勢いでもっふりした体を抱き留めた那伽は、空いたほうの手を上げた。彼は指先で五芒星を辿る。
「よし。じゃあ、行くぞ」
「あっ……待って」
那伽を止め、隣の部屋に駆け込んだ私は、クローゼットからハンカチを取り出した。
柊夜さんに預かってもらったこともある、青い蝶が描かれたお気に入りのハンカチだ。お守り代わりに持っていこう。
ハンカチをオーバースカートのポケットに入れてリビングへ戻る。
するとそこには、トンネルのような神世への入り口が開いていた。
「準備はいいか、花嫁? オレが通ったら、この入り口は閉まるからな」
「わかった。じゃあ、私が先に入るね」
人ひとりが通れるほどの漆黒のトンネルに踏み出す。後ろからヤシャネコを抱いた那伽が通ると、入り口は音もなく閉ざされた。
「……真っ暗だね。ここが神世なの?」
「ここは現世と神世をつなぐ、闇の路だ。迷子になったら永久に出られないからな。オレのあとについてきてくれ」
さらりと恐ろしいことを言われて、背筋が震える。
那伽にとっては当たり前のことなのだろうけれど、神世の常識を知らない人間の私には未知の世界だ。
でも、もう引き返すことなんてできない。
おそるおそる那伽の背中を追って、暗闇の中を進む。
ひんやりとした空気がまとわりつく。
沈黙が怖くなり、私は前を歩く那伽に声をかけた。
「柊夜さんが幽閉されたっていうのは、どうしてなの? だって、何も悪いことしたわけじゃないよね?」
「さあな。だからそれを確かめに行くのさ。須弥山に住む帝釈天に会えば……」
ふいに那伽の言葉が掻き消えた。
ぞくりとしたものを覚えた私は、足を止める。
「え……那伽? ヤシャネコ? どこにいるの?」
まるで闇に呑まれたかのように、忽然と那伽の姿が消えてしまった。
暗闇の中、私はただひとり残される。
どうしよう。急にいなくなってしまうなんて、どうしたのだろう。つい今まで、那伽はそこにいたはずなのに。
「どうしよう……。どう進めばいいの?」
闇の路で迷子になったら、永久に出られない。
周囲には明かりなどなく、何もない暗闇が広がっているだけ。
不安になって辺りを見回していると、鼓膜にひたひたという足音が届いた。
まるで地を這うような、気味の悪い音だ。那伽の軽快な歩き方とは異なる。
次第に近づいてくる足音の主は見えない。
不安を募らせていると、ふと前方に、ぽうと明かりが輝いているのを発見した。
「あっ……光ってる! もしかして、出口……?」
そちらへ足を向けると、小さな男の子が明かりを背にしてこちらを手招いている。
あの子には見覚えがあった。
切れ上がった眦、漆黒の髪と瞳。以前、夢の中で出会った男の子だ。
「あなたは……どうしてここにいるの? あやかしなの?」
彼は唇を動かしたけれど、その声は私の耳に届かなかった。
声が出せないのか、それとも人間の私には聞こえないということなのだろうか。
私の傍に駆けてきた男の子は、急かすように腕を引いた。
ひたひたひた。
不気味な足音はすぐ後ろに迫っている。
男の子と一緒に、駆け足で光のもとへ向かった。
突然、闇が去る。
瞬きをしたとき、私は街路の一角にいた。
「……えっ?」
辺りを見回すと、そこには雑多な街並みが広がっていた。
柳の枝が揺れている街路に露店が建ち並び、着物のような装束を纏う人々が行き交っている。ただし、みんなふつうの人間ではなかった。
彼らは猫や鳥の頭を持っている。
ここは神世。目の前にいるのは、あやかしたちだ。
「ね、ねえ。ここって……」
後ろを振り返ると、そこに男の子の姿はなかった。
狭い路地には誰もいない。
「あれ? あの子はどこに……」
もともと夢の中で出会った子なので、幻だったのだろうか。
後ろを追いかけてきた足音も消えてなくなっていた。どうやら闇の路を出ると、戻れない仕様らしい。
那伽とヤシャネコはどこに行ったのか、彼らの姿も見えなかった。
もしかしたらふたりもすでに、ここに来ているのかもしれない。
須弥山に住む帝釈天に会えば、柊夜さんが幽閉されたことについて聞けると那伽は語っていた。
帝釈天とは、四天王を統べる神の名だ。八部鬼衆の上司である四天王のさらに上役である。会社でいえば、社長ということだろう。
