夜叉の鬼神と身籠り政略結婚~花嫁は鬼の子を宿して~

 かりそめ夫婦として契約し、子どもは鬼神の一族に預けると初めに取り決めたところから、一切の変更はない。
 一緒に暮らしているのにそういった大事なことは話さず、つまらない日常のいざこざで喧嘩をしていた状態なのだ。
 私の胸の裡では何度も迷いは生じたのだけれど、話し合おうという勇気が持てなかった。
 だって、かりそめ夫婦だから。
 それにもし私が、『子どもを手放したくない』だとか、『本当の夫婦になりたい』なんて言い出したら、柊夜さんに嫌がられてしまうことは必至だ。彼が人間の私に、鬼神の世界に関わってほしくないと思っているのは、態度でわかる。
 だから柊夜さんには話せなかった。
 それなのに何の相談もなく、おばあさまに本心を打ち明けてしまった。
 柊夜さんにしてみれば、契約違反だと言いたいところだろう。
 自分の手元で育てたいとは言ったものの、夫婦ふたりで……とは明言していない。あくまでも私がひとりで育てるという内容になっている。
 彼に子を育てようという気はないのかもしれない。
 その証拠に、柊夜さんは子の行く末について私とおばあさまが話しているとき、ずっと黙っていた。
 ということは、出産したらシングルマザーになるわけだろうか。
 それも覚悟しなければならないだろう。
 お父さんとお母さんがいて、赤ちゃんのいる幸せな家庭。
 どこにでもあるような幸福は、私にとってひどく遠い。
 しゅんとして肩を落とす。
 ふいに柊夜さんは、街路へ向けてハンドルを切った。
 すぐにマンションには戻らないらしい。この辺りの街は柊夜さんが子どもの頃を過ごした土地なのだ。初めて訪れた私は、目を細めて街並みを眺める。
「柊夜さんが子どもの頃、この辺りで遊んだんですか?」
「遊ぶということはしなかったな。目が赤いのがおかしいと言われるのが嫌で、友達を作らなかった。いつも俯いて眼鏡をかけていて、陰気な子どもだったよ」
「そうだったんですね……。そんな内気な男の子が大人になると鬼上司に変貌するわけですか。世の中は不思議でいっぱいです」
「おいおい。そこは慰めるところじゃないのか」
 ふっと柊夜さんが笑ってくれたので、私も釣られて微笑んだ。
 よかった。柊夜さんに笑顔が戻って。
「あかり。体調はどうだ?」
「大丈夫です。今日は涼しいから、気分もいいです」
「そうか。少し寄り道してもいいか?」
「ええ、もちろん」
 とある駐車場へ車は滑り込む。そこには官舎のような建物があり、その隣の敷地にこぢんまりとした広場が見えた。
 広場には金網がついた小屋のような棟が並んでいる。
「ここは町が運営する無料の動物園だ。誰でも自由に見学できる。象のような大きな動物はいないが、山羊とキツネがいるぞ」
 私は麦わら帽子を被り、車を降りる。夏のぬるい風が肌にまとわりついた。
 折角連れてきてもらったのだから、楽しもう。鬱々とした気分は振り払わないとね。
 柊夜さんとともに赴くと、園内は家族連れで賑わっていた。金網の向こうには山羊やポニー、アヒルなどたくさんの動物がおり、のんびりと餌を食べている。
「動物園に来たのなんて、すごく久しぶり。柊夜さんは子どものときに、よくここを訪れたんですか?」
「ああ……まあ、たまに。ひとりでな」
「ひとりで?」
 ご両親や友達とは……という言葉を、私は喉元で呑み込んだ。
 柊夜さんは夜叉という生まれゆえに、孤独な子ども時代を送ってきたのだ。
「無料だからな。いつでも気軽に来られたんだ」
 柊夜さんは気まずそうに眼鏡のブリッジを押し上げる。
 普段の強引で傲慢な態度からは想像もできなかった彼の孤独な過去を垣間見た私は、そっと柊夜さんの手を握った。
「今は、ふたりですね」
 驚いたように目を瞠った柊夜さんに、笑いかける。
 つと気づいた私は、言い直した。
「あ、三人だった。お腹の赤ちゃんもいるから」
「……そうだな」
 低く呟いた柊夜さんは、何事かを考え込むように、それきり口を閉ざす。
 かりそめの家族でもいい。そう思えた。
 ここに三人でいるということは、紛れもない事実なのだから。
 私たちは周りにいる家族連れと何ら変わりない、家族なのだ。
 屋外は熱気が籠もっているので、つないだ柊夜さんの掌から伝わるひんやりとした感触が心地好い。
 私たちはゆっくりと園内を歩いた。暑さでぐったりと寝そべっているキツネや、豪奢な羽を広げる孔雀たちを順路に沿って眺める。
 そうしていると、広場の中心から子どもたちの歓声が響いてきた。
 柵で仕切られた一角に、動物園のスタッフがウサギを放している。
 そのウサギたちを、子どもたちが笑顔で触れていた。子どもたちが動物とふれあいのできる日常的なイベントらしい。
「ふふ。ウサギはもふもふして可愛いけど、子どもたちも同じくらい可愛いですね」
「子どもも小動物には違いないからな。……あかりは、子どもが好きなのか?」
「好きですね。まわりに小さな子がいないから、子どもの面倒を見たことはないんですけど……」
 私には弟や妹がいないし、小さな親戚の子に会ったこともない。
 そういった肉親のつながりに無縁だった。
 だから、誰かの親になんて、なれないだろうか。
 ちらりと不安が掠めたとき、柊夜さんの何気ない台詞に救われる。
「これから、見ることになるだろう」
「そうですよね。楽しみです」
 今日はおばあさまに会い、柊夜さんの過去を知ることができた。私も、自分のことについて、柊夜さんに話しておきたいという想いが沸き上がる。
「あの……柊夜さん」
 話しかけたそのとき、芝生を駆けてやってきた一匹のウサギが、私たちの前で立ち止まる。
「あれ? 迷子になったのかな」
 柵を越えてしまったのだろうか。
 戻してあげようと手を伸ばすと、純白のウサギはひょいと立ち上がった。
「もしもし。きみたち、ボクの姿が見えてるよね?」
「えっ……喋った……。もしかして、あなたはあやかしなの?」
「そうかもね。でもさ、そんなこと気にしなくていいんじゃないかな」
 妙に達観した白ウサギは、長い耳をぴょこぴょこと動かす仕草が可愛らしい。
「みんなにはボクが見えないから、お願いをすることができないんだよね」
「お願いというと……?」
 私の疑問に、白ウサギは赤い目をきらきらと輝かせ、ぴょんぴょん飛び跳ねた。
「ボクのお願い、特別にきみに叶えさせてあげてもいいけど、どうする? 叶えちゃう?」
 願いを叶えてあげるということではなく、どうやら白ウサギのほうが私たちに頼み事をしたいようだ。なんだか回りくどくて素直じゃないウサギだけれど、願い事とは何なのか気になる。
「何か困ったことでもあるの?」
「あのさ……ボクのママがいなくなっちゃったんだよね。だから一緒にママを捜してほしいんだ」
 柊夜さんと顔を見合わせる。
 この場合、ママがいなくなったというよりは、この子のほうが迷子なのではないだろうか。
 けれど、あやかしなので迷子としてスタッフのもとへ預けるわけにもいかない。
「あなたは、この動物園に住んでいるウサギじゃないのかな?」