五章 7ヶ月 迷い兎の哀しき黄泉への誘い
季節は夏の盛りを迎えた。
青々と晴れ渡る空には入道雲が鎮座して、セミの合唱がそこかしこに響いている。アスファルトに照りつける陽射しは強烈だ。
「ふう~。やっぱり暑い」
妊娠二十四週に入った私は大きくなったお腹をさすりながら、開け放った窓辺から外の景色を眺める。
安定期に入ったのですっかり体調がよくなり、食欲も出てきた。妊娠中に増えてもよいとされる体重の目安は十キロほどなので、現在は食べ過ぎないように気をつけている。
最上階の部屋からは、真夏の陽射しにじりじりと灼かれるような街並みが広がっていた。暦の上ではお盆を迎えたが、日中はまだまだうだるような暑さが続く。
室内にはいつもエアコンがかけられているので、たまには外の空気を感じたい。冷えた室内も暑さも苦手なヤシャネコは近頃、『お気に入りの日陰に行くにゃん』と言い残し、夜まで帰ってこない。
「あかり、窓を閉めてエアコンを点けるんだ」
キッチンで調理していた柊夜さんが、リビングにいる私に声をかける。
会社が盆休みなので毎日家にいる彼はなぜか、仕事でもないのにシャツとスラックスを着用している。
休みだからといって、だらけた恰好で過ごすのは落ち着かないからだとか。
さすがにジャケットは羽織らないが、暑くないのだろうか。
柊夜さんは体温が低いためか、はたまた汗腺なんぞ存在しないのか、一滴も汗を掻かない。
「え~、だって、エアコンばかりかけてると体が冷えるから」
対して私は膝丈のスパッツに、タオル地の妊婦用サマーワンピース姿だ。完全に部屋着である。
柊夜さんの前なので遠慮しているけれど、ひとり暮らしのときの休日はずっとパジャマで過ごしていた。
黙然としてリビングへやってきた柊夜さんはエアコンのリモコンを手に取ると、スイッチを入れる。窓を開ける前に切った送風口は、再び涼しい風を送り込んできた。
仕方ないので、私は窓を閉める。唇を尖らせながら。
「問答無用で自分のやりたいようにするんだから」
「俺の言うことをきかない、あかりが悪い」
私を一方的に悪者にする言い方に、かちんとくる。
近頃はこういった小さなできごとがきっかけで喧嘩になることが増えていた。
キッチンに戻っていった柊夜さんのあとを追いかけ、手元を覗き込む。
グレープフルーツを剥いているので、私も手伝おうと丸々としたひとつに手を伸ばした。
「エアコンを入れないのも、お風呂の設定温度が変わってるのも、全部私が悪いみたいに言わないでくださいよ」
「それな。あかりの入る風呂は熱すぎる。のぼせるぞ」
「柊夜さんが冷たいのが好きなだけです! 夏でも四十二度でちょうどいいんですから」
「よくない。それから暗くなるまで昼寝するのはやめるんだ。俺が買い物から帰ってきたとき、家が真っ暗だったぞ」
数日前に夕涼みしながら、暗くなるまでうとうとしてしまったのだった。妊娠の影響なのか、連日とてつもない睡魔に襲われて、日中でも深く寝入ってしまう。
グレープフルーツの皮を剥くと、爽やかな柑橘系の香りが辺りに満ちた。
その爽やかさとは真逆に、私の心中は鈍色に染まって重くなる。
「はいはい。旦那さまが帰宅したときに昼寝してるような奥さんは妻失格ですよね。私たちは偽物の夫婦ですけど!」
「そんな言い方をするな。妻としての資質を問題にしているわけじゃない。真っ暗だと、何か起こったのかと思うだろ」
「お風呂の温度は四十二度で固定してください!」
「却下する」
「……」
私は剥きかけのグレープフルーツを、ぽいとキッチン台に置いた。
柊夜さんは、いつもこうだ。傲慢で強引で、自分の考えが通らないと気が済まない性質なのである。しかも逐一問題点を冷静に述べて、いつも私が悪者にされ、腹立たしさは倍増だ。
踵を返した私はリビングへ行くと、ソファに腰を下ろす。もうお腹は前屈みになれないほど膨らんでいた。
放っておいてほしいのに、柊夜さんはわざわざこちらへやってくる。
彼は手にしていた布巾を差し出した。
「あかり、手を拭くんだ」
「また指示ですか? もうたくさんです」
「何をむくれている。俺はわがままを通したいわけじゃない。指示するのは、きみのことを心配しているからだ」
「私じゃなくて、お腹の赤ちゃんを心配してるんでしょ。大事な夜叉の後継者ですもんね」
「あのな……」
低い声音に微量の怒りを滲ませた柊夜さんは、深い溜息を吐いた。
呆れられた。
でも、一度溜め込んでいた不満を出したらきりがなく、引っ込みがつかない。
だって、柊夜さんがお腹の子にしか用がないのは事実なのだから。
