閑話 夜叉の策略と懊悩
気づいているだろうか。
あかりはしばらく前から、『私たち』という語句を使っている。
初めは俺に無理やりといった形で孕まされ、同棲することになったわけで、彼女が反発するのも無理はなかった。しかも俺の正体は鬼神の夜叉である。それを打ち明けられて困惑しないはずがない。
それにもかかわらず、腹の子の成長とともに、あかりは俺をパートナーとして認め始めているのだ。
非常に嬉しくて頬がゆるむ。一ミリほどだが。
あかりを目で追いかけるようになったのは、彼女が入社して間もなくのことだった。
ごくまともな人間として会社の課長という役職に就いている俺は、数々の女性社員から告白されてきた。幼少の頃は『赤い目が鬼みたいで気味が悪い』と、女子たちは囁いていたはずなのに、特殊加工の眼鏡を装着するだけでこうも女は態度を変えるものなのか。
俺に言わせれば、その掌返しが気味悪い。俺の中身は何も変わらないのだから。
星野あかりは、少々の状況の違いで態度を変えるそういった女たちとは異なっていた。
まず、俺に色目を使わない。
それどころか俺が苦手なようである。
人間の男としてはイケメンという部類に入る俺は、女たちの視界に入ると秋波を送られる。彼女たちの結婚適齢期という事情もあるのだろう。俺はいつまで経っても独身なので、余計に結婚相手の候補として挙げられてしまう。非常に迷惑なのだが。
俺の正体を明かせば、お得意の掌返しを受けることは明白だ。
彼女たちは安穏とした結婚生活を望んでいるのであって、夜叉の旦那などという大荷物を背負いたいわけがない。
俺の運命は波乱に満ちている。
現世だけでなく、帝釈天とその配下の住む神(かみの)世(よ)にも出入りし、ふたつの世界の均衡を保たねばならない。現世に居を移している我々の眷属を、快く思わない神世の鬼神もいる。鬼神たるもの、愚劣な人間などと交わるなど穢らわしいというのが彼らの主張だ。
哀しいことに、人間の世界と同じように鬼神の間でも、分裂しているのである。
鬼神の敵は、鬼神なのだ。
彼らは時に俺を追い落とそうとして、攻撃を仕掛けてくる。那伽は鬼神のなかでは友好的な部類ではあるが、異なる眷属であるので、仲間というわけではない。奴の上司は広目天であり、父親である先代の那伽だ。彼らの命令を受けさえすれば、那伽は簡単に俺を打ち倒し、夜叉の眷属を取り込もうとするだろう。
多聞天は高齢なので、眷属に害が及ばないよう配慮するのは俺の役目だ。
それらの事情を理解し、支えてくれる人間の女などいないだろう。
ゆえに、どの女とも関係を持つということはない。結婚もしない。子を作ることもない。次代の夜叉は、眷属のなかから誰かを選ぶことになる。
そう決めていたはずだったのだが……星野あかりのことは気にかかる。
「盗み聞きとは感心しないね。星野さん」
「そんなつもりじゃなかったんですけど。社内の廊下で告白なんかしてたら、誰かが通りかかってもおかしくないですよ」
あかりの落とした雑誌を、ぽんと頭に乗せてやる。
女性社員から食事に誘われてもすべて断っているので、彼女たちは社内で告白してくる。そうすると、あかりの耳に入るのも必定だ。
正直に言えば俺が興味があるのは彼女なのだが、未だに仕事の話以外はしたことがないのが現状である。
「まったくだ。ところで、三川不動産の案件だけど、企画書はできたかな?」
「……まだです」
「そうだろうね。あと一時間で完成させてね」
さらりと告げると、彼女は目を見開いた。
そんなに見つめられると、どきりとするので、ますます俺は横暴な上司と化してしまう。
「一時間ですか⁉ それはちょっと……」
「俺はね、充分待ったよね。でも星野さんの事情も考慮して、譲歩してあげるよ。一時間五分にしよう」
唖然としている表情をたっぷりと眺める。好きな子に意地悪をしたくなる悪ガキの気持ちを、俺は充分に理解した。
「あとね、今日の懇親会は参加してね。星野さんは習い事があるといって毎回不参加だけど、英会話教室をやめたことは知っているから」
「……なんでそんなこと知ってるんですか……」
ヤシャネコに動向を探らせているのである。
英会話を習っているだとか言って毎回飲み会を断るので、教室に男でもいるのかと気になって仕方なかった。
だがヤシャネコからの報告によれば、真面目に講義を受けているだけだという。しかも、早々に飽きてしまったようだ。やめていなければ俺も偶然を装って、その教室に参加していただろう。
この辺りからもうすでに、俺はこの女を自分のものにしなければ気が済まないのだろうなという確信があった。
あかりは絶世の美女だとか、そういう類いの女ではないのだが、笑顔が可愛い。
何より俺が惹かれる要素を持っている。
それが何かと己の胸に問い質してみれば……。
「不屈だ。彼女は簡単に萎れない。不屈の精神を持っている」
