六章 10ヶ月 夜叉の花嫁、いざ神世へ
すっかりひんやりとした秋の空気が漂い、紅葉の見頃が話題になり始める十月――
私は臨月に入っていた。ついに妊娠三十九週である。
お腹はとても大きくなり、前へ張り出している。もういつ陣痛が訪れてもおかしくない。お腹の子は早く出たいとばかりに、特に入浴中に足でお腹を蹴るので、押さえておくのが大変だ。
性別は聞かないでおくことにしたので、男の子なのか女の子なのかは産まれてからのお楽しみなのだけれど、どうやら元気な赤ちゃんらしい。
私は検診のたびに『順調ですね』という医師の言葉を聞いて、ほっとしていた。
人間だろうが夜叉だろうが、産まれる子にはとにかく健康であることを願っているから。
「私も母親になるんだな……早いものだね」
散歩のために河原沿いの遊歩道を歩き、月日の流れを感じる。
カマイタチの三つ子の兄弟が顔を覗かせていたので、手を振った。彼らの両親はこちらに深くお辞儀をした。どうやら家族仲良く暮らしているようだ。
会社の上司である柊夜さんに孕まされ、同居生活を始めてから早数ヶ月が経つ。お腹の子の神気により私にもあやかしが見えているのだけれど、もうそれが終わりに近づいているのだ。
以前は恵まれない家庭環境のため、おひとりさまを貫こうとしていた私だったけれど、夜叉の子を妊娠して、柊夜さん、そしてヤシャネコと同居生活を始めてから、私の心境に変化があった。カマイタチや迷い兎などのあやかしたちとかかわり、彼らの親子としての絆を見たことも、考えを変える大きなできごとだった。
柊夜さんと、本当の夫婦になりたい。
彼は、『家族で仲良く暮らそう』と言ってくれた。
それは柊夜さんの本心であると思う。彼も、出産を終えて赤ちゃんが産まれてからも、私たち家族が一緒にいるべきと思ってくれているのだ。
けれど……現実として、そうはなれない壁のようなものを、私は柊夜さんの態度から感じ取っていた。
彼が時折見せる、寂しい表情。そこには諦めが滲んでいる。
「どうして何も話してくれないんだろう……」
私が人間だからだろうか。
悩みがあるなら何でも話してほしいのに。
だって、私たちは家族じゃないの?
もう、かりそめ夫婦は終わったんじゃないの?
けれど柊夜さんに詰め寄ることはできなかった。
鬼神の夜叉だと打ち明けたときと同じように、重大な秘密を明らかにするには、タイミングというものが大切なのだ。私だって、両親についての本当のことを話すのは、あのタイミングでなければ言えなかっただろうと思う。
柊夜さんは、ほかにも何らかの大きな秘密を抱えているのかもしれない。
悩みがあるのかということだけでもそれとなく聞いてみたいけれど、近頃の彼は何やらひりついた気配を滲ませているので、声をかけるのを遠慮していた。
いつも帰りが遅いので、仕事が忙しいのかもしれない。
私はすでに出産のため休暇に入っているので出社していないから、その負担もかかっているだろう。
「まあとにかく、無事に産まないことには前へ進めないよね」
妊娠すれば誰もが無事に出産できるとは限らず、帝王切開や死産という結果も聞き及んでいるので、楽観的ではいられない。
いろいろな懊悩はあるけれど、もっとも大切なことは、この子を無事に産むことだ。
改めてそう決意した私は、ずんずんと道を歩み、マンションへ帰り着く。
すると、マンションへ入ろうとしている明るい髪の少年と鉢合わせた。
「あっ……那伽!」
以前、会ったことのある鬼神の那伽だった。彼は若手の鬼神だけれど鬼衆協会の一員で、柊夜さんと一緒にあやかしを取りまとめているのだという。
ところが今日の那伽は、焦燥を滲ませていた。
「花嫁、夜叉は帰ってきてるか?」
「えっ? 今は会社に行ってるけど……」
柊夜さんは昨日の朝の時点で、『忙しいので今夜は帰れないかもしれない』と言っていた。それから連絡がないので心配だけれど、仕事の邪魔をしては悪いから電話をかけてはいない。
「何かあったの? とにかく入って」
那伽をマンションに招き入れる。人目のあるところで、夜叉や鬼神という単語が出ては何かと困りそうだ。
リビングで午睡を貪っているヤシャネコを目にした那伽は呆れた嘆息を零した。
