夜叉の鬼神と身籠り政略結婚~花嫁は鬼の子を宿して~

「実は、夜叉がここに閉じ込められているという情報を、薜茘多から得ました。彼は私の夫なのです。お腹の子の父親です。どういった事情があるのかわかりかねますが、どうか夜叉を解放してください」
 本当は、かりそめ夫婦なのだけれど、今は非常事態だ。
 私の口からは、『夜叉の花嫁』『私の夫』という言葉が、すんなりと出た。
 柊夜さんを取り戻したい。その一心だった。
 私の嘆願を、手枕をしながらつまらなそうに聞いた帝釈天は、緩慢に身を起こす。
「夜叉は神世の理を逸脱した。それゆえ、制裁を与えたのだ。あの者は永劫に閉じ込めておく」
「そんな! 柊夜さんが何をしたというのですか⁉」
「鬼神同士で争った罪、人間に与しすぎた罪、我に楯突いた罪……まあ、そんなところだ」
 指折り数える帝釈天が淡々と告げる。
 それらは、とても罪とは言えないような内容だ。
 神世の罪とは帝釈天の気分次第で決められるものなのだろうか。私は眉をひそめる。
 だが、鬼神同士で争った罪というならば、薜茘多も囚われなくてはならないはず。
「薜茘多は自由の身ですよね? 鬼神同士で争ったのが罪ならば、彼も幽閉されなければならないのではありませんか?」
 冷酷な目をこちらに向けた帝釈天は、折っていた指先で私を指す。
「それだ。夜叉も我にそのような物言いをする。楯突くというのはそういうことだ。神世では我こそが絶対的な存在。すべての正義と悪は我が取り決める」
 帝釈天の身勝手な言い分に唖然とする。
 まるで権力を持った子どもが調子に乗っているようだ。
 けれどそれが、神世のルールなのだ。
 この世界に来て薄々感じていたもののひとつに、厳格な縦社会だということがある。帝釈天を頂点として、その配下の鬼神たちは彼に従わなければならないのだ。そして眷属のあやかしたちは、鬼神に逆らうことは許されない。身勝手だろうが何だろうが、上の者が命じることは絶対なのだ。
 殺身が床に這いつくばって褒美の金貨を拾い集めたことや、下級のあやかしが帝釈天の姿を拝めるわけない、と話したヤシャネコからも、彼らが身分社会を当然のものとして受け入れていることが窺える。
 現世において公平な見方に慣れている柊夜さんは、帝釈天の機嫌を損ねてしまったのだろう。対して帝釈天におもねる薜茘多は、罪を逃れたのだ。
 でも、ここで引き下がってはいられない。
 私は毅然として、帝釈天に対峙する。
「では、帝釈天の正義を私にください」
「なんだと?」
「私には、私の正義があるんです。それは家族みんなで暮らすことです。それが一番正しい、私の正義です」
 帝釈天はあからさまに不快な顔をした。
 自分で口にして気づいた。
 そうだ、私は、ずっと家族みんなで暮らしたかったんだ……。
 私のような境遇の人間には、叶わない夢だと初めから諦めていた。
 けれど、これからは、柊夜さんとお腹の赤ちゃんがいてくれる。
 私たちは、家族になれるんだ。
 膝を立てた帝釈天は怒りを滾らせる。
「我に対してなんという無礼な言いざま。そなた人間の分際で……」
 そのとき、ひらひらと私の周囲を青い蝶が舞う。
 蝶の鱗粉が、まるで金の砂のように零れ落ちた。
 あの子だ。
 どうして、ここに。闇の路でしか現れないはずなのに。
 けれど、男の子の姿は見えない。
 蝶を目にした帝釈天は言葉を切り、怒りを収めた。
「その蝶……ふむ。よかろう。夜叉に会うがよい」
「いいんですか?」
「永劫の牢獄より、そなたが夜叉を連れ出すことができたなら、すべての罪を許そう」
「あ……ありがとうございます!」
「ただし、鬼神を閉じ込めておく永劫の牢獄は、ただの牢ではない。出られなければ、そなたもまた永久に虜囚となる。それでもゆくのか?」
 ぞくりとしたものが背筋を這う。
 けれど、私はその怯えを振り払った。
 せっかくここまでやってきたのだ。
 もうすぐ、柊夜さんに会えるんだ。
 こうなったら、地獄の底まで行ってやろうじゃないの。
 決意した私は笑顔を見せる。
「ぜひ、案内してください。必ず永劫の牢獄から脱出してみせますから」
「ほう。それは楽しみだ。では、ゆけ」
 すっと、帝釈天は指先で空間を切り裂いた。
 私の目の前に、ぽっかりと深淵の闇が出現する。
「えっ……ここが?」
 闇に呑まれた私は、ひとつ瞬きをした。
 するともうそこには、帝釈天の姿も、舞台も、つい今までいた屋敷もなかった。
 目の前には、ただの暗闇が広がっている。
「ここが、永劫の牢獄……?」
 それとも、ここは帝釈天の屋敷のどこかということなのだろうか。物理的な牢屋とは異なり、果てが見えない。足元すら覚束ない状態だ。
 何も見えず、柊夜さんの姿もない。
 どこをどのように行けばよいのか、全くわからない。
 あてもなく首を巡らせる私の視界に、ふと金色の鱗粉がきらきらと映り込んだ。
「あ……」
 青い蝶はまるで私を導くかのように、鱗粉を撒きながら羽ばたいていく。
「待って……」
 男の子の姿は見えないけれど、蝶の行く先へついていく。
 すると、闇の中に人らしい輪郭が、ぼんやりと浮かび上がっているのが見えた。
「あれは……柊夜さん⁉」
 力なく床に横たわっているのは、柊夜さんだ。
 やっと会えた。
 歓喜で胸がいっぱいになり、柊夜さんのもとへ駆け寄る。
 けれど、ふと身を起こした柊夜さんは、動揺を含んだ声を発した。
「あかり……?」
「柊夜さん、迎えに来ました。一緒に帰りましょう」
「なぜ、ここに……! まさか、帝釈天に会ったのか?」
「そうなんです。柊夜さんが神世で幽閉されたと聞いたから、那伽に闇の路を出してもらって、神世に来ました。それから薜茘多に捕まって逃げて、須弥山の帝釈天と話して……私が柊夜さんを連れてここを出れば、すべての罪を許すと言ってました」
 私の説明に、柊夜さんは無言で応えた。
 彼は、顔をこちらに向けようとしない。
 近くまでやってきた私は、異変に気づいた。
 柊夜さんの体は、私の知る彼よりも二回りほども大きいのだ。筋肉が異常に盛り上がり、頭部から二本の角が生えている。大きな手の指先からは、かぎ爪のような鋭い爪が伸びていた。
 鬼だ。
 私の夫は、鬼なのだ。
 そんなことわかっていたはずなのに、柊夜さんの真の姿を初めて目にした私は、その異形に息を呑む。
「……あかり。現世に帰るんだ。赤子を産んだら、多聞天を頼れ。俺のことは、もう死んだと子に伝えてくれ」
 静かに呟く柊夜さんの言葉を、信じられない思いで耳にする。
 彼は、私と一緒に帰ってくれる気はないのだ。