夜叉の鬼神と身籠り政略結婚~花嫁は鬼の子を宿して~

 しばらくそうしてハンカチを口元に当て、好きな女に思いを馳せる。
「このハンカチは……返さなければならないな」
 着服しようというほど、意地汚くはない。上司として、毅然として、忘れ物だと言って居酒屋で返すのが正しい。
 だが、そのとき俺の脳裏に、とある計画が閃いた。
 自分のデスクに戻ると引き出しを開ける。そこには未使用の白いハンカチを置いていた。
 もし、あかりがハンカチを忘れたなどと言い出しはしないかと思い、密かに用意していたものだ。
 どうやら出番がやってきたらしい。透明な袋から純白のハンカチを取り出す。
「既成事実だ……。まずはそれを作ることが、先決だな」
 不穏なことを呟いた俺は、青い蝶のハンカチを鞄の奥にそっと仕舞う。
 いずれ返すが、今は預かっておこう。新品の白いハンカチはすぐに取り出せるように、ジャケットのポケットに入れた。
 そうして揚々とフロアのライトを消し、会社を出たのだった。

 洗い流したオクラをさっくり切り、だし汁とめんつゆを入れた鍋に投入する。それに挽肉を入れてほぐし、ショウガの千切りを加えて、ひと混ぜしたら火から下ろす。
 隣では、あかりが人参をスライサーで薄切りにしている。
「あかり、手を切らないよう気をつけるんだぞ」
「わかってますよ。これくらいは私でもできますから」
 おばあさまの屋敷を訪ね、動物園に寄ったあと、俺たちはマンションに帰宅した。
 迷い兎の一件があり、あかりはしんみりとした気持ちになったようだが、持ち前の明るさを取り戻している。
 俺にとっては、あのようなあやかしにまつわる案件はよく協会から持ち込まれるので、珍しいことではなかった。
 夜叉といっても会社の課長職と似たようなものである。あやかしをまとめる鬼神たる者として、彼らの巻き起こすトラブルを解決しなければならないことが多々ある。
 もっとも、あかりには夜叉の花嫁という負担をかけたくないので、あまり詳しいことを話したくないのだが……。
 ちらりと横目で彼女の腹を見ると、もうかなり大きくなっている。
 おばあさまに『自分の手元で、この子を育てたい』と言ってくれて、嬉しかった。
 明るく前向きな彼女が哀しい過去を持っていることも、初めて聞いたが、それだけ彼女が俺に心を許してくれたという表れではないだろうか。あかりの過去も含め、改めて彼女へ思慕を募らせた。
 だが……。
 俺は軽快に豆腐を切りながら、表情を曇らせる。
 あかりが俺の真の姿を目にしたとき、やはり俺を捨てるかもしれない。
 その恐れは俺の心から拭えない。彼女の性格上、子は連れていくかもしれないが。
 そうなっても、やはり悲劇には違いない。
 巧妙にハンカチを使って彼女を部屋に誘い、妊娠させて逃げられないようにしようと画策したときの俺は意気揚々としていたものだ。
 その計画は成功したわけだが、やはり強引すぎたのではなかったかと後悔が胸をよぎる。
 だが、ふつうに告白することはできなかった。
『鬼神の夜叉なのだが付き合ってほしい』と言って断られたとき、彼女を黙って解放するわけにはいかなくなる。もし秘密が知れ渡ったら、会社にいられなくなるだろう。俺が人間として現世に籍を置くことは、今後の活動を考えれば必要不可欠だ。
 あかりが断れない理由を先に作る必要があった。それが、妊娠だった。
 彼女の胎内に精を注ぐとき、俺の血は最高に滾った。
 俺にとって後継者ができることは無論喜ばしいのだが、本来の目的が子どもというわけではない。あくまでも、好きな女を手に入れる手段だ。
 そう思うと、俺はどうにも最低な男のようだ。
 時々あかりは不安に苛まれているようだが、こんな俺の妻ではそれも無理からぬことだろう。
 かりそめ夫婦という覚束ないふたりの立場は、仮の舞台だった。
 いずれは……という気持ちはもちろんあったが、なかなか言い出すことができない。子が産まれてからでもよいだろうと結論づけていた。
 だから、『家族で仲良く暮らそう』と言ったとき、あかりが礼を述べたのには驚喜した。心の中でだが。
「柊夜さん、オリーブオイルとって」
「……ああ」
 声をかけられて我に返り、あかりにオリーブオイルを手渡す。
 ボウルに投入した薄切りの人参と、皮を剥いたオレンジにミントを加え、そこにオリーブオイルと塩コショウ、レモン汁で味つけする。あかりは大きめのスプーンで、夏に似合うさっぱりしたサラダを混ぜ合わせた。
 普段は俺が料理するのだが、仕事で遅くなるときもあり、あかりはこうして台所に立とうとしてくれる。妊娠中である彼女の体調が心配なので家事などしなくてよいのだが、俺と共同生活を営もうと積極的に考えてくれるのはとても嬉しい。
 オクラと鶏挽肉のさっと煮。オレンジと人参の夏サラダ。それに、ごま油と薬味を効かせた塩麻婆豆腐が今夜の夕飯だ。
 中華鍋から皿に塩麻婆豆腐を盛りつけていると、あかりがごはんをよそい、ダイニングテーブルに器や箸をセットしてくれている。
 準備ができたので席に着き、ふたりで「いただきます」と唱和した。
 俺とあかりは同じタイミングで箸を取り、同じように茶碗を掬い上げる。
 なぜかそこだけは挙動が一致している。俺は少しおかしくなり、いつも笑いをこらえるのに苦慮していた。
「今日は大変だったな。腹は張ってないか?」
「大丈夫ですよ。柊夜さんってば、その質問は十回目じゃないですか?」
「そうだったか。気になるので何度も訊ねてしまうんだ」
「もう。本当にしつこいんだから」
 しつこいというわりには、彼女は朗らかに笑っている。
 俺の子を宿してくれた女の体調が気にならないはずはない。瞬きすら惜しい。ずっと、彼女を見つめていたい。
 これまでは、ひとりの時間が長かった。こうしてふたりで食事ができることは僥倖だ。
 今は、和やかなこの時間を大切にしたい。
 あまり見つめていては不審に思われるので、俺は食卓に目を落とした。
 そうして、ぽつりと呟く。
「風呂の温度は四十二度でいい」
 箸を止めたあかりは瞬きを繰り返す。
 突然、何のことかと思ったようだ。
「えっ? お風呂ですか?」
 今朝の喧嘩のことなど、もう忘れてしまったらしい。
 そんなところも好きなのだが。
 俺は愛しい女に微笑みを向けた。
「今夜は一緒に風呂に入るか」
「えっ⁉ な、何言ってるんですか! 一緒になんて入りませんからね!」
 かぁっと、あかりの頰に朱が射す。
 まるで、ほおずきのように可愛らしい。
 この幸せが少しでも長く続いてくれることを祈りながら、俺はあかりを口説き落とした。