「ヤシャネコ。おまえ、何も知らないのか?」
「むにゃむにゃ……那伽さま。どうかしたにゃん?」
寝ぼけ眼で体を起こしたヤシャネコは大あくびをした。
赤ちゃんの生育は順調で、柊夜さんの結界のおかげか近頃はあやかしに狙われる危険もない。私たちは平和な毎日を享受していた。
那伽の、ひとことが発せられる前までは。
「夜叉が神世に幽閉されたらしいぞ」
意味が掴めず、私は瞬きを繰り返す。
ヤシャネコは毛を逆立てて飛び上がった。
「にゃ……にゃんと⁉」
「オレも詳しいことはわからないが、広目天からの情報だ。今から神世に行って詳細を確かめてくる」
「あの……神世って、何のこと?」
緊迫している雰囲気だが、那伽の話が全くわからない。
柊夜さんが幽閉されている?
会社に行っているはずなのに?
私の疑問に、那伽は丁寧に答えてくれた。
「神世ってのは、鬼神とその眷属が住んでいる世界のことだ。帝釈天の住む須弥山を中心として、四天王と八部鬼衆の居城がある。オレや夜叉なんかは現世に家があるわけだけど、神世にも頻繁に出入りしてるよ。ただ、人間社会に馴染んでいるオレたちを快く思っていないやつらもいるから、注意が必要なんだ」
「那伽や柊夜さんは、神世の鬼神とは敵対関係にあるということ?」
「そういうことだな。夜叉はそいつらと揉めたんじゃないかとオレは睨んでる。夜叉の眷属と居城を手に入れたいやつらはいろいろいるからな。近頃、夜叉が頻繁に神世に出入りしてたから、何かあるんじゃないかと思ってたんだ」
そんなことは全く知らされていなかった。
仕事が忙しいのは会社のほうだと、私は思い込んでいた。
スマホを手にして、柊夜さんに電話をかけるが、通話はつながらなかった。次に会社にかけてみる。すると、昨日の朝にしばらく有給を取るという旨が本人から伝えられていたことを聞かされた。
愕然とした私はスマホを取り落とした。
「そんな……柊夜さん、会社に行ってない……」
どうして。どうして何も言ってくれなかったの?
私は、そんなにも頼りない花嫁なのだろうか。
足元にやってきたヤシャネコは悄然として話しかけた。
「申し訳ないにゃん、あかりん……。おいら、全然知らなかったにゃん……」
「いいの。ヤシャネコは私と赤ちゃんを守るのが役目なんだから。……でも、柊夜さんが私たちに何も言ってくれなかったのは、信用なかったからなのかな……」
しゅんとして肩を落とす私たちに、那伽はスチャッと指でサインを作って見せた。
「それじゃ、オレは神世に行ってくるから」
「ちょ、ちょっと待ってよ、那伽! 私も連れていって!」
踵を返す那伽を慌てて引き留める。
神世がどれほど遠く、どんなところなのか全くわからないけれど、柊夜さんが幽閉されていると聞いたからには呑気に待っていられない。
困ったように眉を下げた那伽は、私のお腹に目をやる。
「いいけどさ……その腹で大丈夫か? 近くのコンビニに行くのとはわけが違うぞ」
もう臨月なので、お腹は大きく突き出ていた。
予定日はまだ先だけれど、いつ赤ちゃんが産まれてもおかしくない状態である。
何かトラブルに見舞われたら、大変な事態になるかもしれない。
でも、柊夜さんがひどい目に遭っているかもしれないと聞いたら、じっとしてなんていられなかった。
「大丈夫よ。結構な距離を歩いても平気だから」
「おいらも行くにゃん!」
ぴょんとヤシャネコがジャンプして、那伽の腕に飛びつく。
すっかりひんやりとした秋の空気が漂い、紅葉の見頃が話題になり始める十月――
私は臨月に入っていた。ついに妊娠三十九週である。
お腹はとても大きくなり、前へ張り出している。もういつ陣痛が訪れてもおかしくない。お腹の子は早く出たいとばかりに、特に入浴中に足でお腹を蹴るので、押さえておくのが大変だ。
性別は聞かないでおくことにしたので、男の子なのか女の子なのかは産まれてからのお楽しみなのだけれど、どうやら元気な赤ちゃんらしい。
私は検診のたびに『順調ですね』という医師の言葉を聞いて、ほっとしていた。
人間だろうが夜叉だろうが、産まれる子にはとにかく健康であることを願っているから。
「私も母親になるんだな……早いものだね」