彼女のその姿勢は仕事ぶりでわかる。どんなに俺に意地の悪い指示を受けようとも、諦めない不屈の精神でこなす。ほかの人間に迎合したり、まして人の悪口や愚痴を述べたりもしない。ただ懸命にやり遂げている。
それは簡単なようで、なかなか難しいことだった。
人とは弱い生き物なので、つい悪しき方向へ流れがちなのである。
彼女がいかにしてそのような性質を持つに至ったのか、一切聞いたことはない。おひとりさまを貫いているので、恋人がいないという情報だけは把握している。
なんとかしてプライベートな話題に持っていきたいものだ。
ただそうなると、俺が夜叉だということも打ち明けなければならない……かもしれない。
いくら彼女でもその事実には耐えられないだろう。
『この男は付き合う対象じゃない』と、あかりにだけは思われたくない。
しかしそうすると、ふたりの関係は上司と部下から一歩も進まないのだろうな……。
懊悩する俺は、粛々と仕事をこなし、あかりの提出した企画を通した。
俺の苦悩など彼女は知る由もなく、企画が通ったことに喜びを見せる。
無垢なその笑顔に、密かに胸を綻ばせるが、同時に心の悩みは深まった。
やがて業務時間が終了し、社員たちは懇親会の行われる居酒屋へ向かうべくフロアをあとにする。
あかりも同僚たちと一緒に出かけていったのを、目の端で確認した。
仕事の処理をして、最後までフロアに残った俺は席を立つ。
「さて……行くか」
今夜はあかりがいるので、ほどよい気分で飲めるだろう。できれば彼女の隣に陣取り、プライベートなことなど話してみたいが、この部署にも俺がフッた女たちが何人かいるので、期待は持てない。一度も寝てもいないのに、彼女たちはなぜか俺の動向を注視している。自分のものにならなかった男が、ほかの誰かと付き合うのは我慢がならないものなのだろう。
狭量とはいえない。
もし俺があかりに告白して断られ、同じ部署の男性社員と付き合うなどということになれば、祝福などできないからだ。その嫉妬も含めて、恋というものなのだろう。
そんなことを考えながら、ふと、あかりのデスクに目を落とす。
「……これは」
デスクに、青い蝶が描かれたハンカチがぽつんと置かれていた。
これはあかりがよく使用しているものだ。汗や手を拭くときに使っているところを、よく見かける。どうやら忘れていったらしい。
俺は慎重に、青い蝶に触れた。
彼女が使用したハンカチだ……。
手にして、口元に持っていく。
匂い立つその香りを深く吸い込み、陶然とした。
気づいているだろうか。
あかりはしばらく前から、『私たち』という語句を使っている。
初めは俺に無理やりといった形で孕まされ、同棲することになったわけで、彼女が反発するのも無理はなかった。しかも俺の正体は鬼神の夜叉である。それを打ち明けられて困惑しないはずがない。
それにもかかわらず、腹の子の成長とともに、あかりは俺をパートナーとして認め始めているのだ。
非常に嬉しくて頬がゆるむ。一ミリほどだが。
あかりを目で追いかけるようになったのは、彼女が入社して間もなくのことだった。
ごくまともな人間として会社の課長という役職に就いている俺は、数々の女性社員から告白されてきた。幼少の頃は『赤い目が鬼みたいで気味が悪い』と、女子たちは囁いていたはずなのに、特殊加工の眼鏡を装着するだけでこうも女は態度を変えるものなのか。
俺に言わせれば、その掌返しが気味悪い。俺の中身は何も変わらないのだから。
星野あかりは、少々の状況の違いで態度を変えるそういった女たちとは異なっていた。
まず、俺に色目を使わない。
それどころか俺が苦手なようである。
人間の男としてはイケメンという部類に入る俺は、女たちの視界に入ると秋波を送られる。彼女たちの結婚適齢期という事情もあるのだろう。俺はいつまで経っても独身なので、余計に結婚相手の候補として挙げられてしまう。非常に迷惑なのだが。
俺の正体を明かせば、お得意の掌返しを受けることは明白だ。
彼女たちは安穏とした結婚生活を望んでいるのであって、夜叉の旦那などという大荷物を背負いたいわけがない。
俺の運命は波乱に満ちている。
現世だけでなく、帝釈天とその配下の住む神(かみの)世(よ)にも出入りし、ふたつの世界の均衡を保たねばならない。現世に居を移している我々の眷属を、快く思わない神世の鬼神もいる。鬼神たるもの、愚劣な人間などと交わるなど穢らわしいというのが彼らの主張だ。
哀しいことに、人間の世界と同じように鬼神の間でも、分裂しているのである。
鬼神の敵は、鬼神なのだ。
彼らは時に俺を追い落とそうとして、攻撃を仕掛けてくる。那伽は鬼神のなかでは友好的な部類ではあるが、異なる眷属であるので、仲間というわけではない。奴の上司は広目天であり、父親である先代の那伽だ。彼らの命令を受けさえすれば、那伽は簡単に俺を打ち倒し、夜叉の眷属を取り込もうとするだろう。
多聞天は高齢なので、眷属に害が及ばないよう配慮するのは俺の役目だ。