ぜひとも帝釈天に会って、事情を聞かなければ。
「須弥山に直接行ったほうがいいかな……?」
一応、私は夜叉の花嫁というわけなので、会ってくれるだろうか。
それにはまず、須弥山の場所を知らなくてはならない。
胸を張り、顎を引いた私は堂々とあやかしの往来する街路へ出た。
人間の顔を持っているのは私ひとりである。
ここでは私が異質な存在のはずだ。
緊張で体が強張ったけれど、通り過ぎるあやかしたちは私に見向きもしないし、何も言葉をかけてこない。
どうやら、人間の姿でもさほど奇異な存在ではないようだ。
ほっとして肩の力を抜き、須弥山の場所を聞こうと露店に近づいたとき。
ひとりの男性が驚いた顔をして私の前に立ち塞がった。
「あなたさまは……! 夜叉の花嫁さまではございませんか?」
「えっ……私のこと、知ってるの?」
声をかけてきたその人はひどく痩せていて、目が落ちくぼみ、肌は土気色をしていた。まるで映画に登場するゾンビのようである。
人間に近い容貌をしているとはいえ、彼も神世の住人と似た装束を纏っているので、この世界に住むあやかしなのだろう。
「わたくしは夜叉さまの眷属でございます。花嫁さまにお目にかかれて光栄です」
「そうなの⁉ ……じゃあ、柊夜さんがどこにいるのか知ってる? 幽閉されたと聞いたけど、彼は無事なの?」
「それが……夜叉さまは薜茘(へいれい)多(た)に囚われたのです。どうか花嫁さま、夜叉さまをお救いください。わたくしは眷属とはいえ身分が低いので、どうすることもできません」
薜茘多とは、八部鬼衆のひとりの名だ。
そういえば、八部鬼衆は決して仲がよいわけではなく、鬼衆協会に所属していない者もいるという話を思い出す。
「わかったわ。案内してもらえる?」
「もちろんでございます。さあ、こちらへどうぞ」
彼に柊夜さんの居場所へ連れていってもらえそうだ。ひとまず無事なのかどうかだけでも、一刻も早く確認したい。
露店の建ち並ぶ通りを抜け、川沿いへやってきた。運河を走る船が出ているらしく、船着き場には小舟がいくつも川岸に停泊していた。狸の頭を持った船頭が暇そうにキセルをふかしている。
船頭は、ちらりとこちらに目を向けた。
「よし。じゃあ、行くぞ」
「あっ……待って」
那伽を止め、隣の部屋に駆け込んだ私は、クローゼットからハンカチを取り出した。
柊夜さんに預かってもらったこともある、青い蝶が描かれたお気に入りのハンカチだ。お守り代わりに持っていこう。
ハンカチをオーバースカートのポケットに入れてリビングへ戻る。
するとそこには、トンネルのような神世への入り口が開いていた。
「準備はいいか、花嫁? オレが通ったら、この入り口は閉まるからな」
「わかった。じゃあ、私が先に入るね」
人ひとりが通れるほどの漆黒のトンネルに踏み出す。後ろからヤシャネコを抱いた那伽が通ると、入り口は音もなく閉ざされた。
「……真っ暗だね。ここが神世なの?」
「ここは現世と神世をつなぐ、闇の路だ。迷子になったら永久に出られないからな。オレのあとについてきてくれ」
さらりと恐ろしいことを言われて、背筋が震える。
那伽にとっては当たり前のことなのだろうけれど、神世の常識を知らない人間の私には未知の世界だ。
でも、もう引き返すことなんてできない。
おそるおそる那伽の背中を追って、暗闇の中を進む。
ひんやりとした空気がまとわりつく。
沈黙が怖くなり、私は前を歩く那伽に声をかけた。
「柊夜さんが幽閉されたっていうのは、どうしてなの? だって、何も悪いことしたわけじゃないよね?」
「さあな。だからそれを確かめに行くのさ。須弥山に住む帝釈天に会えば……」
ふいに那伽の言葉が掻き消えた。
ぞくりとしたものを覚えた私は、足を止める。
「え……那伽? ヤシャネコ? どこにいるの?」
まるで闇に呑まれたかのように、忽然と那伽の姿が消えてしまった。
暗闇の中、私はただひとり残される。
どうしよう。急にいなくなってしまうなんて、どうしたのだろう。つい今まで、那伽はそこにいたはずなのに。
「どうしよう……。どう進めばいいの?」
闇の路で迷子になったら、永久に出られない。
周囲には明かりなどなく、何もない暗闇が広がっているだけ。
不安になって辺りを見回していると、鼓膜にひたひたという足音が届いた。
