夜叉の鬼神と身籠り政略結婚~花嫁は鬼の子を宿して~

 ずれた眼鏡を直した柊夜さんは溜息を零しつつ、部屋を出ていった。
 鼻息を荒くしながら私は枕に顔を埋める。
 どうしてこうなっちゃうんだろう。
 こんな気持ちのままで、残りの三ヶ月を柊夜さんと暮らしていけるのだろうか。
 それよりも、無事に出産できるの?
 考え始めると不安なことばかりで、胸が押し潰されそうになる。
 柊夜さんは私によくしてくれているのに、素直に感謝する気になれないのが切ない。
 彼の優しさはすべて、夜叉の後継者であるお腹の子に向けられているわけで、私はそのおまけだから。
 だから、出産後に柊夜さんの態度が翻るのかと思うと怖い。
 そう思うと、余計に彼の優しさを受け止められなかった。
 私……柊夜さんのことが好きなのかな……?
 かりそめ夫婦だからと割り切っているなら、出産後はせいせいしてもとの生活に戻れることを望むはずだ。
 初めはそのつもりだった。
 それなのに今の私は、柊夜さんとの縁が切れてしまうことを恐れているのだ。
 私の懊悩を感じたかのように、そのときお腹が、もごもごと動いた。
 赤ちゃんの胎動だ。
 妊娠二十週頃からピクピクと動き出した赤ちゃんに初めはびっくりしたけれど、活発な胎動を感じるたびに成長している我が子の存在を感じて嬉しくなる。
 今はもう胎児の感覚器官が成熟する時期で、お腹の外から響いてくる音が聞こえているそうだ。
 ……ということは、柊夜さんと私が喧嘩した声も、この子は聞いていたわけで。
 とてもいたたまれない気持ちになってしまい、赤ちゃんの胎動を苦しい思いで受け止める。
 産まれる前から両親が喧嘩しているなんて、きっとこの子はがっかりしただろう。親失格だろうか……。
「ごめんね……」
 涙混じりに呟き、そっとお腹に手をやる。
 日々愛情を感じているこの子は、私の子どもなのに、産まれたら奪われてしまうのだろうか。
 奪われるなんて言い方はおかしいのかもしれない。
 夜叉の血を受け継ぐこの子は、鬼神の組織で育てられるのだ。そうすると、私はこの子を産んだら、もう二度と自分の子に会えないのだろうか。
 そんなのは嫌だ!
 強い意志が私の中に宿る。
 私の赤ちゃんを、手放したくない。
 両親が喧嘩している声を聞かせて、産まれたら母親は傍にいないだなんて、そんな寂しい思いを子どもにさせたくなかった。
 でも、どうすればいいのだろう。
 柊夜さんと、本当の夫婦になれたらいいのに。
 子どものためなんていう理由では、駄目だろうか。
 哀しくて苦しくて、眦から涙が零れ落ちた。すでに胎動はやんでいた。赤ちゃんは眠ったらしい。
 そのとき、かすかな足音が響き、寝室の扉が開く。
 柊夜さんが戻ってきたことを知り、泣き顔を見られたくない私は慌ててタオルケットを被った。
 彼が傍にやってくる気配がして、グレープフルーツの爽やかな香りが広がる。
「……あかり、どうした」
「どうもしません」
「鼻声なんだが」
「……風邪を引いたんです」
「それはいけない。見せるんだ。嫌ですと言っても無駄だ。タオルケットを剥ぐからな」
 嵐のような俺様っぷりを食らった私は返す言葉を失う。
 けれど柊夜さんは無理やりタオルケットを引き剥がすことはせず、頭の部分だけをそっと捲った。
 泣き濡れた目をした私を見た柊夜さんは驚きもせず、ボックスティッシュを二枚引き抜くと、私の顔に押しつけてきた。
 そのティッシュで顔を覆っていると、大きな掌が優しく髪を撫でさする。
「出産が近づいてきたから不安か?」
「……そうですね」
「俺が、鬼神にまつわることについて何も語らないからな。今後、産まれた子がどうなるのかもわからないと不安だろうな」
「……いいんですよ、話さなくて。どうせ私は人間ですし、知られたらまずいこともたくさんあるんでしょうしね」
「俺がそういう言い方をさせてしまっているのは、わかっている」
 わかっているからどうだというのだろう。
 私だって分別のある大人だから、話したくない相手に対し、好奇心で無理やり聞き出してはいけないことくらいわかっている。
 ゆるゆると私の頭を撫で続けている柊夜さんは、ふいに決然とした声音を出した。
「多聞天に、挨拶に行こう」
「……えっ?」
 驚いた私はティッシュから顔を上げる。
 八部鬼衆のひとりである夜叉は、四天王の多聞天に仕えているという。多聞天に関する情報は、柊夜さんの上司であることくらいしか知らない。
「いずれ挨拶に行こうと話しただろう。体調も安定したことだし、出産の前に会ってくれ。多聞天は俺の、育ての親なんだ」
「そうなんですね……」
 単なる上司ではなく、何やら事情がありそうだった。
 私たちは、互いの両親のことを何も話していない。
 とある隠し事を柊夜さんにしていることが急に後ろめたくなる。
 私は体を起こして、頷いた。
「わかりました。柊夜さんの大切な人にご挨拶したいと、前から思っていましたから」
「そうか。心配することはない。優しい人だよ」
 微笑みながら、柊夜さんはスプーンで掬ったグレープフルーツを私の口元にもってくる。口を開けた私は、それをぱくりと食べた。
 口中に爽やかな酸味と甘みが広がる。
「ん……おいしい」
 柊夜さんは、私に歩み寄ろうとしてくれている。私自身も、それを望んでいるはずだった。望んでいるからこそ、現状に不満を持っているのだ。
 それなのに、自分のことは話したくないなんて、フェアじゃないよね……。
 歩み寄ろうとしないのは、私のほうだ。
 また私の目から涙が零れ落ちる。
 それをそっと指の腹で拭った柊夜さんは、雛に餌を与えるかのように再びスプーンを差し出す。
 彼は何度も何度も、私の涙を拭いつつ、スプーンを往復させた。

 翌日、私たちは柊夜さんの育ての親である多聞天に挨拶に行くため、車に乗り込んだ。
 妊婦用のサマーワンピースを着込んだ私は、緊張の面持ちでハンドバッグを手にしながら座席に座っていた。運転する柊夜さんはいつもどおり平静だけれど、服装はかっちりとした麻のサマースーツ姿だ。
 四天王と謳われる神様だから、多聞天はきっと私の想像も及ばないような神々しい出で立ちに違いない。
 私はハンドバッグから手書きのメモを取り出して復習した。
「ええと……四天王は須弥山(しゅみせん)の中腹で仏法を守護している四神。東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、そして北方の多聞天……。多聞天は毘沙門天とも呼び、夜叉と羅刹を眷属とする」