強情な花嫁を現世に送り返すことだ。何しろ臨月の妊婦なのだからな。身重の体でまさかここまで追ってくるとは思わなかったよ」
「それじゃあ、私を送るついでに会社に出勤してくださいね。陣痛がきたらすぐに連絡が取れるようにしてくれないと困りますから」
「はは……そうしようか」
 柊夜さんは膝を立て、ゆっくりと体を起こす。彼が着用していたスーツはぼろぼろだ。きっと腕のほかにも怪我をしているのだろう。
 私は柊夜さんの逞しい腕を持ち上げると、自分の肩に回した。
 そうして立ち上がろうとすると、慌てたように柊夜さんは腕を引こうとする。
「ちょっと待て。きみは俺を担ごうというんじゃないだろうな」
「そのつもりですけど? 柊夜さんとお腹の子のふたりくらいは、私が責任を持って現世まで連れていきます」
「……きみという人は、まったく……。わかった。一緒に帰ると約束しよう。ただし臨月の妊婦に肩を貸してもらうほど俺は落ちぶれていない。手をつなごう。いつものように」
「うん……」
 腕を下ろした柊夜さんは、私の手を握った。
 冷たくて大きな、夜叉の掌だ。
 多少姿は違っていても、彼は私の大好きな旦那さまだった。
 ふたり手をつなぎ、深淵の闇から抜け出すために一歩を踏み出す。
 そのとき、風の唸りが近づいてきた。
 いったい、どこから。
 出口があるのだろうかと、わずかな期待が胸をよぎる。
「あかり、危ない!」
「きゃあっ」
 柊夜さんに腕を引かれ、背に匿われる。
 一陣の突風が吹き、体が煽られそうになった。庇われていなければ、転んでいたかもしれない。
 鋭い風を伴い、永劫の牢獄に降り立ったのは甲冑を纏った薜茘多だった。
「夜叉! 貴様を牢獄から出してなぞやるものか。今すぐ殺されたくなくば、その女を差し出せ」
 もう城の牢屋を抜け出したことが発覚してしまったのだ。
 恫喝する薜茘多に、柊夜さんは険しい顔つきで対峙する。
「薜茘多。先程は後れを取ったが、今度はそうはいかない。おまえを打ちのめす。あかりは、俺の花嫁だ」
「ほざけ!」
 一閃が走る。
 私を後方へ押しやった柊夜さんは、薜茘多が強靱な腕から繰り出した一撃に応戦した。
 闇の中に火花が散る。
 鬼神同士の戦いは熾烈を極めた。
 強靱な肉体で掴み合い、殴り飛ばし、血飛沫が跳ね上がる。
 どうにかしたいのに、何もできない自分がもどかしい。
 私は離れたところで、この惨劇を見守ることしかできないなんて。
 でも、柊夜さんが負けるはずがない。
 そう信じた私は争いの行く末を見届けようと、毅然として目を凝らす。
 やがて、薜茘多に疲労の色が見え始めた。
 それを見計らった柊夜さんの苛烈な蹴りが入る。
 どう、と轟音を立て、薜茘多が地に伏した。
 柊夜さん自身も無傷とはいかず、鋭い鬼の爪でつけられた裂傷により、顔から血が滲んでいる。