夜叉の鬼神と身籠り政略結婚~花嫁は鬼の子を宿して~

 闇の路で、私を導いてくれた男の子だ。彼はここでしか現れないのだろうか。
 身を翻した少年は、私たちについてこいと示すように手招きをした。
「あの少年が帝釈天さまのしもべにゃん? なんだか不思議な神気が出てるにゃんね……」
「ヤシャネコにも見えているのね。彼は何度も私を導いてくれたの。とにかく、行ってみましょう」
「そうにゃんね!」
 少年に案内されて、闇の路を進む。
 今度は何者かの足音がついてくるといったことはなく、静謐に沈む世界をただひたすら歩き続けた。
 前を行く男の子は何も喋らない。彼の声をひとことも聞いたことはなかった。
 私たちに協力してくれるこの少年はもしかして、青い蝶のあやかしなのだろうか。
 青い蝶は彼を守るかのように、ひらひらと待っている。儚げな少年の姿は、まるで残像のように見えた。
 そっと足元のヤシャネコに話しかける。
「……ねえ、ヤシャネコは帝釈天に会ったことあるの?」
「おいらが? あるわけないにゃん。帝釈天さまはとっても偉い御方だにゃ。おいらみたいな下級のあやかしがお姿を拝めるわけないにゃん」
「そうなんだ……。ということは、ヤシャネコも帝釈天がどんな人か知らないんだね」
 ぶるりと身を震わせたヤシャネコは、私の脛にすり寄った。
「恐ろしい御方だって聞いてるにゃ。夜叉さまや那伽さまは現世で人間と触れ合ってるから優しいけど、帝釈天さまは須弥山の御殿に座しているにゃん。気に入らない側近の首を一撃で刎ねるという噂があるにゃん……」
 どうやら神世に住んでいる鬼神たちは、人としての優しさに欠けているようだ。帝釈天は薜茘多以上に気性の激しい人物かもしれない。
 けれど、臆してはいられない。
 早く柊夜さんを助けないと……。
 そのとき、前方の男の子がぴたりと足を止めた。
 彼が大きく両腕を広げると、トンネルの出口が現れる。
「須弥山に着いたの?」
 頷いた少年は、私たちが出るのを待っている。やはり彼はここに留まるつもりらしい。
「おまえは何者にゃん? 帝釈天さまのところに一緒に行かなくていいにゃん?」
 ヤシャネコに問われた男の子は無言を貫く。
 彼は薜茘多に囚われた私たちを救い、ここまで連れてきてくれたのだ。何者かはわからないが、悪い子ではないはずだ。
 ふと、出口の明かりに照らされた少年の瞳の奥に、紅い焔が見えた。
 どこかで見たことのある目の色に、既視感を覚える。
 そのとき、出口から飛び降りたヤシャネコが歓声を上げた。
「あかりん! ここは本当に須弥山にゃん。ほら、そこが帝釈天さまの御殿にゃん」
 目を向けると、荘厳な造りの御殿がすぐ傍にあった。高い朱塗りの柱がそびえている。鬼の頭の居城というよりも、平安貴族の屋敷のようだ。
「ここが、帝釈天のお屋敷……?」
 柊夜さんも、この屋敷のどこかにいるはずだ。
 私はトンネルの出口から足を踏み出した。
 すると、すうと闇の路は消えてしまう。今までのことが、夢だったように。
 あの男の子もやはり、いなくなってしまった。
「おまえたち、何者だ」
 突然、背後から野太い声で誰何され、首を巡らせる。
 鎧装束を纏った牛の頭の兵士が、私たちを怪訝な目で見ていた。
 きっと、この屋敷の兵士だろう。いきなり帝釈天の屋敷に現れた私たちは闖入者だ。
「私は、夜叉の花嫁です。このたびは帝釈天にお会いしたくてやってきました」
 柊夜さんはきっと、この屋敷のどこかにいるはずだ。帝釈天に話をすれば、会わせてくれるに違いない。
