ちなみに私は賃貸アパートのひとり暮らしなので、家を購入した経験は無論ない。
 新築だろうが中古だろうが、家を買おうだなんて、そういうのは結婚というイベントを済ませた人の特権なんじゃないかなと、薄ら思っている。
 ただ、おひとりさまでもマンションを購入しようという層は存在する。
 しかし、おひとりさまは群れないからこそおひとりさまなので、私は意見の異なるおひとりさまの考えを伺ったことがない。メーカーがホームページなどに掲載している購入者の感想は、ありきたりすぎる一文ばかりなのでピンとこない。それゆえ、独身者でマンションを購入しようという勇気あるおひとりさまの気持ちは、実はさっぱり理解できていなかった。
 そんな私の思考を見透かしたのか、課長は嘆息混じりに言葉を重ねてくる。
「そもそも、独身者を募ろうというのに料理教室の開催じゃあ、嫌味みたいだろう」
「といいますと?」
「美味しい料理を作っても食べさせる人はいないという哀しい事実を突きつけることになるよね。独身だと、そういうところに敏感になるから」
「そうですか? 自分で食べても美味しいですよね。それを楽しめるのが、おひとりさまというものです」
 けろりとして、ひとりの楽しさを説く私に、課長は訝しげな視線を向けた。
「星野さんはいつも料理して、いつでもひとりで楽しんで食べられるのかい?」
「私はあまり料理しません。大抵はコンビニですね」
「でも、いつもランチボックスを持ってきているよね?」
 よく見てるなぁ、と思いつつ、私は正直におひとり弁当の中身を答えた。
「日の丸弁当ですよ。端っこにレンチンした鶏の唐揚げをふたつだけ入れるんです。ご飯だけ炊いて、あとはコンビニのおかずを加えて朝昼晩を済ませます。簡単だし時短になるし、便利ですよ」
 何らかの思うところがあったのか、課長は書類を手にしたままじっとこちらを見つめていた。
 きみが料理教室に行きたまえ、という突っ込みが次に入ってきそうである。
「なるほど。とりあえず料理教室は、ありきたりでリノベの意義に欠けるので、この企画書はやり直して」
「了解しました」
 予想に反して、鬼山課長はあっさりと書類を私に返した。
 私としても、自分が料理をしないのに、食べさせる相手もおらず、かつ料理の腕を上げたいとも思っていないおひとりさまが料理教室に参加したいかというと答えは否だ。それが課長と話していて明確にわかった。
 もっと、おひとりさまが興味を引かれるイベントをセレクトするべきだろう。
 リテイクは残念だけれど、もっとよい企画を作らないと。
 早速デスクに戻ろうとする私に、鬼山課長から冷酷な声が降ってくる。
「あと三十分でね」
「……はい」
「それから、英会話教室は前もって却下しておくから」
「……了解しました」
 それは英会話教室が続かなかった私への嫌味だろうか?
 やっぱり鬼山課長は苦手だ。やたらイケメンだけに、より印象が悪いベクトルは深くなる。
 私はそそくさとデスクに戻り、新たな案を絞り出すために動向調査を見直した。

「んふぅ、おいし~」
 ビールジョッキを下ろし、ぷはぁと息をつく。
定期的に会社の懇親会が行われる居酒屋では週末ということもあり、数多くのグループで賑わっていた。
 晴れやかな笑みを浮かべた私に、乾杯の音頭を取ったばかりの鬼山課長が声をかけてくる。
「星野さん」
「はい。なんでしょう、鬼山課長」
 私は弾むような声で問い返した。
 何しろ、一度はリテイクされた企画書が無事に通ったのだ。猶予は三十分しかなかったけれど、独身者を男女とも募り、協同してDIYを体験するという案が閃いた。
 キャッチコピーは、『はじめての協同作業を体験してみませんか?』というもので、出会いの場を提供することを盛り込んでいる。これならDIYや中古マンションに興味がないおひとりさまでも、いい人に出会えるかもしれないという期待を持ってイベントに参加してくれるだろう。
 企画書を一読した鬼山課長の、「いいね」というひとことで思わずガッツポーズを繰り出したのであった。そのあとの懇親会なので、上機嫌にならずにはいられない。普段はあまりお酒を飲まないし、会社の飲み会なんて億劫だけれど、今日ばかりは美味しいビールが飲めそうだ。
 私を呼んだ課長は斜め向かいの少し離れた席から、不思議なジェスチャーを送ってくる。
 人差し指で鼻の下を切るような仕草だ。なんだろう?
 目を瞬かせていると、隣の席の本田さんが笑いながら教えてくれた。
「星野さん、ヒゲのことじゃない?」 
「はい? ヒゲですか?」
 鼻の下に指先を当てると、そこにはビールの泡がくっついていた。
 勢いよくジョッキを傾けたので、泡がついて白いヒゲができていたらしい……。
 顔を赤くしてバッグを探ったが、ハンカチがないことに気がついた。
「あれ……ない。今日、持ってきてたよね?」
 青い蝶がたくさん描かれた柄で、お気に入りの一枚なので、いつも会社に持ってきている。確か、企画書が通った喜びで涙ぐみ、ハンカチで目元を押さえたあとデスクに置いたのだ。そのまま忘れてきてしまったらしい。
 こうなったら、今日はもう偽のサンタクロースでいるしかないのだろうか。
 がっかりしたそのとき、斜め向かいから長い腕が伸ばされる。
「星野さん、これ使って。新品だから」
 鬼山課長が、純白のハンカチを差し出してくれた。
 私はおずおずとハンカチを受け取る。
「え……でも……」
「早く拭きたまえ。見苦しいから」
 周囲から、くすくすと笑いが零れる。
 鼻の下に白いヒゲをつけて、さらにハンカチを忘れてきましただなんて、女子力が低すぎると失笑されても仕方ない。
 俯いた私は、ささっと課長のハンカチで口元を拭った。
 彼の言うとおり、真っ白なハンカチは新品らしく、ふんわりと肌触りが優しい。何の香りもしなかった。
 そういえば、鬼山課長のプライベートって、何も知らないな……。
 無臭のハンカチから、そんなことがふと頭をよぎる。
 独身だということは、もちろん知っている。恋人がいないらしいとも。
 ただそれらの情報は会社の女子社員たちが噂していたもので、真実がどうなのかはわからない。幾人にも告白されて断っているのは、恋人がいるからという理由も考えられるけれど、それならば『付き合っている人がいる』と言えば済むわけだ。わざわざ、『興味がない』と人格を全否定するようなキツい台詞で断ることはないだろう。
 もっとも私は誰からも告白されたことなんてないし、告白したこともないので、モテる課長が何を考えていようが、誰と付き合おうが、すべては遠い世界のできごとである。
 そう、あの女性誌に掲載されている芸能人のように。
 おひとりさまである私が、鬼山課長のプライベートを気にする必要もない。
 乾杯から二時間ほどが経過した。みんながほろ酔いになった頃、赤い顔をした本田さんが唐突に口にする。
「そういえば、佐藤さんフラれたのね。鬼山課長に」
「ひぅっ」
 鶏の唐揚げにレモンを搾っていた私は、その台詞に動揺して力がこもってしまった。レモン汁はあらぬ方向に飛び、私の目に強烈な痛みを及ぼす。