散歩のために河原沿いの遊歩道を歩き、月日の流れを感じる。
カマイタチの三つ子の兄弟が顔を覗かせていたので、手を振った。彼らの両親はこちらに深くお辞儀をした。どうやら家族仲良く暮らしているようだ。
会社の上司である柊夜さんに孕まされ、同居生活を始めてから早数ヶ月が経つ。お腹の子の神気により私にもあやかしが見えているのだけれど、もうそれが終わりに近づいているのだ。
以前は恵まれない家庭環境のため、おひとりさまを貫こうとしていた私だったけれど、夜叉の子を妊娠して、柊夜さん、そしてヤシャネコと同居生活を始めてから、私の心境に変化があった。カマイタチや迷い兎などのあやかしたちとかかわり、彼らの親子としての絆を見たことも、考えを変える大きなできごとだった。
柊夜さんと、本当の夫婦になりたい。
彼は、『家族で仲良く暮らそう』と言ってくれた。
それは柊夜さんの本心であると思う。彼も、出産を終えて赤ちゃんが産まれてからも、私たち家族が一緒にいるべきと思ってくれているのだ。
けれど……現実として、そうはなれない壁のようなものを、私は柊夜さんの態度から感じ取っていた。
彼が時折見せる、寂しい表情。そこには諦めが滲んでいる。
「どうして何も話してくれないんだろう……」
私が人間だからだろうか。
悩みがあるなら何でも話してほしいのに。
だって、私たちは家族じゃないの?
もう、かりそめ夫婦は終わったんじゃないの?
けれど柊夜さんに詰め寄ることはできなかった。
鬼神の夜叉だと打ち明けたときと同じように、重大な秘密を明らかにするには、タイミングというものが大切なのだ。私だって、両親についての本当のことを話すのは、あのタイミングでなければ言えなかっただろうと思う。
柊夜さんは、ほかにも何らかの大きな秘密を抱えているのかもしれない。
悩みがあるのかということだけでもそれとなく聞いてみたいけれど、近頃の彼は何やらひりついた気配を滲ませているので、声をかけるのを遠慮していた。
いつも帰りが遅いので、仕事が忙しいのかもしれない。
私はすでに出産のため休暇に入っているので出社していないから、その負担もかかっているだろう。
「まあとにかく、無事に産まないことには前へ進めないよね」
妊娠すれば誰もが無事に出産できるとは限らず、帝王切開や死産という結果も聞き及んでいるので、楽観的ではいられない。
いろいろな懊悩はあるけれど、もっとも大切なことは、この子を無事に産むことだ。
改めてそう決意した私は、ずんずんと道を歩み、マンションへ帰り着く。
すると、マンションへ入ろうとしている明るい髪の少年と鉢合わせた。
「あっ……那伽!」
以前、会ったことのある鬼神の那伽だった。彼は若手の鬼神だけれど鬼衆協会の一員で、柊夜さんと一緒にあやかしを取りまとめているのだという。
ところが今日の那伽は、焦燥を滲ませていた。
「花嫁、夜叉は帰ってきてるか?」
「えっ? 今は会社に行ってるけど……」
柊夜さんは昨日の朝の時点で、『忙しいので今夜は帰れないかもしれない』と言っていた。それから連絡がないので心配だけれど、仕事の邪魔をしては悪いから電話をかけてはいない。
「何かあったの? とにかく入って」
那伽をマンションに招き入れる。人目のあるところで、夜叉や鬼神という単語が出ては何かと困りそうだ。
リビングで午睡を貪っているヤシャネコを目にした那伽は呆れた嘆息を零した。
「ヤシャネコ。おまえ、何も知らないのか?」
「むにゃむにゃ……那伽さま。どうかしたにゃん?」
寝ぼけ眼で体を起こしたヤシャネコは大あくびをした。
赤ちゃんの生育は順調で、柊夜さんの結界のおかげか近頃はあやかしに狙われる危険もない。私たちは平和な毎日を享受していた。
那伽の、ひとことが発せられる前までは。
「夜叉が神世に幽閉されたらしいぞ」
意味が掴めず、私は瞬きを繰り返す。
ヤシャネコは毛を逆立てて飛び上がった。
「にゃ……にゃんと⁉」
「オレも詳しいことはわからないが、広目天からの情報だ。今から神世に行って詳細を確かめてくる」
「あの……神世って、何のこと?」
緊迫している雰囲気だが、那伽の話が全くわからない。
柊夜さんが幽閉されている?