その証拠に、私があやかしや鬼神について詳しく知りたいと訊ねると、彼はいつもはぐらかす。それは私がただの人間であり、出産を終えたら柊夜さんの知る世界とは縁がなくなるから、できるだけ情報を与えないようにしておこうという魂胆なのだろう。
あと、たったの三ヶ月。
出産すれば、このかりそめの夫婦関係も終わる。
柊夜さんの対応は正しい。でも私の気持ちは無視ですか。私はこの子の母親なんですけど。
「絶対に謝りませんからね」
ぷいと、そっぽを向く。
すると私の手を取った柊夜さんは、無理やり布巾でグレープフルーツの汁に濡れた指を拭いてきた。
「ちょっと! やめてってば!」
「とにかく手は拭け。そのままじゃソファが汚れるだろう」
今度はソファの心配である。
私のことが心配と言いながら、その気持ちはソファを案じるのと同等なのだ。
どうしようもなく苛立った私は柊夜さんの手を振りほどいた。
「もう、ほっといてよ!」
自分でも何に怒っているのかわからなくなるが、とにかく今はひとりになりたい。
踵を返した私は玄関へ向かって駆け出した。
ところが、背後からぐいと腕を取られて抱き留められてしまう。
「待て、どこへ行く」
「柊夜さんには関係ないでしょ!」
「関係ある。俺はきみの夫だぞ」
「かりそめでしょ! 離してください」
じたばたと暴れるが、逞しい腕にがっちりと搦め捕られているので敵わない。
柊夜さんは抱きしめた私の体を猫の子のように、ずるずると容易く寝室まで引きずっていった。
「ちょっと、何するの!」
「今、外に飛び出したりしたら頭を冷やすどころか熱中症にかかる。あとでグレープフルーツのサラダを持っていってやるから、横になって休んでいろ」
「また命令! この鬼上司! 馬鹿!」
「わかったから落ち着け」
悪態が止まらない。ぽかぽかと叩いた強靱な胸はびくともしなかった。
柊夜さんは私の体を、そっとベッドに横たえる。お腹の子に衝撃を与えないように。
優しくタオルケットをかけると、彼はリモコンを手にして室内温度を調整した。
そうしてから寝そべる私の額に手を当てて、顔を覗き込む。
「あまり興奮するな。腹はなんともないか?」
私の神経を逆撫でする台詞を平然と吐かれて、むっとさせられる。
隣に置かれた柊夜さんの枕を手にして、ばふっと顔に投げつけてやった。
季節は夏の盛りを迎えた。
青々と晴れ渡る空には入道雲が鎮座して、セミの合唱がそこかしこに響いている。アスファルトに照りつける陽射しは強烈だ。
「ふう~。やっぱり暑い」
妊娠二十四週に入った私は大きくなったお腹をさすりながら、開け放った窓辺から外の景色を眺める。
安定期に入ったのですっかり体調がよくなり、食欲も出てきた。妊娠中に増えてもよいとされる体重の目安は十キロほどなので、現在は食べ過ぎないように気をつけている。
最上階の部屋からは、真夏の陽射しにじりじりと灼かれるような街並みが広がっていた。暦の上ではお盆を迎えたが、日中はまだまだうだるような暑さが続く。
室内にはいつもエアコンがかけられているので、たまには外の空気を感じたい。冷えた室内も暑さも苦手なヤシャネコは近頃、『お気に入りの日陰に行くにゃん』と言い残し、夜まで帰ってこない。
「あかり、窓を閉めてエアコンを点けるんだ」
キッチンで調理していた柊夜さんが、リビングにいる私に声をかける。
会社が盆休みなので毎日家にいる彼はなぜか、仕事でもないのにシャツとスラックスを着用している。
休みだからといって、だらけた恰好で過ごすのは落ち着かないからだとか。
さすがにジャケットは羽織らないが、暑くないのだろうか。
柊夜さんは体温が低いためか、はたまた汗腺なんぞ存在しないのか、一滴も汗を掻かない。
「え~、だって、エアコンばかりかけてると体が冷えるから」
対して私は膝丈のスパッツに、タオル地の妊婦用サマーワンピース姿だ。完全に部屋着である。
柊夜さんの前なので遠慮しているけれど、ひとり暮らしのときの休日はずっとパジャマで過ごしていた。
黙然としてリビングへやってきた柊夜さんはエアコンのリモコンを手に取ると、スイッチを入れる。窓を開ける前に切った送風口は、再び涼しい風を送り込んできた。
仕方ないので、私は窓を閉める。唇を尖らせながら。
「問答無用で自分のやりたいようにするんだから」
「俺の言うことをきかない、あかりが悪い」
私を一方的に悪者にする言い方に、かちんとくる。
近頃はこういった小さなできごとがきっかけで喧嘩になることが増えていた。
キッチンに戻っていった柊夜さんのあとを追いかけ、手元を覗き込む。