 だが兵士は手にしていた槍を構え、穂先を私に向けた。
「あやしいやつめ。おまえたちのようなやつが帝釈天さまにお会いできるわけないだろう!」
 その声で多数の兵士が集まり、槍を向けられる。
 囲まれてしまった私は立ち竦んだ。ヤシャネコが私を庇うように、前へ出る。
「待つにゃん! おいらたちは夜叉さまを救うためにやってきたにゃ。帝釈天さまに、お話を聞いてほしいにゃん」
「ふん。下級のあやかし風情が生意気な口をきくな」
 ひょいと襟首を掴まれたヤシャネコは、屈強な兵士の腕により吊り下げられてしまった。
「ニャニャ!」
「ヤシャネコ! お願い、ヤシャネコを離して!」
 私が取り縋ろうとしたそのとき、何者かの声が屋敷中に響き渡る。
「その娘を、我の前に連れてまいれ」
 決して威圧的ではないのに、聞いた者をひれ伏させる力強さが込められた声音だ。
 その声を耳にした兵士たちは動揺したが、すぐに槍を下ろす。
「帝釈天さまのお召しだ。ついてこい」
 踵を返した兵士のあとに続き、屋敷の内部へ足を踏み入れる。
 今の声の主が、帝釈天なのだ。
 長い廊下を渡り、屋敷の奥へ案内される。
 とある朱塗りの扉の前で、兵士は立ち止まった。
「おまえが出てくるまで、こいつは預かる。帝釈天さまに失礼のないようにしろ」
 ぶら下げたままのヤシャネコを、兵士は軽く振った。
 ヤシャネコは人質として確保されるらしい。
「おいらは大丈夫にゃ。あかりん、夜叉さまのこと、頼むにゃん」
「わかった。すぐに戻ってくるからね」
 安心させるようヤシャネコに微笑みかけて、朱塗りの扉に向き合う。
 兵士が重厚な把手を引く。
 ゴゴゴ……と、地の底から這い上がるような不気味な音が軋んだ。
 一歩踏み出して、磨き上げられた板張りの床を静かに進む。
 辺りは真っ暗だ。
 ここに、帝釈天がいるの……?
 不安に思い、首を巡らせると、ぽっと小さな明かりが点る。
 蝋燭の灯火だ。
 それを機に、無数の灯火が私の行く手を示すかのように点火された。まるで道標のごとく。
「わあ……綺麗……」
 道の両側に、燭台の蝋燭がずらりと並んでいるさまは壮麗だった。
 ゆらゆらとかすかに揺れる灯火の道を、私はその果てに向かって歩んでいった。
 やがて眼前に、舞台のようなものが現れた。数段の階段の上に設置された舞台には、御簾が垂れ下がっている。
「ちこうよれ」
 舞台を彩る朱色の紐に見惚れていると、薄い御簾の向こうから声をかけられる。
「は、はい」
 先程、屋敷の外まで響いた声だ。
 あのときは反響するような響き方だったけれど、今の声は発した人がすぐそこにいるのだと思える、明瞭な声音だった。
 おそるおそる舞台に近づく。するすると御簾が巻き上げられた。
 長い黄金色の髪、白皙に光る薄い翡翠色の瞳。華奢な肢体を純白の布が包み、寝台のごとく広い椅子から幾重にも垂れている。
 舞台の上で気怠そうに椅子に凭れているのは、まだ少年だった。
 ただ、闇の路で出会った男の子よりは少々年上といった見かけで、人間の年齢でいえば十歳ほどだろう。彼がずっと神世に住んでいるのだとしたら、もしかしたら実際の年齢は数千歳なのかもしれない。
「私は、夜叉の花嫁です。あなたが、帝釈天でしょうか」
「面白いことを言う。我に『帝釈天か』と問うたのは、そなたが初めてだ。夜叉の花嫁」
 失礼なことを聞いてしまったようだ。
 帝釈天の面差しは無表情で、何を考えているのかわからない。私は今回の件について申し立てた。