「なんだい、それ」
ハンドルを握る柊夜さんが、ぶつぶつとメモを読み上げる私をちらりと見やる。
「復習してるんです。何も知らないようじゃ、多聞天に失礼ですから」
「そうか。職場でもそうだけど、きみは真面目だね」
「このくらい当たり前じゃないですか。ところで、多聞天は私と会話してくれるんでしょうか?」
挨拶の台詞を必死に練習してきたのだけれど、もしかして人間ごときとは会話しないという展開になったら困る。
そう思って訊ねると、柊夜さんは眉をひそめた。
「もしかして、多聞天が物言わぬ仏像だとでも思ってるのかい?」
「神様だからそういうこともありうるかな……。でも、柊夜さんの育ての親御さんなんですよね?」
嘆息した柊夜さんはウィンカーを出した。華麗な手捌きでハンドルを切る。
「会えばわかる。気負わなくていい」
「はあ……」
本当に彼の秘密主義は困る。もう少し私にいろいろと教えてくれたっていいのに。
でも、今日は喧嘩しないようにしないと。
そう心に決めていると、車は郊外へ向かっていく。
喧噪を離れた静かな街並みには、瀟洒な邸宅が建ち並んでいる。
その街のより奥に位置するところに、壮麗な門が佇んでいた。鬱蒼とした樹木に囲まれているので、屋敷の姿は外から見えない。
車が門前で停止すると、内側で待機していた男性が出てきて門を開けてくれた。
なんと門番がいるらしい。
呆気にとられていると、車は樹木に囲まれた私道を進み、一軒の屋敷の前へ到着した。
その屋敷は趣のある洋館で、気品を醸し出している。随分と年季が入っているようだけれど、丁寧に手入れされているためか、清潔な印象を与えた。
「ここだよ。俺たちの来訪は伝えてある。さあ、行こうか」
車寄せに停車した柊夜さんは座席から降りると、わざわざ助手席側に回り込んでドアを開ける。私の手を取り、車から降ろしてくれた。しかも頭がぶつからないよう、彼は私の頭の上に掌を挟んでいる。まるでお嬢様のような扱いに胸をときめかせてしまった。
屋敷の大きな玄関扉が開かれる。
広大な玄関ホールには品のあるシャンデリアが吊され、それを際立たせるかのように、ぐるりと螺旋階段が弧を描いていた。まるで貴族のお屋敷である。
「わあ……すごいお屋敷……」
実際にこの邸宅は、以前は華族の所有だったのかもしれない。
唖然として煌めくシャンデリアを見上げていると、黒服を纏った男性が音もなく歩み寄り、こちらに向かって頭を下げる。
「お帰りなさいませ、柊夜さま。奥様はお部屋でお待ちでございます」
「わかった」
どうやら彼は屋敷の執事らしい。
執事さんがいるというのも、一般庶民の常識とはかけ離れすぎていて目眩が起きる。
「お帰りなさいませということは、もしかして柊夜さんは、このお屋敷のお坊ちゃまなんですか……?」
「そうだ。ここは俺の実家だよ。言わなかったか?」
「全然聞いてませんけど⁉ 鬼神なのにふつうに実家があるんですか⁉」
「……きみは俺が古代インド神話の時代から生き続けている鬼神だとでも思ってないか?」
柊夜さんと手をつなぎながら螺旋階段を上る私は目を瞬かせた。
「そういうことじゃなかったんですか。柊夜さんって、浮き世離れしてますもんね」
「きみは俺のことを少々誤解していると思う。多聞天に会えば、その誤解も解けるだろう」
そう言う柊夜さんに導かれたのは、二階のもっとも奥にある部屋だった。
扉をノックすると、「お入りなさい」という優しい声が返ってくる。
それは年老いた女性のものだ。
柊夜さんが開けた扉から、どきどきして室内を見やる。そこは古めかしい書斎のような部屋だった。
