夜叉の鬼神と身籠り政略結婚~花嫁は鬼の子を宿して~

「……えっ⁉」
「船頭が名を呼んだときは薜茘多さまの眷属だとバレたかと、ひやりとしましたが、無知な人間で助かりました」
「それじゃあ……夜叉の眷属で、柊夜さんを救ってほしいというのは、嘘だったの?」
「まあまあ、いいじゃないですか。現世であなたを見たときから、どうにかかどわかして薜茘多さまに献上できないかと思っていたのですよ。闇の路では惜しかったですが、代わりに大物が捕まりましたし……おっと、それではわたくしはここら辺でおいとまします」
 重い懐を抱えて嬉しそうな顔をした殺身は、柳のような体を翻して広間を出ていった。
 殺身に、騙されたのだ。
 そもそも殺身とは、餓鬼の名のひとつであったらしい。彼が薜茘多の眷属であることは、神世では常識だった。何も知らないで殺身を信用した自分が恨めしい。
 けれど、柊夜さんの居場所へは一歩近づいたことに変わりない。
 前向きに捉えた私は、薜茘多に向き直る。
「それで、柊夜さん……私の夜叉に、会わせてほしいんですけど」
 薜茘多は凶悪な双眸を、すうと眇める。
 けれどすぐに悪辣な表情を見せ、ひとこと放った。
「おまえ、俺の嫁になれ」
「……は?」
 突然、何を言っているのだろう。
 話が通じないので、怪訝に思った私は眉を寄せる。
「人間にしては剛胆な女だ。その腹で神世まで夜叉を迎えに来るとはな。あんなやつの嫁にしておくのは惜しい」
「あなたの嫁になんてなるわけないでしょ。柊夜さんは無事なの? 幽閉してるなら、早く解放して!」
 薜茘多は卓にあった盃を手にして、酒を呷った。
 朱塗りの盃が空になると、先程の金貨と同じように床に投げ捨てる。
 なんて粗野な仕草だ。
 空いた手を下げることなく、薜茘多は指先で私を指し示した。
「夜叉は須弥山の牢獄にいる。やつは俺との戦いに敗れ、帝釈天の不興を買った。夜叉一族はもう終わりだ。俺に寝返ったほうが得だぞ」
「そんな……」
 四天王のさらに上役である帝釈天のもとに、柊夜さんはいるのだ。
 なぜ帝釈天の機嫌を損ねたのか詳しいことはわからないが、それを確かめるためにも、やはり須弥山へ行く必要がある。
 柊夜さんがここにいないのなら、長居は無用だ。
 踵を返そうとした私を、いつの間にか背後にいた兵士が押さえつける。
「な、なにするの⁉ 離してよ、私は須弥山に行きます!」
「牢に閉じ込めておけ。腹の子を引きずり出せば考えも変わるだろう」
 ぞっとすることを告げられて背筋が震える。命じられた兵士は私を地下牢に連れていった。
 長い石の階段を下りていくと、そこには薄暗い空間が広がっていた。
 何者かの気配がするが、暗くてよく見えない。
 兵士に促されて隅にある牢屋へ入れられる。ガチャリと錠前がかけられた。
「ちょっと……出してよ!」
 格子を掴んで訴えるが兵士は聞く耳を持たず、地下牢から出ていってしまう。
 どうしよう。
 柊夜さんを助けるどころか、牢に囚われてしまった。しかも薜茘多は、私を自分の花嫁にするつもりだ。このままでは、お腹の子を引きずり出されてしまう。そんなことをされたら死んでしまう。赤ちゃんも、私も。
 お腹に手をやり、我が子に語りかける。
「絶対に守るからね……」
 そのとき、向かいの牢で人が動く気配があった。
「おい、もしかして花嫁か? あかり、だよな?」
 驚いて目を凝らすと、そこにいたのは闇の路ではぐれた那伽だった。
「那伽⁉ どうしてここにいるの?」
「闇の路で落とし穴に落ちたんだ。殺身にやられた。あかりは無事だったんだな、よかったよ」
 那伽は闇の路で別れたときと変わらず、ジャケットにジーンズという現世の恰好で、どこにも怪我はないようだった。
 どうしたのかと心配だったけれど、彼も殺身の手管に落ちてしまい、ここへ放り込まれていたのだ。殺身が私の代わりに闇の路で捕らえた大物とは、那伽を指していたのだろう。
「那伽も無事でよかった。ヤシャネコは?」
「ここだよ」
 ジャケットのジッパーを開けた那伽の懐から、ヤシャネコが顔を出す。
「あかりん!」
 飛び出したヤシャネコは、格子の隙間をにゅるんと通り抜けて、私のいる牢へ入ってきた。もふもふの体をぎゅっと抱きしめると、ヤシャネコは泣き声を上げる。
「おいら、薜茘多さまに見つかって処分されないように、那伽さまの懐にずっと入ってたにゃん。薜茘多さまは恐ろしい鬼神にゃん。夜叉さまが心配にゃん」
「そうなの……。怖かったね、ヤシャネコ」
 艶々とした黒い毛を撫でて、ひとしきり互いの無事を噛みしめる。
 胡坐を掻いた那伽は腕組みをした。
「ここには夜叉はいないぞ。須弥山に行って、帝釈天と話をつけなきゃならない。いくら薜茘多とはいえ、帝釈天の許可なくオレや夜叉を葬るわけにはいかないからな。だから因縁をつけて牢に閉じ込めておくってわけさ」
「でも……どうやってここから出ればいいの?」
「そうだなぁ……」
 牢には鍵がかけられている。ヤシャネコだけなら出られるが、私と那伽は鍵がないと無理だろう。
 そのとき、ふっと私の前に青い蝶が現れた。
「え……この蝶は……」
 ひらひらと舞う蝶の鱗粉が、錠前に降りかかる。
 すると、カチリという音とともに、鍵が開いてしまった。
「あ……開いた⁉」
「今だにゃん、あかりん!」
 ヤシャネコと一緒に格子の戸を開けて牢の外に出る。
 青い蝶はひらりと廊下の奥へ舞っていく。
 突き当たりだったはずの廊下には、さらに奥へ続くトンネルが口を開けていた。まるで先程通った闇の路のようだ。
「那伽も一緒に行こう!」
 振り向くと、那伽の牢は固く閉じたままだ。
 けれど那伽は首を横に振り、懐から一枚の紙を取り出す。
「オレまでいなくなったら、すぐに薜茘多に見つかる。こっちはなんとかしておくから、あかりとヤシャネコは帝釈天に会うんだ」
 すうと空を切った紙切れは、今まで私がいた牢内に落ちた。するとおぼろげな像が出現して、私とそっくりの形になる。
 この身代わりがいれば、しばらくの間は兵士の目を誤魔化せそうだ。
「じゃあ……私たちだけで行ってくるね。那伽ひとり残って、本当に大丈夫?」
「当たり前だろ。その蝶はきっと帝釈天の使いだ。ついていけ」
 まずは帝釈天に面会して、柊夜さんと那伽の身の安全を確保してもらうのが先決だ。
 そして、薜茘多の横暴を処断してもらう。
 頷いた私は青い蝶のあとを追い、ヤシャネコとともに真っ暗なトンネルに入った。
 そうすると、背後の出口が閉ざされ、暗闇の中に佇む。私の足元にいるヤシャネコのもふもふした毛並みが触れていることが、不安を紛らわせた。
「真っ暗ね……。どう進めばいいの?」
 呟いたとき、ひらりと舞う青い蝶がぼんやりとした明かりを点した。
 その明かりのもとに、男の子の姿が現れる。
「あっ……あなたは……!」