夜叉の鬼神と身籠り政略結婚~花嫁は鬼の子を宿して~

「おう、殺(さつ)身(しん)じゃねえか。その女……」
 彼の名は、殺身というらしい。夜叉や那伽と同じように、神やあやかしとしての名かもしれない。
 なぜか殺身は慌てたように船頭に手を振った。
「ちょいと急ぎなんだ。わけは聞かないでくれ」
 殺身は船頭に耳打ちすると、懐から取り出した銭を渡していた。じゃらりと重厚な音が鳴り響いたので、結構な金額のようだ。
 船頭はキセルを仕舞うと、素早く舵を取る。
「お嬢様、乗ってくだせえ。ほかの客は待ちませんので、すぐに船が出ます」
「さあ、花嫁さま。どうぞこちらに」
 ふたりに促され、小舟に乗り込む。
 小舟といっても十人くらいは乗れる広さだが、急いで行くために殺身が料金を弾んでくれたのだ。
 大きなお腹を抱えて、板敷きの座席にそっと腰を下ろす。
 すうと小舟は岸を離れた。
「ありがとう、殺身。料金を払ってくれて」
 お礼を言うと、殺身はびくりと肩を跳ねさせる。
「えっ……いえいえ、とんでもない。当然のことでございますから、お気になさらず」
 ほっとした様子の殺身は笑みを浮かべていた。
 夜叉の眷属ということは、柊夜さんの部下みたいなものだろう。ヤシャネコのほかにも多数存在するのだ。神世を訪れたのは初めてなので、部下がいるなんて全く知らなかった。
 せっかくなので、殺身に神世について訊ねてみる。
「神世に住んでいるあなたがたはみんな、鬼神の眷属なの?」
「ええ、そうですね。神世は帝釈天さまの住まわれる須弥山を中心としまして、四天王と八部鬼衆の城がございます。我々はみな、どなたかの眷属でして、城下で暮らしております。わたくしは情報屋のような稼業をしておりますので、現世も行き来しているのですよ」
 現世でいえば、江戸時代のような形式らしい。そういえば古めかしい街並みはどこか懐かしさを彷彿させるものだ。
「そうなのね。うちに来たなら寄ってくれればいいのに。殺身のことは全然知らなかった」
「えっ……ええ、まあ。わたくしは身分が低いので、こっそり花嫁さまを結界の外から眺めていたのでございますよ」
「結界の外から?」
 夜叉の眷属であっても、柊夜さんの結界には弾かれてしまうということだろうか。確かにヤシャネコやカマイタチと比べたら、殺身は人間と変わらない体格だけれど。
 殺身は落ち窪んだ眼底の奥から、点滅した光を瞬かせた。
「ええ、まあ。わたくしごときが堂々と夜叉やその花嫁さまに近づいて挨拶するなんて、恐れ多いですからね。今は非常事態というわけでして……そうそう、これから向かうのは薜茘多さまの城です。夜叉の花嫁さまでしたら歓待されますから、心配いりませんよ」
 ふと、殺身の話に奇妙な違和感を覚えたが、その正体が何なのか掴めない。
 きっと私の気のせいだろう。
 首を捻りながらも、薜茘多について訊ねた。
「薜茘多は、どんな鬼神なの?」
 なぜ、柊夜さんが囚われるようなことになったのだろうか。その原因を知りたいと思った。
 薜茘多の人となりも。
「薜茘多さまは素晴らしい鬼神ですよ。強くて豪快な、まさに鬼神らしい御方です。昔から人間に迎合する夜叉のことを嫌っていましたからね。薜茘多さまっていうのは、好かないと思ったら徹底的に痛めつけないと気が済まない性分なんです」
 嬉しそうに話す殺身から感じた違和感が何なのか、私はようやくわかった。
 殺身は、いつの間にか『薜茘多さま』と呼んでいる。対して柊夜さんのことは呼び捨てだ。夜叉の眷属のはずなのに、彼の姿勢が先程と変わっているのはなぜだろう。