壁際の書架にはずらりと書物が並べられていて、窓辺には執務机が置かれている。部屋の手前にはこぢんまりとしたテーブルとソファが設置されていて、談話もできるようだ。
どこか懐かしさを彷彿とさせる風景の中に、小さなおばあさんがにこやかな笑みを浮かべて立っていた。
白髪をお団子にまとめて、丸い眼鏡をかけている。彼女が纏っている薄紫色のワンピースは窓辺から零れる陽射しの中で、菖蒲のように楚々と私の目に映った。
柊夜さんは一礼すると、おばあさんに私を紹介した。
「お久しぶりです、おばあさま。彼女が、以前お話しした星野あかりさんです。現在、妊娠七ヶ月に入っております」
慌てて私は頭を下げる。執事さんが語っていた奥様とは、彼女のことなのだ。
「は、はじめまして。星野あかりと申します」
「まあまあ、よく来てくれましたね。さあ、座ってちょうだいな。妊婦さんをいつまでも立たせておくわけにはいきませんからね。柊夜はあなたのことを、あちらこちらに連れ回しているのではなくて?」
「え……いえ、そんなことはありませんけども」
柊夜さんとともに傍のソファに腰を下ろす。
おばあさまということは、この方が柊夜さんの育ての親なのだ。
ということは……。
私の脳裏でつながった符号が咄嗟に呑み込めず、笑みが固まる。
メイドさんが薫り高い紅茶を出してくれる間も、柊夜さんとおばあさまは親しげな会話を繰り広げていた。私には爽やかな芳香のハーブティーが提供される。
「おばあさま。頼むから、あかりに余計なことを吹き込まないでくださいね。俺は会社では厳しい上司として通っているんですから」
「あらあら。それじゃあ、あかりさんは柊夜が小学生になっても夜中にひとりでトイレに行けなかったことや、運動会で転んで泣いたことを知らないのかしら?」
「おばあさま! 勘弁してくださいよ。そんなことを知られて彼女に愛想を尽かされたらどうするんですか」
「おほほ。どうしましょう」
鷹揚に微笑みながら紅茶を嗜むおばあさまを、呆気にとられて見やる。
まさか、おばあさまが……。
私はおずおずと訊ねた。
「あの……おばあさまが、四天王のひとりである多聞天なのですか?」
神様のはずなのに、私の目の前にいる人はごくふつうの優しい淑女だ。各地で多聞天として祀られている像とはあまりにも違いすぎるので驚いた。
きょとんとしたおばあさまだったけれど、すぐに優しい笑みを浮かべる。
「そうですよ。わたしが多聞天です。こわい鬼の神様かと思ったら、こんな小さな老婆でびっくりしたでしょう」
「びっくりしました……こわい鬼の神様だと思ってました……」
「素直な方ね。柊夜はひねくれ者だから、あかりさんのような女性を好きになったのもよくわかるわ」
その言葉に、腰を浮かせた柊夜さんは珍しく慌てたように言い募る。
「おばあさま! その辺りは俺たちの問題なので立ち入らないでください。それよりも、我々のことについて彼女に説明したいのですが」
「そうねえ。あかりさんは柊夜が鬼神だと知らされて、たいそう驚いたのではないかしら?」
おばあさまに問いかけられて、私は頷く。
四天王だとか鬼神だとかが目の前に存在するなんて、未だに信じられないくらいだ。きっと、あやかしが見えていなければ、すべて柊夜さんの虚言だと思っただろう。
何しろ柊夜さんは、ごくふつうの人間に見えるのだから。変わっている点といえば、眼鏡の奥にある瞳の色が真紅であることくらいだ。
「実は正体は鬼神だと知らされたときは驚きました。どう受け止めてよいのかわからなかったです」
なぜか柊夜さんが緊張を孕んだ空気をまとわりつかせている。彼は忙しなく瞬きを繰り返し、おばあさまの発言を待ち受けていた。
陽射しに目を眇めたおばあさまは、ゆるりと語り出す。
