夜叉の鬼神と身籠り政略結婚~花嫁は鬼の子を宿して~

 ウサギ小屋は広場のすぐ傍にあり、網越しにたくさんのウサギが飼われている様子が見て取れる。
 白ウサギは、ふるりと首を左右に振った。
「ちがうよ。仲間がいるのかなと思ってここへ来てみたけど、彼らはボクとは違うんだ。ボクはママと一緒に綺麗なおうちで暮らしてるんだよ」
「そうなのね。ママと住んでる家はこの辺りなの?」
「どうかなぁ。よくわからないよ。この近くだと思うんだけど」
 曖昧に答えた白ウサギは、心配そうな表情で辺りを見回した。
 すかさず柊夜さんが詰問する。
「母親とここまで一緒に来て、はぐれたんじゃないのか? 母親はおまえを放置して、どこへ行ったんだ」
「……えっと、どうだったかな……」
 自信なさげに俯く白ウサギの様子から、私は何となく事情を察した。
 もしかして、この子は母親に置いていかれただとか、そういうことだろうか。それとも逆に、母親と喧嘩して家を出てきて迷子になったということかもしれない。どちらにしろ、母親を見つけないことには解決できないだろう。
「とにかく、この子のママか、住んでいる家を捜してみましょうよ」
 私の提案に、ぱっと顔を上げた白ウサギは後ろ足でぴょんと跳ねる。
「そうだよ! きっとママはもう家に戻ってるんだ。こっちのほうだったと思う」
 跳ねていく白ウサギのあとを追って、私たちは動物園から出た。
 何となく家の方角がわかっているのなら、すぐに母親にも会えるだろう。
 安心している私に、神妙な顔つきをした柊夜さんは低い声で話す。
「油断するな、あかり。あのあやかしは、迷(まよ)い兎(と)だ」
「迷い兎……? なんですか、それ」
「現世(うつしよ)で迷っている魂を、黄泉に連れていくあやかしだ。純粋なウサギの姿で人を惑わす。俺たちを黄泉に連れていこうとしているのかもしれないぞ」
 柊夜さんの説明に驚いた私は、前を駆けていく白ウサギの後ろ姿を見やった。
 あの子は、『迷い兎』という名のあやかしなのだ。さまよえる魂を求めて、迷い兎自身もまた、迷い歩いているように見えるのかもしれない。
「あの子が……? まるで死神の使いのような役目ですね。そんなに凶悪なあやかしには見えないですけど」
「見た目だけで判断するな。もし、迷い兎が妙なことをしようとしたら、すぐに俺が処分する」
「処分だなんて……待ってください。あの子はママを捜していると言ったじゃないですか。無事に家に帰ってママに会えたなら、問題ないわけでしょう?」
「まあ、ひとまず様子を見るか」
 柊夜さんは、迷い兎が嘘を言って、私たちを黄泉へおびき寄せようとしているのだと疑っているようだ。
 そんなはずない、と私の心が訴える。
 きっとあの子は、純粋に母親を捜しているだけのはず。
 ふと足を止めた迷い兎は、こちらを振り向いた。
「どうかしたの?」
「う、ううん。何でもないの。あなたのおうちは、どんな外観なのかな。壁は何色?」
「真っ白だよ。ボクの毛と同じ色だね。とっても大きなおうちなんだ」
 迷い兎は嬉しそうな顔をして、淀みなく答える。
 彼は裕福な家に住んでいるのだろうか。ヤシャネコのように、鬼神に仕えているあやかしもいるが、迷い兎は柊夜さんを見ても恐れる様子はない。まるで鬼神のことなんて知らないかのような、無垢そのもののウサギだ。
「ママは、どんな感じなのかな」
「とっても優しいよ。ふわふわしてる。ボクのこと、愛してるって言って、大事にしてくれるよ」
 優しくて子どもを愛してくれる、理想的な母親だ。
 私はママの外見を訊ねたかったのだけれど、返ってきた答えは母親の内面から滲み出るものだった。子どもにとっての親の印象を左右する核とは心根であると、私は知らされた。
 迷い兎の話を聞くと、母親と何らかのトラブルがあったとは思えない。本当に迷子になっただけなのかもしれない。
 けれど、迷い兎の足を向けるままに街を歩いても、白い壁の大きな家は見当たらなかった。
「それらしき家はないですね……」
「だから、迷い兎の虚言なんだろう」
「決めつけないでくださいよ。どうして嘘だってわかるんですか」
 問いかけると、柊夜さんは口を開きかけたが、なぜか一旦噤む。
 彼の視線の先には、迷い兎が揺らす白くて丸い尻尾があった。
「子どもに愛してるなんて、わざわざ言う親が、いるか?」
 そのひとことに、私は呼吸を止める。
 ずしりと重い氷塊が、背に伸しかかった気がした。
「それは……世の中には、いるんじゃないでしょうか」
 私は辿々しく返答した。
 私自身は両親に『愛してる』なんて言われたことはない。
 言われるわけがなかった。
 毎日同じ家の中にいたら、いったいどういう話の流れで『愛してる』なんて言うのだろう。たとえ心で思っていたとしても、口にする親はどれほど世の中に存在するのだろうか。自分が経験したことのないものなので、まるでわからない。
 柊夜さんも、両親の愛情を受けずに育ったので、親の愛というものを信じることができないのだろう。
 おそるべきは、こんな私たちがもうすぐ産まれる子どもの親になるという事実だった。
 そのことに私は背筋を震わせる。
 私は自分の両親について、柊夜さんに何も話していない。
 どうせ、かりそめ夫婦なのだから、このまま話さずにやり過ごそうと考えていた。
 けれど、私たちが親になる前に、過去を昇華しておくべきなのだ。柊夜さんだって、おばあさまに会わせてくれて、私に過去の様々なことを話してくれた。
 考え込む私の腕を、柊夜さんはそっと掬い上げる。
「あかり。疲れていないか?」
「え……いいえ。大丈夫です。とにかく、迷い兎の家とママを見つけないといけませんね」
「まあな。腹が張ってきたら、すぐに言うんだぞ」
「わかってます」
 柊夜さんの腕に手を回して、歩を進める。あちらこちらの路地に入っては出てくる迷い兎は、次第に元気がなくなっていった。
 しゅんと耳を垂らしている。
「おかしいなぁ……どこだったかな」
「迷い兎。いい加減に虚言だったと認めたらどうだ。母親のことは作り話なんだろう?」
 遠慮のない柊夜さんの物言いに、むっとした迷い兎は唇を尖らせた。
「作り話なんかじゃない! ボクのママは本当にいるんだぞ!」
「では、根拠を示せ。闇雲に探し回っても見つかるわけもないだろう」
 柊夜さんは迷い兎を試しているんだ。
 私は迷い兎が嘘を言っているとは思わないけれど、たとえ真実だとしても、確かにこのままでは埒があかないだろう。ほかに家か母親を発見できるヒントがほしいところだ。
「白い家とか、優しいママのほかに、これだとはっきりわかるような特徴はない? 柊夜さんの言う根拠って、そういう意味ですよね」
「まあな。そういうことでいい」
 天を見上げた迷い兎は、鼻をぴくぴくと動かした。
「えっと……そうだ! 夕方になると、庭の木にカラスがたくさん集まるんだ。そのときにママはカラスを見て歌を歌ってた。ちょうど、今くらいの空のときだよ」
 西へ傾いた太陽は燃えるように赤々として、空を茜色に染め上げている。
 その空を一羽のカラスが横切っていった。
 迷い兎の言葉に、私は首を傾げる。
「歌を……?」