夜叉の鬼神と身籠り政略結婚~花嫁は鬼の子を宿して~

 ウサギは声帯がないので、声を発することができない。
 お腹から息を出して音を発生させられるが、歌うようにとはいかないだろう。それとも、母親もあやかしなので歌うことができるのだろうか。
 そのとき、私の耳に涼しげな歌声が響いてきた。
 優しい声音で紡がれる歌は、路地の角にある一軒家から流れてくる。
 長い耳をぴんと立てた迷い兎は、目を輝かせる。
「あっ……あの歌だ! ママの歌だ!」
 私の幻聴ではない。
 か細いけれど、確かに歌声が聞こえる。
 迷い兎は角の家めがけて走っていった。
 柊夜さんは驚いた顔をしたけれど、すぐに険しい表情を形作る。
「行きましょう、柊夜さん!」
「いいか、あかり。決して俺の前に出るな」
「……わかりました」
 何かに警戒しているのか、柊夜さんは迷い兎が向かった家へ慎重に歩を進めた。
 私たちが家の門前へ辿り着いたとき、庭木にとまっていたカラスの大群が一斉に羽ばたく。そして、歌はぴたりとやんだ。
 漆黒の羽が舞い散り、古びた邸を露わにした。
「え……ここが……?」
 そこは確かに、白い壁の大きな家だった。迷い兎の言うとおり、庭には大きな樫の木があり、その枯れた枝にカラスがとまっていたのだ。
 けれど……ここは廃屋だ。
 庭は雑草が伸び、荒れ放題なのが錆びついた門の向こうに見て取れる。かつては美しい白い壁の瀟洒な邸宅だったと思われる家は、汚れた外壁が剥がれ落ち、草の生い茂る庭に無残に散らばっていた。
 鬱蒼とした様子はとても人が住んでいるとは思えない。
 柊夜さんが錆びた門を開けると、ギイ……と軋んだ音が鳴る。迷い兎は敷地内へ飛び込んでいった。
「ママ! ボク、帰ってきたよ!」
 呼びかけに応えるように、すうと玄関扉が開いた。
 中から現れたのは、優しげな面立ちをした若い女性だった。
 彼女は目を細めて迷い兎を見やる。
「ユウタ……帰ってきてくれたのね」
 迷い兎が母親と言っていたのは、人間の女性なのだ。彼女が飼い主ということだろうか。
 まっすぐに女性の胸に飛び込んだ迷い兎を、抱き上げた彼女は優しく撫でる。
 私の胸に疑問符が湧いた。
 夏場なのに、彼女は冬物のワンピースを纏い、厚手のショールまでかけている。それなのに汗ひとつ掻いておらず、顔色はひどく青白かった。
「ごめんね……ママは、ここから離れられないから……ユウタのこと探しにいけなかったの」
「ううん、いいんだよ。ボクがママのこと、見失っちゃったんだ。でもこれからは、ママの傍にいるからね、ずっと」
 迷い兎はそう呟くと、ぎゅっと女性の胸に顔を埋めた。
 白いウサギを抱いた女性はそれまで私たちの存在に気づいていないかのようだったけれど、ふいにこちらに目を向ける。
 そのとき、ぽうっと迷い兎が柔らかな光を放った。
 まるで、道標となる明かりのように。
 腕を上げた柊夜さんが、ふたりのその先を指し示す。
「行くか」
 その言葉に、女性はこくりと頷いた。
 柊夜さんの指先が五芒星を刻む。
 すると、青白く浮き上がった星の明かりが広がり、庭の一角にアーチを描いた。
 踵を返した女性は迷い兎を抱きながら、光のアーチをくぐり抜ける。柔らかな輝きが、ふたりを包み込んだ。
「……ありがとう」
 静かな女性の呟きを残し、すうっと光が消滅する。
 私が瞬きをしたときにはもうそこには、光のアーチも、ふたりの姿もなかった。
 ただ夕陽に照らされる寂しい廃屋があるばかり。
 カラスが飛び去ったあとの枯れ木の枝が、風に揺れている。
 目の前で繰り広げられていた光景に呆然としていた私は、ぽつりと呟いた。
「ふたりは……どこに行ってしまったんでしょうか。あの女性はいったい……」
「彼女は、すでに生者ではない。おそらく、かつてこの家に住んでいたのだろう。黄泉へ行くことができないでいるようなので、俺は道を開いてやったまでだ」
 迷い兎は現世で迷っている魂を、黄泉へ導くあやかし。
 あの女性はもう、死んでいたのだ。
 ユウタと名を呼ばれた迷い兎は、かつて彼女が飼っていたウサギなのだろうか。それとも、彼女よりも先に死した、人間の子どもなのだろうか。
 切なさに胸が締めつけられた私は、ふたりが去っていった庭の一角をいつまでも見つめていた。
 やがて柊夜さんが、そんな私に言葉をかける。
「彼らはもう、旅立っていった。俺たちも帰ろう」
「そうですね……」
 私たちは、夕陽に赤々と照らされた廃屋をあとにした。
 迷い兎と女性が、無事に黄泉へ辿り着けることを願いながら。

 動物園の駐車場へと戻る道すがら、私は何気ないふりをして、柊夜さんに語りかけた。
「そういえば、私の両親について、まだ詳しいことを話していませんでしたよね」
「ああ……。かりそめ夫婦だと両親に説明されるのは困るということだったな。だが、同居しているのだから挨拶くらいはしてもいいだろう。俺はいつになったら、あかりの実家に連れていってもらえるんだ?」
 柊夜さんの、まるで期待しているかのような言い分に目を見開く。
「え……行きたいんですか? 私の実家に」
「当たり前だろう。実家に連れていかないということは、パートナーとして認めていないという表れだ。確かに、かりそめ夫婦という契約ではあるのだが、きみはおばあさまに、自らの手で子を育てたいと明言した。その子の父親である俺は、きみのパートナーだろう」
 柊夜さんの言うとおりだ。実家に連れていくという行為はつまり、パートナーとして認めていることの表明に違いない。柊夜さんは今日、私を実家であるお屋敷に連れていき、おばあさまに会わせてくれたのだから。
 それならば私のほうも、柊夜さんを実家に連れていくべきである。
 私たちは、お腹の子の存在により、少しずつ前へと進んでいる。
 本当にちょっとだけれど、変わろうとしている。
 だから、柊夜さんに正直に打ち明けよう。
 紅色に染まる薄い雲を見上げながら、私は努めて明るく告げた。
「ないんです。実家」
「……うん? どういう意味だ」
「田舎に両親がいるなんて、嘘なんです。母は、私が中学生のときに病気で亡くなりました。そのあとは親戚の家に厄介になって、卒業してから上京したので、それっきりですね」
「そうか……。お父さんは?」
 私は、ゆるく首を左右に振る。
「いません。私が産まれてすぐに離婚したそうで……一度も会ったことないんです」
 実家があって、そこにはお父さんとお母さんがいる。
 その世間の常識に、私は当てはまらなかった。
 自分の居場所も、産まれてきた意味も、親の愛情も、何も持てなかった。
 だからそんな私が、おひとりさまであることは、ごく当然の生き方だったのだ。
「本当のことを話すと可哀想な人という扱いをされちゃうので、周りには『田舎の実家に両親がいる』って適当なこと言ってたんですよね。嘘ついて、ごめんなさい」
「いや、それはかまわない。俺も夜叉であることを隠していたわけだしな。誰にでも、人には言えない秘密があるものだろう」