それらの事情を理解し、支えてくれる人間の女などいないだろう。
ゆえに、どの女とも関係を持つということはない。結婚もしない。子を作ることもない。次代の夜叉は、眷属のなかから誰かを選ぶことになる。
そう決めていたはずだったのだが……星野あかりのことは気にかかる。
「盗み聞きとは感心しないね。星野さん」
「そんなつもりじゃなかったんですけど。社内の廊下で告白なんかしてたら、誰かが通りかかってもおかしくないですよ」
あかりの落とした雑誌を、ぽんと頭に乗せてやる。
女性社員から食事に誘われてもすべて断っているので、彼女たちは社内で告白してくる。そうすると、あかりの耳に入るのも必定だ。
正直に言えば俺が興味があるのは彼女なのだが、未だに仕事の話以外はしたことがないのが現状である。
「まったくだ。ところで、三川不動産の案件だけど、企画書はできたかな?」
「……まだです」
「そうだろうね。あと一時間で完成させてね」
さらりと告げると、彼女は目を見開いた。
そんなに見つめられると、どきりとするので、ますます俺は横暴な上司と化してしまう。
「一時間ですか⁉ それはちょっと……」
「俺はね、充分待ったよね。でも星野さんの事情も考慮して、譲歩してあげるよ。一時間五分にしよう」
唖然としている表情をたっぷりと眺める。好きな子に意地悪をしたくなる悪ガキの気持ちを、俺は充分に理解した。
「あとね、今日の懇親会は参加してね。星野さんは習い事があるといって毎回不参加だけど、英会話教室をやめたことは知っているから」
「……なんでそんなこと知ってるんですか……」
ヤシャネコに動向を探らせているのである。
英会話を習っているだとか言って毎回飲み会を断るので、教室に男でもいるのかと気になって仕方なかった。
だがヤシャネコからの報告によれば、真面目に講義を受けているだけだという。しかも、早々に飽きてしまったようだ。やめていなければ俺も偶然を装って、その教室に参加していただろう。
この辺りからもうすでに、俺はこの女を自分のものにしなければ気が済まないのだろうなという確信があった。
あかりは絶世の美女だとか、そういう類いの女ではないのだが、笑顔が可愛い。
何より俺が惹かれる要素を持っている。
それが何かと己の胸に問い質してみれば……。
「不屈だ。彼女は簡単に萎れない。不屈の精神を持っている」
彼女のその姿勢は仕事ぶりでわかる。どんなに俺に意地の悪い指示を受けようとも、諦めない不屈の精神でこなす。ほかの人間に迎合したり、まして人の悪口や愚痴を述べたりもしない。ただ懸命にやり遂げている。
それは簡単なようで、なかなか難しいことだった。
人とは弱い生き物なので、つい悪しき方向へ流れがちなのである。
彼女がいかにしてそのような性質を持つに至ったのか、一切聞いたことはない。おひとりさまを貫いているので、恋人がいないという情報だけは把握している。
なんとかしてプライベートな話題に持っていきたいものだ。
ただそうなると、俺が夜叉だということも打ち明けなければならない……かもしれない。
いくら彼女でもその事実には耐えられないだろう。
『この男は付き合う対象じゃない』と、あかりにだけは思われたくない。
しかしそうすると、ふたりの関係は上司と部下から一歩も進まないのだろうな……。
懊悩する俺は、粛々と仕事をこなし、あかりの提出した企画を通した。
俺の苦悩など彼女は知る由もなく、企画が通ったことに喜びを見せる。
無垢なその笑顔に、密かに胸を綻ばせるが、同時に心の悩みは深まった。
やがて業務時間が終了し、社員たちは懇親会の行われる居酒屋へ向かうべくフロアをあとにする。
あかりも同僚たちと一緒に出かけていったのを、目の端で確認した。
仕事の処理をして、最後までフロアに残った俺は席を立つ。
「さて……行くか」
今夜はあかりがいるので、ほどよい気分で飲めるだろう。できれば彼女の隣に陣取り、プライベートなことなど話してみたいが、この部署にも俺がフッた女たちが何人かいるので、期待は持てない。一度も寝てもいないのに、彼女たちはなぜか俺の動向を注視している。自分のものにならなかった男が、ほかの誰かと付き合うのは我慢がならないものなのだろう。
狭量とはいえない。
もし俺があかりに告白して断られ、同じ部署の男性社員と付き合うなどということになれば、祝福などできないからだ。その嫉妬も含めて、恋というものなのだろう。
そんなことを考えながら、ふと、あかりのデスクに目を落とす。
「……これは」
デスクに、青い蝶が描かれたハンカチがぽつんと置かれていた。
これはあかりがよく使用しているものだ。汗や手を拭くときに使っているところを、よく見かける。どうやら忘れていったらしい。
俺は慎重に、青い蝶に触れた。
彼女が使用したハンカチだ……。
手にして、口元に持っていく。
匂い立つその香りを深く吸い込み、陶然とした。