グレープフルーツを剥いているので、私も手伝おうと丸々としたひとつに手を伸ばした。
「エアコンを入れないのも、お風呂の設定温度が変わってるのも、全部私が悪いみたいに言わないでくださいよ」
「それな。あかりの入る風呂は熱すぎる。のぼせるぞ」
「柊夜さんが冷たいのが好きなだけです! 夏でも四十二度でちょうどいいんですから」
「よくない。それから暗くなるまで昼寝するのはやめるんだ。俺が買い物から帰ってきたとき、家が真っ暗だったぞ」
数日前に夕涼みしながら、暗くなるまでうとうとしてしまったのだった。妊娠の影響なのか、連日とてつもない睡魔に襲われて、日中でも深く寝入ってしまう。
グレープフルーツの皮を剥くと、爽やかな柑橘系の香りが辺りに満ちた。
その爽やかさとは真逆に、私の心中は鈍色に染まって重くなる。
「はいはい。旦那さまが帰宅したときに昼寝してるような奥さんは妻失格ですよね。私たちは偽物の夫婦ですけど!」
「そんな言い方をするな。妻としての資質を問題にしているわけじゃない。真っ暗だと、何か起こったのかと思うだろ」
「お風呂の温度は四十二度で固定してください!」
「却下する」
「……」
私は剥きかけのグレープフルーツを、ぽいとキッチン台に置いた。
柊夜さんは、いつもこうだ。傲慢で強引で、自分の考えが通らないと気が済まない性質なのである。しかも逐一問題点を冷静に述べて、いつも私が悪者にされ、腹立たしさは倍増だ。
踵を返した私はリビングへ行くと、ソファに腰を下ろす。もうお腹は前屈みになれないほど膨らんでいた。
放っておいてほしいのに、柊夜さんはわざわざこちらへやってくる。
彼は手にしていた布巾を差し出した。
「あかり、手を拭くんだ」
「また指示ですか? もうたくさんです」
「何をむくれている。俺はわがままを通したいわけじゃない。指示するのは、きみのことを心配しているからだ」
「私じゃなくて、お腹の赤ちゃんを心配してるんでしょ。大事な夜叉の後継者ですもんね」
「あのな……」
低い声音に微量の怒りを滲ませた柊夜さんは、深い溜息を吐いた。
呆れられた。
でも、一度溜め込んでいた不満を出したらきりがなく、引っ込みがつかない。
だって、柊夜さんがお腹の子にしか用がないのは事実なのだから。
その証拠に、私があやかしや鬼神について詳しく知りたいと訊ねると、彼はいつもはぐらかす。それは私がただの人間であり、出産を終えたら柊夜さんの知る世界とは縁がなくなるから、できるだけ情報を与えないようにしておこうという魂胆なのだろう。
あと、たったの三ヶ月。
出産すれば、このかりそめの夫婦関係も終わる。
柊夜さんの対応は正しい。でも私の気持ちは無視ですか。私はこの子の母親なんですけど。
「絶対に謝りませんからね」
ぷいと、そっぽを向く。
すると私の手を取った柊夜さんは、無理やり布巾でグレープフルーツの汁に濡れた指を拭いてきた。
「ちょっと! やめてってば!」
「とにかく手は拭け。そのままじゃソファが汚れるだろう」
今度はソファの心配である。
私のことが心配と言いながら、その気持ちはソファを案じるのと同等なのだ。
どうしようもなく苛立った私は柊夜さんの手を振りほどいた。
「もう、ほっといてよ!」
自分でも何に怒っているのかわからなくなるが、とにかく今はひとりになりたい。
踵を返した私は玄関へ向かって駆け出した。
ところが、背後からぐいと腕を取られて抱き留められてしまう。
「待て、どこへ行く」
「柊夜さんには関係ないでしょ!」
「関係ある。俺はきみの夫だぞ」
「かりそめでしょ! 離してください」
じたばたと暴れるが、逞しい腕にがっちりと搦め捕られているので敵わない。
柊夜さんは抱きしめた私の体を猫の子のように、ずるずると容易く寝室まで引きずっていった。
「ちょっと、何するの!」
「今、外に飛び出したりしたら頭を冷やすどころか熱中症にかかる。あとでグレープフルーツのサラダを持っていってやるから、横になって休んでいろ」
「また命令! この鬼上司! 馬鹿!」
「わかったから落ち着け」
悪態が止まらない。ぽかぽかと叩いた強靱な胸はびくともしなかった。
柊夜さんは私の体を、そっとベッドに横たえる。お腹の子に衝撃を与えないように。
優しくタオルケットをかけると、彼はリモコンを手にして室内温度を調整した。
そうしてから寝そべる私の額に手を当てて、顔を覗き込む。
「あまり興奮するな。腹はなんともないか?」
私の神経を逆撫でする台詞を平然と吐かれて、むっとさせられる。
隣に置かれた柊夜さんの枕を手にして、ばふっと顔に投げつけてやった。