ハンドルを握る柊夜さんが、ぶつぶつとメモを読み上げる私をちらりと見やる。
「復習してるんです。何も知らないようじゃ、多聞天に失礼ですから」
「そうか。職場でもそうだけど、きみは真面目だね」
「このくらい当たり前じゃないですか。ところで、多聞天は私と会話してくれるんでしょうか?」
挨拶の台詞を必死に練習してきたのだけれど、もしかして人間ごときとは会話しないという展開になったら困る。
そう思って訊ねると、柊夜さんは眉をひそめた。
「もしかして、多聞天が物言わぬ仏像だとでも思ってるのかい?」
「神様だからそういうこともありうるかな……。でも、柊夜さんの育ての親御さんなんですよね?」
嘆息した柊夜さんはウィンカーを出した。華麗な手捌きでハンドルを切る。
「会えばわかる。気負わなくていい」
「はあ……」
本当に彼の秘密主義は困る。もう少し私にいろいろと教えてくれたっていいのに。
でも、今日は喧嘩しないようにしないと。
そう心に決めていると、車は郊外へ向かっていく。
喧噪を離れた静かな街並みには、瀟洒な邸宅が建ち並んでいる。
その街のより奥に位置するところに、壮麗な門が佇んでいた。鬱蒼とした樹木に囲まれているので、屋敷の姿は外から見えない。
車が門前で停止すると、内側で待機していた男性が出てきて門を開けてくれた。
なんと門番がいるらしい。
呆気にとられていると、車は樹木に囲まれた私道を進み、一軒の屋敷の前へ到着した。
その屋敷は趣のある洋館で、気品を醸し出している。随分と年季が入っているようだけれど、丁寧に手入れされているためか、清潔な印象を与えた。
「ここだよ。俺たちの来訪は伝えてある。さあ、行こうか」
車寄せに停車した柊夜さんは座席から降りると、わざわざ助手席側に回り込んでドアを開ける。私の手を取り、車から降ろしてくれた。しかも頭がぶつからないよう、彼は私の頭の上に掌を挟んでいる。まるでお嬢様のような扱いに胸をときめかせてしまった。
屋敷の大きな玄関扉が開かれる。
広大な玄関ホールには品のあるシャンデリアが吊され、それを際立たせるかのように、ぐるりと螺旋階段が弧を描いていた。まるで貴族のお屋敷である。
「わあ……すごいお屋敷……」
実際にこの邸宅は、以前は華族の所有だったのかもしれない。
唖然として煌めくシャンデリアを見上げていると、黒服を纏った男性が音もなく歩み寄り、こちらに向かって頭を下げる。
「お帰りなさいませ、柊夜さま。奥様はお部屋でお待ちでございます」
「わかった」
どうやら彼は屋敷の執事らしい。
執事さんがいるというのも、一般庶民の常識とはかけ離れすぎていて目眩が起きる。
「お帰りなさいませということは、もしかして柊夜さんは、このお屋敷のお坊ちゃまなんですか……?」
「そうだ。ここは俺の実家だよ。言わなかったか?」
「全然聞いてませんけど⁉ 鬼神なのにふつうに実家があるんですか⁉」
「……きみは俺が古代インド神話の時代から生き続けている鬼神だとでも思ってないか?」
柊夜さんと手をつなぎながら螺旋階段を上る私は目を瞬かせた。
「そういうことじゃなかったんですか。柊夜さんって、浮き世離れしてますもんね」
「きみは俺のことを少々誤解していると思う。多聞天に会えば、その誤解も解けるだろう」
そう言う柊夜さんに導かれたのは、二階のもっとも奥にある部屋だった。
扉をノックすると、「お入りなさい」という優しい声が返ってくる。
それは年老いた女性のものだ。
柊夜さんが開けた扉から、どきどきして室内を見やる。そこは古めかしい書斎のような部屋だった。