まるで地を這うような、気味の悪い音だ。那伽の軽快な歩き方とは異なる。
次第に近づいてくる足音の主は見えない。
不安を募らせていると、ふと前方に、ぽうと明かりが輝いているのを発見した。
「あっ……光ってる! もしかして、出口……?」
そちらへ足を向けると、小さな男の子が明かりを背にしてこちらを手招いている。
あの子には見覚えがあった。
切れ上がった眦、漆黒の髪と瞳。以前、夢の中で出会った男の子だ。
「あなたは……どうしてここにいるの? あやかしなの?」
彼は唇を動かしたけれど、その声は私の耳に届かなかった。
声が出せないのか、それとも人間の私には聞こえないということなのだろうか。
私の傍に駆けてきた男の子は、急かすように腕を引いた。
ひたひたひた。
不気味な足音はすぐ後ろに迫っている。
男の子と一緒に、駆け足で光のもとへ向かった。
突然、闇が去る。
瞬きをしたとき、私は街路の一角にいた。
「……えっ?」
辺りを見回すと、そこには雑多な街並みが広がっていた。
柳の枝が揺れている街路に露店が建ち並び、着物のような装束を纏う人々が行き交っている。ただし、みんなふつうの人間ではなかった。
彼らは猫や鳥の頭を持っている。
ここは神世。目の前にいるのは、あやかしたちだ。
「ね、ねえ。ここって……」
後ろを振り返ると、そこに男の子の姿はなかった。
狭い路地には誰もいない。
「あれ? あの子はどこに……」
もともと夢の中で出会った子なので、幻だったのだろうか。
後ろを追いかけてきた足音も消えてなくなっていた。どうやら闇の路を出ると、戻れない仕様らしい。
那伽とヤシャネコはどこに行ったのか、彼らの姿も見えなかった。
もしかしたらふたりもすでに、ここに来ているのかもしれない。
須弥山に住む帝釈天に会えば、柊夜さんが幽閉されたことについて聞けると那伽は語っていた。
帝釈天とは、四天王を統べる神の名だ。八部鬼衆の上司である四天王のさらに上役である。会社でいえば、社長ということだろう。
ぜひとも帝釈天に会って、事情を聞かなければ。
「須弥山に直接行ったほうがいいかな……?」
一応、私は夜叉の花嫁というわけなので、会ってくれるだろうか。
それにはまず、須弥山の場所を知らなくてはならない。
胸を張り、顎を引いた私は堂々とあやかしの往来する街路へ出た。
人間の顔を持っているのは私ひとりである。
ここでは私が異質な存在のはずだ。
緊張で体が強張ったけれど、通り過ぎるあやかしたちは私に見向きもしないし、何も言葉をかけてこない。
どうやら、人間の姿でもさほど奇異な存在ではないようだ。
ほっとして肩の力を抜き、須弥山の場所を聞こうと露店に近づいたとき。
ひとりの男性が驚いた顔をして私の前に立ち塞がった。
「あなたさまは……! 夜叉の花嫁さまではございませんか?」
「えっ……私のこと、知ってるの?」
声をかけてきたその人はひどく痩せていて、目が落ちくぼみ、肌は土気色をしていた。まるで映画に登場するゾンビのようである。
人間に近い容貌をしているとはいえ、彼も神世の住人と似た装束を纏っているので、この世界に住むあやかしなのだろう。
「わたくしは夜叉さまの眷属でございます。花嫁さまにお目にかかれて光栄です」
「そうなの⁉ ……じゃあ、柊夜さんがどこにいるのか知ってる? 幽閉されたと聞いたけど、彼は無事なの?」
「それが……夜叉さまは薜茘(へいれい)多(た)に囚われたのです。どうか花嫁さま、夜叉さまをお救いください。わたくしは眷属とはいえ身分が低いので、どうすることもできません」
薜茘多とは、八部鬼衆のひとりの名だ。
そういえば、八部鬼衆は決して仲がよいわけではなく、鬼衆協会に所属していない者もいるという話を思い出す。
「わかったわ。案内してもらえる?」
「もちろんでございます。さあ、こちらへどうぞ」
彼に柊夜さんの居場所へ連れていってもらえそうだ。ひとまず無事なのかどうかだけでも、一刻も早く確認したい。
露店の建ち並ぶ通りを抜け、川沿いへやってきた。運河を走る船が出ているらしく、船着き場には小舟がいくつも川岸に停泊していた。狸の頭を持った船頭が暇そうにキセルをふかしている。
船頭は、ちらりとこちらに目を向けた。