会社に行っているはずなのに?
私の疑問に、那伽は丁寧に答えてくれた。
「神世ってのは、鬼神とその眷属が住んでいる世界のことだ。帝釈天の住む須弥山を中心として、四天王と八部鬼衆の居城がある。オレや夜叉なんかは現世に家があるわけだけど、神世にも頻繁に出入りしてるよ。ただ、人間社会に馴染んでいるオレたちを快く思っていないやつらもいるから、注意が必要なんだ」
「那伽や柊夜さんは、神世の鬼神とは敵対関係にあるということ?」
「そういうことだな。夜叉はそいつらと揉めたんじゃないかとオレは睨んでる。夜叉の眷属と居城を手に入れたいやつらはいろいろいるからな。近頃、夜叉が頻繁に神世に出入りしてたから、何かあるんじゃないかと思ってたんだ」
そんなことは全く知らされていなかった。
仕事が忙しいのは会社のほうだと、私は思い込んでいた。
スマホを手にして、柊夜さんに電話をかけるが、通話はつながらなかった。次に会社にかけてみる。すると、昨日の朝にしばらく有給を取るという旨が本人から伝えられていたことを聞かされた。
愕然とした私はスマホを取り落とした。
「そんな……柊夜さん、会社に行ってない……」
どうして。どうして何も言ってくれなかったの?
私は、そんなにも頼りない花嫁なのだろうか。
足元にやってきたヤシャネコは悄然として話しかけた。
「申し訳ないにゃん、あかりん……。おいら、全然知らなかったにゃん……」
「いいの。ヤシャネコは私と赤ちゃんを守るのが役目なんだから。……でも、柊夜さんが私たちに何も言ってくれなかったのは、信用なかったからなのかな……」
しゅんとして肩を落とす私たちに、那伽はスチャッと指でサインを作って見せた。
「それじゃ、オレは神世に行ってくるから」
「ちょ、ちょっと待ってよ、那伽! 私も連れていって!」
踵を返す那伽を慌てて引き留める。
神世がどれほど遠く、どんなところなのか全くわからないけれど、柊夜さんが幽閉されていると聞いたからには呑気に待っていられない。
困ったように眉を下げた那伽は、私のお腹に目をやる。
「いいけどさ……その腹で大丈夫か? 近くのコンビニに行くのとはわけが違うぞ」
もう臨月なので、お腹は大きく突き出ていた。
予定日はまだ先だけれど、いつ赤ちゃんが産まれてもおかしくない状態である。
何かトラブルに見舞われたら、大変な事態になるかもしれない。
でも、柊夜さんがひどい目に遭っているかもしれないと聞いたら、じっとしてなんていられなかった。
「大丈夫よ。結構な距離を歩いても平気だから」
「おいらも行くにゃん!」
ぴょんとヤシャネコがジャンプして、那伽の腕に飛びつく。