 不審を抱いた私は身じろぎしたが、ここは運河を行く船の上だ。
「あの……殺身」
「ほら、花嫁さま。見えてきましたよ。ここが薜茘多さまの居城です」
 指差されたほうを見上げる。
 高くそびえ立つ石造りの城壁と、それにぐるりと囲まれた城の豪勢な屋根が現れた。まさに藩主の城といった風情だ。
「ここが……鬼神の城……」
 呆気にとられて、悠然とそびえる城を眺める。
 城壁の一角に門があり、船はそこから直接城内に入れるようになっているようだ。
 殺身がやぐらにいる門番に手を挙げると、頷いた門番は閉ざされていた門を開いた。こうして運河からの客や荷物を迎え入れるのだろう。
 城内には船着き場があり、そこから下船する。
 私が小舟から下りると、殺身は軽い足取りで石段を上っていった。
「さあ、こちらです。どうぞどうぞ」
 ひたひたという足音が、彼が石段を上るたびに響いた。
 殺身は裸足なのだ。
 彼にはとてもよくしてもらったけれど、その足音になんだか気味の悪さを覚えてしまう。
「あの足音は……」
 ぞっとする背筋の感覚とともに思い出した。
 あれは、闇の路で追いかけてきた足音と同じものだ。
 ということは……殺身は謎の男の子と一緒にいたときから、私のあとをつけてきたのだろうか。街路で偶然に私と遭遇したはずなのに。
 石段を上がっていくと、広い場所に出る。どうやら一階のホールのようなところらしい。重厚な扉の前では、厳めしい顔つきの兵士が見張っている。
 ふたりの兵士は両側から同時に扉を開いた。
 殺身が入っていくので、私もあとに続く。
 すると突如、室内に怒号が轟く。
「殺身! その女が夜叉の花嫁か」
 驚いて目を向けると、ずらりと並んだ朱塗りの柱の果てに、精緻な椅子に鎮座している人物がいた。
 輝く白髪に、炯々と光る碧色の双眸。人目を惹きつける美貌は狂気を孕んでいる。大柄な体躯は人間の男性より二回りも大きく、その身を甲冑に包んでいた。
 まさしく、絵画で見るような鬼神の姿だ。
 柊夜さんは人間と変わらないので、本当に鬼神かと訝るほどだけれど、この人の容貌は人間ではないとはっきりわかる。
「あ、あなたが、薜茘多なの?」
 勇気を持って問いかけると、目の前の鬼神は鷹揚に頷いた。
「そうだ。餓鬼の頭領である鬼神・薜茘多とは俺のことよ」
 薜茘多は南方を守護する増長天の眷属で、餓鬼そのものを指すこともあるらしい。常に飢餓と枯渇に切迫している鬼神なのだとか。
 見るからに粗暴な印象を受けるが、話を聞いてもらえるだろうか。
「あの、柊夜さんがここへ来ていると、殺身から聞いたのですけど。幽閉されているというのは本当なの? 彼に会わせてください」
 つまらなそうに私の話を聞き流した薜茘多は、床に土下座している殺身に対して横柄に話しかけた。
「殺身。ご苦労だったな」
「ははっ。薜茘多さまのお役に立てまして幸いにございます」
 ふたりのやり取りに目を瞬かせる。
 殺身は柊夜さんを救い出すために私とここへやってきたはずなのに、まるで薜茘多の部下であるかのような態度だ。
 薜茘多が器から掴んだものを、ばらりと石畳の床に投げる。
 チャリンチャリンと散った金貨を、殺身は這いずりながら慌てて拾い集めた。
「殺身……どういうこと?」
 傲慢な上司が配下に褒美を与えているような図に、眉をひそめる。
 すべての金貨を拾って懐に収めた殺身は、にやりと笑いを浮かべた。
「夜叉の花嫁さまは何にも知らないんですねえ。『殺身』というのは、三十六番目の餓鬼の名ですよ」