壁際の書架にはずらりと書物が並べられていて、窓辺には執務机が置かれている。部屋の手前にはこぢんまりとしたテーブルとソファが設置されていて、談話もできるようだ。
どこか懐かしさを彷彿とさせる風景の中に、小さなおばあさんがにこやかな笑みを浮かべて立っていた。
白髪をお団子にまとめて、丸い眼鏡をかけている。彼女が纏っている薄紫色のワンピースは窓辺から零れる陽射しの中で、菖蒲のように楚々と私の目に映った。
柊夜さんは一礼すると、おばあさんに私を紹介した。
「お久しぶりです、おばあさま。彼女が、以前お話しした星野あかりさんです。現在、妊娠七ヶ月に入っております」
慌てて私は頭を下げる。執事さんが語っていた奥様とは、彼女のことなのだ。
「は、はじめまして。星野あかりと申します」
「まあまあ、よく来てくれましたね。さあ、座ってちょうだいな。妊婦さんをいつまでも立たせておくわけにはいきませんからね。柊夜はあなたのことを、あちらこちらに連れ回しているのではなくて?」
「え……いえ、そんなことはありませんけども」
柊夜さんとともに傍のソファに腰を下ろす。
おばあさまということは、この方が柊夜さんの育ての親なのだ。
ということは……。
私の脳裏でつながった符号が咄嗟に呑み込めず、笑みが固まる。
メイドさんが薫り高い紅茶を出してくれる間も、柊夜さんとおばあさまは親しげな会話を繰り広げていた。私には爽やかな芳香のハーブティーが提供される。
「おばあさま。頼むから、あかりに余計なことを吹き込まないでくださいね。俺は会社では厳しい上司として通っているんですから」
「あらあら。それじゃあ、あかりさんは柊夜が小学生になっても夜中にひとりでトイレに行けなかったことや、運動会で転んで泣いたことを知らないのかしら?」
「おばあさま! 勘弁してくださいよ。そんなことを知られて彼女に愛想を尽かされたらどうするんですか」
「おほほ。どうしましょう」
鷹揚に微笑みながら紅茶を嗜むおばあさまを、呆気にとられて見やる。
まさか、おばあさまが……。
私はおずおずと訊ねた。
「あの……おばあさまが、四天王のひとりである多聞天なのですか?」
神様のはずなのに、私の目の前にいる人はごくふつうの優しい淑女だ。各地で多聞天として祀られている像とはあまりにも違いすぎるので驚いた。
きょとんとしたおばあさまだったけれど、すぐに優しい笑みを浮かべる。
「そうですよ。わたしが多聞天です。こわい鬼の神様かと思ったら、こんな小さな老婆でびっくりしたでしょう」
「びっくりしました……こわい鬼の神様だと思ってました……」
「素直な方ね。柊夜はひねくれ者だから、あかりさんのような女性を好きになったのもよくわかるわ」
その言葉に、腰を浮かせた柊夜さんは珍しく慌てたように言い募る。
「おばあさま! その辺りは俺たちの問題なので立ち入らないでください。それよりも、我々のことについて彼女に説明したいのですが」
「そうねえ。あかりさんは柊夜が鬼神だと知らされて、たいそう驚いたのではないかしら?」
おばあさまに問いかけられて、私は頷く。
四天王だとか鬼神だとかが目の前に存在するなんて、未だに信じられないくらいだ。きっと、あやかしが見えていなければ、すべて柊夜さんの虚言だと思っただろう。
何しろ柊夜さんは、ごくふつうの人間に見えるのだから。変わっている点といえば、眼鏡の奥にある瞳の色が真紅であることくらいだ。
「実は正体は鬼神だと知らされたときは驚きました。どう受け止めてよいのかわからなかったです」
なぜか柊夜さんが緊張を孕んだ空気をまとわりつかせている。彼は忙しなく瞬きを繰り返し、おばあさまの発言を待ち受けていた。
陽射しに目を眇めたおばあさまは、ゆるりと語り出す。



